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2010年9月30日木曜日

組織能力とは その7

 今回は田沼意次についてです。


 綱吉時代から続く「側用人」という、ある種の能力主義による抜擢は、今回の田沼意次によって終りを告げます。田沼以降の「寛政の改革」「天保の改革」ともに、その実施者は譜代門閥の職位である老中が行うことになります。それらは残念ながら、それまでの改革者が行ったほどの効果を発揮することは出来ませんでした。


 さて、その田沼意次です。田沼は吉宗が将軍の時、その実子家重(9代将軍)の小姓を勤めていた事は前述しました。彼は身分の高い家の生まれではありません。彼が父親から引き継いだ家は僅か600石ですが、出世に出世を重ね、後には1万石の大名となっていきます。彼を重用したのは9代家重でした。家重は病の為、将軍職をその子家治に譲るのですが、家治にも田沼を重用するようにと申し告げるほど、田沼を信頼し切っていました。田沼はこの家治の時代に、大出世を遂げて遂には老中にまで登りつめるのです。18世紀後半の事。吉宗死後四半世紀後の事です。即ち、田沼は将軍側近の側用人としてだけでなく、伝統的な制度である老中職としても幕府の実権を握っていくことになるのです。


 田沼は、吉宗が次世代の完成を委ねた諸政策の課題を、その行政手腕で解決し、全国規模での経済発展を推し進めていくことになるのです。田沼が活躍した時代は、大体1760年から老中罷免の1786年までの約25年間です。


 綱吉時代の荻原重秀が、政敵新井白石により不当に貶められたように、田沼の政治もその政敵松平定信(老中)による誹謗中傷により同じ事態となっています。後に「寛政の改革」を為した人物として知られる松平定信は、その父が吉宗の次男であり、自身が将軍になることができるほどよい血筋でした。しかも、9代家重は幼少の頃の病気により、言語不明瞭であり、幕府内には次男の宗武が将軍に推す一派がありました。その宗武が松平定信の実父です。しかし、結果は9代、10代と吉宗の長男直系が将軍職を継いだため、定信自身の将軍職の芽は完全になくなってしまったのです。そのため、定信は、家重、家治に対してふくむところがあり、その将軍に直接向けられない怒りを信頼厚い田沼に向けたのです。田沼政治は賄賂政治だという資料は、ほとんどが松平一派によってつくられたもので、その信憑性には大いに疑問が残っています。


 
 さて田沼意次は具体的にどういった政策を行ったのかご紹介します。


 まず第一に、彼は幕府財政に「予算制度」というものを持ちこみました。それまでは、必要な分だけ支出されていたのですが、それを予め決めた予算以外には一切支出を認めないという制度をつくったのです。それも部門ごとにです。そこで彼は民生部門は毎年ゼロシーリングで予算を据え置く替わりに、将軍の身の回りとかの大奥の予算を大幅に削減し、民生重視を打ち出しました。


 次いで、彼はそれまでの税制を抜本的に変えるということをやってのけます。簡単に言えば年貢の徴収にたよる直接税方式に、商品流通による流通税つまり「間接税」を加えるのです。田沼は吉宗が年貢率のアップに苦労したことを知っていました。そのため、率を上げなくとも幕府に収入が入って来る仕組みを、流通税というものを考え出して実現するのです。流通税といっても、商人個人単位で課税するのではなく、扱い商品ごとに流通グループを作らせて、そのグループに課税していく方法をとったのです。商人らの流通グル―プは税を支払う代わりにその見返りを要求します。それが「株仲間」の誕生で、流通上の独占権のお墨付きをもらったのです。


 第三は、通貨の一本化です。江戸は金、大阪は銀が主体であった通貨を一本化したのです。それまでは金一両が五十匁、もしくは六十匁で金一両としていたのですが、実際は金銀相場の変動により思うようにいかず、この変動相場は東西の経済の流通を妨げていたのです。この情況に、田沼は「明和五匁銀」という通貨をつくり、これを12枚で金一両と交換できるようにしたのです。相場に関わらずです。こうして金と銀は一本化し、東西をわける流通通貨の問題が解消されたのです。しかし、田沼失脚後、これは潰されてしまい田沼時代の通貨は全て使えなくなりました。吉宗から田沼時代へつづいて拡大、発展してきた経済は、再び逆コースへと通貨の面で後戻りしてしまうことになります。


 第四は、蝦夷地の開拓です。北海道の耕作可能地を調査し、そこを開発することを目論みました。計画では蝦夷地開発による収入は約600万石、当時の天領が450万石でしたから、その大きさがわかります。彼は、アイヌ人たちに種子や農機具などを与えて開拓させ、足りない人間は内地から移住させようとも考えます。それまでの蝦夷地を管轄する松前藩の政策は、アイヌには農耕を禁じていました。農耕を通じて豊かになると、松前藩が貴重な輸出品としていた鮭や動物の毛皮を獲ってこなくなるとしていたからです。田沼の政策はそれとは180度違う、気宇壮大な開発計画でした。

第五は印旛沼の開発です。印旛沼は千葉県にあります。この事業は吉宗の新田開発を受け継いだものでした。これは新田開発と同時に、利根川から印旛沼を通って、そこから運がで江戸へ入るような水上の流通路を造ろうとしたものです。この事業は全体の3分の2程終った時点で、前代未聞の大洪水が関東地方を襲い、それまでの進捗が台無しとなってしまい、この事業は中止されてしまいます。

以上の5つが田沼意次の行った政策です。この頃は、吉宗の取った特産品開発がかなり軌道に乗っており、都市部だけでなく農村部やそれまで不毛の地とされてきた東北地方にまで経済的な豊かさが広がった時代でした。現在でも最高級品とされて中国本土で珍重されているフカヒレや干しアワビは三陸産のもので、これはこの頃から長崎を通じて中国へ輸出されていました。



この地方経済まで巻き込んだ豊かさは、多くの文化を生み出しています。例えば「浮世絵」は元禄時代に菱川師宣が創始したものですが、田沼時代に生きた鈴木春信が、多色刷りの技術を創出しました。これがゴッホにまで影響を与えた「浮世絵」となります。

有名な「解体新書」が出たのもこの時代ですし、平賀源内が活躍したのもこの時代です。また、大田南畝(蜀山人)という戯作文学の旗手が江戸でもてはやされたのもこの時代でした。


田沼意次の失脚は、彼の後を継ぐとされていた息子意知が、江戸城で殺害された2年後となります。一説には、その黒幕は松平定信であったとも言われています。1784年の事でした。田沼は、彼を庇護してきた10代将軍が死亡するとともに失脚し、彼の多くの改革は終りを告げるのです。そして、元禄が終わって、復古反動の嵐が吹いたのと同じように、田沼の死後はまたも復古反動に針が大きく振れてしまうのです。

次回は、田沼の後に出てきた松平定信の「寛政の改革」、そして「天保の改革」の水野忠邦に触れていきます。そして、水野の改革が幕府最後の改革となり、後は対外問題に国内が翻弄される中、有効な手立てを打ち出す事が出来ずに、その役割を終えていくことになります。そろそろ、江戸時代の様々な改革を俯瞰するのも終りに近づいて来ます。

今日はこれまで。

2010年9月29日水曜日

組織能力とは その6

 今から、何年前くらいになりますか、「価格破壊」という言葉がブームになりました。物の値段が下がるというのは、消費者にとっては嬉しい事ですが、当時それをなすための障害、元凶と言われたのが日本の商慣習、流通システムでした。


 本日ご紹介する大岡越前は、この流通システムを作ることによって諸物価の統制を図り、成功させるのです。



 前回までの復習です。


将軍吉宗は、米価安・諸物価高という事態に米価を上げようと取り組みました。一方の大岡越前は、米価安のままで諸物価高を是正しようとするわけです。大岡越前は、当時町奉行という役職でした。彼は上級旗本の出身でしたので、身分の低い人間ではありませんでしたが、吉宗の側近はほとんどが紀州藩の人間で占められていた中にあって、幕臣ながらのその地位は異例のことで、吉宗がかなり彼をかっていったことがわかります。


 大岡は、次のように考えます。


ある物の値段が上がると、多くの人間がそれに飛びついて更に値段を急騰させる。つまり、非常に多くの不特定な人間が流通市場に参加するので、物価が不安定になる。それならば、同業者仲間を作らせて、流通過程を整理すればいいと。


流通には問屋・仲買・小売の三段階があるから、同一商品に対してそれぞれ三つの段階の仲間を作らせ、相互監視させる。誰かの買い置きのために値段が値段が上がったら、仲間で注意して買い置きをやめさせる。適正利潤よりも多くのせて商売している人間は仲間がそれをみつけて是正させる。


ある物の売れ行きが好調になると、互いに競ってそれを仕入れるようになるが、生産者からすると、一番高く買ってくれる所へそれを売るから、商品の値段があがる。これを防ぐためには、ある商品はここでしか仕入れないという仕入れ先の制限をする。そうすれば、生産者は問屋仲間にしか売れないので、物価は下がるはず。


 そうして、これらの考えを実行すべく監視機構をつくり、全国のどこからどういう商品が、どれだけの量で大阪に入ったか、並びに出ていったかということを幕府に報告させ、最大の消費市場である江戸に入って来る商品も、浦賀に関所をつくり船の積み荷を報告させる仕組みをつくったのです。


 また、大岡はその流通システム構築と同時に、貨幣改鋳を行います。江戸は金、大阪は銀が主要な流通通貨だとは書きました。彼は、江戸の物価が高いのは、商品の供給量が需要量よりも少ないからであり、その原因は金銀相場だと考えたわけです。つまり大阪へ多く流れ、江戸へは少ない商品量を金銀相場を変えることによって増やそうとするのです。彼のこのアイデアは、「職を賭してやる」という強い決意の下に実行されますが、大阪商人やその後ろにつく諸藩の抵抗もすさまじく、吉宗も首を縦には振らないなど一筋縄では行きませんでしたが、吉宗が自身の米価政策を中止した享保20年になって、ようやく吉宗からの許可も出て、その翌年から貨幣改鋳を行います。


 元禄の荻原重秀時代の貨幣改鋳が、後に続いた新井白石によって元に戻された事は前述しました。大岡は、それ再びやってのけるのです。これにより、銀の品位がおとされ、その分だけ金が強くなり、金一両は銀六十匁となりました。金を切り上げ、銀を切り下げたのです。


 大岡の二つの策、「流通システムの構築・合理化」と「通貨政策」によって、諸物価高という問題も解決するのです。幕府財政が黒字転換になって5年後ほどでした。


 


 1603年の幕府成立、1616年創業者家康死亡から数えても、この頃は既に100年以上経過し、創業者のいた時代状況から大きく状況が異なった頃に出て来たのが5代綱吉の諸改革でした。重農社会から重商社会へと変貌したこの国のかじ取りを行ったのが、能力で抜擢された柳沢吉安や荻原重秀で彼らの手腕を存分に発揮させたのが綱吉でした。


