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2010年10月31日日曜日

命の授業?

 娘の学校のPTAの研修で「命の授業」なるものがありまして、出席して来ました。




講師は児童文学作家で、この企画があがった時にその研修の内容になる本を読みました。全国で飼い主に捨てられ、殺処分になる犬が30万頭いるそうで、その姿から身勝手な人間と、命の大切さを学ぼうというような内容でした。


 人は善良で、間違い等起さない、もし間違いが起こったなら、それは社会が悪い・・・という左の人の常套文句、この国の目にあまる現状(犬に限らず)は、その末路だと僕は思っています。しかるに、その講義内容は・・・。まったくもって噴飯もの。まぁ、概ねそうだろうとは予想してましたけど。




 「命」に優劣はない。小さな子犬も人間も皆同じ命だと・・・


誤解を恐れずにいえば、僕はこういう言い方こそ間違いを生む元凶だと思っています。もし「命」というよりその価値に優劣がないのなら、僕ら人間が、老いも若きも幼きも、多くの動物を食していることをどのように説明するのか?同価値であるとしてしまったら説明などできるわけがないのです。


 だから、「人間」というものは何なのかを考える必要があるわけですね。それを考えさせずに「命」の話など、何の価値もない。全ての殺生を禁じるというのなら、理屈は通じますが、牛や豚や鳥はたらふく食べるくせに、命は等価値などというのは意味が通らないですね。


 犬や猫の殺処分を減らすのは、大人の責任で法改正が必要だと思います。


 
 「命」とか、「平和」とか、そう言う言葉にご用心ですよ。僕はその言葉に拒絶反応があります。




 ちなみに、捨て犬、捨て猫を減らすためには、イギリスがやっているように個体にチップを埋めることが有効でしょう。とにかく厳罰をもって臨むことが必要だと思います。それと、憐れな最終出口だけでなく、まるで商品のように幼い頃から売られている今のペットショップのあり方も入り口として検討すべきですね。社会化も済んでいない幼犬のうちから、人間に売るから犬のしつけがうまくいかなくなったり、その結果「馬鹿犬」として捨てられてしまったりする犬が多いのですよ。さらには、狭い檻の中で見世物になっている環境も規制すべきでしょうね。ヨーロッパでは店頭で犬を売ることは「虐待」として認められていないのですよ。


 江戸時代末期に訪れた外国人は江戸のまちの犬の多さに一様に驚き、その様子を書き残しています。そして、人間に虐待もされず、ことさらかわいがられもせず、人間の仲間として同じ場所で暮らしていると・・・。


 人間は万物の頂点にあるという、キリスト教の教えを聞くと、当時の日本人はみな驚いたと言われます。当時の日本人にとって、犬も猫も馬も牛も、等しく同じ「命」をもつ仲間だったのですね。彼らは獣の肉を食する習慣もありませんでしたし、馬は去勢もされてもいなかったし、牛の乳すら飲む習慣もなかった。「山川草木悉有皆仏性」という仏教的な要素があったことは確かでしょうね。


下田に居を構えた初代総領事ハリスが、奉行所に毎朝の「牛乳」の配給を望んだ時、断りの手紙には「牛の乳は子牛が飲むものだぞ、そんなことまでしなくても」というたしなめのニュアンスが感じられて当時の日本人の心情が微笑ましくなります。


 今日はこれまで。
 
 






 



2010年10月30日土曜日

短期的な課題(印度・核・集団的自衛権)

中国やめて印度へ行こう!


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_23.html


の無責任な掛け声もあながち空想ではなくなって来るか?と期待しています。


 


 核不拡散条約という建前の世界では、世界の核保有国は国連常任理事国のみですが、実際はそれ以外にも確実なのがイスラエル、パキスタン、印度、怪しいのがイラン、そして北朝鮮と言われています。折角盛り上がって来たインドとの関係強化も、インドの核実験に対して日本からケチがつきそうで心配してます。インドはモラトリアムだと言っていますが、やるのなら、こっそりと誰にも知られずに行って下さい。


 そもそも、民主党政権の弱腰だけが叩かれてますが、ことその問題に対しては自民党も同じ穴のむじなと言わざるを得ません。世論なるものに阿りつづけてきたつけが今噴き出していると言ってもいいでしょう。


 「核兵器」の問題がその一つです。日本は米国の核の傘に守られているというのは周知の事実。ならば、他国が核を保有することにも、苦虫を噛んだような顔をして「しかたない」というのが本来の態度でしょう。それを「唯一の被爆国」だからという理由で、「核」に対して文句を言うのは通りませんね。仏人エマニュエル・トッド曰く「日本は唯一の被爆国として核兵器を持つ資格を持っている」なのですから、「核」について冷静に議論をしましょう。


 もうひとつは、集団的自衛権の問題です。これは「保有すれども行使せず」とかいうわけのわからん解釈を踏襲していますが、これはきちんと認めるべきでしょう。今なら国会の議決でそれが可能になるのではないですか。集団的自衛権なしでは世界のほとんどの国が安全保障を果たす事ができないのですから、日本も胸を張って普通の国になればいいのです。


 これは、直ちに解釈変更の政府見解を出した方がいい、というか出す事が急務だと思います。尖閣にも安保条約は発動されると米国は断言したのですから、共同防衛にあたってくれる番犬様、米国の艦船を日本が守れないというのはどう考えてもおかしいでしょう。仮にそんな事態になったら、日本は世界中から相手にされなくなるのは明らかですからね。


 党利党略を超えて、とりあえず集団的自衛権の問題だけは何とか、まとめてほしいと切に願います。




 今日はこれまで。


 
 



2010年10月29日金曜日

在日中国人と蒋介石の訓話

 在日滞在中国人は、今在日朝鮮人の数を上回っています。それもここ10年間で2倍という驚異的な伸び率です。一体、彼らの在留資格はどうなっているのかが知りたい所ですが調べてはいません。銀座で働く中国人の夜の嬢から聞いた話ですが、中国人専用の求人、斡旋所があってそこを頼れば、まず夜の仕事にあぶれることはないと・・・。それと、それが少数派なのか、多数派なのかは判りませんが、日本人の男性と結婚しているケースもあります。そうやって、日本人の妻ならば、不法就労にはならないわけですから。ただし、これ偽装結婚です。そういう闇のマーケットがあり、それを仕切る組織があるのは明白です。


 在日朝鮮人にしても、中国人にしても母国で様々な情報を仕入れてから来日するのでしょう、彼らは固まって一つのところに住居を構えます。昨日、ネットで知った(ソース元は週刊新潮の記事)のですが、川口市では約1万人の団地居住者の中の3000人が中国人で占められている団地があるとのこと。そこで生活習慣、マナー等の様々なトラブルを日本人との間に起こしているようです。ゴミの出し方によるトラブルや、自宅のトイレで用を足すと水道代がもったいないとして、団地の共用スペースで用を足す中国人(!?)とのトラブル等。ちょっと考えられないですが。どうもそういうことがあるようです。




 さて、孫文の後を継ぎ中国国民党政府を率いた蒋介石は、若かりし頃日本の陸軍士官学校で学びました。候補生として勤務した先は新潟県高田の連隊だったと記憶してます。彼は日本人とそれが織りなす日本の文化、社会というものをきちんと理解した人物でした。


 抗日戦のさなかでしょうか、彼は連戦連敗の自らの率いる軍隊に向かって、


「日本人を見習え」


と訓示をしました。中国人には公共心というものがなく、道路でも建物の中でも平気で唾を吐く、手鼻をかむ、用をたす、ゴミを捨てる・・・。そういう振る舞いに我慢がならなかったのです。さらに彼はこうも言います。


「日本の家庭はどんなに裕福でも1日1回しか温かいご飯を食べない」


これには、説明を要します。その頃の中国の軍人は、国民党政府軍も八路軍(共産軍)も皆、鍋釜傘を背負っていた、およそ近代軍の兵士とはほど遠いいでたちでした。中国人は貧しくても「冷や飯」は食べないそうです。それを食べるのは牢屋に入る罪人だけのようですね。したがって、行軍中でも戦闘中でも必ず炊飯しなければならなかったそうです。蒋介石はそういう自国民と、かつて暮らした日本の社会と日本人を比べてみて、あまりにも情けない自国民に慨嘆したのです。


