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2011年2月28日月曜日

226へ その5 絶叫

2月28日。

この日午前5時。彼らの部隊の原隊復帰を命じる「奉勅命令」が出される。奉勅命令とは天皇直々の命令で、他の命令とはその重みが異なる。

しかし、彼らにそれを正確に伝える者は一人としていなかった。彼らは警備部隊として軍の統帥下にある。したがって、彼らの指揮者がそれを命じなければならない。だが、その指揮者はそれを伝えなかった。そればかりか、「そんなものは出ていない」とまで、嘘をつく・・・。

驚天動地。

彼らはこの形勢の逆転を即座に信じることはできなかった。その理由もわからなかった。誰もかれもが皆「兵をひけ」しかいわなくなった。昭和維新の詔勅もでていない。彼らは包囲されてもいる。

「一体どうなっているんだ。わけがわからない。」

これが彼らの偽らざる心境だった。



「余は吾々を此の羽目におし落した不純幕僚に対し、冲天の怒りをおぼえ、悲憤の余り別室に入りて天地も裂けよと号泣する」
(磯部浅一『行動記』)




磯部の号泣もむなしく、事態は彼らの崩壊に向かってまっしぐらに進んでいた。


彼らは天皇の怒りを知る由もない


今日はこれまで。

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2011年2月27日日曜日

226へ その4 予兆

2月27日。

軍幕僚の策動も予感はしながらも、彼らはこの日もまだ得意の絶頂にあった。彼らの部隊は、討伐されるどころか、治安維持のための警備部隊に編入され、所属原隊から防寒具、食料の配給も受け、まるで「官軍」であるかのようだった。

一般市民からの激励や、差し入れやらも彼らに届けられる。東京にあってそれを知る大方の国民は間違いなくこう思ったはずである。

「これで世の中もよくなる」

この国民の声を無視しては、あの事件は語れない。


彼らの目指す「昭和維新」はその端緒に着くかと思われていた。ひとつ気がかりなのは、彼らが信頼する軍上層部がしきりに「撤兵」を主張すること。それだけは、何の確証もない状態のままのめる条件ではなかった。


天皇は、いまだ討伐の道筋すらつかない事態に苛立っていた。天皇は、おそらく日本でただおひとり、彼らを明確に「賊」とみなしていたお一人である。

その怒りを彼らは知る由もない。

今日はこれまで。


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2011年2月26日土曜日

226へ その3 人生至上の快楽

2月26日。

東京は季節外れの雪で、都心でも23日には32センチの積雪を記録している。この日もまた雪は降っていた。

部隊の先陣を切って、湯河原の牧野伸顕襲撃組がハイヤーで出発する。歩兵第一連隊、第三連隊、近衛歩兵第三連隊では深夜の非常呼集が響き渡る。



二月二十六日午前四時。各隊は既に準備を完了した。出発せんとするもの。出発前の訓示をするもの、休憩をしているもの等、まちまちであるが、皆一様に落ち着いて様の見えるのは事の成功を予告するかの如くであった。豊橋部隊は板垣の反対に会って決行不可能となったが、湯河原部隊はすでに小田原附近迄は到着している筈である。各同志の連絡協同と各部隊の統制ある行動に苦心した余は、午前四時頃の情況を見て戦ひは勝利だと確信した。ヱ門(営門)を出る迄に断圧(ママ)の手が下らねば、あとはやれると云ふのが余の判断であったからだ。村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時廿分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。その時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよハジまった、秋季演習の聯隊対抗の第一日遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する。感慨たとへんにものなしだ。(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。後略)」
磯部浅一「行動記」

 今日はこれまで。




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2011年2月25日金曜日

226へ その2 さまざまなドラマ

 2月25日。


近衛歩兵第三連隊の今泉義道少尉は、翌26日の休みをもらっていたため、この日の夜実家に帰ろうと市電を待っていた。しかし、降りしきる雪のためか一向に市電は来ず、タクシーも姿を見せない。家へ帰ることをあきらめた今泉は、仕方なく連隊へ戻って寝ることにした。


 深夜、突然同期の中島莞爾少尉に起こされて、蹶起のことを告げられる。晴天の霹靂だった。さんざん迷った挙句、部下の下士官が泣きながら彼のもとへ訪ねてくるに及んで、心を決めた。


 安心しろ。お前たちだけを行かせはしない。




歩兵第一連隊には、かつての栗原安秀中尉の部下、宮田・中島両曹長、黒田上等兵(いずれも予備役)が集まってきていた。栗原に呼び出されのだ。



宮田は21日に栗原から電話があり、23日に連隊を訪ねると「今忙しいから25日午後8時に中島と一緒に出直して来てくれ」と言われる。中島の就職斡旋について栗原に頼んでいたところだったので、てっきりその話しだと思い、言われるままに25日に栗原のもとへ行き、初めて蹶起のことを知らされるだ。

宮田の陳述は悲痛である。

栗原中尉の考えでは、私のような下っ端の者に打ち明けると蹶起前に事が暴露する危険があると思って、自分たちの間では決定しておりながら、故意に蹶起間際となるまで打ち明けて呉れなかったものと思います。もし、少しでも前に打ち明けてくれておったら、貧困にして妻子のある家庭のこと故、少しは後々のことも処理しておけたと存じます。

遠慮がちに栗原に対して怨みを述べた宮田は、裁判では次のようにその信念を披歴する。

私らのとった今回の行動の善悪はともかく、私ら下層階級の者として、社会の現状を見てやむにやまれず、直接の行動より他にとるべき方法、手段なしと決行したものでありまして、現在においてもその信念に変わるところはありませぬ。


明くる26日、1483名の兵力が帝都東京を震撼させることになる。

今日はこれまで。


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2011年2月24日木曜日

226へ その1 奔騰

2月24日。

今から75年前の昭和11年2月24日は、「青年将校」らの襲撃計画が出来上がってからわずか3日目のこと。

この日は、村中孝次が北一輝の自宅で蹶起趣意書を書きあげている。

謹んで惟(おもんみ)るに我神洲たる所以(ゆえん)は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終(つい)に八紘一宇(はっこういちう)を完ふ(まっとう)するの国体に存す。


から始まる極めて難解な文章である。

そうして、この日になってようやく若い少尉たち(20代前半)に、「いよいよ蹶起する」ということが告げられている。わずか2日前になって、このような大事を告げたのは、同志としての信頼度からくる計画秘匿の意味合いがあったと考えられる。この日告げられた者たちは、後の裁判でも

「私は同志ではありません」

と言い放ち、他の青年将校らを憤慨させるのだ。同じ20代前半の少尉でも、この24日よりもわずか数日前に知らされた者たちは、確固たる信念を持って事件に参加し、それは裁判でも揺らぐことはなかった。



この日、最早彼らを止められないと焦燥に身をやつしていた西田税はこの日帰宅すると、玄関先にメモを見つけた。

「26日なら都合がよいと言ってます」

見覚えのある磯部浅一の字だった。西田は、その日眠れない夜を過ごしたに違いない。

今日はこれまで。



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2011年2月23日水曜日

県立高校入試問題

先日行われた埼玉県立高校の入試問題「社会」です。

以下の下線部に当てはまる言葉を書きなさい。

1955年ごろから冷戦の緊張が少しずつゆるむなか、平和条約を結ばなかったソ連との関係を回復する動きがおこり、1956年に日ソ共同宣言が出された。そして、ソ連の支持も得て、同年、日本は____ことにより、国際社会に復帰した。



とこういう問題です。この文章を読む限り、日本の国際社会復帰は「ソ連の支持」が大きな役割を果たしたように受け取れるのだが、それは僕だけの印象でしょうか?