 続く、6代、7代将軍の時には復古反動の嵐といっていいでしょう。経済音痴の新井白石が再び重農へと路線を変更させ、財政破綻、デフレの嵐が襲いました。


 吉宗や大岡の政策は、それを再び重商路線へ舵を切ったといえます。吉宗は幕府中興の祖と言われますが、彼の打った様々な政策を考えるとまさしくその通りで、もし吉宗が将軍にならなかったら幕府はもっと早くにその統治能力を失っていたかも知れません。


 最後に吉宗の行った他の施策についてご紹介します。


ひとつは、人治主義から法治主義へと徹底させたことで、人によりばらばらだった量刑の基準などをすべて判例毎にこまかく決定したことが挙げられます。「公事方御定書」というものを教科書で習ったはずですが、それがそうです。


もう一つは、度々ここで触れていますが全国に特産品を産出させたことです。それまでの米・麦以外の作物を禁じていたことを転換し、その土地に最も適したものを作付するよう改めたのです。これにより、和歌山の梅、愛媛の蜜柑、千葉県の野田や銚子の醤油など、各地に様々な特産品が生れました。特に醤油はそれまでは全て大阪から来ていたものが、江戸近辺で自給できるようになっています。吉宗は日本各地における適地適産を実現させるため、全国規模で詳細な資源調査を行っています。それは動物・植物・鉱物などありとあらゆるジャンルに渡る日本資源の総点検でした。


この結果、それまで最大の輸入品であった絹は、栽培に最も適した東北地方で作ることにより、完全に自給できるようになり、それが大東亜戦争直前までの日本経済の主要な外貨獲得手段となっていったことは前述しました。吉宗は、それまでの産業構造を大きく変えたのです。


 
 吉宗は、元禄以後ののデフレ経済と、幕府財政の赤字を見事に一掃しただけでなく、より発展させた形を9代将軍家重に遺していったわけです。吉宗以降、将軍として改革を成し遂げる、または名を為す人は皆無となります。最後の将軍慶喜は、最後の最後で「大政奉還」をやるだけの人ですので、それまでの綱吉、吉宗とはその功績において比較となりません。


 吉宗死後の9代、10代将軍の下で政治の実権を握ったのが日本史では悪名高い田沼意次です。次回以降は、その田沼政治についてご紹介して行きます。


 この田沼政治というものも、不当に貶められているものの一つだと思います。田沼政治は賄賂政治だと、その一面だけを教わった記憶があります。しかし、よく調べてみると、この田沼時代には都市の豊かさが農村にまで広がった時代なのです。農村のこどもが寺子屋に通うという習慣は、この頃から始まっています。有名な小林一茶は、田沼時代の農民の出です。このことだけでも、田沼時代の不当な評価の一端がおわかりになるかと思います。


 今日はこれまで。

2010年9月28日火曜日

組織能力とは 番外編2(対中問題)

 どうも、この問題から離れられなくて困っています。


報道によれば、中国は漁業監視船という名の武装船を尖閣周辺海域に派遣しているとか・・・。もうこうなっては、この国に為す術はありませんね、残念ながら。中国は、尖閣諸島を自国領土だと宣言してます。したがってその領海で漁船が操業しようと、ガス田の開発を進めようと、他国にとやかくいわれる筋合いはないという事ですね。


今後は、海上保安庁の警備船が中国漁船を排除しようとしてもその漁業監視船なるものが、海上保安庁の船の行動を妨害するだけでなく、攻撃してくる可能性が大いにあります。その漁業監視船なるものがどのような武装をしているのかわかりませんが、海上保安庁の警備船も対した武装はしていないでしょう。正当防衛ということで反撃はできるのでしょうが、中国漁船を排除するという警備目的を完遂できるかどうかは甚だ疑問です。




「それならば海上自衛隊の艦船を」


こういう勇ましい意見も出ている様ですが、自衛隊でも同じ事ですね。大体、自衛隊の艦船が出ているからといって、おめおめと引き下がるような国ではないでしょう。しかも、普通の国家なら当然あるべき「交戦規定」がこの国にはありませんので、正当防衛以外では攻撃できません。つまり、領海を侵犯されても、警告や威嚇射撃だけでそれ以上のことはできないのです。ただ、万が一相手から攻撃を受けた場合、こちらは海保の船とは段違いの攻撃能力を持っているので、相当な打撃を中国に与えることはできると思いますが、これも「武器比例の原則」とかいうおそらく刑法の範疇ですが、例えば中国船が機関砲で自衛隊の船を攻撃しても、いくら正当防衛とはいえ対艦ミサイルやらの機関砲以上の武器では反撃できないのです。過剰防衛になるんだとか・・・。普通の国家の場合は、自国防衛に国内法である「刑法」が適用されることはないのではないでしょうか。これは勉強不足で確かなこととは言えません。




「修理代金を請求する」




とか政府は言っていますが、これは国内向けに言っているだけでしょうね。本気で言っていることとは到底思えません。




 新聞によれば、あの眼の虚ろな御仁は「私ならばもっとうまく対応できた」と言って菅総理を非難したらしいですが、そういう「秘策」があるのならば、国家の為に進言すればいいでしょう。なぜ進言しなかったのか。僕は、文章だからこそ過激な物言いはしたくないと気を付けているつもりですが、彼の御仁に対してはどうもその節度を守れそうにありません。心の底から腹が立ちます。


「頼むから死んでくれ」


これが偽らざる僕の心境です。




さて、対中問題。


このまま手をこまねいていたら尖閣諸島は間違いなく中国のものになってしまいます。どうしたらいいのでしょうね。米国海兵隊と陸上自衛隊の共同訓練とかで尖閣諸島に上陸訓練をして、そのまま居座ってしまうということは出来ないんでしょうか。日本をなめきってはいても、米国と事を構える事は中国も望んではいないでしょう。




「フロントがアホで野球ができへん」


かつての阪神の投手、江本はこう言って現役を引退したんですよね。
現場の海保の職員も、同じようなことを思っているのでしょうね。志気の高い現場、能力ある事務方・官僚がいてもそれを使いこなすトップの質が悪ければどうにもならない。昨日も書きましたが、明治新政府を支えたのは旧幕臣です。そしてそれを使いこなしたのが維新の創業者なのです。幕府末期には、彼らを使いこなすことができる人物が幕府内にいなかっただけです。


明日からは、また江戸時代に戻りましょう。


今日はこれまで。


















2010年9月27日月曜日

組織能力とは 番外編(対中問題)

 「組織能力とは」と題して、江戸時代の様々な幕府の改革事例をこれまでに5回に渡って書いてきました。一向に本題に入れずにいるのですが、尖閣諸島をめぐる先週金曜日の事件を新聞で読むにつけ、ますますその思いを強くしています。今日は、本題に対しての僕の結論めいたものをここで書いてしまおうと思います。


 「組織の能力などない」というのが僕の結論です。結局は「人」の問題だということです。極めて簡単なことです。「組織」が優れているというのは、とどのつまりその組織に優れた人間がいるかどうかだということです。ところが、そういった属人的な問題は、合理的に説明することができないため、「組織」の問題として扱うことにしてしまっていると僕は思うのです。組織というものはニュートラルなものです。能力の多寡があるわけがない。もちろん、組織にも「良し悪し」はあります。これまで説明してきた江戸時代の門閥制度に縛られた組織など「悪い」見本でしょう。では「良い」組織とは?となると、例えば「ドイツ参謀本部」とか、GE社とかいろいろ挙げられますが、「良い」組織が「良い」人を生むわけではなく、「良い」人がいるからこそ「良い」組織となるのではないでしょうか。


 江戸時代、3代将軍家光の頃までは創業者である家康の威光で国は治められていました。家光死後30年後に将軍となったのが5代綱吉です。以降、12代将軍家慶まで、江戸幕府は改革、改革、改革の連続です。そして代家慶の時代になると、今までの国内問題だけでなく、そこに「国外」という新たな要素が加えられるに及んで、幕府の命脈が尽きることになるのです。「人」の不在です。「人」といっても「指導者」の不在ということです。それを支える優秀な事務方は沢山いました。明治新政府の役人は、その少なくない人数(もしかしたら多数?)が旧幕臣によって占められています。特に大蔵、外務に関しては、薩長土肥の人間では到底勤まらなかったでしょう。


 


 


 「日米安保第5条が適用される」


こう明言した米国政府は、「だから一歩も退くな」というメッセージを日本に贈ったわけではなく、「だから、今回は退け」というメッセージだったのですね。僕の想像とは全く逆でした。米国は日中のごたごたを望んではなく、しかも対中で厄介な問題を今抱えたくない。だから、今回のケースで日本を退かせる代わりに「尖閣諸島への日米安保適用」ということを明言して日本を安心させたのでしょう。


 前原大臣も菅総理もそれに従ってしまったのでしょうね。千載の禍根を残してしまうことを考慮せずに・・・。望んでも仕方のない事ですが、今の政権内部に「人」がいないのです。自民党も同様でしたね。北朝鮮首席の息子が不法入国で捉えられた時、直に国外退去してしまって、拉致被害者帰国への大切なカードを直に自ら手放したのは、当時は自民党の田中真紀子外務大臣でしたからね。


 今回の事件は、組織の問題ではありませんね。間違いなく「人」の問題です。政治が明確に判断すれば良いことです。それを「検察の判断に従った」などと、「政治主導」が聞いて呆れます。たかだか沖縄地検の次席検事をマスコミの矢面に立たせて、恥ずかしくないのでしょうか?卑怯極まりないことです。


 今回の事件では大多数の人々が政府の決定を「弱腰」と非難しているようです。地元である石垣島の怒りは最もですし、そんな状況下にあってなお、警備を続ける海保職員の苦労は相当なものでしょう。ただ、願わくば「政治」というものはは「景気」や「年金」や「消費税」のことだけでなく、やはり「外交」やら「安全保障」やらが重要だということに有権者は気付いて欲しいと思います。


 
 さて、明日は大岡越前が行った流通改革についてご紹介、本題に戻ります。


 今日はこれまで。




 






 

2010年9月26日日曜日

組織能力とは その5

 吉宗の改革を一言で表せば、江戸幕府と経済の大リストラと言えるかも知れません。制度疲労を起こしていた当時の社会の立て直しです。財政、物価、人心、まさしく社会の全ての改革に迫られていたのが吉宗が将軍に就任したときの状況だったのです。


 吉宗が最初に出した「検約令」は、大火にマッチ箱で消火にあたるようなもの。そんなことをしても財政は上向くはずもなく、御家人への給与支払いも遅配・欠配するようになります。 そんな状況にあっても、吉宗は将軍就任の際自分を押してくれた門閥層に遠慮して、就任直後には実のあがる改革策を実行しなかったと前回書きました。それが、将軍就任後7年が経ち、吉宗擁立の最大の功労者であった老中井上河内守が死ぬのです。待ってましたとばかりに、吉宗は改革策を次々と打ち出して行きます。 「死んでも人の惜しまぬもの、鼠とらぬ猫と井上河内守」という歌が巷間に流れたといいます。