 団地の記事を読んだ時、このエピソードを思いだしました。中国人はちっとも変わっていないのですね。




 昭和19年、その頃の国民党政府軍は米国から武器貸与を受け、装備だけは日本軍を完全に上回っていました。中国のミャンマーとの国境に近い雲南省に垃孟(らもう)・騰越(とうえつ)という所があります。ここは、同年6月それぞれの日本軍守備隊を約20倍も上回る規模の中国軍に攻められますが、日本軍守備隊は補給も途絶した中でおよそ3か月も戦い続けて全滅してしまいます。これは、中国軍が初めて日本軍に勝った大規模戦闘だったと記憶してます。蒋介石も嬉しかったと思いますが、彼は次のように訓示します。


「諸君らの戦いに満足している。しかし、敵である日本軍守備隊の勇戦、敢闘こそ東洋民族の範とすべきである」




 連合国の一員として日本軍の無条件降伏を受け入れた蒋介石の国民党政府は、日本からの賠償金を受け取りませんでした。「怨みに報いるに徳を以てす」として。ただし、終戦間際には八路軍との仲が険悪になっており、来るべき内戦に備えて、日本軍の兵器・弾薬を相当数譲り受けることに成功したはずです。今なお中国に残り、日本政府がその処理におカネを出している「化学兵器遺棄問題」。これは果たして、本当に日本軍が遺棄したものなのか、それとも停戦交渉できちんと相手方に受け渡したものなのかの検証がされているのかどうかが疑問です。単なる想像ですが、僕は後者が圧倒的に多いと思います。後者ならば、遺棄の責任は日本にはありません。


 ちなみに、前述垃孟の守備隊長は、金光恵次郎少佐といって二等兵から叩きあげで将官になった人です。下士官の時に少尉候補生の試験を受けて合格し、陸軍士官学校へ入学した人物です。二等兵から経験した人が少佐にまでなったのは、帝国陸軍の歴史の中でも僅か数例(?)くらいだと思います。


 先日の、組織の「正統」と「異端」で考えれば、異端の極みといえるでしょうね。「異端」だったからこそ、あれだけ将兵が勇戦奮闘したのかも知れないと、勝手な想像をしてしまいます。


 今日はこれまで。


垃孟・騰越の戦いについては、Wikiに詳細が出てます。ご参考までに。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%89%E5%AD%9F%E3%83%BB%E9%A8%B0%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84



2010年10月28日木曜日

あまりにもひどい・・・対中融和に必要なもの?

 10月27日付日経朝刊31面の経済教室。「中国を考える―関係再構築へ(下)」です。


キヤノングローバル戦略研究所研究主幹である瀬口清之なる人の文章でした。


タイトルは「『民』主導の交流で融和を」として、次の3つのポイントが挙げられています。


・日中関係は改善と悪化の繰り返しの歴史
・教育による反日感情は実体験で覆される
・中国沿岸部の主要都市は落ち着いた状況


今日は、この記事について書きます。


最初に結論を言っておきます。、こういう、一見冷静にみえ、実は何の価値もない論調を有難がる世の中の偽善が僕には我慢できないのです。要するに逃げているわけですね、目前の問題から。


この人は中国が一党独裁の共産政権だということを完全に無視しているとしか思えない。したがって、記事に書かれた内容は全くの絵空事、空想にすぎない。


その理由について述べます。先ず、冒頭からして首をかしげざるを得ないのですが、


「日中関係は改善と悪化の繰り返しである」と述べたあと、過去の日中間の問題である、毒入りギョーザ事件、靖国神社参拝問題、中国の原子力潜水艦による領海侵犯を挙げ、次にこう続ける「その都度両国政府が徐々に歩み寄って関係修復に努めてきた。今もその努力の真っ最中である」と。


僕は、寡聞にして知らないのですが、これは全部解決した問題でしょうか?もしかしたら、一つとして片付いていない問題ではないでしょうか。しかも、「両国政府が徐々に歩み寄って」とあるのは、明らかに事実と違いますね。いつも歩み寄る、というかにじり寄ることをしているのは、両国政府ではなく脅しに屈する「日本」のみです。また、今回両国関係がこじれた原因は、筆者が挙げた過去の例とは次元が異なる「領土」問題と日本官憲への暴力行為です。これと「ギョーザ」の事件は並列には論じられないでしょう。


筆者は、1994年以降のいわゆる「反日教育」が、中国の若者に対して容易に「反日感情」をもたらす原因となっていると述べています。そうですね。これはまさしくその通りでしょう。しかし、次いでこう述べるのです。


「ただ、そうした教育を受けた若者たちも日本に来て日本人の礼儀正しさ、細やかな気遣い、思いやりなどに直接接すると日本に対するイメージが大きく変わり、それまでの反日感情が和らぐケースが多い。だからこそ、両国政府が進める青年交流の意義は大きい。最近の中国人の日本旅行ブームも同様の効果を持つ。学習した理屈から生れた感情は、実体験によって覆される。」


なるほど、その効果はあるのかもしれません。仮にそうした「反日」を翻した中国の若者が多くなったとしましょう。しかし、そうした若者の民意など、平気で戦車で踏みにじるのが中国共産党政権であることをお忘れか。未だにインタ―ネットまで検閲して情報操作をしていることをお忘れか。そんなものは、中国政府の意に沿わなければ何の意味もないことでしょう。それに大事な事を忘れていますね。
「実体験」など、「感情」によって容易に覆されることもあるということ・・・。




筆者は日中間の経済・文化面の交流は最近10年間でかなり高まって来ているとし、中国の経済発展という目的と、売り先を探している民間企業のマッチングが、両国間の政治・外交レベルでも好影響を及ぼしてきたとしています。その例として、小泉政権時代に冷え込んだ日中関係下においても、民間企業を主体とする経済面の活発な交流が両国間で維持されていたではないかということですね。それが、小泉政権後の安陪内閣で両国関係好転の原因ともなったと。


これも「?」ですな。たまたま、中国政府の意向が「靖国で言う事を聞かない小泉をほっていて、経済優先だ」という選択肢をとったにすぎないのではないでしょうか。少なくとも、中国には民意を反映した政治などあるわけないのですから、これをもって、ことさらに民間交流を持ちあげるのはおかしいですよ。今回のケースは経済(レアアース)も、脅しのカードとしたわけでしょ、中国政府は。


「今回の反日デモに関する報道でも、北京、上海など沿岸主要都市の落ち着いた状況や、日本製品の売れ行きへの影響がほとんど見られなていない事実は詳しく報じられていない。」


と述べています。確かに、デモが頻発しているのは内陸部が多く、デモが若者の不満のはけ口になっているとの記事がありますね。比較的豊かな沿岸部は筆者の言う通りなのでしょう。しかし、あえて言わせてもらえば、日本人だって「中国全土がデモの嵐だ」などとは考えていませんよ。さらにいうなら、「日本での反中デモ」も報じられていませんね。日本人が冷静さを失った原因はマスコミにありとでも言いたいのでしょうか。問題はデモ云々ではなくてですね、中国政府の横暴な振る舞いと、その言いなりになった日本政府の弱腰なのですよ。
 


最後に筆者はまた妙なこと言います。


「安全保障分野では2国間の異なる立場や考え方の対立の解消は難しい。しかもその対立の火種はささいな問題から始まる。今回の中国漁船衝突問題がその典型例である」


いつ日中間で安全保障の分野で意見が大きく衝突したのでしょうか。しかも、今回の漁船衝突問題は「ささい」な問題ではどう考えてもないですね。国家の主権にかかわる大問題だから、国会でも街なかでも大きな声があがってるのではないですか。もしかして、日本の状況をご存じないのかな。


