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2010年12月31日金曜日

今年も終る 

今年も終ります。

非生産的活動に終始した1年でした。

今年ほど活字に溺れた年はなかったですね。前半の執筆、その反動での活字への食傷、そしてまた活字渇望の揺り戻し。僕を知る人はそれをよくわかってくれると思います。

毎月1回続けていた3と1の会も、8月開催の第30回を期に開催されていない状況ですが、2011年は折を見て復活させましょう。

9月は25回、10月、11月、12月は毎日このブログを更新して来ました。よくもまあこんなに書くことがあったものだと自分でも驚いています。読み返してみれば「?」がつくのも多い文章ですが、未見の読者の皆さまにはお付き合い下さり感謝しています。また来年もお付き合いください。

それでは皆さま良いお年をお迎え下さい。

2011年新年は、年賀状からスタートします。

2010年12月30日木曜日

型の喪失 補筆

平成22年も残すところ2日のみとなった本日、今日は乃木希典の殉死が「型」を持つ明治人にどう受け止められたかをご紹介したいと思います。乃木自身も、「軍服を纏った聖僧(徳富蘇峰の言葉)」と言われたほどの人。まさしく古武士の相貌、風格をもった「型」の人間であったことはいうまでもありません。

「善の研究」で知られる哲学者西田幾太郎は明治3年生れであり、彼もまた唐木の言う「型」の人であったことは前述しました。彼も、また同じく「型」を持つやや年年長の内村鑑三(万延2年生れ)と同じく、乃木の殉死に大きな衝撃を受け、それを好意的に受け止めています。西田の場合は、弟を旅順攻略戦で亡くしており、将軍乃木に対しては複雑な感情があったと思いますが、その遺族感情は乃木が2人の息子を同じく戦死させており、しかも乃木の凱旋後の挨拶を聞くに及んで、その感情は一掃されます。

「只管忠良なる幾万の将卒を旅順攻囲の犠牲としたることの悲しくも亦愧づかしく、今更何の面目あって諸君と相逢ふの顔かあらん、出来得べくんば蓑笠に実を窶し、裏道より狐鼠々々と逃げ帰りたい」

これが乃木の挨拶です。乃木は功を誇るどころか、功を恥じたのです。

西田は、乃木の自害について次の様に手紙に書きました。

「あの様な真面目の人に対しては我等は誠にすまぬ感じがする。乃木さんの死といふ様なことが、何卒不真面目なる今日の日本国民に多大の刺激を与へねばならぬ。乃木さんの死についてかれこれ理窟をいふ人があるが、此間何等の理窟を容るべき余地がない。近年明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与へたものはない。」


 この西田の抱いた感激は、明治の世の一般的な受け止め方といえるでしょう。この西田より1世代後、明治26年生れの矢内原忠雄も、同様の感想をもちました。矢内原は支那事変中の国家批判を不穏な言説とされ、当時の東大経済学部教授を追われた人物ですが、彼は明治国家の理想を体現したような青年でした。彼は、深く「明治」と結びつき明治人の精神的道統にたつことで自己形成を目指そうとした青年で、そのような己の立場を「武士的偏窟」と名付けていました。

「矢内原が引き継ごうとした明治人の精神的遺産とは、明治を建設したという彼らの強い自負心と独立精神、いかなる権力にも屈せずに己の主義―志に殉ずる精神とそのような人間への傾倒、いいかえるなら「志を志として尊ぶ心」ともいうべきものをひきつぐことにほかならない。」


 一方、矢内原とほぼ同世代、明治18年生れの武者小路実篤や、同16年生れの志賀直哉は白樺派のメンバーでもありますが、彼らは学習院時代の院長乃木に対して激しい嫌悪の情を抱き、ことごとく反発します。乃木もまた、彼らグループを「不良の群れ」と見ていたようで、「如何にして善導するか」に腐心していたといいます。

志賀は、大正元年9月14日の日記にこう書き記しています。

「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。」


この白樺派の乃木観の代表は、次の武者小路の手紙です。


「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云ひ、乃木大将を目して人類的の分子を少しももたない人と云ふのに君は不服なのか。(略)さうして君は乃木大将とロダンと比較して、いづれが人間本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命をよびさます可能性があるtぽ思つてゐるのか。(略)理論の如何に尊重すべきかを知る時に、(略)なぜ主義の為に殉ずる人のやうに自己に権威を感ずることなしに殉死されたかがわかるだらう。かくて自分は乃木大将の死を憐れんだのである。(略)ゴオホの自殺は其所にゆくと人類的の所がある。」


乃木の殉死を「人類的」に語るなど、コスモポリタン的な体質がよく現れています。白樺派の面々にとって、乃木や乃木が体現する「明治」という時代風潮など、嫌悪すべき対象でしかなく、その「明治」からの脱却が、次の「大正」の精神を形づくっていくことになるのです。

この白樺派より前の「自然主義」に対しては、西田もその風潮の蔓延するを憂えていました。

「青年が自然主義にかぶれ居る事は御校に限つた訳にあらず慨嘆の至りに候、自然主義も文芸の一派としてあながち排斥すべきものにあらずと存じ候へども、未た文芸の何物たるやも知らす、又真の自然主義をも理解せぬ様の乳臭児が自然主義の演説など沙汰の限りと存じ候。」


唐木が言う「型」とは、明治の精神という言葉に置き換えることができるでしょう。そしてそうであるからこそ、次の世代には旧習、固陋な伝統と映ったこととなったのです。アンチ明治が大正であり、その振れ過ぎた針が昭和に戻って来るといった流れでしょうか。いずれにせよ、それぞれは決して交わる事はなく、否定することだけの連続でした。だから、棄てなくてもいいものまで棄ててしまったのではないでしょうか。

今日はこれまで。

2010年12月29日水曜日

型の喪失 その2

白樺派は学習院出身者で多くを占められていました。彼らの多くは軍人嫌いで、それは明治末期に昭和天皇の教育係を命じられた乃木希典が院長になり、乃木の推し進めた復古調の、儒教的な「修養」への反発からです。


「白樺派は人類の意思のおのずからなる発露、人類の素直な生長、個性の伸長を阻害するものと闘った。家、すなわち修身斉家の伝統の具体的な勢力と型をもつ家、家長の支配する家と闘った。殊にその同人たちが多く学習院出身者であるということ、すなわち名家の出であるということにおいてそれは顕著な、またいっそう触目的な傾向であった。」

当の幼き昭和天皇御自身は、終生にわたり乃木の謦咳に接したことを善き思い出と述べられたことは周知の事実。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/65.html



明治の「修養」に変わって大正になると「教養」という言葉が使われるようになります。後者には「型」というイメージはありません。というより、「型にはまった」ことは軽蔑され、形式主義が斥けられるようになるのです。


その「教養」派にとっては、乃木の殉死さえも否定的なものとなります。唐木のいう「素読世代」、鴎外、漱石が受けた衝撃とは全く異なるものです。大正10年に発表された芥川龍之介の「将軍」という本があります。これについて小林秀雄はこんな風に語ります。

「『将軍』の作者が、この作を書いた気持は、まあ簡単ではないと察せられますが、世人の考へてゐる英雄乃木のいふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる。(中略)作者が技巧を凝せば凝すほど、作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上がる。最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場しまして、こんな意味の事をいふ、将軍の自殺した気持は、僕等新しい時代の者にもわからぬ事はない、併し、自殺する前に記念の写真を撮ったといふ様な事は、何んの事からわからない。自分の友人も先日自殺したが、記念撮影をする余裕なぞありませんでしたよ。作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう。

「僕は乃木将軍といふ人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思つてゐますが、彼の伝記を読んだ人は、誰でも知ってゐる通り、少なくとも植木口の戦以後の彼の障害は、死処を求めるといふ一念を離れた事はなかった。さういふ人にとって、自殺とは、大願の成就に他ならず、記念撮影は疎か、何をする余裕だつて、いくらでもあつたのである。余裕のない方が、人間らしいなどといふのは、まことに不思議な考へ方である。これが、過去の一作家の趣味に止まるならば問題はない。僕が今こゝで問題だと言ふのは、かういふ考へ方が、先づ思ひ付きとして文学のうちに現れ、それが次第に人々の心に沁み拡り、もはやさういふ考へを持ってゐるといふ事なぞまるで意識しないでも済む様な、一種の心理地帯が、世間に拡って了ったといふ事であります。」


最後の小林の問題意識は、ここでは触れません。ただ僕は全くその通りだと思います。小林がこれを著したのは昭和16年のことです。翻って今日をみれば、戦慄するほどの「心理地帯」にあると思うのは僕だけではないでしょう。

唐木に戻ります。

「明治維新前後に生れ、幼時に四書五経の素読を受けたジェネレィション、すなわち今日在世すれば七・八十歳の思想家文筆家、すなわち鴎外、漱石、露伴、二葉亭、内村鑑三、西田幾太郎、そうしてその最後の型としての永井荷風と、明治二十年前後に生れた右の先達の門下とのあいだには明確な一線を劃せるのではないかと僕はかねがね考えていた。」

唐木はこれを「素読世代」と名付けます。そしてその特徴を次のように語ります。

「(素読世代は)儒教的な武士的な、卑屈をおよそ嫌う高潔なものをもっていた。たとえそれが四書五経とは全く反対な表現をとっていたにしても。そうしてその上に西洋を存分に吸収した。(中略)修身斉家治国平天下的な、そうしてまた十有五にして学に志し、七十にして矩をこえずの、経世済民の修業への意思が根本にあった。その上で西洋を学んだ。」

といいます。しかしながら、彼らは自ら「儒教的なものを意識し」「そのイデオロギーを奉じ」「それを培養しようとして」西洋を学んだのではないというのです。

「むしろ逆に西洋に没頭しながら、自分でも意識しないような根本に、あるいは骨格にそういうものがあったというのである。鴎外のあきらめ、漱石の神経衰弱、二葉亭の文学か政治かの悩み、露伴の小説放棄、鑑三の退官、西田哲学の悪戦苦闘、荷風の絶望等は、右のことを考慮しなければ理解しがたいものであろう。それらは、東洋と西洋、日本と外国との間の如何ともしがき相違、あるいは日本の後進性に由来する封建遺制と西洋近代との間隙を統一綜合しようとする苦悩のあらわれであった。彼らには苦悩を真に苦悩たらしめ、矛盾を真に矛盾たらしめ、その内心における相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形、型、人格、性格があった。」