 吉宗は就任直後、財政再建のプロジェクトチームを作らせました。そのリーダ―は吉宗自らが任命した老中水野忠之。彼を責任者に、勘定所の有能な若手を抜擢してチームを組織したのです。ちょうど井上河内守が亡くなった直後から、そこで考え出されてきた改革案がでてきます。それは、


 ・年貢率の引上げ
 ・新田開発


という非常にシンプルなもの。年貢率は江戸時代初期には七公三民だったのが、徐々に下がり始め、元禄時代には三公七民と逆転し、この段階では三公も割り込んでいました。吉宗はそれを五公五民くらいまで引き上げようとするのです。しかしながら、これは並大抵のことではありませんでした。幕府は一揆の多発は領主の責任として、時に領地没収まですることもあったのですが、享保年間では幕府直轄の天領で一揆が多発するのです。年貢率の引き上げに対する反対運動でした。吉宗は最後まで年貢率の引き上げを実現しようと目論んでいた一方、そんなに無理はできないとも思っていました。吉宗時代最後の勘定奉行神尾若狭守は、「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほどでるものなり」と放言したと言われ、農民に対し苛烈な政治を布いていた江戸時代施政者の象徴とされていますが、その彼でも最高は35%にしかその率を引き上げることは出来ませんでした。また、この神尾の放言もよくよく考えてみると、「絞っても絞っても、なお領主側が余剰部分を取り切れない」という状態を表してもいます。つまり、徴租力の低下を表す言葉なのです。


 また、吉宗はこれまでの年貢を取る方式「検見取法」から「定免法」に変えました。「検見取法」というのは、その年々の米の出来具合を細かく検査し、豊作・凶作に合わせて年貢率を変える方法で、理想的な方法でしたが領主側の手間が毎年毎年非常にかかり、しかも農民側にとっても賄賂などにより査定も変わるとあって評判が悪かったのです。


 吉宗はこれを改めて、毎年一定の率とする「定免法」に変えたのです。これの問題点は、凶作時における年貢率の固定が農民に大きな負担をかけることとなることですが、彼は代官たちにモデル村落をつくらせ、収穫量、生産費、生活費、年貢量などを細かく計算させ、その調査結果から「収穫量が30%以上減る凶作時には、定免法を適用しないというルールを作るのです。その場合には「検見取法」を適用するとしたのです。これを「破免法」といい、このルールは江戸時代が終わるまで幕府の基本政策となっていきます。


 ちなみに、その吉宗の年貢率を上げる苦労を、吉宗の子家重(9代将軍)の小姓としてつぶさに見ていたのが、10代将軍の側用人として改革を行うことになる田沼意次であり、彼の改革策は増税なしに収入を増やすという方法をとるわけです。彼は僕らが教科書で習った「賄賂」まみれの悪い役人では決してないような気がします。


 話を戻します。財政再建プロジェクトチームのもう一つの施策新田開発は、即効性こそありませんでしたが、数年後には見事に実を結ぶことになります。新田開発に際しては、当該地の大商人の資本を使い、その見返りに1割5分の小作料を補償する政策がとられました。社会資本整備に民間の資金を使うというこの方法は、今でいうPFIみたいなものですね。この頃の開発された新田は、埼玉の見沼代用水新田、新潟の紫雲寺潟新田等があります。


 また即効薬としては、「上米令」というものも布告しています。これは参勤交代の江戸在勤期間を半年に短縮する代わりに、各大名に、石高1万石につき百石ずつの米を幕府に献上させるというものです。


 享保7年(1722)から始まった吉宗の改革により、享保15年(1730年)には幕府財政は黒字を達成するのです。


一方、吉宗は後に「米将軍」とまで言われた程、「米価の統制」に取り組んだ人でもありました。ここで、なぜ彼がそれに取り組まざるを得なかったのかの社会情勢を説明します。

ご存じのとおり、江戸時代は「石高制社会」であり、社会的な富の量を、米の単位である「石」で表していました。米が社会の基礎だったのです。こうした制度が成り立つためには、米価とそれ以外の値段のバランスが取れており、米価が上がれば諸物価も上がり、米価が下がれば諸物価も下がるという条件・バランスが必要です。元禄時代まではこの条件がほぼ適用できる時代でした。しかし、元禄時代の経済的繁栄とその崩壊は、それを崩してしまったのです。

米価は江戸時代初期から、ずっと上昇傾向にありました。その上昇カーブがきつくなるのは、4代将軍の頃(1670年前後)からです。完全な消費地である都市の膨張が激しくなり、都市人口が急増したためと考えられています。消費人口が増加したのに、供給がそれに追いつかなければ、物価は当然上がります。米価とそれ以外の物価とのアンバランスに対しては4代家綱、5代綱吉ともに米の増産という手を打ちます。そうして元禄後半(1700年頃)になると、米価は徐々に下がり始めます。しかし、依然として米価とともには他の物価は下がらなかったのです。庶民の可処分所得は多く、様々な商品を買って生活水準を高めたいという欲求も強かったので、諸物価は容易には下がらなかったのです。その上、武士階級は、米で給料をもらい、それをお金に換えることで物を買っていたので、米価安・諸物価高という状況は彼らの生活を困窮させることとなりました。

吉宗はそういう状況で将軍になりました。そのため米価問題に取り組まざるを得なかったのです。吉宗は大阪の米市場を江戸で掌握しようとする試みや、それまで幕府が米価抑制のために禁止していた「空取引」を、逆に奨励しそのための幕府公認の空取引市場を大阪堂島に作るなどします。目的は「米価の引上げ」です。他にも米の実需要を増やすために酒造りを奨励します。元禄のころは、米価高騰の原因でもあった酒造りを、今度は奨励するのです。しかし、彼の行った様々な施策は、既得権益を守ろうとする抵抗勢力の反対もあり、結果的に全てが中途半端に終わり、実のあるものとはなりませんでした。彼が米価問題に取り組んでいた期間は10年を超えます。吉宗は米価政策を志半ばで投げ出してしまいます。享保20年(1735年)のことです。

しかしながら、米価政策の中止にはもう一つ要因がありました。同時に進められていた諸物価の統制政策が功を奏し始め、米価をあげずとも済むようになったからです。これを進めていたのは大岡越前でした。

整理します。米価安・諸物価高という状況です。吉宗は米価安を是正しようとしました。一方の大岡越前は、米価安を受け入れ、諸物価高を是正しようとしたのです。二人は、政策論争に明け暮れていたと前に書きましたが、ここでも完全にその施策の方向が分れたのです。しかし、吉宗は自分とは相容れない施策を許す度量がありました。

大岡越前の具体的な政策、彼はどのようにして物価高に立ち向かったのかは次回にします。大岡がこのとき成し遂げた改革は、今も日本の流通慣習として残っていると言えば、皆さんは驚くでしょうか?

今日はこれまで。
 


 




 
 

2010年9月25日土曜日

組織能力とは その4

 徳川吉宗といえば「暴れん坊将軍」です。教科書では「享保の改革」で出てきます。吉宗は実際の姿も6尺近い大男だったようで、今でいえば1.8mの身長ということになります。この時代ならばかなりの大男でしょう。ちなみに、かつての大日本帝国時代、徴兵検査の甲種合格の身長基準が150㎝でした。かつての日本人は小さかったのですね・・・。


 享保年間は1716年から1736年までで、吉宗が将軍に就任したのは享保元年(1716年)、隠居して大御所となるのが1745年ですので、彼はほぼ30年間に渡り政治を取り仕切ったことになります。やはり、改革の狼煙を上げそれを実現して効果を顕現させるためには、長い期間が必要なのですね。


 時代劇で有名な大岡越前は彼の生涯の部下でした。この大岡は、吉宗といつも政策上の論争を繰り広げていたと云われています。大岡は吉宗の葬儀を済ませたあと、後を追うようにして亡くなっています。


 吉宗の1代前の7代将軍までは、すべて2代将軍秀忠の子孫が将軍職を継いでいました。しかし、7代将軍家継が8歳で死亡したため秀忠直系の子孫が絶えてしまい、家康まで遡ってその子孫を将軍後継者としなければならない事態となります。そこで御三家と呼ばれた尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家(これらは藩祖が家康の実子)の筆頭、尾張徳川家の当主が継ぐはずでしたが、7代将軍の亡くなる前に当主吉通、その実子五郎太までもが相次いで死亡してしまうのです。これは吉宗一派による暗殺という噂もあります。そうして、いろいろごたごたがあった中、結果的に紀州徳川家から当主吉宗が8代将軍として就任することになります。吉宗は領内においても名君と呼ばれるほどの善政を布いていたといいます。8代将軍就任を巡る権力闘争は、吉宗が将軍に就任した後、吉宗にある種の枠をはめてしまうことになります。


 吉宗は将軍就任に際し、紀州から200名の家臣団を引きつれてきます。将軍になってもそれまで同様の政治を行うためには、使い慣れた優秀な官僚が必要だったからです。さて、綱吉の頃から40年近く続けれられている「側用人」政治は、身分の高い譜代の門閥層から強い反発を受けていました。その体制をとる限りは、譜代の門閥層は政治の実権を握ることができないからです。吉宗は、将軍就任にあたって、その譜代の門閥層を味方につけました。そのため、吉宗は、それら門閥層をあからさまに無碍にすることができず、「側用人」として自らの家臣をその配置につけることを遠慮し、そのポストを廃止します。変わって、吉宗が創設したポストが「側用取次」または「御用取次」という役職で、実質的にそれまでの「側用人」と同じ役割を担わせるのです。しかも、老中職についている門閥層の顔をつぶさない形でです。ここが、吉宗のやり手のところですね。


 将軍就任直後の吉宗は、自分を押してくれた門閥層に遠慮してあまり身のある事は行いませんでした。最初に出したのが「検約令」で、自らそれを実行しました。1日3食が常態化していたのを1日2食、一汁一菜を実行し、着物は木綿しか着ず、どんなに寒くても着物の下に襦袢を着けることもなかったといいます。彼は、元禄時代に流行した過剰消費生活を、徹底的に取り締まるのです。


 後に江戸幕府の三大改革の一つとなる「寛政の改革」「天保の改革」でも共に徹底的な「検約」が奨励されることになりますが、その嚆矢は吉宗のこれとなります。


 当時、吉宗治政を揶揄して庶民の間で次のようなことが言われたといいます。


「極楽では、釈尊が『死人が持って来た六道銭はこれまで鬼たちにくれてやっていたが、これからは集めておいて極楽の修復料の足しにするように。また、棄てておいた衣類は集めておいて雑巾にするように』等々の御触れを出し、地獄では閻魔大王が『今までは地獄の鬼たちは虎の皮のふんどしをしていたが、贅沢であるので、これからは木綿の布に虎の皮のようなプリントをして使うように。また、持っている鉄棒もやめて、樫の棒を黒く塗って使うように』等々の御触れを出した」


 いつの世にも庶民に不人気な政策はあるものですが、断乎としてそれをやり抜いたのがこの頃の施政者で、それをやれないのが今の施政者ということになります。「当時は世論がない」からと言うのは言い訳ですね。この頃は「一揆」という直接行動がありましたから。事実、吉宗治政下ではある政策が原因で一揆が多発するようになるのです。


 
今日はこれまで。明日は吉宗の行った具体的な改革の中身を紹介します。


一体いつになったら、タイトルで示した本題に行けるのか心配になってきました。
 




 

2010年9月24日金曜日

この国が壊れる・・・

 今朝ですよ、ここで「日米安全保障条約第5条」を載せ、尖閣諸島においてもそれを適用すると米国から明言されたこと紹介しました。


 そして、次のように書きました。
 
「ただし、僕が思うにはこのメッセージは「この問題安易な妥協は許さないぞ」という脅しを日本にかける意味合いが強いと思っています。民主党政権を試しているとも言えると思います。ここで日本政府が安易な妥協をしてしまったら、中国をますます増長させることになり、東シナ海は中国の自由になってしまうという危機感でしょう。もし日本政府が退いてしまったら、日米関係は完全に破綻しますね。『日本頼むに足らず』と・・・。自国領土を守る気もない国との安全保障条約等悪い冗談にしかならないからです。


 今回の中国船船長の釈放は、まさしく「自国領土を守る気」はないと全世界に向けて宣言したようなものですね。それも検察の木端役人風情は「日中関係を考慮して」等と言い放つ始末。いつから外交が検察の管轄になったのでしょう?