「しかも両国とも自国民の感情を無視できないことから安易に妥協することが難しく双方の主張は平行線をたどりやすい」


何度も言いますが、中国は「自国民の感情」など何とも思ってないんですって。あれは日本への外交カードとしてやらせているだけなんですから。




 要するにこの筆者は、政治はおいといて、民間主導の経済・文化交流によりこの情況を融和しようと言いたいらしいですね。最後の締めくくりはこうあります。


「民間企業の経営者や幹部社員は自らが主役であることを自覚し、『民主導』の意識を強くもつことが大切である」


 おお、福沢諭吉ばりの立派なご意見です。何度も言います。相手は共産中国。意見の多様化など一切認めない共産党独裁政権。この志は大変立派ですとだけ言っておきます。




 この人の認識で欠けているものは、日本国内に高まりつつあるナショナリズムですね。そして、またもや日本にだけ「負わせ」て恥じないその意識が僕には我慢がならない。こういうのは、知識人の吐くご高説でも何でもなく、単なる卑怯者の言い訳だと思います。


 あほくさ・・・・。




 今日はこれまで。













2010年10月27日水曜日

トヨタ神話 組織の正統と異端

 最近はすっかり「日経ビジネス」を読まなくなりましたが、かつて毎週目を通していた時にはよく「トヨタ」の記事が出ていました。今でも取り上げられる頻度は多いのでしょうか。アメリカでリコール隠しだ何だという「騒動」があってからは、かつての「トヨタ神話」も過去の栄光ですね。販売台数で世界一を射程に捉えたと思ったら、急転直下の出来事でした。


 もう少し詳しく見てみます。


2008年9月のリーマンショック前は、トヨタの株価は5000円前後でした。リーマンショック後は3000円にまで下落します。今現在も2800円前後です。意外なことですが、トヨタの株は2007年以降じりじりと値を下げていました。2007年といえば、連結営業利益で2兆円をはじき出し、販売台数で世界一になりそうだと報じられていた頃です。しかし、株価は2007年初頭の8000円から2008年半ばには5000円を割り込んでいたのです。


以前紹介した「競争の作法」。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_09.html


という本の中に書いてありましたが、その著者は「トヨタの経営者は『ほどほど』を忘れた」と言っています。ちょっとご紹介します。


「自動車販売実績が世界一になることに、きっと良いことがあったのだろうが、経営者が自らの言葉で『世界一の意味』を語らなければ、それが何なのかは明確にならないであろう。残念ながら、『世界一の意味」は、トヨタ首脳陣から語られなかった。
 『営業利益2兆円突破』の方は、ある意味でもっとやっかいである。よほど将来性のある新規事業計画がなければ、2兆円規模の収益を企業内に抱えるやいなや、深刻な問題が起きるのは火を見るより明らかである。企業内にそんな膨大な貯金が蓄えられてしまえば、経営者も、従業員もたがが緩んでしまう。
 賢明な経営者であれば、技術開発投資の資金をある程度確保した上で2兆円の残りの収益を株主に還元するであろう。そうすれば良いことずくめである。企業からみれば、経営の規律も高まり、従業員のモラルも維持できる。公的年金や企業年金の基金の多くは、トヨタ株を保有しているので、年金財政が大幅に改善して、今の年金受給者にも、将来の退職者にも、朗報であろう。
 しかし、トヨタ自動車には、2兆円のほとんどを株主に還元する心づもりはなかったようだ。『世界一』を目指して現在の事業規模をひたすら拡大することにほとんどを注ぎ込んでしまった。そんな経営姿勢にあきれはてた一部の株主たちは、2007年初ごろから7000円から8000円の相場でトヨタ株を売却しはじめたのであろう。おそらくは、こうした株主の動きが、2007年初から株価が低下する契機となった。」


 いかがでしょう?僕はなるほどと思ってしまいます。そして、著者は従業員のたがが緩んだことがリコールにもつながっていったのではないかと、その遠因として挙げています。いかにトヨタといえども、すべての経営者が賢明な判断、決断を続けることは不可能だったわけですね。


 現社長は、豊田章一郎初代トヨタ社長の長男だそうですが、江戸時代の商家のように娘婿だったら?とも考えてしまいます。そういえば、スズキの現社長は、娘婿に社長業を任せる(た?)はずですね。すぐに亡くなられて、復帰しましたが。




 
 かつての帝国海軍の人事制度は非常に硬直的で、戦時においても抜擢人事が皆無でした。これは敗因の一つであると思います。この硬直さは江戸幕府以上ですよ・・・。適材適所が為し得なかっただけでなく、指揮官もそれを補佐し支える参謀も、同じような教育を受けてきた同じような思考パターンしか生み出せなかったわけです。即ち組織の「正統」しか運営の中枢にいなかったわけですね。それも成績優秀者しかその仲間入りが出来なかったのです。それがたび重なる負け戦の原因の一つであったわけです。




 組織を改革する、または飛躍発展させるためには、従来の枠に囚われることのない自由な発想が必要だということに誰も異論をはさまないと思います。しかし、その自由な発想が、異端の新参者によって持たされたりすると塗炭に拒否反応が起こるのではないでしょうか。ちょうど、誰もが「会議室では良いアイデアが出ない」と知っているのに、会議室以外で会議をしようともしない、または認めないという姿勢と似ているかも知れません。


 前者の拒否反応は、機能体組織であるにもかかわらず、共同体組織としての防衛本能が働くからですね。後者の会議室問題は、たた慣例に囚われ、本質を見失っているだけでしょう。


 ま~くんが、新卒の採用人事をやっています。話を聞くと、「酷い」のが増えているらしいですが、逆にいえば彼の眼鏡にかなう人間よりも、目を細めざるを得ない異端の人間の方が、組織や業界にかえって風穴を開けてくれるかもしれません。例えば採用に際して、社長と意見が分れる人間ほど面白みがあるかも知れませんよ。とはいえ、雇ってみて、身近に接してみて、それからでなければほんとのところはわからないでしょうね。僕なんか、この年齢になっても「人」はわからないなと長歎息の毎日ですから。


 ある種の「賭け」ですな・・・。


「大事の前の思案は軽くすべし」(葉隠)




 今日はこれまで。




 



2010年10月26日火曜日

自衛隊観閲式によせて―抜刀隊の歌―

 10月24日、日曜日は自衛隊の観閲式でした。


その模様がネットで観られるなど、便利な世の中になったものです。観閲式が朝霞で行われる時には、わが家の上空を自衛隊機が編隊で飛んでいきます。軍事オタクである僕は、双眼鏡をはなせません・・・。


平成2年か3年に、観閲式の予行演習を父親と見に行ったことがあります。国内・外の要人が招かれていないだけで、部隊の行進等は本番と変わりありません。


陸上自衛隊の行進曲は「陸軍分列行進曲」と呼ばれるものです。これは日本で最初につくられた軍歌なのです。元々の名を「抜刀隊の歌」。これについては、以前ここで書きました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2009/07/blog-post_5331.html

 父親も軍事教練中はこの曲で行進の練習をしたそうです。


昭和18年10月の「学徒出陣」。雨の中での出陣学徒の壮行会で流れたのもこの曲、「我等もとより生還を期せず」という勇ましくも、かつ悲痛な言葉を出陣学徒の代表が述べました。


 


「頭~っ右」


と向けられた先の菅総理は、こういう歴史というかエピソードをご存じないでしょうね。


 今日はこれまで。

2010年10月25日月曜日

神風・印度・442部隊・オランダ

 本日、10月25日は神風特別攻撃隊「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が初出撃した日です。昭和19年(1944年)の事ですので、66年前の出来事です。


この隊名は本居宣長の詠んだ


「敷島の大和心を人とはば
 朝日に匂ふ山桜花」


からとられたものです。十死零生の作戦にたおやかな和歌からその名前をつけるというのが、何とも言えず僕には哀しいのですが、初出撃したフィリピンマバラカット基地跡には、フィリピン人が建立した「神風特別攻撃隊出撃の地」という碑が今でもあるそうです。






 さて、印度との同盟強化を書いた23日には、印度首相の来日を知りませんでした。


同国のシン首相が昨日から来日しているようですね。この人ですねかつて日本の国会で感動的な演説をした人は。見事にマスコミには無視されましたが・・・。印度の独立に際して、かつての大日本帝国を「恩」と感じてくれていたのです、あの国は。大変に有難い事です。


 印度独立の父と言われたチャンドラ・ボースをドイツから潜水艦を使って日本に連れてきたことがあります。昭和17年か18年だったと思います。どこだかの洋上でドイツの潜水艦から日本の潜水艦に移乗させたと記憶してますが・・・記憶が曖昧です。


 自由印度国民軍だったかな、英国植民地を解放した際に捕虜となった印度兵を組織した軍隊ですが、チャンドラ・ボースはそのトップとなり、昭和19年3月のインパール作戦では、日本軍とともに英国と戦いました。


 
 中国無視して印度へ行こう!