あと、こんな文章もありました。

軍事政権の樹立によって政治改革を実現しようとするニ・ニ六事件がおきた。


100歩譲ってクーデターならいざ知らず、「軍事政権の樹立」とは一体何のことかと目を疑いました。さらには、その目的が「政治改革」などいうのでは、あいた口がふさがらない・・・。

どうにも偏向していると思えるのは僕だけなのか?

今日はこれまで。



ちなみに、最初の問題の解答は「国際連合に加盟する」です。


2011年2月22日火曜日

磯部浅一という男

今日は2.26事件の側面についてです。

タイトルの男は、同事件の首謀者の一人で牽引役ともいえる人間です。真からの革命児とも言えるでしょう。彼だけは他の将校と違い、軍人としての思考枠を飛び出していました。彼は、他の同志将校より1年遅れて処刑されたため、その間獄中にあって書かれた手記が、彼に好意を寄せる看守らの尽力によって外部に持ち出されました。後に「行動記」「獄中日記」「獄中手記」と名付けられた膨大なモノです。「ニ・ニ六事件獄中手記・遺書」というA5版の本で160頁以上あるほどです。

彼らの目的が果たされぬやも知れぬという空気が立ち込めて来た28日、磯部は「おい、これから参謀本部を襲撃しよう」と他の同志に提案します。軍幕僚が策動して、彼らの挙を葬り去ろうとしていたからです。もちろん、他の同志の賛成を得られるはずがありません。磯部以外は、そんなことを考えることすらなかったと思います。だから、おそらくびっくりしたと思います。そして、こう思ったに違いありません。

「そこまでやったらおしまいだ」

と。これが磯部以外の将校たちの限界でした。彼らは、あくまでも軍の一員として兵を率いて「君側の奸」を斬ったのです。その同じ「軍」を襲撃することなど、露ほども思い至らなかったと思います。ただ、ひとり磯部だけは目的完遂のためにはどんな手段でもとるといういわゆる革命の鉄則を受け入れることが出来たわけです。

後の裁判過程でも、磯部は軍上層部を反乱幇助の罪で告発しています。これは、同志の一人安藤輝三によって「磯部、そんなに軍を仇にすることはやめろ!」と真剣に食ってかかられます。


何故でしょう?磯部だけは何故「軍人」の思考枠を飛び出す事ができたのでしょうか?

磯部という人間の哀しさがそこにあると僕は感じている。他の同志将校が、中流以上の家庭で育っているのに対して、磯部のみは極貧の家庭で生れた人間でした。小学校卒業後、上級学校への進学の道筋をつけてくれたのは、磯部の優秀な頭脳を惜しんだ地元の篤志家でした。彼は、処刑の数日前に面会に来た義理の弟にこう言うのです。

しかし、同志の中で俺ほど貧乏の家に生まれたものはあるまい。色々苦労はしたが、貧乏人の心持は同志の内で俺が一番知っているので、貧乏人を助けたいが為に今まで闘ってきたが、貧乏人の方で俺たちが思うほど言う事を聞かない。それだから何時まで経っても貧乏人は苦労しているのだ。俺も大陸軍を相手にして先を土俵際まで一時は追いつめたから本望だ。お前達も余りメソメソするな。


おそらく磯部の心の奥底には階級間格差に向けられた「妬み」「怨み」があったと思うのです。生れた境遇によるものでしょう。いい悪いではありません。それと、彼には貧しい者はつねに正しいというような、極めて偏った考えがあったと思います。だから、「貧しい者=正直者』が馬鹿を見る世の中は、それだけで「不正」たりえたのだと思います。子どもっぽい考え方だとは思います。

ただ、磯部が「アカ」とはならなかったのは、「天皇」に向けられた絶大な信頼感があったからだと思います。

「天皇」というものに対して向けられたこの思いは、一人磯部のみならず、他の同志将校らもひとしく共有していたものでした。そして、それは彼らだけの専有感情ではなくひろく当時の国民の大多数をも捉えていたものだと思います。

この世の中は、天皇が糺してくれる。そう信じていたからこそ、それを阻害している側近を斬ったのです。つまり、彼らにとってはそれはあくまでも天皇への忠義と同じ事でした。


しかし、彼らは天皇に弓を引いた逆賊として裁かれるのですから、多くの将校が怨みの言葉を遺書に遺すわけです。裁いた軍に対して。


しかし、ひとり磯部のみは獄中において天皇を叱責するのです。

「天皇陛下、何と云ふ御失政でありますすか。何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」


今日はこれまで。

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2011年2月21日月曜日

先を越された企画

1995年。この国が戦後50年を迎えた前後に、密かに決意したことがありました。

「大日本帝国への鎮魂歌=かつての日本をそんなに悪く言うな!」

というテーマで本を書こうと思ったのです。目次構成は以下のようになります。

1.大日本帝国の誕生
2.明治のサムライたち
3.滅びの序章
4.日本人かく戦へり
5.帝国の終焉
6.帝国の解体
7.帝国の残影

こんな感じです。父親に50年前のことを思い出してまとめてくれと頼みました。その文章を読んで初めて知った事実もありました。父親は海軍予備学生に応募するつもりで、父親(僕の祖父)から白鞘の短刀まで買ってもらっていたそうです。僕はびっくりしました・・・。

いろいろと考えているうちに小林よしのり著「戦争論」が出てミリオンセラーにまでなりました。同書は、僕が書こうと思っていた「4.日本人かく戦へり」そのままです。

ということで、僕のアイデアは先を越されて(?)その本を書くことを断念しました。ただ、漫画という形であれだけの読者を獲得し、それがあまりに売れたので、かなり当時の言論界に衝撃を与えたこました。それは僕にとってはうれしいことでした。逆にサヨクの人たちはかなりショックだったろうと思います。その後、同書を題材にした論戦は各月刊誌やら、書籍やらでかなり繰り広げられました。ただ僕からみたそれは、単なるイチャモンでした。

あれから既に10年以上が過ぎているとはどうも信じられないな。

ホントに月日の経つのは早い・・・。

 今日はこれまで。



2011年2月20日日曜日

赤旗は面白い 2

昨日、日本の凋落を示すデータをご紹介しました。偶然にも「赤旗」は2月15日の主張で、「日本だけが世界の中で成長していない現実」ということを述べていました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-15/2011021501_05_1.html

以下は、赤旗からの引用です。


日本経済の問題は、中国に追い抜かれたということよりも、過去十数年にわたって成長が止まってしまったままという世界でも異常な事態にあります。
 昨年の名目GDPは479兆円で、過去最高を記録した1997年と比べると36兆円、7%も減少しています。昨年の水準は92年と同じ水準であり、18年前に逆戻りしたようなものです。
 日本だけが長らく経済成長から取り残されているという異常な状況を是正しない限り、経済の発展はもちろん、政府債務残高の問題も解決しません。
 財政危機の打開には大企業・大資産家への行き過ぎた減税を是正して応分の負担を求め、「税収空洞化」の穴を埋めることが不可欠です。同時に経済成長の影響も無視できません。1990年以降の政府債務残高の増加率は日本が2・8倍、ドイツ2・6倍、フランス3・3倍と大差がない水準です。ところが、対GDP比の債務残高は日本だけが突出して悪化しました。その大きな原因は分母に当たるGDPの成長が止まってしまったことにあります。
(出所は上記Url)

