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2010年2月7日日曜日

梅一輪 一輪ほどの あたたかさ

立春を過ぎましたが、最近の冷え込みはどうでしょう。

とはいえ、近所にある梅の木にはポツリポツリと、そしてひっそりと
可憐なな花の咲いているのを目にしました。

東風(こち)ふかば にほひおこせよ
梅の花 主(主)なしとて 春をわするな

菅原道真が京の都を去る時に詠んだ歌です。

梅の咲くこの時期になるといつもこの歌を思い出します。

最近は、文章を書く苦痛に苛まれています。
言葉の洪水からいかに脱するか?
これが難しい・・・。

2010年2月1日月曜日

最後の沖縄県知事の話

普天間基地の移設について喧しい。
沖縄というと、必ず出てくるのがかつての戦争の傷跡。
いわく、「いかにひどい事を日本軍はしたか」「自決の強要」等など。
この問題には本日は深く立ち入りませんが、ひとつだけ言わせてもらうと、
なんとか島での、島民に対する集団自殺の強要は、「日本軍の悪さ」の象徴として、
教科書にまで載っているようですが、これは裁判になっています。
つまり、強要したとされる部隊、部隊長が「そのような事実はない」と、
嘘っぱちを取り消せということです。真実は那辺にあるのか?
この国のマスコミは一切そういう動きには口を閉ざしますね。

さて、今日はタイトル通り「最後の沖縄県知事」の話です。
その知事の名前は島田叡(あきら)と言う人で、昭和20年1月に辞令がでます。
それまでは大阪府の内務部長だったそうです。沖縄への米軍上陸は必至ということは
皆、わかっていました。沖縄への米軍上陸は昭和20年4月1日です。
彼は、まわりに「行くな」「死ぬぞ」と言われても、こういったそうです。

「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」

そうして、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ

そうです(引用wikipedia)。

彼の最後は不明です。


彼の前任知事は、在職1年半の間、三分の一もの間「打合せ」として称して
東京へ主張へ出ており、そこで「早く知事を交代させてくれ」という猛烈な陳情を
多方面に仕掛けていたようです。

この両名、どちらも東京帝国大学出のエリートです。
しかし、この両者の落差は一体どこからくるのでしょうか?
あっさり言わせてもらえば「人間の質」としか言いようがありません。

沖縄戦は、本土決戦の捨て石となった悲劇です。
軍人の戦死者よりも、県民の死者の方が多いということもあります。
作戦至上主義が多くの県民を惨禍にさらしたのは事実でしょう。
しかし、それをいまさらあげつらって一体どうなるというのか?
それよりも、自らの命をかけてまで「公」に尽くした、この県知事のような人を
知ってもらう方が、比較できないほど意味あることだと思うのだが。