 しかるに、彼らの弟子である世代にそれは見付けられないというのです。


「僕が今教養派と呼んでいる世代には、幼時あるいは少年時にその柔軟な骨格を型に形成する規範が無くなっていた。彼らは塾や寺子屋に座る代りに新式の学校教育をうけた。欧化主義が日本に表面化している時に育った。家庭の躾けも一般にいえばその基準に自信を喪ったときに育った。一言にしていえば、彼らは二代目の自由に中に成人した。形、型、性格を形成する規準が、鴎外のいう形式が失われた時代に育ち、そうしてみずからの思想的文筆的活動を始めうるにいたった大正期といふものが、前にも書いたとおりの複雑にして混沌たるものであったのである。」


大正期の「複雑にして混沌」という状況は、ソビエトの共産革命と日本での労働者階級というものの出現、そして藩閥政治への怨嗟、不満の声などを指しています。「江戸」を払拭しようとした「明治」は、続く大正にはいって、自身も払拭される対象となってしまうのです。そこから「社会改造」「国家改造」という言葉が出現してくるようになり、これは昭和11年の226事件でその檄発の最後を見ます。昭和を語るには大正を語らなければならない所以がここにもあります。そして大正を語るには明治を語らなければならない。しかし、明治を語るにはそれ以前を語る必要がないように思います。それほど江戸と明治の断絶はあるのです。


唐木の言う「型」、儒教的倫理というか武士的倫理というか、そういうものは単なるアナクロニズムなのでしょうか。僕はそうは思いません。普遍的な人倫の道であると確信しています。西洋から「ヒューマニズム」というものが入って来る以前から、この国社会は人間尊重ではない別の思想の文明がありました。それは「人間」を特別視しないということです。犬や馬や牛と同様、同じ命を持つものの一員にしか過ぎないというものでしょう。唐木は明治の「型」の喪失を表しましたが、喪われた「江戸」の文明の「型」の方が、その影響は大きかったと思います。

今日はこれまで。

2010年12月28日火曜日

型の喪失 その1

このブログの最初の頁には、1週間でアクセスの多かったベスト3が挙げられています。日々更新する内容よりも、以前にアップした内容が上位にランクされることが多いようです。

12月25日には、「明治の気骨・大正の教養・昭和の狂騒」という10月にアップした内容が、ランクインされました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_12.html

偶然なことに、ちょっと前からそこで取上げた「型の喪失」について書いてみようと思っていた矢先でした。

「型の喪失」

こう言ったのは唐木順三。明治37年生れ。昭和15年、臼井吉見とともに筑摩書房を創設した人物です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%A8%E9%A0%86%E4%B8%89

唐木は「現代史の幕開け」という昭和24年に著した本の中で、それを言うのです。彼は森鴎外に傾倒した人物で、鴎外の思想とその生活から「型」というものを閃くのです。


「彼の家庭生活における長上への態度には武家階級伝来の几帳面さが国宝的ともいうべきほどに残存し、彼の内面生活には理性が物を言っていた。少なくと御そういうふうに見られるだけのものをもっていた。『理性に従う生活はことごとく勘定を抑圧するに非ず、感情の常軌を逸することなきようにするなり』とは鴎外の言葉である。そうして彼の自己支配は『おれは眠ろうと思う時いつでも眠り、起きようとする時間にはいつでも起きられる』という程度に至っている。(中略)つまり鴎外には修養があった。武士の家に生まれたのだから、事あるときは切腹ができなければいかぬと訓えられた年少の生活の仕方、ひろく生活体系の確固たる家庭に育った人に特有な型があった。軍服のボタンは固くかけられていたし、家にいて着る紋附も似合った。鴎外はシンの中にそういうものをもっていた。そしてそれは明治の指導者階級においては決して稀でない型であった。そういう型が尊敬せられている時代に人と為った。したがって新たなる形式が形成されなくとも、彼自身の形式、生活体系がある以上個人的には不安はない。ところで今日の無形式はシンからの無形式である。」




唐木のみる鴎外と、それと比較される現代の「シン」からの無形式。ならば、鴎外が体現していた古い形式とは果たして何だったのか。

「古い形式が亡びたという際の古い形式は主として下級武士にもせよ武士の形式、藩閥者流の形式、具体的には儒教道徳、儒教の礼、Sitteであったと言えるのではないか。」



それを唐木はこのようにいうのです。そしてそれを破壊したものは、「自由民権論」であり、北村透谷らの「文学界」、そしてそれが一代勢力になったのは日露戦争後の自然主義運動であったと。彼らは「人間の解放、本能の解放、旧物破壊」を情熱をもって主張し始めるのです。しかし、それは「たちまちにして『現実曝露の悲哀』という合言葉を生んで」しまったと言います。

「すなわち、自然主義は独自の生活体系、形式、型を形成しえずに、個人の心境へ逃げ込んだ。そしうして、この自然主義に換って、儒教的形式に対立したのは広い意味のヒューマニズムであった。日本のヒューマニズムは日本の複雑な歴史性に従って、封建的なるものに対立すると同時に、日露戦争後のブルジョワジィにも対立せざるを得なかった。」

「私小説」という分野が大正年間に日本において独自の発展を見せるのはこの影響によります。儒教的な「公」というものに対する対立軸として「私」が出てくるわけです。唐木曰く「個人の心境へ逃げ込んだ」のが、私小説という分野ですね。

その後、自然主義運動に変わって彼らのいう「明治の精神=型」に対立したのが「白樺派」と呼ばれる一群で、武者小路実篤、志賀直哉らです。

明日に続きます。

今日はこれまで。











 

2010年12月27日月曜日

目にしたくなかったもの・・・日経中外時評より

 内田樹がネットの情報と、新聞の情報を比べて、ネットの情報は自ら望むものしか見る事ができないが、新聞の情報はそうではないものまで見る事ができるというようなことを書いてました。確かに新聞は拡げるだけで、様々な情報があって取捨選択しますからね。そんな過程、ふと目にとまる記事から思わぬヒントや、発見やらをする機会があります。ネットで検索するとそうはいかない。そもそも「捨」てる必要のある情報は検索しないわけですから。

と、内田のポジティブな意見はわかりますが、今日はネガティブな面・・・。つまり、新聞を拡げなければ目にすることのなかった記事を、読んでしまったための不幸・・・。

「見るだけで読まなければいいのに・・・」

とは言わないでください。そこまで目にしたら読まずにいられないのが人情でしょう。

さて、本題です。



アクトン卿の有名な言葉

「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」

を冒頭にひいた26日の「中外時評」日経記事は、またまた首をかしげざるを得ないものでした。僕には新聞記者の友人も知り合いもいませんので、僕の偏見ですが記者というのは「鼻もちならない」人間が多いと思っています。知識人づらするというのでしょうか、しかもよってたつ知識は浅薄なくせに、自分こそが社会の木鐸であるという使命感だけは妙にある・・・。あくまでも偏見です。

しかし、この記事を書いた論説委員はもしかしたらそんな一人かも知れません。

記事は冒頭の言葉を次のように言い換えます。

「権力は隠す。絶対的な権力は絶対に隠す」

そもそも、この言い換えからしてよくわからないのですが、わざわざアクトン卿の言葉をもって来るまでもないでしょう。要するに、権力が「隠す」ものを暴くことがメディアに求められてるというわけです。しかるに、昨今の状況は「暴く」ことがメディアの専権ではなくなってきていることを、この論説委員はいうのです。尖閣衝突ビデオの流出や、ウィキリークスのことを例にあげてます。

これを要するに、

「取材や報道という既存メディアとは無縁の仕組みで情報が流れたということだろう」

とまとめます。確かにのその通りですね。そして既存のメディアとインターネットとの差を次のように述べます。

「既存のメディアは取材で集めた情報を吟味し、加工する。真偽の確認。伝えるに値するのはどこか。伝えるべきでないのはどこか。軽重の順序。新聞ならスペース、テレビなら時間の制約もある。そうしたチェックのうえで報道する。ニュースをひとつの文法にそって受けてに流す、と言えばいいだろう。


ネットの情報は、その出所も真偽すら不明なものが多い。しかし、ネットの情報を鵜呑みにする人はまずいないでしょう。したがって、この委員がおそらく心配しているような、真偽不明の情報に踊らされる人はそう多くはないでしょう。受け手はそれぞれ使い分けしてますよ。

「事件の背景には、既存メディアが求められている役割を十分に果たしていないという不信がある、との指摘が出ている。批判には耳を傾けねばならない」

委員は、殊勝にも反省の色を見せているかのようです。しかし、おそらく反省などはしていないと思います。自らの情報とネットの情報のヒエラルキーを勝手に定め、自らの情報が「上」という妙な思い込みが文章に感じられます。

最後はこう締めくくられています。

「既存メディアの文法は長い時間をかけて作られてきた。相次ぐネットへの情報流出は、その文法が通用しない世界の出現を見せつけている。もし文法がないことこそネットの真骨頂だというような見方があるとしたら、それは危うさを助長するものでしかない。」

僕も「暴く」ということが何の視点も、道徳性ももたずにあたかも「正義」であるかのようにもてはやされる事態など断じて反対です。その一点ではこの委員に同意します。「文法」という表現を使っていますが、準拠すべき「文法」は確かに必要です。

