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2010年12月29日水曜日

型の喪失 その2

白樺派は学習院出身者で多くを占められていました。彼らの多くは軍人嫌いで、それは明治末期に昭和天皇の教育係を命じられた乃木希典が院長になり、乃木の推し進めた復古調の、儒教的な「修養」への反発からです。


「白樺派は人類の意思のおのずからなる発露、人類の素直な生長、個性の伸長を阻害するものと闘った。家、すなわち修身斉家の伝統の具体的な勢力と型をもつ家、家長の支配する家と闘った。殊にその同人たちが多く学習院出身者であるということ、すなわち名家の出であるということにおいてそれは顕著な、またいっそう触目的な傾向であった。」

当の幼き昭和天皇御自身は、終生にわたり乃木の謦咳に接したことを善き思い出と述べられたことは周知の事実。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/65.html



明治の「修養」に変わって大正になると「教養」という言葉が使われるようになります。後者には「型」というイメージはありません。というより、「型にはまった」ことは軽蔑され、形式主義が斥けられるようになるのです。


その「教養」派にとっては、乃木の殉死さえも否定的なものとなります。唐木のいう「素読世代」、鴎外、漱石が受けた衝撃とは全く異なるものです。大正10年に発表された芥川龍之介の「将軍」という本があります。これについて小林秀雄はこんな風に語ります。

「『将軍』の作者が、この作を書いた気持は、まあ簡単ではないと察せられますが、世人の考へてゐる英雄乃木のいふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる。(中略)作者が技巧を凝せば凝すほど、作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上がる。最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場しまして、こんな意味の事をいふ、将軍の自殺した気持は、僕等新しい時代の者にもわからぬ事はない、併し、自殺する前に記念の写真を撮ったといふ様な事は、何んの事からわからない。自分の友人も先日自殺したが、記念撮影をする余裕なぞありませんでしたよ。作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう。

「僕は乃木将軍といふ人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思つてゐますが、彼の伝記を読んだ人は、誰でも知ってゐる通り、少なくとも植木口の戦以後の彼の障害は、死処を求めるといふ一念を離れた事はなかった。さういふ人にとって、自殺とは、大願の成就に他ならず、記念撮影は疎か、何をする余裕だつて、いくらでもあつたのである。余裕のない方が、人間らしいなどといふのは、まことに不思議な考へ方である。これが、過去の一作家の趣味に止まるならば問題はない。僕が今こゝで問題だと言ふのは、かういふ考へ方が、先づ思ひ付きとして文学のうちに現れ、それが次第に人々の心に沁み拡り、もはやさういふ考へを持ってゐるといふ事なぞまるで意識しないでも済む様な、一種の心理地帯が、世間に拡って了ったといふ事であります。」


最後の小林の問題意識は、ここでは触れません。ただ僕は全くその通りだと思います。小林がこれを著したのは昭和16年のことです。翻って今日をみれば、戦慄するほどの「心理地帯」にあると思うのは僕だけではないでしょう。

唐木に戻ります。

「明治維新前後に生れ、幼時に四書五経の素読を受けたジェネレィション、すなわち今日在世すれば七・八十歳の思想家文筆家、すなわち鴎外、漱石、露伴、二葉亭、内村鑑三、西田幾太郎、そうしてその最後の型としての永井荷風と、明治二十年前後に生れた右の先達の門下とのあいだには明確な一線を劃せるのではないかと僕はかねがね考えていた。」

唐木はこれを「素読世代」と名付けます。そしてその特徴を次のように語ります。

「(素読世代は)儒教的な武士的な、卑屈をおよそ嫌う高潔なものをもっていた。たとえそれが四書五経とは全く反対な表現をとっていたにしても。そうしてその上に西洋を存分に吸収した。(中略)修身斉家治国平天下的な、そうしてまた十有五にして学に志し、七十にして矩をこえずの、経世済民の修業への意思が根本にあった。その上で西洋を学んだ。」

といいます。しかしながら、彼らは自ら「儒教的なものを意識し」「そのイデオロギーを奉じ」「それを培養しようとして」西洋を学んだのではないというのです。

「むしろ逆に西洋に没頭しながら、自分でも意識しないような根本に、あるいは骨格にそういうものがあったというのである。鴎外のあきらめ、漱石の神経衰弱、二葉亭の文学か政治かの悩み、露伴の小説放棄、鑑三の退官、西田哲学の悪戦苦闘、荷風の絶望等は、右のことを考慮しなければ理解しがたいものであろう。それらは、東洋と西洋、日本と外国との間の如何ともしがき相違、あるいは日本の後進性に由来する封建遺制と西洋近代との間隙を統一綜合しようとする苦悩のあらわれであった。彼らには苦悩を真に苦悩たらしめ、矛盾を真に矛盾たらしめ、その内心における相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形、型、人格、性格があった。」


 しかるに、彼らの弟子である世代にそれは見付けられないというのです。


「僕が今教養派と呼んでいる世代には、幼時あるいは少年時にその柔軟な骨格を型に形成する規範が無くなっていた。彼らは塾や寺子屋に座る代りに新式の学校教育をうけた。欧化主義が日本に表面化している時に育った。家庭の躾けも一般にいえばその基準に自信を喪ったときに育った。一言にしていえば、彼らは二代目の自由に中に成人した。形、型、性格を形成する規準が、鴎外のいう形式が失われた時代に育ち、そうしてみずからの思想的文筆的活動を始めうるにいたった大正期といふものが、前にも書いたとおりの複雑にして混沌たるものであったのである。」


大正期の「複雑にして混沌」という状況は、ソビエトの共産革命と日本での労働者階級というものの出現、そして藩閥政治への怨嗟、不満の声などを指しています。「江戸」を払拭しようとした「明治」は、続く大正にはいって、自身も払拭される対象となってしまうのです。そこから「社会改造」「国家改造」という言葉が出現してくるようになり、これは昭和11年の226事件でその檄発の最後を見ます。昭和を語るには大正を語らなければならない所以がここにもあります。そして大正を語るには明治を語らなければならない。しかし、明治を語るにはそれ以前を語る必要がないように思います。それほど江戸と明治の断絶はあるのです。


唐木の言う「型」、儒教的倫理というか武士的倫理というか、そういうものは単なるアナクロニズムなのでしょうか。僕はそうは思いません。普遍的な人倫の道であると確信しています。西洋から「ヒューマニズム」というものが入って来る以前から、この国社会は人間尊重ではない別の思想の文明がありました。それは「人間」を特別視しないということです。犬や馬や牛と同様、同じ命を持つものの一員にしか過ぎないというものでしょう。唐木は明治の「型」の喪失を表しましたが、喪われた「江戸」の文明の「型」の方が、その影響は大きかったと思います。

今日はこれまで。

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