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2010年10月4日月曜日

組織能力とは その11

 本日は、勝海舟と小栗上野介についてです。


知名度や人気度からいえば断然勝の方が上でしょう。感覚的なものですが、勝を描いた書籍を10とすれば、一方の小栗を描いたそれは、その半分くらいではないでしょうか。そして、勝を描いたその中に政敵として出てくる小栗は、「徳川家のみあって『国家』を知らず、国をフランスに売り渡そうとした保守反動の官僚」として描かれているものですから、小栗の人気、評価ともに高くはないように思います。


 第7回でしたかね、2008年8月の三と一の会で、ここに河井継之助を加えて「転換期の指導者像」ということで話をしました。不当に貶められているであろう、小栗の功績や人となりをご紹介しました。




 さて、勝海舟についてはここで多くを語らずともご存じの方も多いと思いますが、彼が歴史の舞台に躍り出たのは彼が33歳の時でした。世の中はペリー来航で「攘夷か鎖国か」で大揺れに揺れている時、前述の水野忠邦失脚後の老中首座を勤めていた阿部正弘が広く世の中の意見を求めた際、勝の海防政策が阿部の目にとまったことによります。そうして勝は長崎海軍伝習所に入校し、以後めきめきと頭角を表して来るようになります。


 老中首座、阿部正弘は門閥譜代の出で、25歳のときに老中に就任しています。彼は開明的な人物であったそうで、愚昧な人物ではなかったそうです。勝を見出したこともそうですが、身分や家格にこだわらず積極的に人材を登用していったことからもそれは明らかですね。ただ、あまりにも「和」を重んじ過ぎた・・・。1853年のペリー来航後、1年間幕府は何もしなかったとは、この文章の冒頭にかきましたが、正確にいえば「政権内の調整だけに1年を費やした」というべきでしょう。積極的な政策を打ち出す事も、採り入れることもしなかったわけです。そして、時間切れとなり「日米和親条約」を締結するのです。




 一方の小栗上野介(こうずけのすけ)です。彼は2500石の大旗本だったとは前述しました。彼は、勝と同時期にサンフランシスコまで行っています。ただし、勝が咸臨丸の船長であったのに対し、小栗は幕府の正使としてアメリカ政府を訪問しています。その幕政における地位の差は、当初は隔絶していました。小栗は黙っていても出世できる家柄でした。


 互いに政敵と認めていたこの両者の差は新しい国家の中心に「徳川家」を持ってくるか否かの差でしかなかったと思います。勝は過激な革命派であり、小栗は斬新的な革命を志していたといえるでしょう。彼は決して頑迷固陋な人間ではなく、勝と同じような開明主義者でした。横須賀に作った製鉄所、横浜のフランス語学校、彼も明確にこの国の将来の姿を思い描いており、そのための布石を着実に打って行ったのです。小栗がフランスとの間に結んだ巨額の借款は、勝にいわせれば「日本を売るもの」ということで、小栗にすれば近代国家へ生まれ変わらせるための必要資金でした。小栗が横須賀に建設した製鉄所は、日清日露戦争時の日本海軍を支えたのみならず、建設後100年以上たってもその中のある設備は、アメリカ第7艦隊の艦艇修理にも使われていました。


 日露戦争後、東郷平八郎が小栗の子孫を訪ね、「この度の勝利はあなたの祖先のおかげ」と言ったほです。小栗がこの製鉄所をつくる時、「幕府がなくなるかもしれないのにそんなものを作るな」という批判の声を、小栗は「たとえ幕府がほろんでも日本は残る」と言い放って沈黙させたといいます。


 しかしながら、いかに身分や家格に申し分なく、優れた官僚であった小栗であっても順風満帆にその役目を果たせたわけではありません。彼ほどめまぐるしくその役職が替わった人物はいないでしょう。



1860
11
外国奉行を拝命
1861
7 
外国奉行を罷免
1862
5
勘定奉行を拝命
同年
8
江戸町奉行を拝命
同年
12
歩兵奉行兼勘定奉行を拝命
1863
4
歩兵奉行を罷免
1864
7
陸軍奉行並兼務を拝命
同年
7
陸軍奉行並を罷免
同年
8
勘定奉行を罷免
同年
12
軍艦奉行を拝命
1865
2
軍艦奉行を罷免
1865
5
勘定奉行を拝命
1867
8
海軍奉行並兼務
1867
12
陸軍奉行並兼務


面白い事に、勝が免職になるとその後を小栗が継ぎ、小栗が免職になるとその後を再び勝が継ぐという繰り返しもありました。そうして、1868年1月に鳥羽伏見の戦いが始まった後に、江戸にて徹底抗戦を主張して免職され、故郷の群馬に帰るのです。そのあとを継いだのは、最後もまた勝でした。


 幕府は、勝と小栗という優れた才能を使い続けることができなかったわけです。幕末の騒乱は、12代将軍家慶時代の終りから始まり、13代将軍家定の時に日米和親条約が結ばれます。家定は多病で癇が強い人物であったと言われ、有能な人物ではなかったようです。彼の在位は僅か5年弱で終っています。続く14代家茂は僅か12歳で将軍となったため、政治のかじ取りが出来る筈がありません。家茂は21歳で亡くなっています。寛政の改革を実行した松平定信以降は、門閥譜代の老中が全て政治を取り仕切り、能力ある人材の抜擢・登用はなくなりました。運用の幅がなくなり原則通りの人事となったわけです。阿部正弘は再び能力主義を採用しますが、それを使いこなす人材が出てこなかったわけです。田沼の時代から半世紀を過ぎ、その智恵はなくなっていました。幕府の滅んだ原因として、硬直した人事制度がよく挙げられますが、これは一面では事実ではありませんね。


 幕府最後の将軍は徳川慶喜。最後の将軍として知名度は抜群であり、大政奉還を為した将軍ですが、僕はこの将軍は最低の将軍であったと思っています。確かに、彼よりも無能な将軍はいたでしょう。しかし、慶喜の場合は自分が有能であるという妙な思い込みと、世情にも彼は有能な人物という間違った風評があったことが災いしたように思います。彼が将軍職を継ぐ前には、勇ましい意見もあり、待望されて将軍となったわけですが、将軍になったとたんにその馬脚を表したというべきでしょうね。野党時代は勇ましく、改革のリーダーと目されていても、政権与党になったとたんにその無能振りをいかんなく発揮した人、している人と似ているかもしれません。


 次回は、優柔不断振りをいかんなく発揮した最後の将軍についてご紹介します。

 今日はこれまで。
 

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