 この事実認定は確かですね。大企業・大資産家への行き過ぎた減税を是正して応分の負担を求め、『税収空洞化』の穴を埋めること」が財政危機の打開に必要かどうかは僕にはわかりませんが、次いで次のように述べます。

GDP統計によると働く人の所得(雇用者報酬)は97年と比べて25・6兆円も減っています。その一方で大企業の内部留保は約100兆円増加して244兆円に膨れ上がっています。
 国民が汗水流して働いても大企業が利益を独り占め―。この構造を転換し、“死んだお金”を日本経済に還流させて“生きたお金”に変えることが必要です。
 雇用や中小企業を守るルールを確立して賃金の引き上げを進める経済戦略が求められます。
(出所同上)

 僕はこれが間違っているとは思えないんだな・・・。雇用者報酬は25.6兆円減少しているにも関わらず、大企業の内部留保は100兆円増加しているという事実をどうみたらいいのでしょう?

 個人消費はGDPの55%を占めていますが、それは「雇用者所得」によって支えられるのだから、そのマイナスは決して個人消費を増やす事はない。簡単にいうとそういうことですね。まあ、今の状況では雇用者所得が増加したとしても、消費性向は高くはならないとは思いますがね。

 この今の日本を覆いつくしているかのような閉塞感・・・。これも消費を冷え込ませる原因となっていると思います。

 赤旗は実に面白い。。

 今日はこれまで。


2011年2月19日土曜日

凋落する日本

ふとしたことから、GDP成長率の国際比較を見てみました。

驚きました。1990年から2000年までの10年間の成長率平均をみると

アメリカ:5.55%
日本  :4.38%
フランス:0.69%
ドイツ :1.85%
イギリス:3.85%

で、日本は健闘しています。バブル崩壊後の10年間ですからね。

しかし、続く2000年から2010年までをみると

アメリカ:4.08%
日本  :0.63%
フランス:8.06%
ドイツ :6.47%
イギリス:4.39%

となっており、日本の成長率の低さが際立っています。アメリカは、何だかんだいっても、成長しているし、他の諸国も1990年からの10年間の低成長を次の10年間で挽回していることがわかります。

お隣の中国、韓国をみると正直、厭になります。

1990年から2000年の10年間は中国11.47%、韓国7.76%、続く2000年から2010年まではそれぞれ17.41%、7.18%となっており、日本一国だけの凋落がより目立つ形となります。

日本一国のみの、このような低成長の原因までは調べていませんが、簡単にいえることは1990年からの10年間は、日本はアメリカの言いなりに総額で430兆円もの公共投資を行ったこと。この10年間で日本の財政は急激に悪化していくのですが、景気を下支えしたことは確かなようです。

同じように2000年からの低成長は、小泉内閣による公共投資の削減が大きいとも考えられます。前にここで紹介しましたが、


平成不況の原因となったマクロ経済政策の失敗を顧る事はせずに、不況の原因を「構造改革」「規制緩和」と日本の産業システムやら国民性にまでそれを押しつけたことによるのでしょう。

小泉純一郎やら竹中平蔵やらは未だに一定の人気があるように思われますが、この事実を見つめてもなお、国民は彼らが絶叫した「構造改革」だの「規制緩和」だのいう言葉のまやかしに目を覚ますことはないのでしょうか。

ホントにまずいぞ、この国は。

今日はこれまで。



2011年2月18日金曜日

内閣支持率

昨日の記事によると、菅内閣の支持率が17.8%となり、鳩山内閣の最後よりも下回ったとか。

不思議に思うのは、未だ2割弱の人が支持しているのかと事実・・・。僕にはそっちの方が驚きです。何をもって支持しているのでしょう?

僕は何度もここで書いていますが、支持率なるものなど一切信用しないし、それをもって一喜一憂する必要は政治家にはないと思っています。民意が間違っている事もあるわけで、その表れである支持率の高低も、一時の憂さ晴らしや不平不満のはけ口になっている可能性もあるからです。こんな数字は感情ですらないですよ。単なるムード、付和雷同的なものでしかない。政治家たるもの、国民の無知蒙昧を時には叱る覚悟が必要であり、不人気だからといって為すべき事をしないのは政治家たる資格がない。

民主党は、その政権スタート時に予算の組み替えによって16兆円だかの財源は捻出できると言っていたのですよ。そしてそれをもって「子ども手当」だとか「高速無料化」だとか「高校授業料の無償化」の原資にすると叫んでいたのです。それが、実際に予算を組む段階になって、その大甘な目論みの実現不可能なことを認識したにもかかわらず、それを正そうとしない。それがそもそもの大間違いですよ。まずは、その誤りを認めなさいという野党の主張は至極真っ当な事だと思うし、それをせぬまま、「財政健全化」の議論の土俵に乗って下さい等と野党に呼び掛けるのは筋が通らん事だと思いますね。


本日(18日)の日経社説にも民主党の前代表=前総理のことが取上げられてましたね。「こんな人がこの国の総理だったことを考えると恐ろしい」と・・・。まったくその通り。僕は件の人に限っては、筆致の激しさを抑えることができなくなる。今日はやめときます。

ホントに民主党に投票した人は心底反省してほしいワ。

今日はこれまで。



2011年2月17日木曜日

四半世紀・・・

四半世紀以上来ている服があります。ベストとセーターです。流行に左右されないベーシックなものなので、毎シーズン必ず何度かは袖を通します。どちらもウールですが、毛玉ができたり、伸びたりということは一切なく、それを着る事に何の問題もありません。そして、それを着るたびに買った当時の事を思い出し、時間の流れに愕然とします。


そんな持ち物にかこつけて考えると、今の蔵書でその巻末に買った日付が記録されている最も古いものは1982年ものだと思います。あの頃から、本を読むということが目的ではなく、「学を為す」ための手段となった。正確には「そうしよう」と決意しました。

それ以来、数千冊の書を読んできたとは思う。

しかしながら、「あの頃の未来に僕はたってるいるのか」と自問すれば、反省することしきりだし、恥ずかしくなるくらいの自分ですが、今もなお「いかに生きてきたか」を誇れる自分が存在する遠い未来を想像している。おそらく人間というものは、そんな何の保証も確証もない将来を想像しなければ、生きていけないものなのでしょう。そうして、いつ何時訪れるかも知れない「死」というものを、一切捨象している。どうもそんな気がします。





一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿れ。只一燈を頼め
(「言志四録」佐藤一斎)