この委員の問題は、というより大方の既存メディアの問題は、この既存の「文法」自身がもはや間違っているかも知れないと自己反省することのないことです。

この文法は何に立脚しているのか。

歪んだこの国「戦後民主主義」そのものではないか。

まずは自ら信奉するこの文法を疑いなさい。この国の若い世代は、かなりそれに気が付いていますよ。自らの国のマスコミはおかしいと。

今日はこれまで。






2010年12月26日日曜日

クリスマスの朝 娘の納得

小学校3年生の娘はサンタクロースの存在を頑なに信じています。クラスの中には

「あれは親がくれるんだよ」

という子供もいるようですが、娘は「そういうおうちもあるし、うちみたいにサンタさんが来てくれるおうちもある」という僕らの言葉を信用し切っているようです。つい、先日も「○○チャン、サンタさん見たことあるんだって。庭にそりもとめてあったって言ってた」と羨ましそうに僕らに話ました。

なんとも可愛らしい・・・。

娘は今年「おうちdeたまごっちステーション」とかいうものと、ストラップをお願いしてました。間に合うようにネットで注文したのは言うまでもありません。ただしその欲しがっていたストラップはどこのショップでも売り切れで、買う事が出来ませんでした。

「きっと売り切れでどこにもなかったんだと思うよ」

という言い訳を女房と示し合せていたのですが、娘はさらに先をいく解答で自らを納得させていました、自発的に・・・。

どうも、娘はお願いするものを間違えたらしい。「たまごっちID」とかいうものを欲しかったらしいのですが、それを「ステーション」と書いたものだから、僕が買ったのはストラップをつけて首からぶら下げるのにはちょっと大きいもの。娘は、今朝包み紙を開けて即座に「間違い」に気付いたのですが、まあ、それも似たようなものだったので、「今年もサンタさんが来てくれた」ということに安心して、喜んでいました。そして言うのには

「これはストラップが必要ないものだから、サンタさんがちゃんと考えてくれたんだ」

だそうです。僕らが言い訳をいうよりもまえに、娘が自ら口にしました。

何とも頼もしい・・・。


今日はこれまで。

2010年12月25日土曜日

合従連衡

「東芝、サムスンと提携」

昨日の日経一面記事。2010年の世界半導体ランキングの世界2位と3位が提携したことになるそうです。

「敵の軍門に降った・・・」

僕は即座にこんな感想を持ちました。まあ、いろいろ理屈はつくのでしょうがね。サムスンの創業者、今は会長になっていますが、その彼の強烈なリーダーシップは非常に有名ですね。東芝はその「彼」に負けたことになる。

いつだったか、「サムスンはソニーの売上高を抜いた」という記事を読み、驚愕した記憶がありますが、サムスンに負けたのは東芝一社だけではなく、日本の代表的家電メーカー8社の営業利益額合計は、サムスン1社のそれに満たないという事実を突き付けられては、負けたのは何も東芝だけではなく、日本企業そのものですね。

「一体日本企業はどうしたというのか!」

これが僕の偽らざる感想です。

タイトルの言葉、「合従連衡(がっしょうれんこう)」とは、「史記」に出てくる言葉。戦乱の世で生れたこの言葉をこの記事で想起しました。

合従連衡:時流を読み、その時々の利害に応じて、互いに協力したり離反したりすること。また、巧みな計算や外交上の駆け引きのこと。


出所「四字熟語データバンク」http://www.sanabo.com/words/archives/2003/11/post_1119.html



時代に2千年以上の開きがあるとはいえ、人間のなす事というのはあまり変わらないのが本当の所ですね。人間の進歩など、そう考えるとちゃんちゃらおかしいと思ってしまいます。


おかしいといえば、同紙「春秋」では一橋大学楠木建の「ストーリーとしての競争戦略」が触れられていました。僕は日経記事に限らず、「戦略」という言葉使いの多様にはどうも違和感がある。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/06/blog-post_18.html

そもそも、「競争」というのは「戦略」ではなく「戦術」のレベルですね。語義矛盾だ。マイケル・ポーターも間違っている。

「よい戦略とは、わくわくする物語であるべきだと楠木さん。どう世のため人のために役立つか。リーダーの語る物語性を社員も共有できるなら、仮に仕事が大変でも「明るい疲れ」になるはず、と。間もなく仕事納め。年明けにトップが語る「今年の戦略」は、聞く人をわくわくさせるだろうか。」


と、こんな風に「春秋」は締められているのですが、ここにある「戦略」を「計画」と置き換えても文意に全く変わりはなく意味は通じることになる。そういう代替可能な言葉があるということは、実はその言葉でしか表現し得ない何物かを却って覆い隠すことになりはしないか?大体「今年」などいうスパンで語るのを「戦略」というのか・・・。

今日はこれまで。

2010年12月24日金曜日

反近代 陰翳礼讃

僕が若かりし頃に買った本の裏表紙には、

「敵は欺瞞に満ちた戦後民主義体制」

と書かれたものが多い。今でもその気持ちに変わりはないが、最近はどうも「戦後」という時代だけではなく、不必要に棄てなくてもいいものまで棄てざるを得なかった日本の「近代」そのものが僕にとっての「戦後」にかわるものになってきているようだ。それは「戦後」のような明確な「敵」とは、輪郭が定まっていないが、ずしりとのしかかる重しのようなものになっている。

昨日も批評家としての漱石を紹介したが、その続きでいえば、「反戦後」ではなく「反近代」こそが、僕にとっての問題意識になりつつあると言ってよいのかもしれない。

日本における「近代化」とは「西洋化」と同義語だった。和魂洋才とは福沢諭吉が言った言葉だか、無理やりに開かれた世界に伍して日本が生きていくためには、いや応なしに「洋才」を取り入れなければならなかった。これは日本の悲劇だ。

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」。

短遍ながらも、西洋化された日本の生活様式が一般化し、それまでの日本人の洗練された美意識が破壊され、いろいろな面で谷崎自身が感じている日本人の生活との不調和が述べられている。

「照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれわれの習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか」


僕らはもうこの谷崎の不満を「不満」とすら感じなくなってしまっている。

かつては住宅の中で一番日当たりのよい部屋を座敷として唯一のパブリックの用にしていた伝統建築の様式は、今の「エコ住宅」の中に残るのか否か。そういえば、僕ら世帯が暮らす2階には「畳」すらなくなっている。

「もし近代の医術が日本で成長したのであったら、病人を扱うp設備や機械も、何とか日本座敷に調和するように考案されていたであろう。これもわれわれが借り物のために損をしている一つの例である。」


もはやこれを「損」と感じなくなってしまっている現代に、谷崎のこれは何を問いかけているのと理解したらいいのだろう。

「われわれがすでに失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の襜(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、ためしに電燈をけしてみることだ。」


 単純な懐古ではないことだけは確かだ。ただ「立ち止まる」ことを呼びかけているのだと僕は理解する。そうして思い返そう。近代以前のこの国の人間の生活のありように。

今日はこれまで。

2010年12月23日木曜日

批評家漱石

夏目漱石の講演に「現代日本の開化」と題されたものがあります。明治44年11月に行われたものです。漱石は、徹底的な「欧化批判」者でしたが、ここにおいても日本の開化を批判する物言いをしています。確か、以下は漱石の言葉だったと思います。

「西洋箪笥だけを持ってきて、中には着物をぶら下げている」


漱石は、「開化」というものには内発的、外発的といった両輪があるものだが、ご維新後の日本は、外発的に、つまりは追い立てられるようにしてそれを受け入れ、わかった振りをしていると言います。内発的な開化ではないと・・・。

食前に向かって皿の数を味い尽くすどころか元来どんな御馳走が出たかハッキリと目に映じない前にもう膳を引いて新しいのを並べられたと同じことであります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かねばなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのはよろしくない。それはよほどハイカラです、よろしくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫ってもろくに味さえわからない子供のくせに、煙草を喫ってさもうまそうな顔をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ちいかない日本人はずいぶん悲酸な国民といわなければならない。






すでに開化というものがいかに進歩しても、案外その開化の賜としてわれわれの受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうであることは前お話したとおりである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊な状況によってわれわれの開化が機械的に変化をよぎなくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、まことに言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとかいうのではない。どうすることもできない、実に困ったと歎息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸いであったのでしょう。真というものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思うことが時々あります。




 戦後の日本もまたアメリカの唱える「民主主義」やら「個の尊重」とかいう上皮を滑って行くだけ、しかも厄介なことに、今となってはそれがあたかも「人類の進歩」の如く語られている・・・。

この漱石の透徹した批評眼は、戦後のこの国をどう見るのか。

考えただけで憂鬱になります。

今日はこれまで。

2010年12月22日水曜日

最近痩せた!

一時期67㎏にまでなった僕の体重が、ここ1カ月で5~7㎏減りました。つい2日前に測ったところ、何と60㎏を切っていて、59㎏台にまでなっていて驚きました。ここ10年でなかったことです。確かに腹筋の周りについた脂肪は見た目でもわかるほど薄くなり、パンツもゆるくなっているので確実に脂肪は落ちているのですが、問題は筋肉も目に見えて落ちている事・・・。これがショックでした。鍛える事はここ何年もしていないので、当然といえば当然なのですがね。

学生時代の1年間、週に6回も少林寺の道場に通い、そこで鍛えた筋肉が僕をずっと支えていたのですが、特に胸の筋肉の減少が目立ちます・・・。


この器具知ってますか?