「計画性があってぶつけたのではない」


ということは、今後パトカーから逃げる時にとっさにパトカーにぶつけても罪には問えなくなるということになります。この人は自分が何を言っているのかわかっているのか?


「危険行為であったが、それによる被害はない」


道路交通法上の危険行為って、かなり違反点数とられますよ。被害の有無にかかわらず。


 命がけで周辺海域を警備している海上保安庁の人々は一体どう思うでしょうね?どう考えても納得できませんね、この結末は。最終的には政治判断をせざるを得ないだろうとは予想してましたが、たかだか検察の判断?概ね官房長官あたりの差し金で、現場である地検が矢面にたっただけだと思いますが、もしそうならは卑怯極まりないですね。卑劣・最低な行為です。


 今回の結末に関して 「国益」を持ち出して釈放を擁護するかも知れません。これ以上日中関係のごたごたは良い結果を及ぼさないと。しかし、目前の国益を重視するあまり、今後100年の国益を損なったと思います。これから中国はしたい放題をするでしょう。勝手にガス田の開発までしますよ、きっと。今まで以上のごり押しをして来るでしょう。脅せば屈する国ということが世界に知れ渡りましたからね。これ以上の国の不利益はないでしょう。


 即刻、国連での常任理事国入りとかは取り消して下さい。恥ずかしてたまりませんから。


もう、この国は壊れますね・・・。いや、ほんとに絶望しました。

日米安全保障条約第5条

 急激に気温が下がりました。皆さん体調を崩さずにご自愛下さいね。さて、今回も尖閣諸島をめぐる一連の新聞報道からです。日経記事によると、日米外相会談の席上、クリントン国務長官が前原外相に対して、

「尖閣諸島も日米安保第5条の対象となる」

と明言したそうですね。




 

第五条:
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない。 



 この時期に米国がそれを日本政府に明言したということは、かなり大きな意味を持つと思います。まず第一に「施政下」とあるように、尖閣諸島は日本の領土であると米国もはっきり認めているということ。それと日本にはこの問題に対して中国に「一歩も退くな!」と強いメッセージを与えたのではないでしょうか。後ろには米国がついていると。


 ただし、僕が思うにはこのメッセージは「この問題安易な妥協は許さないぞ」という脅しを日本にかける意味合いが強いと思っています。民主党政権を試しているとも言えると思います。ここで日本政府が安易な妥協をしてしまったら、中国をますます増長させることになり、東シナ海は中国の自由になってしまうという危機感でしょう。もし日本政府が退いてしまったら、日米関係は完全に破綻しますね。「日本頼むに足らず」と・・・。自国領土を守る気もない国との安全保障条約等悪い冗談にしかならないからです。




 この先、どうなるのかは全く予断を許しませんが、一歩も退かぬ決意のもと、第三国の仲介を通じての着地点を考えるべきでしょうね。当然、考えているとは思いますが・・・。






 

組織能力とは その3

今日はその3です。


幕府中興の祖、徳川吉宗の治政についてを述べようと思いましたが、その前段だけで終ってしまうかも知れません。毎日行き当たりばったりで書いているので、ご容赦ください。


 前回までに元禄時代に、いかにそれまでの日本社会が変質したかを説明してきました。年貢率の低下、経済の活性、庶民市場の誕生、流通網の発達等々・・・。これを成し遂げる原動力となったのが、従来の身分秩序からは逸脱する能力主義の採用でした。前に述べた荻原重秀がその最たる者です。綱吉から8代の吉宗までの時代を「側用人の時代」と呼びますが、側用人は、老中ではなく、身分も高い人たちではありませんでした。ただ、将軍からの信頼が厚く、各種の能力においてすぐれていた人々とみることができます。お抱えのテクノクラートと言ってもいいでしょう。


 荻原重秀と言う人は、「貨幣などは、実は瓦でも何でもいいのだ」とこの時代に言い放ったと言われ、貨幣の本質を正確に捉えていたほど、財務的な能力に優れていた人でした。彼は貨幣改鋳をやってのけるのですが、その頃は経済規模の増大により、貨幣需要が増大し、外国との貿易による金・銀の流出によって、それまでの含有量では貨幣を発行出来ない程になっていました。かつてマルコ・ポーロが「黄金の国」と呼んだ日本も、その頃には既に当時の技術で掘り出せる金鉱脈がなくなっており、貨幣を作る地金そのものが足りなかったのです。彼は、それまでの金・銀の含有量を大幅に減らし、それによって貨幣の流通量を増やしたわけです。


 また、彼は当時江戸は金、大阪は銀が基本通貨として流通していたため、江戸の物価高を緩和しようとして、銀の価値を下げ、金の価値を上げることを目論みます。また、「酒」に流通税をかけようとも目論んだと言われています。銀の価値を減じようとする彼の策は、当然大阪商人らの猛反対にあい、それが結果的に彼の失脚につながっていきます。


 元禄時代は、史上初めて出現した商業の時代でした。治政のかじ取りは財務の知識なくしては勤まらなかったでしょう。その時期に、荻原重秀という財務官僚を抜擢し、その手腕を震わせたことは綱吉の時代の大きな評価点であったと思います。それまでの重農社会から重商社会へと大きく転換した時代だったのです。


 綱吉は約30年間に渡り将軍職にありましたが、続く6代家宣、7代家継の時代は僅か8年しかありません。しかも7代家継は僅か4歳で将軍なり、8歳でなくなっています。この時代に政治を取り仕切ったのが、側用人であった間部詮房と、その親任の厚かった儒学者新井白石の二人でした。この二人の治政は教科書では「正徳の治」と習ったはずです。綱吉の頃の側用人、柳沢吉安と信任厚い荻原重秀と同じ図式です。ところが、間部、新井の二人は全くの経済音痴でした。新井白石は、荻原重秀を忌み嫌っていたとは前述しました。新井白石の政治は、振れ過ぎた「重商」の針を大きく戻す事に向けられ、荻原の成した貨幣改鋳を再び元に戻してしまい、荻原貨幣の流通を厳しく取り締まることまでしたため、貨幣の流通量が激減、猛烈なデフレの波が日本を襲うことになりました。最近の日本経済の流れと同様ですね・・・。


 ただし、新井白石は国家収支という概念を初めて持ちこんだとも言われ、貿易収支の不均衡を是正すべきための施策も打ち出しました。それまでの日本は完全な輸入超過で、金銀の海外への流出に歯止めがかからずにいたものに対して、制限を掛けたのです。それまでの輸入品のトップは絹製品でした。しかし、これは綱吉の頃からあった奢侈品の輸入規制の強化版ともいうもので、新井白石自身の功績といえるものではありません。




 元禄後期で発生したインフレが、新井白石による引き締めにより今度は猛烈なデフレとなってしまった中、8代将軍として登場したのが徳川吉宗であったのです。


 日本にある各地の明産品の多くは、吉宗の時代に確立したものだと以前ここで紹介しました。吉宗は、デフレにあえいでいる経済と、赤字を出し続ける幕府の財政を「殖産興業」という形で脱出させようと試みるのです。詳細は次回にしますが、彼は、それまでの農業が米や麦などの主穀以外を作ってはならないとするものだったのに対し、それぞれの土地に最も適した産物を作付けさせるということをやったのです。この政策の結果、当時の輸入第一品目であった生糸も江戸時代後半になると逆に最大の輸出品となり、それは昭和初頭までの日本経済を支えるものとなっていくのです。明治維新後から昭和16年くらいまで、日本は生糸を輸出して得た外貨で様々な武器や工作機械を購入していたのです。言い換えれば、明治後の日本の戦争遂行能力は、徳川吉宗によるところが非常に大きいということになります。


 予想通り、吉宗登場の前でかなりの分量になりましたので、続きはまた明日。


今日はこれまで。





2010年9月23日木曜日

訂正します 元禄文化 

 9月14日「こんな日本でよかったね」


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html


で、以下のように書きました。






「学校の歴史で「元禄文化」という言葉を習ったと思います。元禄文化は、それを担った主役が支配層ではなく、被支配層であったものです。たぶん、そう習うはずです。先ほどの言葉を借りれば「庶民文化」でした。江戸の中期です。その日暮らしの庶民に「文化」を生みだす余裕があるはずがありません。少なくとも江戸近郊の農民はかなりの生産余剰を持っていたことが簡単に推測できます。そしてその余剰分が江戸に住む町民層に流れたのです」


 訂正します。元禄文化とは上方の町人中心の文化ですので、ここで江戸の例を引くのは不適当でした。したがって、江戸近郊の農民」ではなく、「大阪近郊の農民」であり「その余剰分が江戸に住む」ではなく、「その余剰分が大阪に住む」です。


 嘘を書いて申し訳ありませんでした。






呆れるほどのこどもの国・・・

 尖閣諸島における中国船の領海侵犯、及び中国漁船の衝突という公務執行妨害という犯罪に対して、中国はまるでこどものような言い分を論っています。衝突のビデオまで捏造だと言っているらしいですね。映像では日本に曳航されてきた漁船にはどこにも穴はないのに、中国に返還後のそれには船首部分に大きな穴が開いており、「日本がやった」とまで言っている始末・・・。


 もういい加減にしてほしい、というか呆れて開いた口が塞がりません。まったく何という国なのか!