ここでいう暗夜というのは、人生を指しているものと思われます。一燈というのは志でしょう。大切なのは、自らを信じることだという事ですね。勇気が必要だと・・・。


釈尊の死の間際、弟子がこう嘆き悲しんで尋ねました。

「我が師よ。師亡きあと、一体何を頼ればいいのでしょう。」

釈尊答えて曰く

「汝自らを燈火(ともしび)とし、汝自らを寄りどころとせよ。他を寄りどころとするな。」

釈尊の言葉を集めたと言われる法句経では、これをこう言います。

「己こそ己の寄る辺 他の誰に頼られようぞ
よく調(ととの)えられし己こそ
まこと得難き 寄る辺なれ」




 今日も頑張りましょう。

今日はこれまで。
















2011年2月16日水曜日

落花紛紛 雪紛紛

あらためて思いましたが、梅の花というのは雪に映えますね。雪に映える花というのは、そう数あるものではないでしょうね。

落花紛紛 雪紛紛
雪を踏み 雪を蹴りて 伏兵起る
白晝(ちゅう) 斬りとる 大臣の頭
噫嘻(ああ) 時事 知る可(べ)きのみ
落花紛紛 雪紛紛
或は恐る 天下の多事 此処に兆すを

これは、桜田門外の変を詠んだ漢詩です。「らっかふんぷん ゆきふんぷん」と読みます。この事件は新暦だと3月24日のことなので、春の雪ということになりますね。つまり、ここでいう花とは桜のことかも知れません。場所は桜田門、花と雪が一緒になって乱れ散る中で行われたという、見事に「詩」になる事件です。

思えば、昭和11年(1936年)の226事件の勃発も雪の朝でした。あの日の雪は記録的な大雪だったらしいです。膾炙している忠臣蔵の、討ち入り場面の雪は創作らしいです。どうも「雪」というのは、なにかしら特別な感傷を僕らに与えるような気がしています。

今日はこれまで。

2011年2月15日火曜日

凝り性というか・・・

まったくもって、昨年後半から毎日ブログを更新していたら、最近はそれが「行」のようになって来ています。ここで1日でもさぼったら何かしら厭な思いをするだろうということが感じられて、強迫観念のような、そんなものがかすめています。

凝り性なんですね、ある種の。前に紹介した10年日記もそうですし。僕にとっては、日常の中に持ち込んだ「行」のようにになっています。始めたからには続けなければならないみたいな。

いつまで続くかわかりませんが、とりあえずはこの習慣=「行」を続けてみましょう。

つくづく思いますが、文章を書くという行為は頭の中のごちゃごちゃにこんがらがっている知識の断片を紡ぐ作業であり、これほど頭を使う訓練はまずないと思います。その意味で浅学な知識とはいえ、それを紡ぎ、言葉を探しだし、文章として整えるという一連のプロセスは、「行」と呼んでも大仰なことではないとは思います。


とはいえ、大した文章を書いているわけではないけどね。


今日はこれまで。







2011年2月14日月曜日

クレオパトラって・・・

クレオパトラ

この名前を知らない人は先ずいないとは思います。

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わったであろう」

という言葉も有名ですね。これはパスカルの言葉です。

しかし、この女性が果たして如何なる人物で、何をなしたかを知る人はそう多くはないはず。かくいう僕もその一人でした。

たまたま娘の本棚にあったこの本を読みました。僕の頭の中でごちゃごちゃだった歴史が一つになりました。

「アレクサンダー大王」
「カエサル」=「シーザー」
「ブルータス」
「アントニウス」
「オクタビアヌス」
「プトレマイオス王朝」

上記の単語、世界史で習ったはずです。僕には前後関係、脈絡がメチャクチャでした。今日はそのこんがらがった糸をほどいて行きます。


BC332年、ギリシャ北方にあったマケドニアの王アレクサンダーがエジプトを征服し、ナイル川の河口にアレクサンドリアという都市を建設します。

BC323年にアレクサンダーが死に、側近であったプトレマイオスがその後を継ぐと、彼はエジプトの地に新たにプトレマイオス王朝を興します。BC305年の事です。

クレオパトラは、その王朝の継承者プトレマイオス12世の三女として生れるのです。BC69年のことです。正確にはクレオパトラ7世といいます。長女が6世の名を冠していました。クレオパトラには、小さい頃から家庭教師がつき、多くの外国語に堪能となります。

その頃、エジプトは地中海を挟んだ強大なローマ帝国と対立しており、無策だった彼女の父、プトレマイオス12世は、二女ベレニケと結んだ側近のために国を追われ、敵対していたローマに逃れることになります。そのプトレマイオス12世を庇護したのがカエサルと敵対していたポンペイウスという人物です。そして、そのローマの強大な軍事力とともに再びエジプトへ帰ってきます。BC55年の事です。その時プトレマイオス12世を護衛してきたのがローマの騎兵長官であったアントニウスです。

BC51年、王座に返り咲いたばかりのプトレマイオス12世が死ぬと、その遺言により18歳になっていたクレオパトラは僅か10歳の弟プトレマイオス13世と結婚して共同でエジプトを治めることとなります。

語学堪能で、才能豊かなクレオパトラは自然と国の実権を握るようになり、かつて父を救ってくれたローマのポンペイウスを援助しますが、それをきっかけに、姉を妬む弟とその側近により命を狙われ、シリアに逃れることになります。その後エジプトはプトレマイオス13世とクレオパトラの妹アルシノエによって治められることになります。

プトレマイオス13世とその側近は、カエサルとの戦いに負けて援助を申し出て来たポンペイウスを暗殺し、その首をカエサルに届けます。カエサルは長年のライバルであったポンペイウスの非業の死を悲しみ、その仇を討つためにアレクサンドリアへ兵を進めます。その横には、クレオパトラがいました。カエサルは彼女から父の遺言としてエジプト王女としての正当な地位は彼女自身にあることを知り、彼女を援けることを約束したのです。

BC48年、カエサルのローマ軍はアレクサンドリア戦争においてプトレマイオス13世のエジプト軍を破ります。そしてその翌年、クレオパトラはプトレマイオス14世とともに、再びエジプトの王女として返り咲くのです。

クレオパトラはカエサルとの間にカエサリオンという名の男の子を授かり、ローマで暮らす事になります。

ところが、ローマの皇帝を座を狙うカエサルはブルータスによって暗殺されてしまうのです。その時のセリフが有名な「ブルータス、お前もか」です。

クレオパトラはアレクサンドリアへ帰ります。そして、今度は息子カエサリオンとともにエジプトを統治するようになるのです(それまでの14世はどうしたかはわかりません)。

クレオパトラは、エジプトを護るため、ローマからの庇護をカエサルの有能な側近であり、かつて父を護衛して来たアントニウスから受けようとし、一方のアントニウスは政敵であるオクタビアヌスとの戦いのためには豊沃なエジプトの富が必要でありました。そうして利害の一致した二人は恋仲となり、双子を授かるようになります。

二人の平和は長くは続きませんでした。戦勝の凱旋式をローマではなく、アレクサンドリアで行ったアントニウスに、ローマの反感は強くなり、オクタビアヌスとの間で戦いが始まります。BC34年です。

BC30年、アントニウスの軍は大敗し、王宮に戻って来たアントニウスは、「クレオパトラが死んだ」と聞き、自身も自殺します。この時、クレオパトラは死んではいませんでした。失意の彼は「墓所にいる」ということを「死んだ」と思ったのです。

アントニウスの葬儀の日、クレオパトラは戦勝者オクタビアヌスの呼び出しを拒み、毒蛇に自らを噛ませて死を遂げます。BC30年8月29日のことでした。彼女は39歳でした。


今日の話は、子ども用にわかりやすく書かれたものからの編集ですが、大まかな流れはまちがってはいないと思います。面白い物語でしょう。いずれ、きちんとした彼女の歴史を読んでみたいと思います。