10年以上前ですが、毎日やり続けてかなり身体を引き締めたことがあります。当時は立ったままできたのですが、今は膝をつけてやらないとできないだろうな・・・。かなりきつい運動です。ああ、この時はプロテインとかも飲んでました。

ちなみに、馴れないうちは5回くらいやっただけで猛烈な筋肉痛になります。またこれをやろうか思案中です。ほんとにきつい運動なので、決心がいるんだ、これが・・・。

今日はこれまで。

2010年12月21日火曜日

地下鉄車内にて

数年前の出来事です。

地下鉄車内の中で、両手にたくさんの漫画本の詰まった紙袋を提げた老人を見かけました。割とこぎれいにしているホームレス風な装いといったところでしょうか。僕は、なぜだかその老人に目が釘付けでした。空いている車両の中、その人は周囲の目線を気にするでもく腰かけると、おもむろに自分のカバンからワンカップを取り出しました。

そうしてその蓋を開けると、その蓋の裏側をいとおしそうに舐め、揺れる車内の中、一滴もこぼしてなるものかといったふうに大事そうに両手でカップをもちながら、呑みはじめたのです。それは、見ている僕にまでその旨さが伝わって来るような飲み方でした。

あれだけ、酒を旨そうに大事そうに飲む人を見たのは初めてのこと、そしてそれからもお目にかかったことはありません。

毎日ただひたすらに飲んだくれていた当時の僕と、その老人と一体どちらかが幸せだったのだろうかと考えてしまいます。

今日はこれまで。

2010年12月20日月曜日

時間が足りない・・・

「知らねばならぬことが余りにも多すぎる」

これが僕の今の思い、焦燥感です。読書は思索することによって自分の血となり肉となります。これはショーペンハウエルが言っていますね。思索しなければ読書は単なる時間の浪費でしかありません。その両者のバランスをどうとるか、それが僕の問題なのです。

読まねばならぬ本は多く、思索する時間も必要であり、それにまつわる焦燥感はどうしたら解消することができるのか・・・。

原稿書きに没頭し、その反動で活字に食傷し、そのまた反動で活字におぼれたのがこの1年でした。うまく説明はできませんが、今まで蓄えられた断片的な知識という積み木が、ようやく積み重ねられてある形を作り始めているような、そんな心持ちがしています。

とはいえ所詮それは単なる知識であり、心の奥底のもやもやしたものを決して解消してはくれません。


「いかにかすべき我がこころ」

小林秀雄によれば、西行の歌の根底にはこれが流れているとのこと。

僕にとって、それは心中の呻吟の元ともなっています。

今日はこれまで。

2010年12月19日日曜日

Know your enemy 汝の敵を知れ

大東亜戦争中によく使われた言葉に「鬼畜米英」というものがあります。これは皆さんもよく御存じかと思います。米英は「鬼畜」だというのですから、なんとも酷い言葉使いですね。幕末の「攘夷」と変わりありません。その言葉の出て来た背景は知りませんが、大方新聞が使いだしたのでしょう。その言葉使いには、いかに時代が違うとはいえ何とも心淋しくなるような、そんな思いがします。

資源を求めて南方に出ていかざるを得なかった日本の国策ですが、そこには当然「占領行政」が必要となります。そこで必須となる「言語」つまり英語に対しては、日本は非常に冷淡というか、淡泊というか、無視するような態度でした。

「敵の言葉を覚えるより、占領した住民に日本語を教えるくらいの気概がなくてどうする!」

といった、精神論でその先の議論が止められてしまうような状況でした。これ、前にも書きましたね。こういった何の中身もない精神論は今でもこの国で通用しそうだと・・・。

さて、対するアメリカは言葉も、文化も、何もかも自分たちと完全に異なる「日本人」を敵とする事態になって、「日本」及び「日本人」というものを徹底的に研究するようになります。その標語が冒頭に挙げた

「Know your enemy」

だったわけです。当時の日本では通用しなかった正論ですね。アメリカはその言葉通りに、徹底的に敵国日本の研究をやりだすわけです。

荒唐無稽すぎて想像するに困難かも知れませんが、突然地球に宇宙人が攻めて来たとしましょう。相手は宇宙人ですから、言葉も理解できず、どんな戦い方をするかもさっぱりわからない。そんな事態となっても戦わざるを得ないとしたら、僕らはその宇宙人を「不気味な敵」と名付けるでしょう。
ちょうど、当時のアメリカはそんな事態に直面したと思います。

「不気味な敵=日本」

日米開戦前、アメリカに日本語のできる将兵はほとんどおらず、日本を研究分析しようにもそれができない状態でした。そこで開戦の僅か2ヶ月前の事ですが、「語学将兵」の養成に着手します。例えば海軍では、全米から日本生まれのアメリカ人(宣教師の子弟)や、大学で日本語を学ぶ学生などを集めて、「海軍日本語学校」を設立します。そこでは一層の語学将兵を養成するため、全米の最も成績優秀な大学生、及びその卒業生で組織されるクラブで学生の募集をかけ、アメリカにおける最も優秀な頭脳を集めて、僅か12か月間で当時世界で最も難しい言語と言われていた日本語を習得させようとするのです。

この執念というか、徹底ぶりには目を見張るばかりですが、そこでの教育は教育というよりは特訓だったようです。1日僅か4時間の授業でしたが、1時間の授業を受けるには最低3時間の予習復習が強制されたため、学生は1日中机に向かわなければならず、全米で最優秀の頭脳を集めたにもかかわらず、精神に異常をきたしてしまう学生が少なからずいたとのこと。

そんな過酷な特訓を受けた海軍日本語学校学生の中に著名なドナルド・キーンがいます。彼はそこの最初の卒業生です。また、陸軍でも独自に日本語学校を設立しており、それはオーストラリアにありました。

その急造されたその語学将兵たちが最初に赴任した地は、日米で初めて地上戦が行われた「ガダルナカル島」でした。彼らはそこで、残された日本兵の日記を分析するよう命じられるのです。

「ジャングルで食べ物もなかった人たちの日記は悲しかった。その日記を書いた人たちが、みな死んでしまっていることを考えると、もっと悲しかった」


 語学将兵たちは、戦場に残された多くの日記を読み進めるにしたがって、「不気味な敵」であった日本人が、その実彼ら自身とほとんど変わらない人間であることを知るようになるのです。

戦後の占領行政において、彼らが翻訳し、分析研究した資料が役立ったことは言うまでもありません。

名もない兵士の日常が書きつづられた多くの日記は、今もワシントンの国立公文書館に眠っています。

8月11日 今日も友軍が来て呉れない。今の我れらは友軍を待って居るが友軍から何の頼りもない。今日は五日目である。僕らも大分身体がつかれて来た。早ク友軍が来て呉れないと、生命があぶない。もう二三日の内に来て呉れないと我れら生命はない。高橋君も大分まいって居様である。今日五日何もたべていない。僕はも(う)妻の町子の顔を見る事は出来ないかも知れない。ガドルかなる島のジャングルの中で三十五才の生命も終りとなるか。早ク友軍来て呉れ、たすけの神を今は神に念じて待って居るばかりである。今日で五日五夜、ジャングルを逃げまわる。


8月12日 今日は十二日、敵に追れてから今日は六日目である。朝早クから今日は川下に下って来た。早ク友軍来たれ。我れらの生命も一日一日に良は(弱)って来る。食事は六日もして居ない。早ク今はも(う)仁記(日記)をかく元気もなくなった。


今日で十日になるが友軍来たらず。毎日木の身、草の根をかじって今日までしのんで来た。後十日も友軍来なければ、我れらは上死(飢え死)にする。


 氏名不詳の軍属の日記から。
出所:「戦場に残された日記」 勝見 明

今日はこれまで。

2010年12月18日土曜日

小中学生体力テストから 「またも負けたか8連隊」

小学5年生と中学2年生の男女、全国で40万人あまりの調査によると、それら児童の体力の低下に歯止めがかからず、上位の県、下位の県が固定化してきているらしいです。16日のNHKのニュースです。上位には福井県、下位には大阪府が名を連ねていました。確か大阪は学力テストでも最下位に近いんですよね。橋本知事が声を荒げて言ってたのをテレビで見たことがあります。

食卓で父親とそのニュースを見ていて、彼が言うのが

「またも負けたか8連隊」

という俗謡。大阪出身の兵で占められている歩兵第8連隊を馬鹿にした言葉です。父親曰く、「それも大阪の伝統だ」つまり、今の子供らの体力が劣等なのも大日本帝国時代の8連隊から続く伝統だと・・・。この俗謡、大阪出身の司馬遼太郎も本の中で触れていたように思います。司馬も大阪兵の弱さを自嘲気味に語っていました。

ちょっと気になってネットで調べてみると、どうここれは事実ではないらしい。決して弱かったわけでなく、ましてや負け戦ばかり続けていたわけではないとのこと。俗に言われることは全く根も葉もないことのようです。しかし、なぜこのようなことが言われ出したのかは全くの謎らしい。歩兵8連隊史には、そのような俗謡をあるをしり、将兵一丸となってそれを払拭しようと猛訓練を実施したと書いてあり、事実大東亜戦争初頭のコレヒドール攻略戦でも立派な戦績を残している。

しかるになぜこんな俗謡が流行ったのか実に不思議です。

今日はこれまで。

2010年12月17日金曜日

一兵卒

小沢一郎はよほどこの「一兵卒」なる言葉が好きと見えます。

しかしながら、上官の言う事を聞かない一兵卒など本来存在できるはずもない。自らの党の幹事長が会いたいといっても簡単に会えない一兵卒の議員などあり得るのか。不遜、尊大極まりない人間ですね。

司法の場で明らかになることだからといって政倫審への出席を拒み、なおかつそれを支持する民主党議員がいるとか。僕には理解不能です。民主党議員は口さえ開けば「国民目線」と言っていたはずです。今その「国民」が「小沢一郎の国会での証言」を望んでいるわけでしょう・・・。小沢一郎を支持する議員は、もう二度と「国民目線」などという言葉を使う事は謹んでもらいたい。

そして、だれか教え諭したらいいですよ。「責任」には法的なそれと、政治的なそれがあると。法的な責任は司法の場で明らかにすればいい。一方の政治的な責任、政治家としての公に明らかにすべき責任は、国会の場で説明するしかないことを。

なんでも小沢一郎は自分が槍玉にあげられるのもマスコミのせいだと言っているらしいですが、そのマスコミの力によって民主党は政権を獲得できたのですよ・・・。天に唾を吐くとはこのことですね。

学級委員みたいな総理大臣と、かつての思想を捨てきれない赤い官房長官と、言う事を聞かない一兵卒と、引退すると言いながら、舌の根が乾かぬうちにそれを撤回する元総理大臣・・・。

民主党は戦後のこの国の膿が集ったような集団ですね。

今日はこれまで。

2010年12月16日木曜日

僕の習慣

今日は本当にどうでもいいことを書きます。お付き合いください。

僕の習慣、3つばかりについてです。

その1
「10年日記」

1993年1月1日からつけ始めて、今は2冊目です。左の画像だと見にくいですが、日付をベースに10年並んでいる形です。書きこむスペースは狭いので、毎日大量に書きたい人には不向きですが、僕はその日の天気、帰宅時間を必須として、他に世のニュースだとか、その日の自分の話題だとか、そんなことを書いています。

