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2010年12月30日木曜日

型の喪失 補筆

平成22年も残すところ2日のみとなった本日、今日は乃木希典の殉死が「型」を持つ明治人にどう受け止められたかをご紹介したいと思います。乃木自身も、「軍服を纏った聖僧(徳富蘇峰の言葉)」と言われたほどの人。まさしく古武士の相貌、風格をもった「型」の人間であったことはいうまでもありません。

「善の研究」で知られる哲学者西田幾太郎は明治3年生れであり、彼もまた唐木の言う「型」の人であったことは前述しました。彼も、また同じく「型」を持つやや年年長の内村鑑三(万延2年生れ)と同じく、乃木の殉死に大きな衝撃を受け、それを好意的に受け止めています。西田の場合は、弟を旅順攻略戦で亡くしており、将軍乃木に対しては複雑な感情があったと思いますが、その遺族感情は乃木が2人の息子を同じく戦死させており、しかも乃木の凱旋後の挨拶を聞くに及んで、その感情は一掃されます。

「只管忠良なる幾万の将卒を旅順攻囲の犠牲としたることの悲しくも亦愧づかしく、今更何の面目あって諸君と相逢ふの顔かあらん、出来得べくんば蓑笠に実を窶し、裏道より狐鼠々々と逃げ帰りたい」

これが乃木の挨拶です。乃木は功を誇るどころか、功を恥じたのです。

西田は、乃木の自害について次の様に手紙に書きました。

「あの様な真面目の人に対しては我等は誠にすまぬ感じがする。乃木さんの死といふ様なことが、何卒不真面目なる今日の日本国民に多大の刺激を与へねばならぬ。乃木さんの死についてかれこれ理窟をいふ人があるが、此間何等の理窟を容るべき余地がない。近年明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与へたものはない。」


 この西田の抱いた感激は、明治の世の一般的な受け止め方といえるでしょう。この西田より1世代後、明治26年生れの矢内原忠雄も、同様の感想をもちました。矢内原は支那事変中の国家批判を不穏な言説とされ、当時の東大経済学部教授を追われた人物ですが、彼は明治国家の理想を体現したような青年でした。彼は、深く「明治」と結びつき明治人の精神的道統にたつことで自己形成を目指そうとした青年で、そのような己の立場を「武士的偏窟」と名付けていました。

「矢内原が引き継ごうとした明治人の精神的遺産とは、明治を建設したという彼らの強い自負心と独立精神、いかなる権力にも屈せずに己の主義―志に殉ずる精神とそのような人間への傾倒、いいかえるなら「志を志として尊ぶ心」ともいうべきものをひきつぐことにほかならない。」


 一方、矢内原とほぼ同世代、明治18年生れの武者小路実篤や、同16年生れの志賀直哉は白樺派のメンバーでもありますが、彼らは学習院時代の院長乃木に対して激しい嫌悪の情を抱き、ことごとく反発します。乃木もまた、彼らグループを「不良の群れ」と見ていたようで、「如何にして善導するか」に腐心していたといいます。

志賀は、大正元年9月14日の日記にこう書き記しています。

「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。」


この白樺派の乃木観の代表は、次の武者小路の手紙です。


「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云ひ、乃木大将を目して人類的の分子を少しももたない人と云ふのに君は不服なのか。(略)さうして君は乃木大将とロダンと比較して、いづれが人間本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命をよびさます可能性があるtぽ思つてゐるのか。(略)理論の如何に尊重すべきかを知る時に、(略)なぜ主義の為に殉ずる人のやうに自己に権威を感ずることなしに殉死されたかがわかるだらう。かくて自分は乃木大将の死を憐れんだのである。(略)ゴオホの自殺は其所にゆくと人類的の所がある。」


乃木の殉死を「人類的」に語るなど、コスモポリタン的な体質がよく現れています。白樺派の面々にとって、乃木や乃木が体現する「明治」という時代風潮など、嫌悪すべき対象でしかなく、その「明治」からの脱却が、次の「大正」の精神を形づくっていくことになるのです。

この白樺派より前の「自然主義」に対しては、西田もその風潮の蔓延するを憂えていました。

「青年が自然主義にかぶれ居る事は御校に限つた訳にあらず慨嘆の至りに候、自然主義も文芸の一派としてあながち排斥すべきものにあらずと存じ候へども、未た文芸の何物たるやも知らす、又真の自然主義をも理解せぬ様の乳臭児が自然主義の演説など沙汰の限りと存じ候。」


唐木が言う「型」とは、明治の精神という言葉に置き換えることができるでしょう。そしてそうであるからこそ、次の世代には旧習、固陋な伝統と映ったこととなったのです。アンチ明治が大正であり、その振れ過ぎた針が昭和に戻って来るといった流れでしょうか。いずれにせよ、それぞれは決して交わる事はなく、否定することだけの連続でした。だから、棄てなくてもいいものまで棄ててしまったのではないでしょうか。

今日はこれまで。

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