 
 今年の年賀状でアメリカの日系人部隊のことを書きました。



第二次大戦時。米国は日系人だけで編成した部隊を対ドイツ戦に投入しました。その部隊は、米国の歴史上最も多くの勲章をもらった部隊として、今なほ米国の歴史に燦然と輝いています。同じ米国軍でありながら、「ジャップ」と蔑まれ、差別されながらも彼らをして奮い立たせたものは、「私たちは日本男児として名を汚すことは断じてしない」という、強烈な自意識でした。『若者たちの戦場』という本の中で同部隊の活躍を描いたドロシー・マツオ女史は、彼らを勇猛な戦闘集団に駆り立てたものを「家名」「恥」「恩」「義」「親孝行」などに象徴される「日本人の文化」だと指摘しています。「日本人ここにあり」という強烈な自意識こそが、彼らの行動原理だったのです。」

 米国国防総省が指定した独立戦争後の米陸軍史上の10大重要戦闘の中に独軍に包囲された部隊の救出作戦があります。これを担ったのが442聯隊で、彼等の活躍は後世に冠たる輝きを残しています。彼等は、不可能と思われる任務を犠牲を厭わずに成し遂げ、勇名を轟かし、そのため投入された戦線は非常に過酷な所ばかりであったようです。これには、人種差別の面もあったことは否めません。

 立ち読みレベルで申し訳ないのですが、時の東条英機首相が、「祖国アメリカのために、日本人として恥じぬよう戦え」と彼らに言ったとか・・・。何と、すがすがしい言いようではないですか。

11月にその部隊の活躍を描いたドキュメンタリー映画が日本でも公開されるらしいですね。


 インドネシアの対オランダ独立戦争の時、約3000名の旧日本兵が残留してインドネシア兵とともに戦いました。インドネシア軍の中に一人のオランダ人がいたそうで、インドネシア独立のために祖国に弓を引いたのです。かなり後、2~30年後ですかね、そのオランダ人が祖国で死にたいと、オランダ政府に入国を求めたらしいですが、オランダ政府は拒否したらしいです。残酷とみるか、国家としてそのくらいの非情は当然とみるかは意見が分かれると思いますが、オランダとしてはたった一つ残っていた植民地を日本に奪われた恨みが骨髄に達していたと思います。戦犯裁判でも、起訴された戦犯の中で死刑になった割合は、オランダが日本を裁いた法廷が一番多かったと記憶しています(ちょっと不確かですが)。

 今年のワールドカップの対オランダ戦。僕は「戦犯の恨みを晴らせ」と密かに思ってました。おそらくそんな風に見ていたのは日本中で僕くらいのものかも知れません。

 今日はこれまで。



2010年10月24日日曜日

祖国とは「日本語」

民主党が使いだした「マニフェスト」なる言葉は「政権公約」と訳されてますが、これは元々はイタリア語で「宣言」を意味する言葉らしいです。有名な事例では共産党宣言「Manifesto of the Communist Party」となります。


 ある時、ひょんなことから「マニフェスト」のスペルは?と調べました。


その発音から「Manifest」と思って調べると、おかしなことに「宣言」を意味する言葉は出てきません。名詞の意味では、1.積荷目録 2.乗客名簿となっており、動詞、形容詞の意味でもそれらしいものは出てこないのです。


「?????」


最近の菅総理のその言い方を聞いてみると、以前とはアクセントが異なっている事も気がかりでした(最初の「マ」にアクセントをつけている)。より正確な英語に近づけたのかなくらいに思ってました。上記の発音記号は
  • 〔mǽnfèst〕


であり、「積荷目録」としてのその発音は正確になっていますが、「宣言」としての「マニフェスト」とは異なります。

 ここで、僕は一つ利口になりました。

「宣言」を意味する「マニフェスト」の正しいスペルは「Manifesto」。最後に「o」が入るのです。こちらの発音は
  • 〔mnféstou〕


となり、後尾にアクセントが移ります。

 その違いが明確になった今、菅総理をはじめ多くの政治家のその発音がやけに耳触りに感じる様になりました。本人たちは、正確な発音に近づけたつもりなのでしょうが、大間違いです。その発音では「積荷目録」ですよ。本来の「宣言」の意味で使いたいのなら「マニフェストー」と語尾を伸ばすのが正しい・・・。

 誰か教えてあげた方がいいですねこれ。英語の堪能な政治家はいるはずですし、ましてや官僚ならその数はもっと多い。

 「あっ!」

もしかしたら、知っててわざと教えていないのかも知れませんね。そうして陰でほくそ笑んでる。

「あの馬鹿」と・・・。

 何れにしても、それを意味する正確な日本語があるのにわざわざそれを言い換えるから、こういう恥ずかしいことになるのだと思います。確かに英語でなければうまく表現できない言葉はありますよ。例えば「マネジメント」と言う言葉は、日本語には正確に訳せないですからね。でも、どう考えても「政権公約」で十分でしょう。みんなの党は民主党の言葉づかいに対抗して「アジェンダ」という言葉を使いましたね。渡辺代表曰く「私たちの行動計画だ」と。

「?????」

「行動計画」で十分じゃないですか。何の不都合があるのか。そもそもその言葉、ラテン語の「行動する」と言う言葉の派生形らしいですので(おぉ、ラテン語とは教養深い)、使い方としては間違っていませんが、日本語でいいじゃないですか。そんな言葉づかいをする人たちが「保守」を自称するとは、僕から見ればチャンチャラおかしい。噴飯ものですな。

 既に故人となられた山本夏彦というエッセイスト(かな)が「祖国とは日本語である」というような文章を書いてました。藤原正彦も同じことを言ってますね。もっと「日本語」を大事にしなければなりませんよ。

 

 10月22日の日経に「歴代首相に聞く」と題して、中曽根康弘がこう語る記事がありました。


「理想の政治家はどうあるべきですか」という問いに対して、

「大衆政治家であると同時に、長期的視点を持った意思の強い政治家、不撓不屈のものを持っている政治家であってほしい。私らの時代は政治家のみならず学者や経済人、文化人との付き合いを非常に重要視して、それらの人々が政権の参謀になってくれた。今の政治家は割合そういうのが少ない。幅の広さと底の深さは政治家には重要だ」

冒頭の「大衆」という言葉の使い方に異論がありますが、


言わんとしていることはよくわかります。そのとおりだと思います。ただ、中曽根氏のいうそういう政治家の少なさというのは、今のこの社会にそういうものがないことの裏返しですからね。「会社人生で必要な智恵はすべてマグロ船で学んだ」などという本がベストセラーになる世の中で、政治家だけにそれを求めるのは酷であり、不可能でしょう・・・。その中でなお、政治家の資質としてそういったものを求め、それが必要だというのなら、冒頭の「大衆」という言葉にはつながって来ないように思います。

かつて吉田茂が「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」若しくは「曲学阿世の輩」と、時の東大総長を罵倒しましたが、今や「曲」げるほどの「学」もなく、「世」に「阿(おも)」ねるだけの人が政治家になっているわけですからね。


今日はこれまで。


    2010年10月23日土曜日

    隣人中国

    中国の横暴さは、それまで何の関心も持たなかった人々に同国との関係性をどう築くかということを考えさせたように思います。


    女房の会社でも若い女の子が「中国ムカつく!」と話をしているらしいです。


    はい、その通り僕も大変に「ムカつきます」。


    今回の騒動だけでなく、靖国神社や教科書の事にまで口を出し、そのくせ自分の国では徹底的な反日教育を行っている・・・。そんな国と仲良くできるわけがない。「戦略的互恵関係」など本気で築けると思っているんでしょうか?民主党の枝野氏が「悪しき隣人」と呼んだらしいですが、まったくその通りで中国とは一定の距離をもって細々と関係していればいいのですよ。


    中国に投資している民間企業はそれをそっくりインドへ移転したらどうですか?中国では最近はストライキも頻発していることですし、もうそこから引揚げましょう。インドなら反日デモもありませんし、人件費だって今の中国よりも安いのではありませんか?