同じ日付で辿ることができるので、「何年前の同日は何をやっていたのか」そんなことがすぐにわかります・・・。






その2
「買った本に日付を書くこと」

これも、効果としては10年日記と同じかも知れません。ある本を買ったら、必ずその末尾に買った年と日付をいれるのです。読み返した時、「これはいつ買った本」かどうかがわかると、当時の年齢もわかり、当時の読書傾向やら、その頃を簡単に簡単に思いだすことができます。

ちなみに今読み返しているのが「『やまとだましい』の文化史」という本で、1983年10月28日と記されています。27年前に買った本です。今読むと文章の多くに違和感を感じます。著者が「左翼」だからです。当時はどう感じたのか、あまり覚えていません。

その3
「買った本の記録をつけること」

これは、ノートに年ごとに買った本の題名、著者、買った日、読みはじめた日、読み終わった日を書いているものです。1992年の11月から始めています。10年程まえにかなり本は処分したので、今ではそこに記録が残るだけのものも多いかな。

その年によって買う本の量はまちまちですが、1年間にどれだけの本を買ったのかがわかるだけのもの・・・。何年かは金額まで入れて、1年間でどれだけの使ったのか検証してました。途中でやめました。

ちなみに1996年には1年間で112冊の本を買っていました。これが最高で、最低は2005年の15冊。2005年は買いたい本がなく、家にある本を読み返していた記憶が残っています。

今は本をこれ以上増やしたくないので、「必ず二度以上読む」と感じられる本以外は買わないことにしています。

たかだか僕の習慣なので、みなさんからみればどうでもいいことだとは思います。

でも、もし「なるほど」と共感したら、やってみてください。

今日はこれまで。

2010年12月15日水曜日

僕の原体験 再び226

先日、縁あって御年70になる方とスカイプで1.5時間もお話をする機会がありました。

内容は、僕の原稿「226」についてです。その方は東大在学中丸山真男ゼミにいらしたということで、ご自身「僕は転向組だから」と仰ってました。

僕が言うのも不遜ではありますが、同事件について相当に研究している方で、多くの点を「突っ込まれ」ました。ただ、彼ら「青年将校」に共感を覚えるという点では一致してました。

青年将校は「やむにやまれぬ」思いであの挙を起こしたのです。「憂国の至情」と表現されますが、彼らのそれは、単なる観念ではなく日ごろ接する部下たちの現実の困窮でした。それが根底にありました。



僕の記憶です。


7歳で新潟から埼玉に引っ越してきた僕は、何度か母親い連れられて巣鴨のとげぬき地蔵へ行った記憶があります。手術をしても取り出せなかった右足に残るガラス片(今も残ります)が、その御利益によって出てくることを願ったのでしょう。

おそらく、その頃のことです。

街には白い浴衣のようなものをまとったけが人がいて、物乞いをしていました。その中には足のない人、手のない人もいました。戦争での傷病兵です。3~4人が一緒になって、中の一人はアコーディオンで哀しいメロディを奏でてました。幼い僕は何とも可哀想な気持ちになって、母親から少年ジャンプを買うために貰っていた100円をその人たちにあげたことがあります。母親はびっくりして「そんな事しなくていい」とか何とか言って僕を軽く叱りました。

「嘘だから」

というのです。確かに、今から思えば傷病兵の振りをしてお金を恵んでもらう人達だったのかもしれません。子どもにそんなことがわかろうはずもないので、僕はただ「可哀想」と自分のお金をあげたのです。

街の喧騒をよそに、その白い一群は確かに異様な光景でした。


僕がなぜ青年将校らに共感を覚えるのか。その理由の一端はおそらくこんな所にもあります。

安藤輝三は自らの給料をさいて、除隊したかつての部下に送っていました。そして、休日には就職の斡旋に奔走していました。彼の中にはまさしく観念ではない、現実の問題があったのです。

「兵たちを何としても救いたい」

この安藤は「神」のごとく部下に慕われていたことは以前紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_10.html




さて、河合栄次郎といえば、東京帝国大学の経済学の教授、戦前の有名な自由主義者の一人。彼は、事件直後のコメントで、


一部少数のものが暴力で政権を左右しようというのはファシズムの運動だ。ファシズムの非なることは、・・・・・暴力を行使して社会に於ける多数同胞の意思を無視することに在る


と事件を批判します。真っ当な意見だと思います。然しながら事件から3か月後には、


現代日本の課題たる、国民生活の安定と国民思想の確立・・・・・此の課題は文人政治家が夙に解決すべき問題であった、然るに彼らが為すべくして為さず、躊躇荏苒として日を送れる間に、青年将校は一身の危険を賭して、これを解決せんとした。議会政治家と言論機関と学徒教育課は、何の面目を以て彼らに見えることができようか


という文章を『中央公論』に著すことになるのです。


青年将校らも以て瞑すべしでしょう。

 今日はこれまで。

2010年12月14日火曜日

ある「自裁」

久しぶりに江藤淳の名前をみた。


12月12日の日経「忘れがたき文士たち」という記事でだ。


彼は学生時代に「夏目漱石」を著して文壇にデビューした。僕は、彼の本職「文芸評論」分野での彼をほとんど知らない。ただ知るのは、戦後GHQがどのように日本の言論を封鎖、抹殺していったかを描いた「閉ざされた言語空間」他、数冊のみである。


保守派にあり重きをなす知識人であった。


ある時、彼が長年連れ添った奥さんを癌でなくし、その悲痛な心持ちを綴った文章が「文藝春秋」に載った。奥さんとは学生結婚以来40年間に渡りずっと連れ添った人だったらしい。


本当に哀しい文章だった。


僕は、「彼も死ぬつもりだな・・・」と直観した。そう父親に話したことを憶えている・・・。




その数カ月後だったと思う。彼は本当に自ら命を断ってしまった。




脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。
自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。


という遺書を遺して・・・。




「生きることが大事」「自殺はいけない」


とかいう言葉は、彼の自裁で何の重みもないものだと思うようになった。


今日はこれまで。


追伸)

江藤 淳(えとう じゅん、1932年[注釈 1]12月25日 - 1999年7月21日)は日本文学評論家慶應義塾大学文学博士。戸籍名は江頭 淳夫(えがしら あつお)。勝海舟夏目漱石の研究などで著名。東京工業大学教授、慶應義塾大学教授等を歴任。昭和50年(1975年日本芸術院賞受賞、平成6年(1994年)から日本文藝家協会理事長。他に菊池寛賞野間文芸賞受賞。

2010年12月13日月曜日

戦後のこの国

こと 1 【糊塗】

(名)スル

一時しのぎにごまかすこと。その場をとりつくろうこと。
「うわべを―する」「今日まで巧(たくみ)世間耳目を―して居たのです/あめりか物語荷風)」


戦後のこの国のありようは、僕はこの言葉だとつくづく思います。
そもそもの発端の一つは、憲法9条下で自衛隊をもったこと。そしてそれをごまかすために、軍隊ではないとしたことでしょう。そこから全てが始まっています。
最近の記事でいえば、朝鮮半島有事の際に、自衛隊機で邦人を救出することは自衛隊法に明記されており可能らしいのですが、これは、僕の記憶では比較的最近の法改正だったと思います。以前は、それができなかったのです。ある意味「普通」の国に近付いた一歩と言えるのでしょうけど、実はこれ条件がありまして、「安全が確保されている」状態でなければ、それが出来ないのです!!

アホかと思いますね。安全が確保されているのならわざわざ自衛隊機でなくても民間機でいいわけで、何の為に自衛隊機なのかの意味がわかりません。現実に照らして考えれば、こんな法律のおかしなことは子どもでもわかること。

要するに、「安全が確保」されていない状態での万が一の武力行使を想定することを恐れたのですね。だからこんなわけのわからん法律で「糊塗」しているわけです。

もう、考えると厭になります。こんな国のどこに国連の常任理事国になる資格があるのというのか。
「国」と名乗ることさえ恥ずかしいようなありさまですよ。

今日はこれまで。

2010年12月12日日曜日

ケネディ騎士団

今日は漫画の話。

僕が13歳頃に読んだ漫画です。その時既に復刻版でした。昭和41年に連載が始まったものらしいので。

作者は望月三起也。「ワイルド7」の作者といえば40代の人にはお分かりかな。

この作者の特徴は、映画のワンショットを思わせるシーンにあると思っています。とにかく、非常にカッコイイ構図がたくさん出てくるのです。拳銃、自動小銃なども詳細に描かれていて、僕にはたまらないのです。

さてこれは「ケネディ騎士団(ナイツ)」といいます。ケネディ大統領と、彼と同窓であった日本人「フジワラ」が、世界平和を守る組織を、欲の深い大人でなく、純粋な少年たちだけで組織するのです。その組織が「ケネディ騎士団」と呼ばれるもので、ケネディ大統領が暗殺された後に、組織として立ちあがります。


30年以上前に読んだものですが、そのシーンも、主人公の言うセリフも覚えていたものが多くて、自分でもびっくりしました。僕がなぜこの漫画にこだわるのかいうと、これ、ストーリーによっては、「騎士団」の騎士たちが仲間を救うため、任務を果たすため、命を投げ出すことが多いからです。平気でバタバタと団員たちが死んでいくのです。自分の命のより大事なもののために・・・。

昭和41年といえば、戦後21年しかたっていません。この前後の時代には、多くの「戦記漫画」が世に出ていたと思います。僕の知っているだけでも「ゼロ戦レッド」「ゼロ戦ハヤト」「烈風」「紫電改のタカ」など、かなりあります。そのすべてを読んでいるわけではないのですが、「戦争」という行為云々ではなく、それぞれに描かれる主人公たちの「正義」をめぐっての物語だと思います。


