人気の投稿

2009年6月28日日曜日

カナヘビ飼育中

食事中です。メニューはミールワームなる餌です。最初はそれをはしで掴む事が気持ち悪くて閉口しましたが、今では慣れました。娘は人間に飼われてる方が補食する苦労がなくて幸せかもよ、とかなり根元的な問いを発します。「自由」か、しからずんば「死」を!とこのちっちゃい恐竜の子孫が思ってるのか否か。
Ryo

2009年6月23日火曜日

第17回三と一の会お知らせ


各位
第17回三と一の会を7月10日(金)にちよだPF504会議室にて行います。
19時開始です。テーマは「『エッシャーのだまし絵と数学』(芸術と数学の密な繋がり)」で、
まげ店長がプレゼンターです。出欠をお知らせくださいね。

皆さんにもメールが行っていると思いますが、彼の次なる展開テーマは、軍事色ぷんぷんですね。とはいえ「軍事学」やら「地政学」やらが大学の学科として存在しないのは日本くらいなものなのですよ。「政治学」があるなら当然それを支えるものとして軍事学やら地政学やらは避けて通れないのですが、この国は未だに敗戦の亡霊に取りつかれていることが多々あると思います。そして、それこそがこの国混乱の大きな一因になっているとも。
ともかく、7月10日にお会いしましょう。

無常ということ


小林秀雄。
「日本における批評の文章を樹立した」と言うのが、彼を表す常套句です。僕が彼に興味を持ったのは、戦後間もない頃、この国が「一億総懺悔」などという風潮に覆われた中、
「私は馬鹿だから反省などしない。利口な奴はたんと反省するがいい」
と言い放ったということからです。

彼は非常に多くの短文を遺しています。彼にとっての畢竟の大作は「本居宣長」といえるでしょう。私は16年前にそれを購入してから、未だ読めずにいます。理由は簡単で、未だそれが読めるほど僕自身が成熟していないとおもっているからです。

彼の「無常ということ」という文章について、先日まげ店長さんのコメントに書かせてもらいましたが、これはわずか5ページ足らずの短文であるにもかかわらず、非常に考えさせられる文章でした。僕の心の琴線に触れたのです。
その中に、川端康成が語った文章として次のようなことがかかれています。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くとしんでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

これを受けて、小林秀雄はこんな風に書いています。

「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が僕等を一種の動物であることから救うのだ。」

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれが現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。」

そうして、

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」

と続いて行くのです。

僕等は、「解釈」を通じて歴史や人間を理解しようとします。しかし、『解釈を拒絶して動じないものだけが美しい』という本居宣長が抱いた一番強い思想こそが、解釈だらけの現代には一番秘められた思想なのだと彼は言っています。「上手に思い出す」こととは、僕等が勝手に思い描く「解釈」を通じてではない、そこにある「常なるもの」、それを見ることなのでしょう。でも僕等はそれを見失っていると・・・。

これが、僕なりの理解です。


2009年6月17日水曜日

白河以北一山百文


福島にきています。
維新後、今でいう東北地方はタイトルのように言われました。
戊辰戦争。最後まで新政府に抵抗されたことへの腹いせをこのような蔑称にしたのだと思います。

さて、ご承知の通り会津藩は最後まで頑強に新政府軍に抵抗します。
前に三と一のテーマ「転換期の指導者像」で取り上げた河井継之助もそうですが、彼らの云い分は「武士が立たぬ」でした。
多くの藩が日和ったり、時流にのって新政府軍となったりした中で越後長岡藩と会津藩のみは、頑強に抵抗するわけですが、僕は若かりし頃、両藩ともに決して暗愚ではなかったはずなのに、「なぜ時流を読めなかったのだろう?」と不思議に思っていました。しかしながら、「中年の危機」を迎えてから「よくぞ頑強に抵抗してくれた」と思うようになりました。彼らの頑強な抵抗がなければ「型」にまで昇華した武士道250年の歴史は一体なんだったのか?と思うようになったからです。今では彼らの流した血によって「日本史は救われた」とまで思うようになっています。