    必要なインフラがない?

    それなら、インフラ整備から丸ごと日本企業が受け持ちましょう。大きなチャンスじゃないですか。


    それに、インドの核ミサイルは中国にも向けられているのですよ。


    おお、何という心強い味方!


    今日はこれまで。

    2010年10月22日金曜日

    当世名前事情

     娘(3年生)の通う小学校へ授業参観に言った時に、廊下に張り出されている硬筆を見て回りました。悪筆の僕が恥ずかしくなるくらいに上手な字を書いている子がいて驚きました。


     娘の学年は3クラスあります。驚くことにその3クラス中(人数でいえば50人強かな)、名前に○○子とつく女の子は娘を含めて僅か2名でした。


     で、どういう名前が女の子に付けられているかというと、クラブやキャバクラにいるような名前ばかり・・・。もう本名で夜の嬢になれます。


     名前の変化というのは、この国に前からあった事だとは思うので別にどうこういうつもりはないんですけどね。僕の祖母は「ノブ」「ハマ」という名前でしたが、その娘たちは「○○子」と名付けましたから、そのくらいの変化なのかも知れません。


     アメリカでは子供につける一番人気の名前が数十年、かわりがないんだそうです。たまに変わってもそれまでの3位が1位になるとか、2位が1位になるとかの変化らしいです。もともとが聖書に出てくる使徒の名前が多いというのが原因らしいです。


     それに比べて日本人の名前は見境がないですね。何でもあり。先日も小児科で「○○えれなさ~ん」と呼ばれた子供がいましたが、もうそのくらいは何でもないですね。そのうち、コードの逆転が起こって夜の嬢の名前が「うめ」とかなんとかになるかも知れませんね。


     森鴎外の娘は茉莉(まり)と杏奴(あんぬ)という名前でした。ふたりあわせると「まりあんぬ」となる・・・。
     
     今日はこれまで。

    2010年10月21日木曜日

    吉田松陰

    昨日、車中でラジオを聴いていたら、「吉田松陰」について、東大教授のアメリカ人がいろいろと話をしていました。確かロバート・キャンベルといったな・・・。松陰の研究家らしい。


    司会の人が、「もしアメリカ密航が成功したら、日本の明治維新は遅れていたかも」と投げると、そのアメリカ人はですねぇ「私は逆に松陰がアメリカに来ていたらアメリカはどのように変わっただろうかと考えるのが楽しみです」と返しました。


    これには、私もびっくりしましたね。そこまで松陰をかっているのかと・・・。


    不思議なことに、吉田松陰の伝記は日本で著されるよりも前に一人のイギリス人によって書かれているのです。その作者はスチーブンソン。「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」の作者として知られています。


    彼は、当時アメリカに来ていた日本人を介して「ヨシダトラジロウ」を知り、獄中にあって囚人をも感化してしまったその人格と、教育者としての魂の崇高さに心打たれたといいます。そして「ヨシダトラジロウ」という伝記を著したのです(トラジロウというのは、松陰の名です)。

    何とも、いい話です。「代表的日本人」を選ぶなら、僕は真っ先に吉田松陰を選びますね。


     今日はこれまで。

    2010年10月20日水曜日

    赤穂浪士と吉良家、そして上杉家

     歴史の話です。


    赤穂浪士の事件は有名ですね。毎年12月14日の彼らの命日になると品川泉岳寺にはたくさんの花が今でも手向けられるといます。世に言う「忠臣蔵」。そこで描かれる意地悪で、悪役の吉良上野介は、愛知県吉良町に領地を持つ旗本でした。彼は領民に「良い殿さま」と慕われています。一方の悲劇の発端となった浅野内匠頭の切腹の知らせを聞いた赤穂の領民たちは、「これで悪政がやむ」と大いに喜んだと言われています。


    これもまたよく知られている事ですが、吉良の長男は米沢の上杉家を継いでいました。上杉謙信から数えて5代、米沢藩主として第4代の藩主です。関ヶ原後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に移封・減封されましたが、その5000人にも及ぶ家臣団の一人も首をきりませんでした。当然大幅にその知行は減らされましたが、直江兼継の産業振興策もあり実質の石高は50万石とも数えられるほどになります。


    しかし、その後大きな危機がおとずれます。


    第3代の米沢藩主は後継を残さぬまま、若くして急死してしまうのです。当時は生前に後継が決まっていなければ「お家取りつぶし」と決っていました。上杉家断絶の危機です。それを幕府に何とか頼みこみ、後継者に吉良の長男を持って来るのです。そのため、お家断絶の危機は切り抜けることができましたが、その代わり後継ぎの連絡が遅れたということで、それまでの30万石を半分の15万石に減らされてしまうのです。つまり、吉良の長男が継いだ時には米沢藩の石高は15万石となっていたのです。


    それでも上杉家は家臣団のリストラを行いませんでした。当然藩士の給料すら賄えないほどに窮乏します。13万石が藩士の給料で消えました。しかも、藩主の実父である吉良の要求を断る事ができません。吉良家の借金の肩代わりやら、江戸の吉良家屋敷の建て直しやら、猛烈な勢いで米沢藩の財政は悪化していくのです。


    そんな中で、吉良は赤穂浪士に討たれてしまいます。それを真っ先に喜んだのは、上杉家の藩士たちだったといいます。もちろん、藩主の実父なので表立ってはいえませんでしたが、これで湯水のようにおカネが出ていくことがなくなるという安堵感が家中をおおったといいます。


     上杉家には積極的に藩財政の改革を行う人物がなかなか出てこず、それには第9代米沢藩主上杉鷹山の登場を待たなければなりませんでした。上杉鷹山が藩主となった時、米沢藩は破産状態でした。その前代はどうしようもなくなって幕府に「領地の返上」を申し出ようと考えていたくらいでした。そんな最悪の中で鷹山は藩主となって、多くの困難を乗り越えながら改革を成し遂げていくのです。


    鷹山の改革についてはここでは触れませんが、彼は弱者への愛情があふれている、まさに仁者でした。彼の正室は前藩主の娘でしたが、その娘は10歳程度の知能しかなかったといいます。精神障害者だったのです。当初から仕組まれていたこととはいえ、鷹山は最後まで正室の面倒を見ました。彼女は20歳ぐらいで亡くなっています。


     二宮尊徳にしても、上杉鷹山にしてもその共通点は「徳」のある人、いわば「仁者」であったということです。改革を為そうとする人は心すべき教訓だと思います。


    今日はこれまで。

    2010年10月19日火曜日

    逝きし世の面影

    「逝きし世の面影(渡辺京二)」


    「こんな素晴らしい本をなぜ今まで知らなかったのか」と愕然としました。いやはや、何ともいえずショックでした。前に、ここで小泉八雲の文章を紹介しました。


    http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_09.html




    そこで、僕は次のように書きました。


    泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、激しい近代化の波の中で失われゆく明治日本の気骨と抒情を、深い愛惜の念で綴った次のような文章を1893年に残している。」