 新聞報道によれば、対米関係がぎくしゃくしている日本を試すためとか言われていますが、ここまで中国首脳が強硬な物言いをしている以上、もうどうにも引っ込みがつかなくなっているような気がします。


 日本は、今のところ毅然とした態度をとっており頼もしい限りです。前原外務大臣は良しとしても、100年前に事にも謝りたがる千石という官房長官の腰がいつ折れるか、それが心配です。


 JETROで調べてみました。日本の対中貿易額です。


2009年のデータですが、日本の対外貿易額の総計は輸出で54兆円、輸入で51兆円。そのうち、輸出で10兆円(18.9%)、輸入で11兆円(22.2%)が対中国向けの貿易額となっています。日本の貿易相手として、中国は輸出入ともにトップです。輸出に関しては第2位のアメリカのシェアは16.1%、輸入に関しては同じく2位のアメリカは10.7%ですので約2倍ですね。


 紛争までには至らないとしても、中国が振り上げた拳を下ろす先として、経済断交とか日本の在中資産の凍結とかいう事態になったとき、日本の貿易総額は上記の金額だけ減少します。当然GDPもどの程度か判りませんがかなり減少するでしょう。


 仮にそういう事態になりそうな時でも、日本はきっちりと筋を通す事ができるでしょうか。僕は筋を通すべきだとは思っていますが。無責任な意見ですが、政治体制が全く異なる国との付き合いは、深入りすべきではないと思います。もう中国は棄てておいて、インドとかベトナムとかに力点を移せばいいのにと思います。インドは親日の国ですし、ベトナムは中国の脅威に備えるため米国との軍事交流まで深めています。


 この事態、中国は折れることはないでしょうね。そうすると、「国内事情が持たないから・・・」とか言う理由で日本にこっそりとにじり寄って来て、日本は「長期的な関係構築に鑑み」とかいう言い訳で、その言い分を通す・・・。なんかこうなりそうな気がしないでもないのですが・・・。


 かつて中曽根首相が靖国神社公式参拝を取りやめたのも、証拠などどこにもなかったのに河野洋平外務大臣が従軍慰安婦騒動に対して謝罪したのも、すべて相手国の勝手な事情、即ち「国内事情がもたないから」ということです。もうそんな轍は二度と踏んでほしくありません。


 ここで折れたら、日本は韓国に不法占拠されている竹島まで完全に喪ってしまいますし、北方領土も永遠に帰ってこないでしょう。それのみならず、不気味に軍拡を続けそれを背景として東アジアにおいて横暴極まりないことを続ける中国に対して苦々しく思っている東南アジア諸国は、「日本頼むに足らず」と見限ってしまうでしょう。


 さらには中・韓はますます図に乗り、何でもかんでもごり押しして来るでしょう。「押せば引く相手だから」という理由です。もうそうなったら、日本の国はおしまいですね・・・。


 話は変わりますが、菅新内閣に入閣した岡崎トミ子という女史。国家公安委員長も兼務しているのですが、この女史かつて韓国の反日デモに日本の議員としての身分のまま参加するという、とんでもない過去を持ちます。こういう国賊が国家公安委員長の職につくなど、僕には悪い冗談にしか思えないのですが・・・。


 今日はこれまで。明日は組織能力とはその3です。







組織能力とは その2

 昨夜は十五夜でした。雲の切れ間から垣間見えるそれは、まさしく明月でした。
 


 さて、昨日は「生類憐みの令」には広義と狭義の2種類あり、広義のそれは綱吉に限らず幕府がだしており、それを生んだ法理、背景には「戦国遺風(下剋上)の一掃」「平和で安定した社会の実現」があったと書きました。


 今日はその続きからです。


 
 当時、最も重要な政治課題だったのが「如何にして世の中を平和的に治めるか」ということで、能力の有無による下剋上というそれまでの風潮は、それを実現するために非常に厄介なしろものでした。能力に拠る抜擢、これは将軍後継問題選びにも常に出てきた問題でしたが、これは結局は下剋上につながります。3代将軍家光は2代将軍秀忠の長男でしたが、周囲は長男家光より次男の方が利発で明晰だったため、次男が将軍となるだろうと推測していました。秀忠自身も次男であったことにもよります。それに反対したのが家光の乳母であった有名な春日局で、彼女は存命であった家康に直訴します。事情を聞いた家康は、後継者選びの騒動を避けようと、江戸城へ出府し、将軍秀忠及び幕臣が居並ぶ席上、自らがすわる一番の上座に幼い家光を呼び寄せ、一緒についてきた次男を「シッシッ」と追い払い、家光を後継者とするよう無言の圧力をかけたと云われています。家康は「次男以下は最初から家来として扱え」と手紙に遺しています。家の乱れ、世の中の乱れを防ぐためには、兄弟間にも身分秩序を確立しなければならないという家康の思想で、それを家光以後の幕府は受け継いで行くわけです。こうして武家だけではなく庶民にも「長男相続」のルールが広がっていくのです。家康という創業者が存命のころに出された最初の「武家諸法度(1615年)」には、「政治的能力のある者を後継者とすべし」とありました。これは能力といってもその判定は困難であるため、結局は力によってしまうことは明白です。家康死後、家光が出した「武家諸法度(1635年)」からは、その条文は削除されています。身分秩序、制度というのは、そもそもこういう背景から出されたものです。


 また、幕府の直参の家来である旗本、御家人もその区別が明確となり、士農工商のみならず「士」の中での身分秩序も明確に確立されていくようになります。こうして、身分秩序は武家だけでなく、広く全階層に浸透して行くわけです。今では影の薄い4代将軍家綱の時代には「殉死」が禁止されました。武士は主人という「個人」に仕えるのではなく、家という「法人」に仕えることを義務付けられるようになるのです。


 さらに、この頃には生活に困って子どもを山の中に捨てたり、気に入らないというだけで捨てたりするほか、人間や牛馬が病気になると同じく山に捨てて自然に斃死するのを待つという風習も残っていました。当然、その遺体、死がいは野ざらしです。幕府はその風習を取り締まる様にもしました。「生類」、つまり人間を含めた生けるもの全てを大事にしろということを法令で徹底させたのです。その裏には「最早戦国でない平和な時代なのだ」ということを広く知らしめる意図がありました。日本人が死後墓にはいるようになるのは、元禄のころからです。


 同じく4代将軍時代に「宗門改め制度」ができました。各村々の全員を必ず寺の檀家にして戸籍の役割を担わせたものです。キリシタン禁制の為でもありました。ところが、寺の中にはお金を持ってこない人間を登録しないというところもあり、幕府はそれに対して「捨て子や親の知れない子どもを戸籍に載せないのは主旨に反するから、そういう目にあったならば幕府に訴え出るように」という法令まで出しているのです。まさにこの頃、有名な水戸黄門=徳川光圀は、領内の寺社が金儲けばかりしていることを批判し、3000もの怪しげな宗教やその施設を解散させ、多くの坊主を辞めさせてもいます。


 綱吉の出す「生類憐みの令」で分類することのできる法令の一番最初は、「病気になった人や牛や馬を棄ててはいけない」というもので、これを幕府に訴えた者には、万一その罪を犯した同類であっても褒美を与えて許すというものでした。これも、それまであった悪習を断ち切るために出されたものだったのです。


話は違いますが、古典落語にもあるように親孝行の息子や娘を幕府が表彰してお金まで与えることがありました。親孝行の奨励ですね。


 こう考えると、「生類憐みの令」なるものもかなり印象が違ってくると思います。それでくくられる法令は、その多くがそれまであった悪習の禁止・否定なのです。




 今日はこれまで。明日は幕府中興を成し遂げたと言われる徳川吉宗の時代に行きます。



2010年9月22日水曜日

組織能力とは その1

 のっけから恐縮ですが、日本史の復習です。

1853年ペリー浦賀に来る
1854年日米和親条約締結

このペリーの来航から明治維新までを「幕末」といいます。動乱の幕開けとなった出来事ですね。

ぺリーの来航は国中をひっくり返したような大騒ぎとなりました。このまま鎖国か開国するかの二者択一に幕府や諸藩の有志が大いに揺れました。江戸幕府は、最初のペリー来航時に1年間の猶予をもらいました。事は重大だから、1年後に返答すると言い、体よく追い返したのです。

ペリーを追い返した後、その1年間で幕府は何をしたのかといいますと何にもしなかったのです。僅かに、台場(砲台)を作り、沿岸防備に備えたくらいで、要求通り開国するか、国是を守って鎖国を続けるかの侃々諤々の合議を繰り返していたのみでした。しかも、幕府内に「人物」がおらず、何の定見もなかったため、幕政史上初となる諸藩の意見を広く求めるということまでしてしまい、結果的に幕府の権威を失墜させてしまうという事態まで引き起こしたわけです。

幕府という組織の能力が完全に失われてしまっていたことがわかります。では、いつ頃からそうなってしまったのでしょうか、ということを考えてみたいと思います。とはいえ、話は元禄時代へさかのぼります。


 本日はその1です。


 外食という商売が一般化したのは元禄時代と言われています。それまで食事を提供するという商売は日本の中になかったのです。さて、元禄時代というのは大まかに言って、5代将軍徳川綱吉の頃(17世紀末から18世紀初頭)です。この将軍の評価は現在では不当に貶められていると思います。曰く「犬公方」と。このことについては後述します。

 元禄時代は、日本の社会の大転換期でした。経済的に豊かになった庶民の文化を「元禄文化」と後世が名付けたことからも明らかです。確か、この頃にそれまで「憂き世」であった文字が「浮き世」と変わったと記憶しています。生産力も向上し、城下町には新しい商売が増え、人口も急増した時代なのです。今の日本の「都市」というのは、多くはこの頃に誕生してます。

 「初物食い」という習慣は、元禄時代から始まりました。即ち、この頃には流通経路が全国をおおっていたことを意味します。幕府は、「初物」に高騰する物価を抑制するため「初物禁止令」なる法律を出しています。これによると、生シイタケは正月から4月まで、茄子と枇杷は五月から、梨は8月から11月・・・というように。物価統制をねらったものです。

 薪を背負いながら本を読む二宮金次郎。彼は、貧しい伯父さんの家に預けられ朝から晩まで働き、夜には灯火の下で本を読み、「油がもったいない」と怒られる話があります。彼は18世紀末の人なので、元禄時代よりかなり後の生れですが、注目すべきは、この頃の農家には「灯火」があったと云う事。この灯火の普及は元禄時代からでした。生活時間が延長されたことを意味します。そして、それまで1日2食だったのが1日3食になったのです。

 「呉服問屋」という言葉が時代劇によく出てきます。有名なのが今の三井グループの元となる「越後屋」ですが、彼の主要顧客は、支配者層ではなく言うならば庶民層、若しくは全国の庶民層相手の呉服屋の卸問屋でした。当時のセレブであった大名や、旗本には従来からの商売人があり、そこへは容易なことでは参入できなかったため、ニッチの市場を狙ったといえるでしょう。つまり、ニッチな市場が存在していたという事実があります。