昔の国家主義や軍国主義は、それ自体は、間違っていても教育としては自我を抑止していました。だから今の個人主義が間違っている。自己中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。まず日本人が小我は自分ではないと悟ってもらわないと。(中略)善悪は別にして、ああいう死に方は小我を自分だと思っていてはできないのです。だから小我が自分だと思わない状態に至れる民族だと思うのです。自分の肉体というものは、人類全体の肉体であるべきである。理論ではなく、感情的にそう思えるようになるということが大事で、それが最もできる民族としては、日本人だと思います。

これは、日本数学史上最大の数学者といわれる岡潔の言葉です。文中「ああいう死に方」としているのは、特攻隊のこと。

ケネディ騎士団という少年漫画で描かれた「命を捨てる姿勢」も、岡のいうこの文章をよく表していると思います。最近の漫画はさっぱりわかりませんが、すくなくとも戦後20年くらいの間までは、そのようなことを漫画で表現することが社会的には認められて、多くの読者がついていたということですね。その頃といえば、まだ戦争経験者が社会の第一線で活躍していた時代ですので、戦場での「体験」という事実が頑として存在していたことと関係するのかも知れません。


今日はこれまで。

2010年12月11日土曜日

百年の孤独


とりとめのないことを。

15年ほど前でしょうか。仕事で宮崎市を初めて訪れた際のこと。少しばかり高級そうな飲み屋にはいり、そこの女将に「宮崎の地元の酒は?」と尋ねました。


「今は『百年の孤独』があります」
「なんですか、それ」
「有名な焼酎ですよ」
「焼酎ならいりません」

こんな顛末です。帰京後、『百年の孤独』なる焼酎を調べると、幻中の幻の逸品であるとのこと。何とも惜しいことをしたと後悔しました。知ることも哀しいが、知らないことはもっと哀しい・・・。

その後何度目かの宮崎訪問に際、空港で「おひとり様2本限り」ということで、それが売られていました。すぐさま買い求めたことは言うまでもありません。1本3500円でした。

こんな焼酎があるのだろうかと驚きいるばかりでした。その焼酎の名前は同名の小説から名付けられたとのこと。コロンビアの作家ガルシア・マルケスなるノーベル文学賞受賞作家の筆です。

この小説、一言ではとても形容できません。とにかく不思議な物語です。初めて読んだ時は登場人物の名前にこんがらがり、誰がいつ生れ、誰の子で、いつ死んだか・・・。そんなことに翻弄されつつ、読み進めていった記憶があります。

2度目に読んだ時には、登場人物の相関関係を頭にいれ、それぞれの出生、死亡には付箋をはり、混乱しないように読み進めました。

ある一族の100年にも及ぶ奇想天外な物語なのですが、今になってそのタイトルの意味がおぼろげながらわかってきたように思います。

僕なりの理解です。


「孤独」とは忘れられていくことなのです。

つまり、僕の初読時の混乱こそが「孤独」を知る意味で正しかったことになる。人間の「生」なぞ、そこにどんな物語があろうとも、すべて消え去り、忘れられていく・・・。「無常」ということですな。

今の僕に言えるのはこのくらいです。かなりの大著なので、読み始めるのには覚悟が入りますが、いざ始めてしまえば、すいすいと進むはずです。暑く乾燥した世界の様子が伝わってくるので、今の時期には読むのに好都合かも知れません。

今日はこれまで。


2010年12月10日金曜日

原風景

僕は7歳になるまで新潟市に住んでいました。休みの日にはよく両親に連れられて、両親の故郷である三条市へ鉄道で出掛けていたように記憶しています。三条市は新潟市と長岡市との丁度中間くらいにあります。

車窓から臨む一面の田。米どころ、越後平野が僕の記憶に残る最初の風景かも知れません。それを原風景とするなら、まさしくそれがそうだと思います。

この田園風景。

日本に稲作が伝わったのは弥生時代と言われていますから、2000年以上前からの日本の風景かといえば、そうではありません。これはおそらく江戸時代初頭に形成されたものらしい。そしてこれは日本の都市形成と密接にかかわっていることで、簡単にいうと武田信玄の治水技術に代表される様な土木技術の進歩によって、灌漑可能な耕地面積が増えたことによります。

そういえば、「スーパー堤防」が事業仕分けの俎上にのった時、テリー伊藤が

「日本はヨーロッパと比べて堤防が立派過ぎて、容易に水面に近付けない」

と朝のワイドショー番組で言ってましたが、こういう馬鹿な物言いに騙されてはいけませんよ。明治後、ヨーロッパから招かれた土木技術者は、日本の河川を称して「これは川ではなく滝である」といいましたが、なだらかに流れるヨーロッパの河川と比べて、急峻な地形を流れる日本の川の急流さを表したものです。地図を想起すればすぐにわかることですね。地形条件が違いすぎるのだから、同列に論じるのは馬鹿の所業。

話を戻します。

川を「いかに治めるか」が、施政者=領主・幕府の役割であったわけで、その仕事は「御」普請と呼ばれました。大規模土木工事だと思って下さい。そうしてその完了後にそこに耕地を求めて多くの人が移り住んだわけです。古代や中世の日本人は、山麓や大地、山間部が主な居住地でした。江戸時代の初期になって初めて、居住地と生産活動の場として大河川中下流域の平地に移行したわけです。

各地で耕地面積の拡大が起こります。開発ラッシュですね。ところが、ここが日本人の面白い所。面白いというより、日本民族の心性を探る上で非常に重要な事実があります。

1666年に出された「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」です。これは簡単に言うと乱開発を禁じた法令です。

1.過剰開発の禁止
2.植林の勧め
3.川敷の開発、埋立ての禁止
4.焼畑禁止

自然保護法令の嚆矢でしょう。日本人が自然というものにどのように向き合ってきたのかがわかるものだと思います。朝鮮半島を併合した直後に半島の山々に植林をおこなってもいますしね。古代の地中海貿易を支えた船の材料は「レバノン杉」でしたが、今やそこにそれはありません。

この日本人の「自然」との向き合い方、例えば日本では耕作に家畜が使用されなかったことなども含めて、非常に心優しい心性を感じてしまうのは僕だけでしょうか。

今日はこれまで。

2010年12月9日木曜日

銀杏眠る・・・

この時期の早朝、晴天とはいえ何とも頼りなげにみえる朝日の柔らかさ。
そこに照らしだされる銀杏の木の姿は、何ともいいようのない美しさがあります。

黄色く色づいたのも束の間に、ほぼ葉が散り落ちてその残滓が足元に広がるのみとなり、そうしてそれが、この木の「生きていた」ことを知る唯一の手掛かりとなります。

まったく不思議なもので、緑の装いが黄色く染まり、その後は幹の色しか映さない木々は冬の間は生きているのか、死んでいるのかがわかりません。

でも、春になれば見事に芽吹き、また緑色に染め上げる。

この生命のサイクルを思うとき、実に見事としかいいようがありません。


「降り積もる深雪に耐えて色かへぬ 松ぞおおしき人もかくあれ」

昭和天皇が敗戦直後の昭和21年にお詠みになったものです。敗戦という絶望の淵に沈んだ翌年に詠まれた歌だということを考えると、実に感慨深いものがあります。

「ヒ素」をもとに繁殖する新種の生命体が見つかったことがニュースになりました。生命維持に必須である「リン」がなくとも生息できる生命体ということで「大発見」だとのこと。

近代科学はたかだか200年の歴史もない。世の中は知らないことだらけだというのが事実でしょう。今までの常識を覆すような発見はこれで終わることはないでしょうね。

変わらぬのは、生があって死があるというその生命のサイクル。

そして、そこから何ほどかを感じ取る人間の心根かも知れません。


「花になくうぐひす、みづにすむかはずのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」

古今集の序文にあります。

今日はこれまで。

2010年12月8日水曜日

大詔奉戴日から考える

12月8日は、昭和17年のその日から大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)と名付けられます。天皇陛下が開戦の詔勅を出された日ですので、それを「戴いた」日ということですね。いうまでもなく真珠湾攻撃の日であり、大東亜戦争開戦の日です。もう69年前の出来事。

真珠湾攻撃。

純粋にその作戦規模だけを考えた場合、あれだけの国家的事業、歴史的事件に参加しえた将兵らの興奮と感激はいかばかりであったでしょう。恐らく一番若いパイロットは18歳くらいでしょうから、存命ならば既に90歳近い年齢です。参加航空機は空母6隻に搭載された350機、これが第一次、二次と分れて真珠湾攻撃に向かったわけですから、それぞれの攻撃は一面、日の丸を輝かせた日本の飛行機が空をおおって進撃したことになります。

「武者震いがとまらなかった」

参加したパイロット、艦艇乗組員は皆このようにいいます。


現実に日の丸をつけた飛行機が上空を我が物顔で飛んでいる姿を目の当たりにしながらも、

「あれはドイツ人がとばしている」

と、思っていた米軍人がいたほど、先入観というか思い込みは恐ろしい・・・。日本人は、「眼鏡をかけたガニマタの猿」ですのでね。


巷間、あれで大艦巨砲主義は終焉し、それをいち早く米海軍は読みとって航空主兵に転換したが、日本海軍はそのドラスティックな転換ができなかったと言われています。

前に「海軍反省会」という本を紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/07/653.html

アメリカは、リスクを冒して航空主兵に転換し、日本はリスクを冒せずに中途半端な状態となります。ただ、日本がリスクを冒し得なかったことも十分すぎるほどわかります。日本は貧乏だったからです。国民のまさに血税でやっと揃えた兵器。国家財政からいっても、工業力からいっても、それを大事に大事に使わなければならないという思いが、身に染みついていたのだと思います。変わりに無尽蔵だと錯覚したのが「兵士の命」。何とも哀しいです。


「今次大戦を支那事変を含め大東亜戦争と称する」


僕らの父祖は「太平洋戦争」を戦ったのではなく「大東亜戦争」を戦ったのです。その呼称を抹殺したのはGHQです。そして独立後もその命令に唯々諾々と従っている奇妙な国、自らの歴史と言葉使いまでも奪われている国、それがこの国の姿なのです。