今日はこれまで。




2011年2月13日日曜日

吉田松陰 3

昨日、吉田松陰の「講孟劄記」を取上げたので、今日も松陰のことを書いてみたいと思います。そういえば、まーくんが「世に棲む日々」を読んでいると11月に言ってましたが、もう読み終わったかな?吉田松陰という人間の偉さは、その教育者としての人間力にあると僕は思っています。何しろ、生きて再び獄外に出る見込みのない囚人までをも感化してしまうのですから・・・。彼の門下生が維新の原動力となったということは、彼の一面しか伝えていないことです。

何度か、このブログでも吉田松陰のことを取り上げてます。


ここで、アメリカ人の東大教授が、「彼がアメリカに渡っていたらを考えると楽しみです」とラジオで語っていた事を紹介し、


ここでは、彼の伝記を日本人よりも早く著したのはイギリス人作家であったことを紹介しました。

さて、最近目にした文章です。

日本歴史を書いたG・B・サンソム卿が松陰のことを叙して「吉田寅次郎、彼は当惑させられる性格の持主であった。彼の伝記を読むと、彼が愚か者で、狂信的で無能であったとの印象を受ける。彼は高邁な理想、雄大な構想、野心的計画で充満していたが、大小を問わず着手したすべてのことに失敗した。それは常識の欠如に基づくものといえよう。外国の研究者がなぜ彼があれほどまで同時代の人の心に強い影響を及ぼし、また後世の人から法外に賞賛されてかを理解するのは、この点で容易なことではない」としている。
(『二・二六事件とは何だったのか』所収「正気の発現(新保祐司)」)

これは、大佛(おさらぎ)次郎の「天皇の世紀」に書かれているものだそうです。要するに吉田松陰の偉さは外国人が理解するのは難しいと言っているわけですね。とすると、以前紹介した二人の外国人は、非常に稀有な存在であったことになる・・・。

確かに、この外国人の言う通り、結果だけ見れば吉田松陰の為そうとした事は全て失敗しています。最後の最後に至っても、自らの志を幕吏に堂々と延べ、「至誠が通じるか否か」を測ることまでしますからね。結果的に彼の至誠は通じませんでしたが・・・。こういう行動の結果を超越した純粋性は松陰の真骨頂だと僕は思っているし、だからこそ松陰には、囚人を感化してしまうほどの人間力が備わったいえます。

「人生で大事なことは、何をしたかではなく、どう生きたか」

僕は、まさしくこれが完全に真理だと思っています。

今日はこれまで。

2011年2月12日土曜日

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

これは禅の言葉です。

まず自らの脚下をみて、反省すべしといったところでしょうか。これを矩とすべく、娘には幼い頃から靴を揃えさせることを躾ました。そういえば、それを守らず僕に叱られることがなくなったな・・・。もちろん、僕自身もやっています。

「出船の精神」

とかいう言葉もあります。つまり、すぐに出港できるように、舳先を外洋に向けて停泊させること、危機管理になるのかな、そういう心構えを表した言葉らしいですが、玄関で靴を揃えるのも見方を変えると同じ事ですね。





道は即ち高し、美し、約なり、近なり。人徒(ただ)其の高く且つ美しきを見て以て及ぶ可からずと為し、而も其の約にして且つ近、甚だ親しむ可きことを知らざるなり。
(「講孟劄記」吉田松陰)

下田でのアメリカ渡海に失敗して捕えられ、故郷萩の野山獄にて、獄内の囚人へ行った「孟子」の講義録(だから講孟)の最初に述べられている言葉です。訳すと以下のようになります。

人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである。しかるに人々は、ただ道の高くかつ美しい面だけを見て、初めから自分にはとても及びがたいものであると思い、一面において道が簡約でかつ身近な、はなはだ親しみやすいものであるということを知らないのである。


 
 「道」という概念は、孔子や孟子にある如く、中国からの外来思想です。しかし、日本ではそれをさまざまなものとくっつけたことに大きな特徴があります。「剣道」「柔道」「茶道」等々・・・。おそらくそれがくっつけられた最初は「歌道」だと思います。10世紀、平安朝の頃だと思います。次いで有名な「風姿花伝」の「芸道」ですね。それらの特徴は、日常を律するものを課していることといえます。

「道とは何か」と問われて、明確な即答は出来ないけれども、その言葉が表しているものはイメージできる人は多いと思いますが、「道」と言う言葉に込められているのは、人格の陶冶だとか高次の精神性の獲得だとかですね。それを目指した実践が「行」であり、その総体というか、ありようを「道」というのだろうと思います。

とすると、ちょっと前に書いた後かたづけをするプロサッカー選手にも、遠く平安の頃から続いている心性があるとも考えられますね。


「道は脚下にあり」という言葉もありますが、要するに日常をおろそかにしてはいけないということでしょう。ちょっとずれますが、アメリカの陸軍士官学校にも「悪魔は細部に宿る」という言葉があるそうで、だからこそ、日常の所作や身につける服装、靴の磨き方等の徹底的な躾が行われるのだそうです。これも同じようなことをいっているのかも知れませんね。ただ、日本の場合は、日常の所作に宗教的なものを持ちこみ、それを「型」にまで昇華させたといえるかも知れません。

今日はこれまで。







 




2011年2月11日金曜日

豪州とのEPA

まったく、TPPだとEPAだのFTAだの、アルファベット3文字が新聞を飾らない日はないですな。

EPAはEconomic Partnership Agreementの略で、経済連携協定というものだそうですが、FTA(=Free Trade Agreement)とどのような違いがあるののかはよくわかりません。

豪州とのEPA締結に向けて頓挫していた交渉が再び始まったとか。豪州は日本にとって中国、米国に継ぐ第三の輸入国なんですよね。

2月7日の読売新聞記事によるとですねぇ、

豪州から日本への輸出額は約3.2兆円で、そのうち、62.5%を石油・燃料が占めています。次いで18.5%が鉱物性製品、農林産品は8.4%です。これらを「有税」「無税」で分類すると、日本からみて豪州からの輸入品の89.8%は既に無税となっています。つまり完全なる自由貿易。有税は10.2%でそれは農林産品への関税ということになります。

一方、日本から豪州への輸出額は1.2兆円で、最も多くを占めているのが自動車の45.3%で、後は化学工業製品とか一般機械が多くなっています。しかし、自動車を含め日本からの輸出品の70.3%には関税がかけられています。無税は僅かに29.7%でしかありません。

日本は立派に開かれた国になっているのは明らかではありませんか。どこのどいつだ鎖国だとか言っている奴は?