 井原西鶴が活躍したのもこの時代です。「日本永代蔵」「世間胸算用」などの彼のベストセラーは、要するに「金持ちは如何にして金持ちになったか」を書いたもので、今でいうなら「金持ち父さんと貧乏父さん」みたいなものでしょう。

 このような時代文化をつくりあげた背景には、年貢率の低下によって経済全体が活性化した事実があります。新井白石は綱吉が死んで後、幕政に参画した儒学者ですが、彼の著作に「とうとう年貢率が3割をきってしまっている」という記述があります。この頃は「三公七民」ですらなかったのです。

 ここで、誤解を解くために説明しておきますが、江戸幕府は中央集権政府ではなかったので、ここでいう年貢率は全国の諸藩共通ではありません。ここで言う年貢率は、あくまでも幕府の直轄地のことです。したがって、全国に約260あった諸藩の年貢率がどうであったかは、僕の知識外です。もしかしたら、藩によっては圧政、年貢率はもっと高かったところもあったのかも知れませし、幕府に倣って同様の年貢率であったのかも知れません。ただ総じて、この頃は幕府同様の低い年貢率であったのではないかと考えられます。諸藩において一揆が頻発すると、幕府はそれを藩主に正すよう命じることができたからで、諸藩においては一揆の頻発はまさに「お家」の一大事であったからです。最悪は、領地の没収です。農民が圧政を幕府に直訴し、そうなった事例もありました。

 諸藩の財政が悪化していくのは、元禄時代からです。年貢率の低下、即ち収入の減収よりも、奢侈にながれた支出の過多が原因です。そして、収支が悪化した諸藩はその穴埋めのために、商人からの借金を常態化させていくのです。ところが、元禄時代の後期には早くもその踏み倒しが行われ、生産と消費をつなぐ流通を一手に担ってきた商人たちが没落していくという、バブルの崩壊が始まるのです。


 さて、五代将軍綱吉の時代は、このような時代でした。彼の治世下には「赤穂浪士事件」が起きています。綱吉は、自身が将軍になるにあたっての後継者選びのごたごたから、将軍になったときそれまでの老中やら奉行やらを全て罷免し、フリーハンドで将軍になりました。今でいえば、完全な政権交代ですね。それも主だった官僚すらも総とっかえできたのです。そしてその代わりに最も重用したのが、自らの小姓をつとめた家来であった柳沢吉安(この人の屋敷跡が六義園)です。彼は「側用人(そばようにん)」と言われ、老中でも奉行でもなく、今でいえば官房長官みたいなものでしょうか、幕政の実権を握っていくのです。それまでの禄高に応じた固定された人材登用のレールからは、決して出てこない人物です。綱吉は彼を信頼し、彼もその期待によく応え、史上初めて経験する経済の急速な拡大に対応していったのです。綱吉は、また「勘定吟味役」という今でいう会計検査院を創設し、お金の流れを専門に監査させました。綱吉は能力に拠り人材を抜擢したと云います。代表的なのが、荻原重秀という勘定奉行でしょう。今でいう大蔵大臣の役目はそれまで3000石以上の旗本の役職でした。彼は、勘定所に名を連ねる役人でしたが、その序列は一番下で、いわば木端役人でした。その荻原は、抜群の経済センスを発揮して様々な改革を行っていくのです。「関東総検地」「貨幣改鋳」などの事業がそうです。優秀な経済官僚でしたが、今その名を知る人はほとんどいないのは、後の新井白石の政敵であったからで、現在の歴史では新井白石を評価し、荻原、そして柳沢、綱吉を評価していないのです。

 
さて、「生類憐みの令」。後世悪名高いこの法令についてご紹介します。以前、ここで「ハムラビ法典」の法理というか、その背景についてご紹介しました。


 この生類憐みの令も、不当にネガティブな面だけが強調され過ぎている嫌いがあるように思います。そもそも、幕府は出した法令の中にその名を称する法令はないのです。各種ある、それらしきものを総称して後世がそう名付けたに過ぎないのです。そしてそれらしき法令を分類すると、広義のそれと狭義のそれの2種類があり、後世は狭義のそれしか見ていない。。狭義には、中野に設けられた犬小屋も出てきて、それが、後に綱吉といえば「犬公方」という以上で無能な将軍というイメージができあがってしまった原因でもあります。

 では、広義のそれはいかなるものなのか、長くなりましたので続きは明日にしたいと思います。触りだけ書きますと、綱吉の時代に限らず幕府は多くのそういった法令を出しています。その法理、背景は「戦国の遺風(下剋上)の一掃」「安定社会の実現」にありました。
 


 今日はこれまで。続く




2010年9月21日火曜日

彼岸過迄

 この3連休はいかがお過ごしでしたか?暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったのものですね。朝晩は涼しくなってきてホッとしています。


 タイトルは、夏目漱石の著作にあります。このタイトルに深い意味はなく、単に正月から始めて彼岸過ぎまで書く予定だからこう名付けたようです。






「僕はかつてある学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いるにきまっているという理由を、臆面もなく聴衆の前に曝露した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、かえって知らぬが仏ですましていた昔が羨ましくって、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論などもありはそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退いた。」


 作中の一節です。この学者は漱石自身のことです。彼は、「上滑り」にならないかわりに「神経衰弱」に陥っていますしね、実際に。赤で強調したところは、おこがましい言い方ですが、最近の僕の塞ぎの原因にもなっています。




 
 哲学者の木田元という人が、今の「私の履歴書」に書いています。彼はハイデッガーの「存在と時間」を理解したいがために、農業専門学校から東北大学へ入学し直したと出ていました。僕はその著者ハイデッガーもその著作も名前だけは知っていますが、中身は読んだことがありません。今は昔と違い読みやすい翻訳書もでているのでしょうけど、とても読める自信がありません。「超約」的な簡易本があれば、読んでみたいかといえば、それは読む気にはなれません。やはり原書に近い形で読まなければ、きちんと理解したことにならないという頑なな気持ちがあるからです。その気持ちは、例えば高い山の上にあるp霊験あらたかな社寺に願をかけに行くのに、ロープウエーではなく自分の足を使って登っていかなければ御利益がないと思うような気持と一緒です。


 池上彰のいう「わかりやすい」というのは、そう考える僕にとって「敵」のようなものです。大体「わかりやすい」というのが、そんなに「美徳」になるものなのか、僕にはそれが「わかり」ません・・・。


 今日はこれまで。


 
 

2010年9月17日金曜日

運ばれきしもの・・・Tradition

ここのところ、めっきりと涼しくなりました。
人は勝手なもので、暑い時は寒い時を憧れ、寒い時は暑い時を懐かしく思う。
無いものねだりからははなれられないのかも知れません。


 30回の三と一の会で、僕は「女房と池上彰のことでよく口論になる」と云いました。口論のきっかけは池上晃の歴史認識で、「嘘」を「事実」としてまき散らす言説に僕が「テレビを消せ」と言うからです。世の中、嘘が平気で事実としてまかり通ることが多いと感じています。このブログでも江戸時代の貧農史観が本当か?ということを事実をもとに否定したことを紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html

 今なお人口に膾炙する全国の名産品と言うのは、享保期の徳川吉宗の時代に確立されていました。享保期というのは、稲作生産力が飛躍的に増大した時代でもあったようです。日本の農法というのは、明治30年に「明治農法」として確立され、それまでの在来農法とは一線を画し、生産力を増大させた近代農法とされているようなのですが、享保期から明治30年までの生産力と、明治30年から昭和初年までの生産力を比較すると、それほど変わっていないそうです。つまり、江戸中期以降の在来農法の水準の高さがうかがえるのです。


 「慶安の触書」。覚えていますか?徳川家光の頃、江戸初期に全国の農民に対して出された法令です。これも学校では農民の生活の一から十まですべて規定し、支配者の都合のいいように農民の生活を支配したものと僕は教えられました。これ、「嘘」です。


 この法令の意味、というか法の背景には、「この法令どおり生活をしていれば、百姓たち身代はよくなり、米や雑穀やお金もたくさん持てるようになる。そうして子々孫々までが豊かに暮らし、妻子を養う事ができる。そのためにの条件はただ一つ、年貢を納めることで、規定の年貢さえ納めれば、後は勝手気ままに暮らしてもよい」というものがあったわけです。


 話はずれますが、世界史で「ハムラビ法典」というものを習ったと思います。「目には目を歯には歯を」というものです。僕はつい最近まで、この法典を「なんて残酷な」と、中学時代に習った時の印象そのままに受け取っていました。ところが、この法典の背景は「目をつぶされただけなのに相手の命までを奪ってはいけない」「目をつぶされたら目をつぶし返すだけにしなくてはならない」という事にあったそうで、僕の最初の印象とは全く異なるものでした。


 「慶安の触書」もそれと同じく、その背景を知れば全く別のものになります。






 さて、今日のタイトル「運ばれきしもの」は、世界に冠たる日本の鉄道の定時運行についてが題材です。これ、西原さんがCCPMのプレゼンでその一部を紹介してます。


日本の鉄道一列車当たりの遅れは、新幹線が0.3分、在来線が1.0分。前者の95%と後者の87%が定刻通り発車しています(1999のデータ)。遅延は1分未満です。イギリス、フランス、イタリアでも概ね90%の定時運転率があるそうで、数字だけをみると、「世界に冠たる」という形容詞は付けられそうにありません。


 しかし、日本の統計では1分以上遅れた列車は全て「遅れ」としてカウントされていますが、外国の統計では10分や15分の遅れは「遅れ」と見なされていません。
フランスのTGVは91.8%の定時運転率を掲げていますが、「14分以上遅れなかった列車の割合」となっており、13分遅れた場合でも定時運転と見なされています。イギリス、イタリアでもほぼ同様で、日本のように「1分以上を遅れ」と見なしている国はどこにもないのです。


 日本の鉄道がこのように正確無比とさえいえる定時運転率をはじき出しているのは、コンピューターが発達し、巨大なシステムをコンピューターによって制御し出すようになった現代からではありません。少なくとも、大正初頭にはその運行がかなり正確になっていたようです。昭和初頭には、今と変わらぬほどの定時運転を常態化させていたようです。


 「『1分違わず』正確に運航する鉄道を富士山の山頂にたとえるならば、その広大な裾野にあたるものが、鉄道以前の日本社会に醸成されていたはずなのである」


 著者はこう述べあと、その裾野を形作ったものとして以下の3つを挙げています。


1.時鐘システム


 「たいへいの ねむりをさます じょうきせん たったしはいで よるもねられず」
1853年のペリー来航時の川柳ですが、眠れなかったのは船上にいるペリーもでした。陸上から聞こえてくる鐘の音があったからです。当時は町のあちこちに時の鐘があり、そこで暮らす人々に時を告げていたのです(12回/日かな)。つまり、人々は鐘の音を聞いて生活するという習慣があったということです。ペリーは、それが時を告げる音だとは知らなかったので、アメリカにはそれがありませんでした。アメリカだけでなく、ヨーロッパも同様です。日本だけがその時報システム(全国に時鐘の数は3~5万)があったと云われています。
 