歴史がなかったら「国民」はありません。僕には「領土」よりもこの「国民」の喪失の方が大問題のように思えます。

今日はこれまで。

2010年12月7日火曜日

腰弁 弁当男子

一昨年でしたか、「弁当男子」なる言葉が話題になりました。

会社にお手製の弁当を自作して持っていく男子を表す言葉らしい。最近は○○男子とつく言葉が多いような気がします。「草食系男子」とかね・・・。

数年前、世を睥睨するように闊歩していた「山姥ギャル」は一体どこへ行ったのでしょう。

そういえば「ギャル男」なる言葉もありますね。まったく意味のわからん世の中だ・・・。


「おれみたような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、蛤爾賓(はるびん)へ行って殺される方がいいんだよ」

夏目漱石の「門」の主人公宗助の言うセリフです。「伊藤さん」とあるのは、伊藤博文のこと。僕は、「弁当男子」という言葉を聞いた時、ここで使われる「腰弁」という言葉を思い出しました。しがない月給とりを表した言葉です。「弁当男子」なる言葉に「しがない」というニュアンスは含まれていないとは思いますが、面白い社会現象だと思います。弁当は女子がつくるものとは思いませんが、そういう社会的、文化的コードを逸脱した男子が出て来たのは、非常に興味深い現象であると思います。

「男子」というものの価値がこれだけ下がった時代はないでしょうね。オリンピックでも好成績を残すのは「女子」の方が多いような気がしますし、最近は「ジェンダーフリー」とかいう、性差をなくすようなことも盛んに言われています。確かに、男女による賃金の差別とか雇用機会の不均等とか、そういうものはなくした方がいいに決まっていますが、男女の役割というものは違って当然だし、それを差別だと感じるのなら、それを宿命として受け入れるところから物事は考えるべきでしょう。違うのかな。


今日はこれまで。

2010年12月6日月曜日

忠孝礼 江戸期の庶民教育

忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至迄憐愍(れんびん)をくはふべし。若不忠不孝之者あらば、可為重罪事。

これは、5代将軍綱吉が1682年に全国に建てた高札の条文です。重罪の威嚇をもって庶民に「忠孝」を強制しているもので、「忠孝礼」と呼ばれています。綱吉施政の特徴の一つは、儒教的道徳を庶民に指し示したことにあり、以前紹介した「生類憐みの令」なるものも、その一環であると考えられます。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/2.html


さて、庶民教育において「寺子屋」というものが果たした役割が大きいことは想像がつくと思います。その寺子屋の急激な増加は、享保期以降のこととされています。8代将軍吉宗の頃からです。吉宗に仕えた儒者、室鳩巣(むろきゅうそう)の記録によれば、その頃江戸市中には840人もの手習いの師匠がいたと書かれています。それだけの寺子屋が存在していたと見るべきでしょう。

その寺子屋で手習いの手本として使われていたのが「六愉衍義大意(りくゆえんぎたいい)」と呼ばれるもので、吉宗が室鳩巣にこれを命じ、室鳩巣は荻生徂徠に依頼して出来上がったものです。

六愉とは

1.孝順父母(父母に孝順なれ)
2.尊敬長上(長上を尊敬せよ)
3.和睦郷里(郷里に和睦せよ)
4.教訓子孫(子孫を教訓せよ)
5.各安生理(おのおの生理を安んぜよ)
6.毋作非為(非為をなすなかれ)

という6項目の道徳が説かれたもので、1652年に中国清朝から日本にもたらされたものです。吉宗はこれを献上され、庶民教育の教科書に仕立て上げようとしたわけです。したがって、この「六愉衍義大意」は、わが国初の国定教科書といえるものです。

これは、江戸期を通じてかなり普及したと言われています。庶民の日常の道徳観念として広がったということです。

江戸期には、「孝義録」「続編孝義録料」「忠孝誌」などの全国の百姓・町人で、善行により表彰された者を集めた記録があります。その表彰の理由は様々ですが、

「概していえば、一身の労苦をいとわず、零落した主家や貧しい父母のために働いて経済的に生活を助け、あるいは看病をするという事例が多い」(「江戸時代を考える」辻達也)

らしいのですが、同様に辻によればその中には、件数は少ないものの、病気の父のために本を読んでやるとか、零落した主家を去らずにその家の者に読み書きを教えるといった、下層民の教養に関する事例もあるとのこと。2つばかり紹介しましょう。

1791年(寛政3年)
深川北町 さよ 28歳 店借 あんま春養養女
家が貧しいので、武家に奉公する、そのとき、手習い、琴を学ぶ。読書を好み、給金の余りで四書五経を求めて読む。暇をとってのち、家計の助けに、近所の女子に読み書き、琴、女の道を教える。結婚せず、両親に孝養を尽くす。

1813年(文化10年)
深川蛤町 善太郎 16歳 店借
父は病身、母は病死。祖母と二人で漁やむき身の手伝いをし、父を養う。商いの手すきに手習いをし、弟にも教える。

(出所「江戸時代を考える」辻達也)


この六愉は今の教育からすっぽりと抜け落ちているものでしょうね。僕はそう思います。「仰げば尊し」の歌詞にある「身を立て名を挙げやよはげめよ」が、自身の立身出世主義にあるとかいう馬鹿な解釈が世を覆うに至っては、何をかいわんやです・・・。

この教育は今の世に合わないのでしょうか?今の世「民主主義」社会にです。そんなことはないでしょう。民主主義などという政治体制の一つに合わせて人間を教育する事は、いい加減にやめたらどうかとうのが僕の意見です。「政治」から人間を語り、教育するなどおかしいと思いませんか?


かつて「ミスター日教組」と呼ばれた槙枝元文氏が亡くなられたと日経の死亡記事に出てました。彼は元日教組委員長、元総評議長を務めた左翼の「闘士」でもありました。そんな氏ですが、酔うとよくうたう歌は「同期の桜」だったと聞いたことがあります。僕とは思想信条が水と油の如く異なると思う氏も、その一点のみつながるものがあります。彼もまた「日本人」だったと思うからです。

今日はこれまで。

2010年12月5日日曜日

当世名前事情その2

毎年発表される子どもの名前ランキング。

最新の発表によると、女児の名前で27年ぶりに「子」という字のつく名前がランクインされてました。
最近の女児の名前はキャバ嬢みたいな名前が多いと、以前ここで書きました。


そんな中で、娘の名前は27年ぶりにランクインされてました。

おお、時代の先取り!偶然にもまーくんちんの娘と同じ名前なんだよね・・・。


名前といえば、日本が韓国併合時代に為した悪行と言われている「創氏改名」なるものがあります。
「名前までむりやり奪われた!」と彼らは言ってますが、大ウソですね。あれは希望者だけですので。それも、少なくない朝鮮半島生まれの人間がそれを望んだといいます。従来の名前だと差別を受けるから、日本名を名乗らせてくれと申し出たわけです。

朝鮮半島は、ずっと中国大陸の強い影響下にありました。漢字3文字であらわされる名前は、確か明の時代に、彼らが自ら中国式の名前に変えたんですよ。それ以前の朝鮮半島の名前とは全く別物です。そうして未だにその形式の名前を使っているのです。

最近は、中国の影に隠れていますが、朝鮮半島の国もまた日本にとっては厄介な国ですね。

今日はこれまで。


2010年12月4日土曜日

人間というもの その他いろいろ

今日は取り立てて主題もなく、ただとりとめのないことを書きます。

ある青年との出会いをここで書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/blog-post_15.html

まーくんと先日会った時、その話をして「僕の知識など足元にも及ばない」と話したところ、彼も驚いていましたが、簡単に言うと僕の知識はあくまでも「新書」レベルなのに対し、彼の知識は「全集」レベルなのです。そんな比喩がぴったりかと思います。

その彼と、昨今の「左」ではない「デモ」についてもいろいろと話をしました。

「これだけ政治的に熱狂できる」人間がいるというのは興味深いと・・・。ただ、つい最近も書きましたが、「熱狂」というのは人を誤らす元です。また、そういう人間が多く存在する世の中というのは極めて不健全な世の中であると思っています。

その青年曰く、「衆をたのんで衆を制する」等というのは愚の骨頂だと。福沢諭吉から採られた言葉です。

「政治的人間」が世の中非常に多い。右か左かを峻拒し、どちらでもなければ「日和見」と蔑むような、そんな感じですかね・・・。

「自分はデモに参加しているから」「日本のことを考えているから」とかいうのは、何の免罪符にもならない。大事なことは、それぞれが職分を全うすること、学生なら学生の本分である学問を先ずすべきでしょう。そんな学生を煽動するのは「大人」の為すことではない・・・。

「修身斉家治国平天下」

その根本たる修身をおろそかにして、一体何ほどの国家を目指そうとしているつもりなのか。僕には理解不能なことです。


理解不能といえば、子どもを虐待する親が増えている事。育児放棄というのなら、自然界でもあるらしいですが、虐待というのは人間固有の現象でしょう。これはまったく理解できない。理解できないことを無理やり理解しようとするから、その原因に育児ノイローゼだとか、いろいろな理屈を持って来る。言葉をみつけると、人間はその言葉に縛られてしまうことを知らない。そして原因があることに安心してしまう・・・。その原因なんぞ単なる推測にしか過ぎないものだし、だからといって虐待を免罪することにはならないのですがね・・・。

「人間」というより、近代の文明人はわかりません。未開部族とかにはそういう事例があるのでしょうか?どうも、近代の文明人特有のことのように思います。

極めて、簡単なことを言いましょう。「本能」の赴くままに無制限に行動できる自由が人間という動物に与えられたらどのようなことを想像しますか?もうめちゃくちゃな世の中になると容易に想像できますね。それでは、本能しか持たない人間以外の動物の世界が、人間と同じようにめちゃくちゃにならないのはなぜですか?