日本は豪州から牛肉、小麦、砂糖、バターを輸入しています。豪州牛肉の一番のお得意様が日本で、小麦は3番目、砂糖は2番目、バターも2番目と、豪州にとって日本は上客なわけです。それをもっと買ってもらおうと、まあこういうわけですな。

豪州は日本からの自動車や一般機械等の輸出品に対し5%の関税をかけています。日本はそれを無税にしてもらいたいのと、鉱物資源などの安定供給、豪州はその見返りに現状牛肉の関税38.5%や、小麦の251.8%、328%の砂糖、360%のバターを0に、若しくは大幅に引き下げろと・・・。こういうことでしょうね。

TPPとは異なり、このEPAは例外も認められているようですので、その例外品目とその関税率が交渉の重要案件となるわけです。

ちなみに、日豪が交渉開始に合意した2006年に農水省が試算したところによると、仮に関税撤廃ならば小麦と砂糖は壊滅し、牛肉と乳製品は半減するらしい。


NBAにコービー・ビーン・ブライアントという選手がいます(した?)。彼のスペルはKOBE BEAN なのですが、この名前の由来、何と神戸です!うろ覚えですが、彼の父親が神戸牛を初めて食べた時、そのあまりのおいしさに感激して、息子の名前にまでその「肉」の名前をつけたらしい・・・。

息子に食べ物の名前をつけることが理解できませんが、まあそれほどのおいしさだったのでしょう。日本が誇る松坂牛も、輸出すれば売れるかも知れませんね。松坂大輔がMBAで華やかなりしころに売り出せばチャンスはあったかも知れません。あと何が売れそうですかね?

しかしながら、オバマ大統領は一般教書演説において輸出攻勢を明確に打ち出しました。それにはドル安が望ましい。ということは、おそらくこのドル安はアメリカの方針としてこのまま続いて行くのではないでしょうか。

菅総理は「座して死を待つ農業ではいけない」と言いました。おそらく農産品の積極的な海外進出も念頭にあったに違いありません。その意気やよし。しかし、円高ドル安ではただでさえ割高な日本の農産品に二重の打撃を与えることになる。そうなると、たとえ松坂牛でも、神戸牛でも、その値段の高さに外国の消費者はとても手が出せなくなる・・・。となると、農産品の輸出など夢のまた夢。


ホントにどうするんでしょう・・・。この2国間交渉さえ締結する道筋のないまま、TPPなんぞに参加できるはずがない。

今日はこれまで。




2011年2月10日木曜日

「昭和」の終り

われは明治の児なりけり。
或年大地俄かにゆらめき
火は都を燬(や)きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残烟となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ

注)柳村先生=上田敏、鴎外漁史=森鴎外


これは、永井荷風の「震災」という詩の一節です。言うまでもなく関東大震災後の詩です。大正12年、1923年に起こったこの大災害は、それまでの江戸の文化、明治の文化の一切を灰燼に帰しめました。昭和改元が1926年12月24日ですので、昭和という時代は、この喪失感と一緒に幕を開けたことになります。


「昭和はその延長のうへにはじまつた。それは明治憲法体制をひきつぎながら、明治国家とその文明を創造した主体の空洞化のはじまりをもひきついだのである。」(『昭和精神史』桶谷秀昭)



1995年。平成7年。

僕は、この年はこの国が新たな時代に立っていることを万人に知らしめた年だったと考えています。

1月の阪神・淡路大震災と、3月のオウム真理教への強制捜査が、僕にそれを感じさせるからです。

日本は地震国。これはこの国に住む幼児までもが知っている。だから、この国の建造物は頑丈で、崩れないんだと・・・。それがものの見事にそうではないことを知らされました。即時救援も、その後の支援も、この国は先進国なのかという驚きと呆れを持たざるを得なかった。

オウムのサティアンへ強制捜査を敢行した警察官の出で立ちは、迷彩服を身にまとい、ガスマスクを装備したもの。まるで映画のワンシーン。これは治安の良さを世界に誇っていたこの国の姿ではないと悲しくなった。

考えてみれば、それより前にそれを感じさせる予兆は十分にあった。平成2年の湾岸戦争だ。戦後初めてこの国は、世界の国が参加した戦争という事態、それまで勝手に「ある」はずもなく、「ある」と考える事でさえ忌み嫌われた事態に直面した時の、この国の右往左往の混乱ぶり。新しい事態、時代に直面しているのに、それと真剣に向き合わなかったことの怠慢。日本を置き去りにして世界は動き始めていた。

あの二つの出来事で「昭和」は完全に終った。僕はそう考えている。そして、その喪失感はずっと引きずられたままのような気がしている。

その2年後、1997年には絶対につぶれない、つぶさないと言われていた金融機関がつぶれた。同じように言われ続けていた上場企業もバタバタとつぶれ始めた。

最早、これまでの日本の国の姿ではないのは自明の事になったはずである。なのに、あれから僕らの国は、日本人は一体何をしてきたのか。何を新しく生み出してきたのか。そこから何を学んできたのか。


僕は政治や政党の話をしているのではない。

この国のありようをきめるのは個人の生き方の集合だからだ。かつての日本はなくなった。ならば、僕らはそれとどう向き合い、何を為すべきなのか。



歴史はいつも否応なく伝統を壊す様に働く。個人はつねに否応なく伝統のほんたうの発見に近づくやうに成熟する。


 この小林秀雄の言葉は、それへの回答を含んでいるように思えてならない。

今日はこれまで。



2011年2月9日水曜日

赤旗は面白い

2月7日は北方領土の日でした。

日本政府の言う北方領土は、歯舞・色丹・択捉・国後の4島を指しています。ポツダム宣言の受託後にソ連が不法に侵略してかすめ取った日本の領土です。

しかしながら、ソ連がかすめ取った日本の領土はこの4島だけではありません、南樺太もそうです。

ただ、ここは1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約によって、日本は領有を放棄させられています。もともとこの地は日露戦争後のポーツマス条約によって、ロシアから獲得したところ。また、国後島以北のいわゆる千島列島もその領有を放棄させれています。


繰り返していいますが、日本政府がいう北方領土には、この南樺太や国後以北の島々は含まれていないのです。4島だけを返せと・・・。

ところが、赤旗はですねぇ次のように主張しているのですよ。

北海道の一部である歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)はもちろん、国後・択捉(えとろふ)以北を含む千島全体が日本の歴史的領土であると指摘し、千島放棄を宣言させられた1951年のサンフランシスコ条約を不動の前提にせず、歴史的事実と国際的道理に立った交渉を行うよう政府に求めました(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-08/2011020802_03_1.html

何とも頼もしい政党ですな。サンフランシスコ条約を認めていないのですから・・・。しかし、その道理はありますね。

面白い赤旗の記事でした。

今日はこれまで。





2011年2月8日火曜日

本当の民主主義って・・・

日曜日の選挙で再選された名古屋市長が、テレビのインタビューでさかんに「本当の民主主義」って言ってました。「本当の」があるということは「嘘の」それがあることになりますが、一体何のことなのでしょう。

マスコミへの露出度の高かった名古屋市長ですが、彼は市民税の10%減税と市議会議員の給与削減を公約にしてましたね、確か。どちらも大衆への迎合の匂いがプンプンと匂ってきそうですが、その真意やら、ビジョンやらがいかほどの実現可能性を持つものやらは、僕はまったくわかりません。しかも、彼は「減税日本」とかいう政党を立ちあげもいる。僕は「減税」というのは手段にしかすぎないものだと思っていましたが、そういうものを政党の名前に冠するなど、どうもその感覚を疑ってしまいます。

とはいえ、かつてこの国が選挙制度改革の熱病に懸かっていたころ、新党が乱立した平成の初めの頃ですが、「太陽党」とかいう名前の政党まであったことを考えれば、何でもありですな・・・。