 江戸時代の豪農や庄屋の記録には、日付だけでなく時刻までも記録されているそうです。農民も普請等で駆りだされる時には「朝五つに集合」とか言われてたらしいので、全国民に時刻感覚は醸成されていたはずだとしています。


2.参勤交代
 江戸幕府の権力維持のためのこの制度が、巨大プロジェクトを運営し、遂行する能力を培ったとしています。旅程、即ち工程管理も綿密でなければなりません。他藩と宿が重複しないよう調整もしなければならない。江戸に入る期限は決まっていたので、バックワードで計画を組んだはずです。様々な制約の中でいかにそれを成し遂げるかということを毎年繰り返すわけですから、列車運行という巨大で複雑なシステム運用にも多いに役だったはずだと。



 また、「江戸」という巨大消費地(生産地ではない)は、日本全国からの物資や働き手の流入を前提にして維持、発展することができたわけであり、そのことがまた交通の発展を促す原動力にもなったとしている。「下らない」という言葉の語源がそれを表していますね。全ては江戸を指向していたわけです。


3.旅の一般化
 江戸時代後期には庶民に至るまで「旅」というものが一般化していたからだとしています。交通のメリットを十分に知っていたと。庶民の長旅は、伊勢参宮を中心とする社寺参詣、名所旧跡めぐり、湯治の旅。お伊勢参りをした後に上方見物をして帰るというのは、庶民の旅の典型的なパターンだったらしいです。




 これは、まさしく父祖から受け継いだ日本人のDNAでしょうね。インプリントされたものでしょう。この「運ばれきしもの」が無い限りは、いかに完璧なシステムを築き上げようとも日本の定時運行は絶対に不可能でしょう。誰もが意図したものではないのに、結果的に後世にまで運ばれてきたもの・・・。それが伝統・・・。


 
 ここまで書いてきて、「フリードリッヒ・ハイエク」を思い起こしました。彼は、こんなことを言っていました。


「『フェア・プレイ』は、ルールブックに書き込むことはできないが、それが破られた時には誰もが容易にそれを指摘できる」


それは、言葉で定義し切れないものであるが、感覚として社会が持っているものであるとし、そして、その「感覚」こそが社会を秩序作る重要な要素であると。


この「感覚」こそ、冒頭に掲げた「運ばれきしもの」に他ならないような気がします。


 ハイエクは、こうも言っています。


「われわれは、人類の未来を計画的に作り出せるという幻想をふり捨てなければならない。これはこうした問題の研究に40年間を捧げてきた私の最終的な結論である」


この言葉には


「常に国家をこの世の地獄たらしめたものは、まさしく人が極楽たらしめようとしたところのものであった」


といったヘルダーリンと相通ずるものがありますね。ハイエクについては、また書きます。


今日はこれまで。

2010年9月16日木曜日

予想通り!

 「内閣支持率71%に上昇」


本日の日経記事です。


やはり僕の言った通り、「ほらね」と言いたい・・・。
はっきり言わせてもらうと、世の中これだけの「あほ」な民がいるということ。物事をきちんと考えればわかることです。
どのような設問かは知りませんが、菅総理でよかったかと問われれば「はい」が7割ならわかる。
でも、それを支持するかどうかは全く別の問題。


前に書きましたが、これを仕組んでやったのなら相当な策士が民主党内にいたことになりますね。


内閣改造、党人事について新聞は盛んに書いています。脱小沢路線か挙党態勢かと・・・。ある意味、小沢一郎という人間もマスコミが作りだした虚像だと僕は思います。マスコミはとにかく彼が嫌いらしい。万能の悪の化身みたいなイメージですからね。代表選後の「ノーサイド」を信じる人は誰もいないでしょう。埋めがたい溝、大きな禍根を残しましたね。


昨日は「9分間」菅・小沢会談があったとか。10分足らずとは驚きます。
小沢一郎は、6月の菅代表誕生の時は会談を拒否したんですよね。
自らの党の代表と会わないというのは、一体どういうつもりなのか意味がわかりませんね。
それが今回、対立して代表選に出たわけですから、選挙後の「ノーサイド」などあるわけがない。


 
同じく日経記事。


「日米関係のぎくしゃくぶりは、日中関係にも跳ね返っている。中国は明らかにわが国の足元を見て強硬姿勢をとっているのである。政治や経済の閉塞状況と、国際社会での孤立、あるいは社会の秩序、道徳の乱れなどは連鎖している。」


本日一面の「政治は再生するか【上】」で田勢康弘氏はこう書いたあと、以下のように続けます。


「政治の明確なリーダーシップがなければ、この状況から抜け出す事は難しい」




 まさしく、この通りだと思います。残念ながら民主党に限らず、自民党時代にもそれは明らかに欠如していました。その挙げ句が、今のこの国のありさまです。以前、中国政府の要人(江沢民?)が「日本という国はいずれなくなる」とか言ったらしいですが、それは現実になるかもしれないと絶望したくなります。


 政治家が民意によって選ばれるのなら、その民意のレベル以上の政治家はでないわけですから、政治の貧困を嘆くなら、民意、民度のレベルの低さを嘆くべきでしょう・・・。


 いつから、この国は「カネ」のことしか言わなくなったんでしょう。選挙の争点もすべて「カネ」ですね。鳴り物入りの「成長戦略」すら、結局は「カネ」のことです。こんな世の中なのに、人々はかつてホリエモンが「世の中金がすべてだ」というニュアンスの発言をした時、叩きまくりましたよね。公に関わる自らの関心事は全て「カネ」であるくせに、彼を叩く根拠は何なのでしょう。とどのつまりは自分にない「カネ」を、彼は持っているとうことへの嫉妬でしかないような気がしますがどうでしょう。
 
 消費税、年金制度、不況対策、すべて所詮は「カネ」の問題で手段でしかありません。考えるべきは、それを使ってどのような国にするかというビジョンでしょう。学校教育では「命」が大切と教えられ、それを使ってどう生きるべきかが教えられることはないように思います。「命」が大切なら、人間のそれも日ごろ食する豚や牛のそれも同価値。「人間の命」が大切なら、人間が牛や豚とどう違うのかを論じなければならないのにです。


 出るのはため息ばかりです。


 
 今日はこれまで。



2010年9月15日水曜日

新菅内閣の支持率





 予想です。

近々行われるであろう菅内閣への支持率調査は確実に参院選大敗時と比べて大幅に支持率があがります。
何の実績も、否方向性すら明確に出していないのに、この国の「世論」なるものは、そう判断するはずです。
なぜか?

 悪役「小沢一郎」と戦ったからです。

マスコミが騒ぎたてる「民意」などいうのは、所詮この程度のものです。
もうあほかと・・・。


 前にも紹介しましたが、好業績を長期に渡って続けている企業の社長の任期は全てが10年超。


社長の長任期が好業績を約束するわけではありませんが、一つの必要条件であることは確かなようです。そう考えると、自民党でも、民主党でも代表任期が2年というのは、あまりにも短すぎるような気がします。

 米国大統領任期は4年、仏国大統領任期は8年です。英国を長い停滞から脱却させたのはサッチャーですが、彼女は12年くらい首相を勤めていました。ブレア首相も10年近く勤めていましたね。国のかじ取りをするには、もう少し長い任期が必要でしょう。これだけ行政のトップがコロコロと変わったら、官僚組織がしっかりしていなければ、行政事務は間違いなく滞りますね。「霞が関をぶっ壊す」とか、一体何を言っているんだかと思ってしまいます。


 このところの民主党の喧騒を見ていて、つくづく思いました。それは人間の「質」というものです。どんなに気高い理想を掲げ、美辞麗句をならべたてようとも、それを口にする人間によって信じられもするし、馬鹿にされたりもする。ですから、個々の人間としては、「信頼するに足る」という人間、人格をつくりあげていかなければならない。その自己確立、教育なしに指導者にはなれないということ・・・。

 明治の陸軍は、ドイツからメッケルという戦術の大家と言われた人物を陸軍大学の教官として招聘しました。彼は、日本滞在中、関ヶ原の合戦の東西両軍の布陣図を見て、即座に「西軍の勝ち」と断言しました。結果は逆ですね。西軍は負けたのです。ただ、布陣図を見る限りでは、「鶴翼(かくよく)の陣」を布いた西軍と、そのふところに入らざるを得ない東軍となっており、戦術的には西軍の勝利だったのです。しかし、西軍の負けた原因は小早川秀秋の裏切りであり、それは布陣図では読みとれない。

 西軍の関ヶ原の敗因は石田三成の将としての器であったとされています。つまりは「人間の質」ですね。彼がもう少し広い度量を持っていれば、僕はあのような結果にはならなかったと思っています。彼は、決戦直前にも夜襲による奇襲を企てた島津や宇喜多の具申を拒否しています。島津はそれが原因の一つとなって戦場での傍観者となったとも言われています。

 
 さて、民主党の代表選に戻ります。

 二人はよく街頭演説を行っていましたが、あれは誰向けだったのでしょうか。投票できるのは民主党員かそのサポーターとか言われる人々。それ以外の大多数の人にとってはただ聞くだけの事です。恐らく、動員がかかった聴衆が多かったとは思いますが、その事の疑問を誰も抱かないのでしょうか。

 おそらく今後出てくるでしょう、「首相の国民公選制」に関わる議論。僕は、これに大反対です。所詮人気投票以外の何物でもないと思うからです。国民に人気はあっても、議会に対する影響力(数の力も含めて)が無ければ、そんなものは一切無意味です。今の地方自治制度がそうですね。首長と議会が対立したら、どれだけ有権者に人気がある首長でも一切の政策は通りません。国政でそんなことになったら大変な事態となります。

 現在の議院内閣制が最高の制度なのかどうかはわかりませんが、それを「良し」として信じるしかないと思っています。つまり、僕らは議員を選ぶ。選ばれた議員が最も多い政党が内閣を組織する。内閣の長はその政党内で影響力のある人間がなる。仮にも国のトップになるには、その所属する党内に子分がいない等という人間には勤まらないと考えるのは自然でしょう。「政策・理念に共感して」というのは綺麗事で、所詮はその人物の「質」になります。首相を国民の直接投票で選ぶことのメリットすら僕には不明です。

 「民意」とかいうもののいかがわしさについては、ここで紹介しました。


「民意」なるもののをなぜそんなに信用できるのか僕には理解不能です。


 
 今日はこれまで。















2010年9月14日火曜日

こんな日本でよかったね

 冒頭の言葉は、中国政府に贈ります。


恫喝を繰り返せば、この国は直に屈します。船長もすぐに釈放します。罰金もとりません。二度とこういうことが起こらないよう、話し合いしましょう。


 結末が見えてきて、もう、考えるのがあほらしいですな。そもそも、この国のマスコミは、「領海侵犯事件」と言わずなぜ「漁船衝突事件」と言葉をすりかえるのか。今回のようなケースの場合、領海侵犯船が領海国の船舶に体当たりしてきたというケースですが、普通の国ならば即刻その漁船を撃沈するでしょうね。