人間以外の動物には本能を抑制する装置があるらしいです。自動抑制装置ともいうべきものが。しかし、人間にはそのような装置はなく、その役割を与えられているのが大脳前頭葉です。これは自主的に働かせなければならないもので、要するに「人」を「人」たらしめているものといえます。

子どもを虐待する親は、この働きがないため、その実態は「人」ではなく、かつ「親」という動物以下のものといえます。

その「抑制」を自ら持つ、自律の精神によって為すことが理想なのでしょうが、そんなことは万人に望むべくもなく、それを社会の習俗、モラル、法律で可能としてきたのが、人間社会ということですね。

「法律に違反してなければ何をしてもいい」

という言葉は、最低の言葉遣いであることがわかりますね。なぜなら、抑制の最後の砦であるからです。一番最高の言葉遣いは「自らの良心にしたがって」でしょう。それが人を人たらしめる根本だからです。


社会福祉局でしたか、児童相談所はもっと強制力を持って警察とともに行動するようにしなければ虐待の防止はできませんよ。


精神的な虐待として、「いじめ」があげられます。先日も小学6年生の女の子が自殺しましたね。何でも給食を一人で食べるほどの孤立感だったとか。それを先生は承知しながらも適切な指導ができなかった。こんなのは、教師の資格なしですな。即刻おやめになるのがよろしい。

この種の事件が起きると、決まって繰り返されるのは最初の記者会見での「いじめの事実は承知してない」というセリフ・・・。教育現場というのは誰も責任をとらない無責任の体系がまかり通っているようですね。「教師とはいいえ、サラリーマンだから」などという、したり顔の言葉もありますが、サラリーマンだって、責任くらいはとりますよ。そういういい加減な物言いはやめにしてほしい。

今日はこれまで

2010年12月3日金曜日

小林秀雄の言葉

度々ここでも取り上げていますが、僕の最も尊敬する著述家「小林秀雄」とはこの人です。彼は「近代日本最高の知性」と評されています。彼の生涯の足跡は、Wikiを参照してください。彼は明治35年に生まれ、昭和58年に亡くなっています。彼は、「批評」という分野を日本で初めて確立した人とも言われ、小林自身は「批評とは無私に至る道」と述べています。

僕が彼を尊敬するに至った理由は、前にここで書いたと思いますが、戦後「一億総懺悔」等と言われた時代に、「私は馬鹿だから反省などしない」と言い放ったことによります。

小林は、「批評」とは何なのかをこんな風にいいます。

「その人の身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。」


「高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」

彼の文章は、まさしくその通りだと感じられます。無駄なものを一切排除した、硬質なものがあるように感じます。小林は三島由紀夫の衝撃的な死について、「孤独に死を選んだ人間」だから、「孤独にそれを思うのがよい」と言っています。彼のところに「三島先生への哀悼の意を表する大会をやりたいから、発起人になってくれ」という依頼があったのだらしいですが、それを「君らは哀悼の意を表するのに発起人が必要なのかね」と断ったといいます。小林は、「ジャーナリスティックにはどうしても扱ふ事のできない、大変孤独なものが、この事件の本質に在るのです」と言った後、次のように続けます。

「素直な状態でゐれば、誰もそれを感じていると思ふのですよ。だけど余計な考へや言葉が、それを隠して了ふのではないかと考へる。テレヴィでニュースを見てましたらね、佐藤総理の顔が写って、とても正気とは思へないと言ふ。当然でせう。政治家が政治的事件を見てゐるのですからね。すると、今度は林房雄さんの顔が出て来てね。沈んだ面持ちで狂気ではない、何から何まで正気ですといふ事を言ふのだ。私は涙が出て来た。それが、私としては、今度の問題の一切です。何も文学的見方と言ったものなどありはしない。文学者は、なるたけ人間に近付いて見るといふ練習を知らないうちにやってゐるわけなんだ。たださういふ事です。」


 余計な講釈は不要ですね。

今日はこれまで。

2010年12月2日木曜日

再び食糧安全保障 TPPを巡る日常

11月30日の読売新聞朝刊記事から。

経産省「成長の源泉である貿易が農業の犠牲になるなど国賊ものだ」

農水省「TPPなんか問題外だ。農業が壊滅する。拙速は避けコメは守る」

両者の主張は真っ向から対立してます。全国農業協同組合中央会の会長は「開国と農業再生は両立できない」と語気を強め、941町村加盟の全国町村会長は近くTPP反対を決議するらしいです。

農水省の試算によれば、すべての関税を撤廃すれば国内1次産業の生産額は4兆円以上が吹き飛び半減するのだそうです。

逆にTPP不参加ならば「10年後には国内総生産の約2%に相当する10兆円余が失われる」と経産省は反論しています。


農業政策と土地政策は、長らく政権の座にあった自民党の無為無策がなしたものだと断言できます。農業従事人口というのは、今260万人しかいないのだそうですが、しかも今後10年で100万人以上がさらに減るとか・・・。

世の中のいかなる産業も、浮き沈みがあるのが自然であることを考えれば、なぜことさらに「農業」という産業だけを頑なに国が守ろうとするのか。前にも書きましたが、食糧自給率の維持云々を理由にそれを言うことの意味も、この国の貿易がストップしてしまえば、日本国民は食べるものがなくなりますので、それが100%ならまだしも、今のレベルでどうこういうのはおかしいですね。「コメ」だけでは人間は生きられませんし・・・。

純粋に、「カネ」のことだけに限って考えましょう。「食糧安全保障」だとか「稲作は日本の文化」だとか、そういうことは抜きにしてです。

商品の価値は市場が決定します。かつて、散々騒がれた「牛肉自由化」。日本の畜産業は壊滅しましたか?自由化反対論者は「壊滅する」と言っていたのですよ。確かに安い米国、豪州の牛肉が市場に溢れていますが、地元の高級とは言えないスーパーでも、国産牛はきちんと売られています。消費者はただ「安」きに流れるのではないのですよ。牛肉に関していえば、国内生産量は自由化前とほぼ大差なく年間50万トン前後とのこと(読売新聞記事)。

記事には、日本の農産産物の高関税品目の一覧表が出てましたが、一番高いのは1706%の「コンニャクイモ」!!。この数字の根拠と、なぜその品目にその高関税なのかの理由を是非とも知りたいところですね。次いで「エンドウ豆」の1085%。「コメ」の778%がベスト3となっています。

皆さんの家庭でもそうだと思いますが、ただ単に「安い」という理由だけで、消費者がモノを買うとしたら大間違いであり、たとえ値段が高くともそこにそれだけの価値があれば買うわけでしょう。麺にしても、パンにしても、安価な外国産の小麦は今でもあるにもかかわらず、「国内産小麦使用」と明記して、高い値段で売っているじゃないですか。「農業が壊滅する」なんてことは到底考えられないですね。壊滅する恐れがあるのは「農業」ではなく、ある「品目」だと思いますよ、可能性としては。ただ、それも極めて少ないのではないでしょうか。「地場野菜」というのは、ある種の高付加価値商品になっていますし、たとえ、「エンドウ豆」が激安になっても、僕は中国産を買わない・・・。そういう人はたくさんいると思います。

付加価値というのは、商品の差別化を図ることで生れます。一般家庭だけでなく、産業で原料として使う農畜産物も、その原産国明示を義務付けられれば、やはり「国産」ということだけでも立派な差別化になるでしょう。

壊滅するかもしれない品目は「チーズ」が浮かびますね。自由化になったらフランス産のチーズが安く買えるわけですから、僕なんか飛びつきますね。先日のブログではないですが、生産技術の伝統が違いますからね。日本の乳業メーカーがつくるチーズとは比べ物にならない・・・。市場から駆逐されるでしょう。しかし、それが世のならいです。

前にも書きましたが、この国は貿易立国として生きていくしかない以上、「開国」か「鎖国」かと問われれば、「開国」を選択するしかないような気がします。そして、この戦争のない状態と、自由市場を守るためには、「道義」の上に立って世界中のあらゆる事に援助の手を差し伸べる・・・。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/blog-post_05.html

同じ島国であるイギリスはどうなっているのでしょうか。あの国の食糧自給率も日本並みに低かったと記憶してます。まぁ、イギリス人はあまり美食家ではありませんので、ジャガイモだけがあればいいのかも知れませんがね。


TPPについては、あくまでも、何の知見も持たない僕の意見です。この件について、新聞報道以上の情報も、書籍等による勉強もしていません。

今日はこれまで。

2010年12月1日水曜日

今日から師走

師も走るほどの慌ただしさ・・・。「師走」とはよく名付けたものです。

1年はあっという間ですねぇ。別に忙しくも何ともないのに、時間は早く過ぎていくものだと発見しました。


先日、国会中継を見てました。あまり気分のよいものではありませんね。なんか弱い者いじめをしているような印象を受けてしまいました。答弁に立つ総理や官房長官をはじめとする各大臣は、支離滅裂で、質問の答えになっていないようなものが非常に目立ちましたし、それを声を荒げて追及する野党議員も、なんか品がないというか、自身は責任を負わない気楽な立場からの強圧的な、一方的な物言いが多かったですね。責められる総理に同情を禁じ得ませんでした。

「政治は賤業である」とは、誰の言葉でしたか忘れましたが、「政治」なんてものは常人には務まるものではないですね。あまり関わり持たない方が良いかと思います。政治というのは、とどのつまり相手を抹殺しなくてはならないもの。しかも厄介な事には、相手の言い分を、価値観を認めると受け入れるといいながら、実はまったく相手のことなど考えないのです。政治なんていうものはそういうものです。

前にも書きましたが、次の総選挙では民主党は大敗するでしょう。その後議席をかろうじて確保した議員にしても、もう二度と質問にたてないのではないかと心配してます。特に大臣経験者はね。だって、あまりにもひどい国の運営でしたからね・・・。

「政治改革」という言葉が流行った時期がありました。もう、熱病のように冒されていました、その言葉に。自民党から新党さきがけや新生党が分裂した頃ですね。大仰な言葉のくせに、その中身は単なる「選挙制度改革」でしか過ぎなかったのですよ。なんでも二大政党制を目指すのだとか・・・。その結末がこのありさまですからね。

その対象がなんであるにせよ、「熱狂」というのは人を、世を狂わせるもとです。僕はこう断言できると思います。

立ち止まる勇気こそが「思慮」のもと・・・。

今日はこれまで。