ただ、ひっかかるのは彼の言う「本当の民主主義」と言う言葉です。

彼は、直接民主制こそが本当の民主主義と言っているのかしら?民主主義というのは、要するに多数決で物ごとを決めることでしょう。それはなぜかといえば、多数の意見の方がより確からしいからというある種の憶測と経験と、希望が込められているからですね。ならば「嘘」の民主主義とは一体何のことなのか?彼は単に首長と議会とのねじれをさして「嘘」と言っているに過ぎない。ならば言うべくは「主義」の問題ではなくて、制度の問題であるべきでしょうね。

政治家というのは、時に無知蒙昧な有権者を叱らなければならないとは思いますが、今の政治家はやれ「民意」だ「国民目線」だと言い募るだけですから、そんなことは到底できっこない。一方の有権者は「俺たちが選んでやった」とかいう高飛車な態度を示す・・・。もう全てがめちゃくちゃなわけですね、この国は・・・。

自宅の近所に住む自民党の市議会議員は、毎夜たすき掛けをして駅頭に立ち、ゴミ拾いをしてます。もう数年になりますね。選挙前だけのパフォーマンスかと思いきや、当選後もずっと続けてます。僕は偉いとも何とも思いません。かえって軽蔑します。政治家なら、そんな暇があるのならもっと勉強しろと言いたい。仮に駅頭に立ってゴミ拾いをするなら、名前の入ったたすきなんぞかけずにやれと・・・。


今日はこれまで。


2011年2月7日月曜日

八百長騒ぎ

大相撲が八百長騒ぎで揺れていますね。

それが八百長と呼べるかどうかは別として、僕自身は「星」のやり取りはずっと行われてきたと思っています。千秋楽に七勝七敗で臨んだり力士の取り組みは、ほとんどが白星で終る事に気がついたからです。そして、その取り組みも七勝七敗の力士同士が対戦することはまずないからです。

僕はこれは人情の範囲だろうと思います。

なんか、十両以上と以下の雲泥の差の境遇を比べて、現行のシステムが八百長の土壌を育んだとかいう意見もありますが、僕にとっては「?」でしかありません。

そんなに目くじらたてて騒がなくとも、それをもわかった上で許容すればいいと思うのですが、世の中はそうは思っていないようですね。「黒白」つけることにそんなに重要な意味があるとは僕には思えない。


清濁併存するのが、人間の世の中なのであって、「濁」をことさらに攻撃し続けたら、一体なにが「清」なのかもわからなくなる。

暗黙の了解、つまりそれが道徳的に幾分かのいかがわしさを持つものだとしても、それをあえて口に出さないということは、人間社会の中で往々にしてある事です。しかし、それを一度さらしてしまったら後戻りができない・・・。

検察庁だか、警視庁だかは、ルビコンの河を渡ってしまいましたね。

今日はこれまで。


2011年2月6日日曜日

日本的、あまりに日本的な・・・

 以前、「聖」であるべき場所に犬連れが多いということを、「聖と俗の曖昧さ」ということでここに書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/01/blog-post.html

今日はまたその辺りのことを書こうと思います。

「トイレの神様」とかいう歌が売れている(た?)ようです。娘もよく口ずさんでいます。おばあちゃんが「トイレには神様がいる」と教えてくれて、一生懸命掃除するといいことがあるよ、というようなことでしたよね、この歌・・・。僕の姉も、妊娠した時に「頭のいい子が生れてくる」とか言ってトイレ掃除をよくしてました。何とも不思議な物言いですね、迷信といえば迷信ですが。


ザッケローニ監督が「日本選手には感心した」とイタリヤ紙のインタビューで答えてました。

「彼らは自分で荷物を持ち、練習後の後片付けまでする」「こんな選手はみたことがない」と。

さてさて、この2つのことは何を表しているかというと、これは聖と俗の曖昧さをそのまま表していると僕は考えます。日常における「宗教」的なものとでもいいましょうか。

仏教における実践を僕等は「修行」と言う言葉で表します。「行」を「修」めるということですね。もともと「行」は、その仏教教団における「戒律」を実践することでした。「戒律」というのは「戒=(自律的に引き受ける生活規範)」と「律=(教団を維持するための自治体系)」を表しています。日本では、インドや中国におけるその厳しさはありませんでした。

その代りに、「俗」である「日常」を重視したのです。日常に「行」を持ちこんだのです。これがいつ頃からなのかは僕には正確なことは言えません。

鈴木正三という人がいます。徳川家康・秀忠に仕えた武士です。彼は42歳の時に出家して禅の坊主になります。彼は「職分仏行説」というのを唱え、それぞれが日ごろの職分を務めあげることがそのまま行であるということを唱えたわけです。これは、日常生活において自らを律することが行であると説いたわけですね。

トイレ掃除に「そこに神様がいる」からとか、道具を自分で持ち、自ら後片付けをするプロサッカー選手の心性にも、おそらくそういうものが流れているのでしょうね。そうして、「行」じるということは自らの人格とか、精神性を高めるということにその目的があることを、僕等は言葉にせずとも理解している・・・、そんな気がします。

これは日本人以外にはまったく理解できないことだと思います。簡単に迷信といって捨ててはいけない日本人の宗教観、聖と俗の曖昧な境界をよく表していると思います。

日本で職人というのが尊ばれるのも、その一因にはこのようなことがあると思います。


今日はこれまで。

2011年2月5日土曜日

とりとめのないことを・・・

この間、Googleの地図で昔暮していたイギリスの家を見た。20年以上前と同じ佇まいを見せていて、懐かしさに胸が痛くなった。

全く英語が話せないまま一人で渡り、最初に滞在したのはロンドン。大英博物館の近くのB&Bだった。考えてみたら、僕はスーツケースも持たず、やや大きいボストンバッグ一つで渡ったのだ。中には「地球の歩き方」と夏目漱石の「倫敦塔」が入っていた。

ロンドンの冬は暗い。

朝も8時くらいまでは薄暗かったように記憶している。町に物乞いが多いのに驚いた。言葉もよくわからない時、頼みの綱はマクドナルドだった。メニューが同じだったから安心できた。

そのうち、インド料理、中華料理、イタリヤ料理とローテーションで通うようになり、イタリヤ料理店で働いている女の子とも二言三言会話するようになった。そこで毎回食べていた「キャラメルプディング」の美味しさは忘れらない。中華料理店の店員は無愛想だった。インド料理店の人は優しかった。

最初の頃はお店で買い物をしても、いくらと言われるのすら聞き取れず、いつも大きなお金を出していたので、ポケットにはそのおつりだらけでジャラジャラと重かった。

半年ほど通っていた英語の学校は、当時から日本人が数名いた。その当時仲良くなった日本人女性とは、今でもたまに飲んだりする・・・。自分のことはさておき、彼女らも「おばさん」になっていてちょっとびっくりする。

あの頃、僕は何を考えていたのか全く思いだせないのが不思議だ。ただ覚えているのは日常の生活風景のみ・・・。おそらく何も考えていなかったのだろうと思う。そんな事が可能だったということは、今から思えば天国だ。


その後、新婚旅行で行ったスペインで、女房と大げんかをした。旅は一人に限るとその時思った。

とりとめのないことを・・・今日はこれまで。






2011年2月4日金曜日

立春

今日は立春です。既に近所の梅は、痛いような透き通る空にまぶしい白さを輝かせています。依然として厳しい寒さですが、春を先取りするかのように咲く梅は、桜とは違ってまたよい趣があります。