    大変お恥ずかしい間違いですが、小泉八雲が深い愛惜を感じていたのは、「明治」ではなく「江戸」でしたね。明治になって喪われた「江戸」を彼は綴ったのでした。


     さて、この本の作者は小泉が慨嘆したものを「文明の喪失」として、それは明治になって滅びてしまったとしています。そしてそれを幕末期に相次いで来日した多くの外国人の記録から、僕らの祖先が築いてきた「文明」の様相を紡いでいます。幕末期に来日した外国人の多くは、日本の社会の驚くべき特質を欠き残していました。その清潔さ、陽気さ、奔放さ、そして「絵のように美しい風景等・・・。今の僕らには想像する事さえ困難なように思えます。


     日本における近代登山の開拓者ウェストンの文章です。


    「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」


     アメリカの初代領事ハリスの通訳として来日し1年以上の長期に渡って日本を観察したヒュースケンは、


    「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾りけのなさを私は讃美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終りを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」


    と記しています。一方のハリス自身も、


    「厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」


    と、日本の今後を予見するような文章を残しています。


     作者はこう述べています。


    「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかも知れぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。そしてされに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい」




     今日はこれまで。





    2010年10月18日月曜日

    癒し


    ミーアキャット。立ち上がって辺りを警戒するんだよ。
    Ryo

    2010年10月17日日曜日

    葉隠れ 奉公人の心構え

     山本常朝の「葉隠れ」。


    岩波文庫で上中下3巻が出てます。原文のままで訳がありません。読みやすいことはないですが、読んで意味不明ということもなかったです。先日通読しました。


    巷間のイメージとは違い、あの本は「処世」を説いたものです。鍋島藩の藩士として、奉公人としての心構えを説いたものですね。どうも有名な一節「武士道というは死ぬことと見つけたり」だけが独り歩きしてますが、決して一見ファナティックに見えるものだけが書かれているわけではない。




    「酒席」での振る舞いや、「人に意見する方法」「批判の仕方」「部下をほめること」「翌日の事は前の晩から考えておく事」等々。今書店に多く並ぶビジネス本と同様です。「奉公人」を「サラリーマン」と置き換えれば、現代の「処世」としても立派に通用しますね。


    ただ、前提にこうあります。


     武士道に於いておくれ取り申すまじき事
     主君の御用に立つべき事
     親に孝行仕るべき事
     大慈悲を起こし人の為になるべき事


    この4つの請願を立て、毎朝仏神に念じることと。つまりは「志」を立てろということです。それをもって初めて「奉公」が可能となるとしているのが、現代とは異なる所でしょうか。


     今日はこれまで。



    2010年10月16日土曜日

    チリという国

     あの世紀の救出劇で、チリという国家は一躍有名になりました。


    それまでその国に対しては殆どの人がイメージできなかったのではないでしょうか。僕はといえば、「チリワイン」の白が安くておいしいということ、そして「市場対国家」という本の中で特異な経済政策をとってきた国ということ知っていたくらいで、たまに料理屋でチリワインがあろうものなら、即座にそれを注文し、そのチリワインをなぜ今僕らが飲むことができるかという、うんちくを女の子に披露してました。もう10年前の事ですがね。


     チリは南米諸国の中で市場経済への転換のさきがけとなった国でした。


     第二次大戦後、南米諸国の多くは国家統制型の経済政策をとっており、市場は国家により統制されていました。チリも同様です。チリでは1970年に社会主義政権が誕生し、大規模な国有化と価格統制政策をとるようになります。東欧型経済を目論んでいたようです。その結果チリ経済は混乱し、軍によるクーデターが起こってその政権が倒れます。以後軍事独裁政権となります。


     軍事独裁政権には経済に関する知識も智恵もありませんでした。国の安全保障の確立と左派の弾圧以外に、みるべき政策もありません。しかし、危機的な経済状況を何とかしなければならない。そこで白羽の矢が立てられたのは、アメリカのシカゴ大学に留学経験のある通称「シカゴボーイズ」と呼ばれる人々。経済思想は著名なミルトン・フリードマン、レッセフェールの旗手です。軍事独裁政権下で一連の改革が次々となされ、国有企業の数は1973年の500社から、1980年には25社にまで削減され、国の役割は最小限にまで減らされて行きます。猛烈な反対もあった事でしょうが、それを軍事独裁政権の力がそれを封じ込めたわけです。


     1980年代初頭、中南米諸国の多くはその経済政策の失敗から債務危機に陥ります。チリも同様です。軍事独裁政権は、その危機に対し、金融機関の国有化等の経済政策の軌道修正を図ります。「シカゴ流の社会主義」と世界に揶揄されたそうです。しかし、1985年には再び第二の「シカゴボーイズ」が経済政策を担うようになるのです。この第二世代は第一世代の「シカゴ流」ほど純粋培養ではなく、自由放任だけでない様々な政策を実行していきます。そして、その後数年でチリは中南米諸国を代表する市場改革の成功例となっていくわけです。経済成長率は高まり、インフレ率は低下し、輸出は伸びて輸出先も広がっていきました。


     そうして、チリワインが日本の飲食店で飲めるようになったというわけです。


     20年前の出来事ですが、皆さんもこのうんちくを是非とも使って下さい。ただし、それに興味を持つことができるような女の子の前でなければなりませんよ。


     今日はこれまで。

    2010年10月15日金曜日

    西郷南洲遺訓

     僕が高校生の頃、母親が習字を習いに行ってまして、その習字の先生に色紙を書いてもらいました。その先生は海軍兵学校卒の旧海軍将校とのこと。


    人を相手とせず天を相手とせよ
    天を相手にし人を咎めず
    我誠の足らざるを尋ぬべし


    西郷隆盛の言葉です。


    西郷の言葉は「敬天愛人」がかなり知られていますが、当時の僕には(今も)「愛」という言葉使いに違和感があって、好きな言葉ではありませんでした。


    そもそも、「愛」という文字が今でいう「Love」で使われるようになったのは、明治以降の事だと思うのですが、違うのでしょうか。確信しているわけではありませんが。


    昨年の大河ドラマ「直江兼続」がその兜に「愛」という字を掲げていたというのにも驚きました。またNHKが捏造して創作したかと思いましたけど、事実であったようで二重に驚きました。しかし、その「愛」は「「Love」ではなくて「愛宕神社」の「愛」というのが実相らしいというので、すっきりと腑に落ちました。


    ただ、西郷がどうやって「愛」を持ち出しのかは興味深いです。おそらくキリスト教の「アガペー」ですよね、ここでいう彼のそれは。


    西郷南洲遺訓の中には、西郷が「言志四録」の中で気に行った言葉を集めたものが入っています(手妙言志録)。いつだったか、僕が「言志四録」でふせんを張った文章がその中に多くでていたので、嬉しかったことを憶えてます。所詮、気にいった言葉が同じだっただけの事ですがね・・・。


    西郷のことは以前ここで書きました。


    http://3and1-ryo.blogspot.com/2009/07/blog-post_23.html

    この人は、僕はよくわからない・・・。スケール感が違いすぎるというのが正直なところです。


    今日はこれまで。

    2010年10月14日木曜日

    救出作戦

     チリの鉱山。


    閉じ込められた人々の救出が始まり、もうすぐ33人全員が救出されるとのこと。久々に明るいニュースです。69日ぶりに地上に出てきた人が家族と、特に幼い子供を抱きしめる映像は、うるうる来ますね。


     親思ふ心にまさる親心
     今日のおとずれ 何と聞くらん


    吉田松陰が処刑を前に家族への手紙の中にあるもの。親になってこの気持が非常によくわかるようになりました。


    親になって間もない頃、薦められて読んだのが「壬生義士伝」(浅田二郎)。これには号泣しました。


    とはいえ、世の中には我が子を虐待して殺してしまうような親が頻繁に紙上や、テレビを賑わします。これは全く理解ができません。しかも、裁判での量刑は8年とか・・・。刑が軽いと思うのは僕だけではないでしょう。