 
 


「こうして財政にも余裕が出てきましたが、庶民は苦しい生活を強いられていたのです」


これは、「まんがでわかる偉人伝 日本を動かした200人」の中の徳川吉宗を紹介した末尾のコマに書かれている文章です。女房が娘に買い与えたまんがなのですが、この文章は「?」です。今日はこのことを紹介します。


 「時代劇」で決まって悪役となる「代官」。どうもその言葉の前に「悪」とつけないと治まりの悪いような言葉になってしまっていますが、司馬遼太郎によると幕府が天領に派遣した代官というのは、その多くは人間的な質がよくで領民に対しても善政を布いたらしいですね。




 江戸時代の農民は、年貢の取り立てに追われて困窮し、むしろ旗を押し立てて一揆を頻発していたというようなイメージがあります。多くの人はそれをそのまま受け取ったままとなっていると思いますが、それは本当でしょうか。江戸時代の中期になると、年貢の率は四公六民、若しくは三公七民となっていました。そして、これはあくまでも「米」に関しての比率なので、「米」以外の農作物に関しては市場で自由に取引されていました。


 学校の歴史で「元禄文化」という言葉を習ったと思います。元禄文化は、それを担った主役が支配層ではなく、被支配層であったものです。たぶん、そう習うはずです。先ほどの言葉を借りれば「庶民文化」でした。江戸の中期です。その日暮らしの庶民に「文化」を生みだす余裕があるはずがありません。少なくとも江戸近郊の農民はかなりの生産余剰を持っていたことが簡単に推測できます。そしてその余剰分が江戸に住む町民層に流れたのです。


 同じく学校の教科書で「賄賂をもらう悪い奴」と教えられる田沼意次。彼は積極的に「新田開発」を奨励し、生産力を上げることに貢献した人物です。今なお地名に残る「新田」というのは、大体この頃の新田開発によるものです。


 「お伊勢参り」という言葉がありますね。江戸時代からある言葉ですが、「参」ったのは誰でしょう?先の言葉でいえば「庶民」です。苦しい暮らしを強いられていた庶民に、そんな娯楽が許されるでしょうか。


 江戸末期、日本に来た欧米人の多くが当時の日本の識字率の高さに驚いています。困窮庶民に「教育」の余裕があったのでしょうか。


 学校で教えられた江戸時代がいかに虚構か、これだけでもお分かりでしょう。まったく刷り込みというのは恐ろしい。最近では、江戸時代の色々が側面がかなり見直されてきて(本がたくさんでている)いますが、学校教育やらその周辺教材では未だに唯物史観全盛・・・。それをまき散らす彼らにとってみれば、封建社会である江戸時代が、そんな時代であったならば困るわけですね・・・。




 今日はこれまで。
 
 




 

2010年9月11日土曜日

厭世気分

 先日六本木の恐竜博に行ってきたことは、何人かに話しました。


そこで学んだことです。


 地球の誕生は46億年前頃でした。地球誕生から現在までを1年にたとえると次の様になるそうです。


地球誕生     1月1日
生命誕生     1月下旬から2月中旬
生物誕生     7月上旬から8月
最古の森誕生  12月2日
大量絶滅     12月12日
恐竜誕生     12月13日
大量絶滅     12月16日
恐竜絶滅     12月26日
人類誕生     12月31日午後11時37分


 地球の歴史と比べると、人類誕生してからは僅か20分しかたっていないらしいです。
文字が誕生してからとなると、僅か数秒?・・・・


 そう考えると、今の社会、生活のわずらいが何とも馬鹿らしくなってしまいます。




 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命何をあくせく
 明日をのみ思ひわずらふ


        島崎藤村「千曲川旅情のうた」より


今日はこれまで。

2010年9月10日金曜日

無能な善人と剛腕な悪人、他いろいろ

 タイトルの言葉は、自民党の山本一太参議院議員が民主党の代表選を称した言葉だそうです。本日の日経の寸言に出てました。「究極の選択」だと・・・。


 それを巡る最近の記事は、目を見張ることばかりです。例えば小沢一郎が勝ったら鳩山由紀夫の入閣とか・・・。彼は沖縄の基地移転問題をごちゃごちゃにし、日米関係まで危うくした責任者なのに、一体どういう了件なのでしょう。入閣させるなら北海道・沖縄の選任担当大臣にさせて、きっちりと最後まで責任を持たせたらいいと思うのですが。


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 経済ジャーナリストの多くは、好況の時は「政府の役割を小さくして市場にまかせろ」「規制緩和」だと言うくせに、不況になると「財政出動」「不況対策」だと政府の役割を増大させるようなことを言うのは支離滅裂ではないでしょうか。


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 菅総理が絶叫している「国の成長戦略」。僕にとって引っかかる言葉である「戦略」の使い方からすれば、たかだか自らの任期でのそれなら、「戦略」ではなく「計画」でしょうね。そもそも国に「成長」という分野がわかるのか、というのが素朴な疑問です。


 三品和弘曰く「経営は10年にして成らず」。これをかみしめれば、「種をまき、育成し、収穫する」これには10年かかるということでしょう。また一番の問題であり、多くの経営者が頭を悩ましているのが「どこに」種をまくかでしょう。それが外れれば、育成し、収穫する頃には二束三文となっている場合も多数あります。失敗を直ちに悟り、軌道修正できればいいのですが、それまでそのサイクルにかけたお金、人材等のコストを思えば、容易には後戻りできない。愚かと言われつつも無謀な白兵突撃を採用し続けた帝国陸軍と同じ轍です。


 「今撤兵したら、これまでそのために死んでいった英霊に申し訳が立たぬ」


かつての大日本帝国が中国大陸から撤兵しなかった理由のひとつは、「今事業中止したら、これまでかけたコストはどうなる」と、新規事業を続けてしまう理由と同様です。


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 今から20年程前、つまりこの国の経済がバブルであった頃、「政治三流経済一流」とよく言われてました。今では信じられませんが、当時の大蔵省の銀行局長(?)が、米国議会で「日本の金融行政」に関して講演をしたこともあったほどです。その頃の日本の都市銀行の扱い額が世界ランキングの上位を独占してたころです。


 トヨタと日産。この二大自動車メーカーの企業体力に大きく差のついたことが明らかになったのはバブル崩壊後。本業以外には手を出さなかったトヨタと、有価証券を買いまくった日産、その差によるものです(だったと思います)。


 山一証券の倒産と並んで世間を驚愕させたのが北海道の拓殖銀行の破綻。これもあぶく銭を追い求めた末路で、北海道内の拓殖銀行の後始末をつけたのが、一地方銀行に過ぎない北洋銀行。ここの頭取は学徒兵の特攻隊であった人物で、自らのその人生体験を自らに律することの柱とし、本業以外を堅く戒め、堅実経営を続けていたそうです。その人にも僕は「徳」を感じてしまいますね。


 もはや、「経済一流」等という人は皆無でしょう。


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 「日本で一番大切にしたい会社」。かなり売れましたねこの本。ここに描かれている会社の特徴は「損得」よりも優先させる「何か」を持っていることだと思います。それが結果的に良好な企業成績に結びついているに過ぎないのではないでしょうか。


 そう考えると、「徳」のある経営(例えば従業員を大切にしているとか、地域に貢献しているとか)をしているにも関わらず、それが企業業績に結び付いていない多くの会社も当然あるわけで、それは仕方のないことなのでしょうね。もちろん「企業」は「存続する事」が第一義的な使命ですから、その意味ではそれが危ういというのはその使命を果たし切れていないということになるのでしょうが、他に体現できている「何か」があればそれも評価して良いとは思います。


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 「努力は報われないということを初めて知った」と、ある著者はかなり売れている本の中で書いていましたが、僕はこの人「アホか」と思いました。幼いころから長ずるまでに、本でも映画でもいいのですが、そういうことを学ばなかったのかと・・・。
さらに恐ろしいと思うのは、そんな当たり前とうか、あほくさいことが書きつづられている本が売れているということ。世の中にはそういう人間が沢山いることが僕には不気味です。教養とか、そういうレベルではないですね。人間、あるいは人生というものに対する考え方の幅の狭さ・・・。そういえば、まーくんが言ってました。「新卒採用の学生のレベルが下がっている」と・・・。これからはもっともっと低下していくでしょうね。


 世の中は処世術ばやりです。売れている本を見て下さい。処世術とは、与えられた現実に対処するだけのものでしか過ぎません。今最も欠けているのは、人生、人間の不条理を知りつつ、尚自らの理想の生き方、暮らしぶりをみつけようという思想だと僕は思っています。「何になりたいか」と問えば、一様に職業の事しか答えません。大切なのは「どんな人間になりたいか」ということに答える姿勢であり、そのために学ぶことでしょう。


 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 さて、冒頭で述べたことへ戻ります。


代表選で戦う二人の候補者は、ともに政策を語るのみであり国家観を語りません。最も注目されているのが具体的な経済政策、彼らの言葉を借りれば成長戦略らしいのですが、国家は経済だけで成り立つものではないでしょう。誤解を恐れずにいえば、外交もそれに関わる安全保障も、日本という国家が存続していくための「手段」でしかありません。やはりここにも「術」偏重のきらいがあるように思えます。世界の中でこの国が生きる道、果たすべき役割、そしてそれを担う国民はどういう日本人であるべきなのか、そういった「観」でも「ビジョン」でも語ってほしいと思います。あまりにも内向きな議論ばかりです。例えば日米関係が単に二国間の関係だけではなく、広くアジア全体の安全保障と密接に関わっているということを知らないのでしょうか。大軍拡国中国の脅威に対して、強固な日米関係というのがどれほど周辺国の安全を担保しているのかについて考えが及ばないのでしょうか。僕には不思議でなりません。


 自らの立ち位置を正確に把握していないのでしょうね。そういえば、かなり前「新党さきがけ」という政党がありました。目のうつろな御仁とともに、自民党を飛び出した人たちの政党で、細川内閣時の与党でした。この代表が武村正義(?)とかいう人でしたが、その頃彼が著した本の題名が「小さくともキラリと光る国日本」でした。小沢一郎が自民党時代に「日本改造計画」を出した頃と同時代です。僕は、武村なる人(この人は細川内閣で大蔵大臣)のセンスを「あほ」かと疑いました。この人のいう「小さい」というのは単に国土のことだけなのだろうと・・・。当時は断トツでGNP世界第2位の日本が、「小さい」わけがない。本の中身までは知りませんが、この人も日本という国の世界での立ち位置、影響力が全くわからない人でした。


 政治家ともあろう人が、そういうことに考えが及ばないというのは、僕はある種の犯罪だと思うのですが。


いろいろ書きなぐりましたが、今日はこれまで。