「荒城の月」という歌がありますね。
「春高楼の花の宴・・・」で始まる物哀しい歌ですが。あれは仙台出身の土井晩翠という人の作詞に滝廉太郎が曲をつけたものです。土井晩翠が心に描いた荒城は、会津の鶴ヶ城でした。滝廉太郎が思い描いたのは九州竹田市にある岡城・・・。それぞれ心象は異なりましたが、彼らに共通するものは喪われた「武士の魂」だったように思います。「荒城の月」にこんな歌詞があります。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿いし
昔の光今いずこ

もうおわかりでしょう。

「昔の光」とは、かつて存在した武士が体現していた「なにものか」だったのです。



2009年6月12日金曜日

かくも救いなき・・・

 農民文学の記念碑的名作である。しかも漱石をして「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になたら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」と言わしめた作品。救いのような貧しさに、気が滅入りそうになりながらも、読み進めてしまう不思議な作品でした。

 夏目漱石は、こんな文章でこの本を説明しています。

「『土』の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活である。先祖以来茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼らの獣類に近き、恐るべく困憊を極めた瀬克つ状態を、一から十まで誠実にこの『土』の中に収め尽くしたのである。彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆ど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上がりがたいところを、ありありと眼に映るように描写したのが『土』である。そうして『土』は長塚君以外に何人も手を着けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。」

 これで十分でしょう。何とも言いようのない百姓の生活が、綿々と綴られ、しかもその歩みは亀のように遅いのです。そして、全編にわたって、自然の描写が恐ろしいほど細かく、美しいのが非常に印象的です。たとえば、この本の冒頭は、以下のように始まります。

「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ちつけては又ごうっと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛の響きを立てて泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつつ目叩いた。そうして西風がどうかするとぱったり止んで終ったかと思う程静かになった。泥を拗切って投げたような雲が不規則に林の上に凝然とひっついて空はまだ騒がしいことを示している。それで時々は思い出したように、木の枝はざわざわと鳴る。世間が俄かに心ぼそくなった。」

と、こんな調子です。自然(時に煌びやかな彩り)は彼らの生活を形づくりますが、彼らの生活に色彩はなく、地を這いつくばるような、まさに「土」色そのものなのです。

この本を読んだからでは決してないですが、最近は、日々の決まり切った日常、型にはまった日常の中にこそ真の歓びと真の美しさがあるような気がしています。冒険は飽きる・・・。ただそれだけなんだけどね・・・。

2009年6月2日火曜日

西へ行く人を慕ひて東行く


 僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。

 彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。

 

 かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。


 23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。

   風になびく富士の煙の空に消えて

   ゆくへも知らぬわが思ひかな

 晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。

♦  ♦  ♦

   西へ行く人を慕ひて東行く

   心の底ぞ神や知るらむ

 西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。

♦  ♦  ♦


   人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。


 やはり、男はこれだ!

2009年6月1日月曜日

文殊の知恵


5月26日に会のメンバー有志、8名で集まりました。
そこで議題とした「作品」をアップします。
スキャニングでは、微に入り細に渡る驚異の緻密さが
わかりにくくなっているので、残念です。

30日付の日経の最終面で「障害者芸術」のことが
取り上げられていました。あまりにタイムリーな話題で
正直驚きましたが、今月17日に障害者の描いた作品群を集めたバーチャルな美術館がNet上にオープンするらしいです。
そんなところに 彼の作品を紹介するのがいいのかも知れませんね。
ただ、「芸術」なるものにに、「障害者」とそれ以外の区分をつけることが私にはどうも違和感があります。何のこっちゃ?って感じです。
ゴッホだって精神を病んでいたという意味では、「常人」ではありませんしね。

今日のお昼にheeroesさんからもいろいろアドバイスをもらいました。

いろいろと、みなさんのお知恵を拝借できたことを嬉しく思います。
26日は飲みすぎました。そして、酔っ払いました。
全裸にならなかったのが唯一の救いです。

それでは週末の3と1でお会いしましょう。