    夏目漱石の有名ではない小説に「鉱夫」だったかな、そういうのがあります。当時の鉱山内部の様子や、そこで働く人々の日常が語られているのですが、この事故の後に僕はそれを思い出しました。


    救出された人々は地上に出た第一声が「チリ万歳」ですが、日本での同様のケースを想定した場合、「日本万歳」と人々は叫ぶのでしょうか・・・。そんなことを考えてしまいます。


    今日はこれまで。



    2010年10月13日水曜日

    勘ぐると憂鬱

     小学校3年生の娘の国語の教科書の話です。


    社会という教科はありますが、まだ地図の見方とか地図記号とかそんなことを習っています。「歴史」というものはありません。そんな状況ですが、国語の教科書の題材に「みいちゃんのかげおくり」という、大東亜戦争への出征でお父さんが戦死し、みいちゃんのお兄さんとお母さんは空襲の焼夷弾に焼かれて死に、主人公のみいちゃん自身も死んでしまう、かつて家族で空に影を映して遊んだように、空で家族と再会するという話が載っています。可哀想な話なんですが、僕には非常に異和感があるのです。


    どうも、この教材「反戦」の刷り込みをしているような気がしてならないのです。戦争にまつわる悲劇、その情緒的、感情的なものをたかだか9歳のこどもに教えることに何か意味があるのでしょうか。これも「平和教育」というのでしょうか。


    「戦争」は政治の延長であり、すべての国がそれへの担保として軍事力を持っているという冷厳な事実と向き合わなければならないのに、それがこういった「可哀想」な話による情緒的なものがベースにあったら、冷静に論理的に向き合えるわけがないと思うのですが。どうもそれを狙った「刷り込み」のような気がするのです。


    勘ぐり過ぎ、考え過ぎならいいのですが、それにしても救いようのないこういった悲劇を、9歳のこどもに教えるには僕にはどうしても「?」がつきます。


    「世界の民話」という単元では朝鮮半島の民話が出てくるんですよ・・・これも僕は勘ぐるな。


    そして憂鬱になる。




    今日はこれまで

    2010年10月12日火曜日

    明治の気骨・大正の教養・昭和の狂騒


     冒頭の言葉は、僕が思う、それぞれの社会というか時代の精神を表したものです。「明治」だけ他と異なり、表現のニュアンスが違っていますが、まぁ言わんとしていることはわかって下さると思います。また、僕にとって第一義的な「昭和」はこの国が大日本帝国と呼ばれていた頃までです。


     
     昭和62年に母方の祖母が亡くなりました。葬儀の席上、お坊さんが言ったセリフを今でも覚えています。


    「これでまた明治を知る人がいなくなりました」


     「明治」が終焉したのは1912年ですので、もうほぼ100年前です。まだ僕が20代前後だった頃は、「明治生まれ」というと特別な何かを体現しているような、ある種の尊敬すら集めていたように思います。中曽根内閣時代の行革推進のトップとして招聘された土光敏夫氏なんかは、まさしく「明治の気骨」をそのまま現わしたような人でした。IHIを再建し、経団連会長を勤めるなどした人ですが、「めざしの土光」と人口に膾炙してます。Wikiを参照してください。説明された彼の「人物」に目をみはると思います。


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%85%89%E6%95%8F%E5%A4%AB

    土光氏に体現される「明治」というものを、ある種の憧憬の目をもって眺めたのは明治を知らない人々です。「それが何かはわからないが、明治にあって昭和にないもの」。それを見つめたのだと思います。


     一方、明治の頃は大人といえばみな江戸時代生れです。しかし、「天保生れ」というのは馬鹿にされたらしいです。昭和の世代が明治を憧れるというような、そんな感情は一切なく「天保生れは頭が固い」だけの老人として見られていました。そうして、明治の若い世代はかつての習俗、習慣を嘲りの対象としたのです。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがそれを嘆いた文章は以前ここで紹介しました。


    http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_09.html


     昭和の戦前と戦後の断絶よりさらに激しい断絶が明治と江戸にはあったと考えざるを得ません。そして、抹殺したつもりのかつての習俗や伝統の揺り戻しが「昭和」になってやってきます。それも、より原理主義的な形となって戻って来たのです。「狂騒」とその20年間をと名付けました。


     
     明治には「型」がありました。僕にはそうイメージできます。よく指摘されることですが、夏目漱石や森鴎外は「素読世代」だと。香田露伴、二葉亭四迷、内村鑑三もそうです。論語やら大学やらのいわゆる「四書五経」を漢文のまま読み下す教育を受けてきた世代だということです。数百年に渡り、日本の伝統的な教養体系の根幹にはそれがありました。明治生れはその残滓を受け継いだ最後の世代だったのかも知れません


     「大正」には「型」がありません。それまでの日本の伝統的な教養体系は軽んじられ、かわって持ち出されたのが「個性」です。武者小路実篤や志賀直哉の「白樺派」がそれを現わしているように思います。


     性懲りもなく再び江戸時代のことを持ち出してみれば、明治というのは幕府創業期と似ています。続く大正は元禄時代です。大正には大衆消費社会の様相が現れ、それまでの社会のありようが大きく変わった時期であったのが、貨幣経済へ移項した元禄と似ているからです。


     「昭和」の「狂騒」は先祖返りがそれを起こしました。近代兵器を操る日本の軍人の精神は、間違いなく戦国武者のそれでした。


     「昭和」を戦前と戦後に分けて考えるのは異論はないと思います。戦前を「狂騒」と名付けましたが、通期をそう名付けていいのかも知れません。戦後の日本は「経済」を武器にまっしぐらに、とても冷静とは言えぬ程のスピードで駆け抜けたからです。


     「平成」はどうなるでしょうか。


     「消沈」「停滞」、若しくは「混迷」?


     
     この国は明治以降、常に何かに追いかけられているようなほどの速さで走ってきたように思います。昭和20年8月15日に一度はその歩みを止めましたが、直に再び走り続けている。しかして今は、走るべき方向すら見つからないのに走ろうとしている、そんな気がしています。ここらで一度走るのを止めて周囲をながめ、ゆっくりと歩いたらどうかと思うのですが。




     今日はこれまで。







    2010年10月11日月曜日

    代表的日本人

    内村鑑三が著した「代表的日本人」。

    彼が挙げたのは西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人です。西郷隆盛は言わずもがなですが、上杉鷹山は小説もかなりありますね。比べて他の3人がなぜ採りあげられたか、多くの人はわからないのではないでしょうか。最後の日蓮については、「戦闘的要素を除いた日蓮こそが私の理想」と内村鑑三は述べています。

    分量の薄い本ですので、是非とも読んでみてください。


    戦前に学校教育を受けた人ならばほぼ100%知っている人であるにも拘らず、戦後教育の中で抹殺された人が中江藤樹ですね。近江聖人と呼ばれた人物で、日本における陽明学の草分けです。彼はまさに神様みたいな人です。17世紀中ごろの人物です。元禄の少し前です。


     二宮尊徳=金次郎は、薪を背負って本を読む像が有名ですね。僕の通う小学校にはありませんでしたが、他の小学校にそれがありました。今でもあるのかな・・・。彼は今で言うなら事業の「再生請負人」でしょうね。一流のコンサルタント。


     伝統的な日本人という姿を知らずに、いかなる日本人に教育していくつもりなのか、僕にはさっぱりわかりません。国際化の名の下に小学校から英語の授業があるご時世となりましたから、おおかた日本人ではなく「国際人」とかいう、根なし草のような薄っぺらい、歴史も伝統も知らぬ人間をつくるつもりなのでしょう。




     長歎息・・・。


     今は中江藤樹の「翁問答」を読み進めています。内容はいずれまた。


     今日はこれまで。

    2010年10月10日日曜日

    自分で書いた本ながら・・・

     およそ2カ月で書きあげた原稿用紙800枚の大作「226」。商業出版の芽が出ず、いつかは自費で出さなければならないと考えています。気が向いたときに読み返して、未だに誤字脱字を修正してます。これはきりがないですね。