旧暦の2月4日は今の3月10日前後ですので、旧暦の頃はまさしく暦通りに春を感じたのでしょうね。今の立春とはその思いが異なります。

「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」

西行の歌です。この如月も旧暦ですので、3月もしくは4月のことだというのは頭では理解しているのですが、どうも今の2月に「花」と詠い、「春」と詠われてもどうもピンときません。ここでいう「花」は、桜のことですが、彼はその通り桜の花の満開の頃に死んでいるのです。

まことに見事。一切生に執着しないところもまた素晴らしい。西行は歌詠みの修行僧。そんなイメージがあります。

今日はこれまで。

2011年2月3日木曜日

珈琲の話

珈琲豆が急騰して値上がりしてますね。わが家では1年前までは、中挽き状態の豆を購入してました。銘柄は「小川珈琲」。旨い珈琲だと思います。ですが、ちょうど1年ほど前から、豆のまま購入していれる時にその都度挽くように変えました。味はやはり格段に変わります。それを機会に買ったのが左のもの。これは、珈琲のおちるのがステンレスポットになっているので、耐熱ガラスのポットと違い、時間をおいても煮詰まることがありません。保温力もなかなかのものです。なにより、ポットを落として割る事がなくなった。

急騰の原因は、中国やインドなどでの需要増だとか・・・。経済の発展は、どんな国であれ暮らしぶりまでやはり変えるモノですね。経済の発展は西欧化と同義語ですね、ある意味では。まさか、インドまでそうなるとはなぁ・・・。

昔一人旅をしたギリシャで飲んだ珈琲は、エスプレッソカップに入った非常に濃いものでした。粉がドロドロ底に沈んでいるのです。普通の珈琲を飲むには「ネスカフェ」と言わねばなりません。変わった経験でした。

昔のマクドナルドの珈琲は不味くて飲めませんでしたね・・・そういえば。高校生の頃通ってた喫茶店(死語ですな、これ)では、珈琲を頼むと、作り置きしてある珈琲を鍋に入れて温めて出してたな。今から考えれば、よくあんなの飲んでたと思うわ。それにマスターもよくそんなの客に出してたと思う。高校卒業してからも、何度か飲みにも連れて行ってもらったけど、もう20年以上会ってない。元気かなぁ。

今日はこれまで。

2011年2月2日水曜日

小沢一郎を巡る騒動

久々に政治にからめた話を・・・。

小沢一郎が強制起訴されて、刑事被告人となりました。前に同氏を巡る騒動を「まるで魔女狩りだ」とここでも書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post.html

強制起訴というのは、昨年からの規定路線だったのですよね。それがいよいよということだと思いますが、僕はどうもわからない。あの「捏造」もする検察が、2度も起訴可能かどうか調べて、2度ともそれが不可能(つまりは不起訴)だと認めざるを得なかったことに対し、検察審査会なるものの要請によって強制起訴したからといって、有罪にできる確証などないでしょう。かなりの確率で「無罪」になるのではないでしょうか。そうなったら、国民は納得するのかな?まずしないでしょうね。なぜなら、皆彼の有罪を信じているというか、願っているからです。僕自身、彼がその資金の記載について一切知らぬ間に秘書が勝手にやった等ということは信じていません。その通りだと信じることが不自然ですからね。ただし、それを「嘘」だとするためには、それを暴く「確証」がいるわけで、その確証がないから2度も不起訴になった・・・。

僕には、鬱憤晴らしとしか思えない。権力者として裏で悪いことをしているに違いない小沢一郎を、とにかく「やっつけてほしい」と、その鬱憤を晴らそうとしているのだと思います。そして新聞やテレビはその極めて低俗な感情を煽りたてている。そんなものは「低俗」ですよ。確かに、鬱憤を晴らすという感情が「法」の裏にはあるのでしょう。しかし、確証がなければそれは「法」の俎上に載らないのですよ。

また厄介なことにですねぇ、この国の法感覚とは西欧とは異なっており、「法」はあくまでも「法」であって、そこに「正義」があるとは考えないということがあります。じゃあ、どこに「正義」があるのかというと、「世間」なのですよ。この国では法に叛くより、「世間」に叛くことの方が大問題なのですね。だから、仮に小沢一郎が有罪になったとしても、彼の「世間」ではおそらく永遠に「無罪」。というより、「たかだか法律違反」という認識だと思います。

繰り返して言います。小沢一郎が無罪となってもこの国の世論は、決して彼を許しませんね。なぜなら、道徳的に彼を責め立てているからです。そして、道義的な責任をとれと!

そう責め立てる人はさぞかし立派な、道徳的に優れた人間ばかりなのでしょうね・・・。

今日はこれまで。





2011年2月1日火曜日

僕と福沢諭吉

福沢諭吉の話です。

薩長と幕府の彰義隊が戦っていることに、塾生がそわそわとしている時、福沢諭吉は

「学問せよ!」

と塾生の動揺を沈めました。その話を20歳ごろに読み、「そんなことが出来るか!」と血気盛んな僕は福沢に反撥心を憶えました。しかも、「痩せ我慢の説」において僕の好きな勝海舟を批判したことを知るに及んでは、福沢は僕の好きではない人物になりました。それ以来、僕は福沢の本は読まなくなりました。「読まず嫌い」ですね。

ところが年を経て、維新の流れに立ち向かった勢力(会津にしろ、長岡にしろ、新撰組にしろ)の存在こそが、日本史を救ったと思えるようになってからは、福沢が勝海舟や榎本武揚を批判した「痩せても枯れても徳川武士ではないか」という批判が、至極真っ当なものとして感じられるようになったのです。

最近相知るに至り、その驚嘆すべき深き学識を尊敬する青年は、福沢諭吉を非常に高く評価し、事あるごとに、福沢の一節を引用して僕の蒙を啓いてくれます。

その影響もあって、最近は寝る前に「学問のすすめ」をよく読んでいます。福沢といえば同書がすぐに浮かぶほどの有名な書ですが、名前を知るのみで読んだことのある人はそうは多くないと思います。

有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で始まる同書ですが、このポイントは「天」という言葉にあると思います。福沢は巷間「個」の重要性、「私」の独立を主張したと言われていますが、その「個」なり「私」は、「天」というものがあってのそれなのです。つまりは西欧の言う「個」では全くない。福沢は「門閥制度は親の仇」と言いましたが、彼が仇としたのは、封建主義の硬直した制度であって、それを支えた封建道徳、その背景にあった儒教道徳を仇としたわけではないのです。だから、旧幕臣でありながら、明治政府により栄達した勝と榎本を批判したわけです。


さて、今日は「学問のすすめ」の初編から、一節をご紹介しましょう。

人誰か苛政を好みて良政を悪(にく)む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。


 つい最近の尖閣諸島の騒ぎの時、澎湃として湧き起こった政府批判の声を思いだして下さい。これは「人たる者の常の情なり」だというのです。

今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。


続くこの文章は、太平の世になって「生き死に」が切迫しているわけではない当時の世の中を指しています。そうして次のように続けるのです。


ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易く、庶民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。


 簡単にいえば、人を批判する前にまずは自分自身を顧るべしということでしょう。先ずは「修身」だということでしょう。そしてそのための学問なのです。彼の言うのは「一身独立して一国独立す」ですからね。国の独立のために一身の独立があったわけです。至言ですな。

今日はこれまで。