     自分が手に入れたかった226事件の全貌、つまり事件勃発の社会的背景から事件勃発後4日間の様子、そして公判の過程と判決及び処刑までが1冊にまとめられたものとして書きあげたつもりですが、自分で書いたものにもかかわらず、涙が出てくる箇所が多いです。


     中隊長に強制的に事件に連座、つまり「命令」という形で駆り出された上、事件後には一方的に降等(軍曹から一等兵とか)となった下士官が多くいるのですが、彼らは公判において「こんな情況になっても中隊長を恨みません。今でも信頼しております」と言い、「私は死刑を覚悟しておりますが、裁判長殿にお願いがあります。死ぬ前にもう一度中隊長に会わせて頂きたくお願いいたします」言ったりしたのです。それほどの信頼と忠誠を集めた、30歳前後のかつてのこの国の若者に、僕も会ってみたかったと強く思います。そして、それほどの人間になりたいとも思います。


     また、下士官の中にも将校と変わらぬ思いを抱いて自発的に参加した者がいるのですが、「国法を破る悪いことだとはわかっていました。でもやらずにはおれなかったのです。」「私ら下層階級の者はああでもしなければ救われる事はありません」と堂々と公判で主張します。


     そういう、彼らの心情を思う時いつもうるうると目頭が熱くなるのです。




     今日はこれまで。






     

    2010年10月9日土曜日

    「競争の作法」

     僕は経済学の本を読むのが好きなのです。とはいえ、新書レベルの簡単なものですがね。今日は、7月に買った「競争の作法―いかに働き、投資するか(齊藤誠著)」が非常に面白かったので、それを紹介します。


     著者は一橋大学大学院の経済学の教授です。リーマンショック後の日本経済の停滞は、実はリーマンショックが原因ではなく、それは単なる後押しに過ぎなかったとし、かくも脆弱な経済状況の原因は、「戦後最長の好景気」にあり、競争原理ときちんと向き合おうとしてこなかったことにあるということを、データを用いて述べているものです。


     新聞報道とデータによる実際の姿がいかにかけ離れているかが、Webで閲覧できる基礎データから丹念に検証しています。例えば、日比谷に「派遣村」ができて、「派遣切り」というものが紙上を賑わした時、そこに踊る文面は「失業率6年振りに5%台」「過去最大の上昇幅」でした。しかし、2009年の失業率5.1%は、2001年の5.0%と大差なく、続く2002年の5.4%、2003年の5.3%よりも低い水準でした。そうると、あの未曽有の雇用不安という状況は一体なんだったのかわからなくなります。


     


     実は2002年1月から2007年10月までの69か月間は、戦後最大の景気回復期であったんですよね。これはその実感に乏しかったということで、時の経済財政担当大臣(与謝野馨)が「かげろう景気」と命名しましたが、実際新聞報道にいう「景気拡大」は仕事上でも、それ以外でも僕にはほとんど実感できませんでした。僕はタクシーに乗ると、決まって運転手さんに「景気はどうですか?」と尋ねるのですが、その頃も「景気回復なんて嘘ですね」という声ばかりであったということを記憶してます。
     
     「実感の乏しい」というのは事実で、その間実質GDPは505兆円から561兆円へと56兆円、11.1%成長したのですが、実質家計消費は291兆円から310兆円へと19兆円、6.5%しか拡大しなかったのです。景気拡大を支えたは、純輸出と設備投資で、当時の円安、デフレという二つの効果によって輸出は19兆円、急拡大する輸出を支える生産増強で民間設備投資は18兆円拡大しました。輸出攻勢による拡大でした。円安とデフレにより日本製品はアメリカ製品に対し2割も安い価格で競争ができたからです。企業は何の努力もせずに価格競争力を手にいれたことになります。そうして、荒稼ぎした収益は賃金に反映されず、株主にも還元されませんでした。ひたすら設備投資へと向けられたからです。


     一般のサラリーマン、公務員も含む勤労者世帯に限って景気回復期の動向をみてみると衝撃です。2002年と2007年を比べると、その消費水準指数は1.7%減少しているのです。これが戦後最長の景気回復と呼ばれた正体だと著者は明らかにしています。そうして、それが日本経済の致命的な欠陥であり、リーマンショックがなくとも近い将来に破綻したはずだと。つまりリーマンショックはそれのほんの少しの後押しをしたにすぎないと・・・。






     1999年から2000年頃だったと思いますが、当時データ整理やら何やらでよく大学生をアルバイトで使っていました。その彼ら、彼女らの中で、少なくない人が「就職はあきらめました」と言っていたことを憶えてます。


     著者によれば、1997年から2002年にかけて日本経済はこれまで経験したことのない雇用調整に直面したと言います。日本経済は国際的な競争力を獲得するために無理やりに労働コストを引き下げようとし、その結果少数の貧困が悲惨をきわめることとなったと。そしてデータで実証します。


     1997年から2002年にかけて、失業者は230万人から359万人へと129万増加し、失業率は3.4%から5.4%に増加。その内訳は1997年時点の正規雇用者3812万人の8.6%、326万人を解雇し、そのうちの254万人は非正規雇用者として雇い入れられた。残りの72万人が失業者となる。さらに、新たに労働市場に参入した若年労働者の失業者数はその間52万人増加した。その合計が129万人である。失業保険の受給者数は1995年に82万人だったのが、2002年に105万人に増え、生活保護世帯も1997年から2002年にかけて63万世帯から87万世帯に増加した。さらに、1997年に23494人であった自殺者数は、翌年に31755人となり、その後も3万人台で推移している。


     少数の貧困が悲惨をきわめたのは事実のようです。


    では、このような厳しい雇用調整によって、5年間で企業はどのくらいの労働コストを節約できたのでしょう。これには衝撃を受けました。その結果の計算上の名目労働コストの減少幅は5.5%ですが、この5年間の物価水準の下落傾向を加味した実質の減少幅は、消費者物価指数の減少幅2.0%で捉えると、5.5%-2.0%で実質3.5%減、企業物価指数の6.7%減で捉えると、5.5%-6.7%で依然として+1.2%増、GDPデフレーターの5.7%で捉えると5.5%-5.7%で-1.2%とほぼ相殺です。雇用者報酬というかたちの金額ベースでみても、名目は279兆円から263兆円へと5.3%減少してますが、実質では273兆円から270兆円へと1.1%しか減少しなかったのです。


     これを示した後、著者は次のようにいいます。


    「5年間で節約できた実質労働コストは、1%にすぎなかった。解雇をし、あるいは、低賃金で雇用し、一部の人々に耐え難い困難を強いておきながら、経済全体でみれば、たった1%であった。5年間でこの程度の実質労働コストの削減であれば、ゆるやかなデフレの程度に応じて賃金をわずかに引き下げれば十分に可能であった。すなわち、経営側と労働者側で名目賃金を毎年1%強引き下げることに同意すれば、それでよかったのである。」


     
     これは、要するに他者・弱者への配慮があれば起こらぬ問題ですね。著者は、いくつか示した競争との向き合い方の処方箋を、「経済学ではなく、個々人の道徳心、あるいはモラルに属する問題なのかもしれない」といい、「社会科学者として、個々人のモラルに訴えて社会問題を解決しようとするアプローチは禁じ手」と自らを戒めていますが、僕は全くそうは思わず、むしろ積極的に自らの領域を侵犯してモノを言うべきだろうと思っています。そんな自戒は不要であると言いたいですね。


     江戸時代の改革者はそろって経済学者でもあったわけですが、皆一様に「道徳心」の涵養を先ず第一に挙げていますし、経済を支える社会の仕組み、それを成り立たせているものは、まさしくモラル抜きでは語れないでしょう・・・。もっと勇気をもって、自信をもって自らの学問領域を飛び出してほしいと思います。


     
     興味をもたれましたら、是非とも一読を。


     今日はこれまで。