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2010年12月23日木曜日

批評家漱石

夏目漱石の講演に「現代日本の開化」と題されたものがあります。明治44年11月に行われたものです。漱石は、徹底的な「欧化批判」者でしたが、ここにおいても日本の開化を批判する物言いをしています。確か、以下は漱石の言葉だったと思います。

「西洋箪笥だけを持ってきて、中には着物をぶら下げている」


漱石は、「開化」というものには内発的、外発的といった両輪があるものだが、ご維新後の日本は、外発的に、つまりは追い立てられるようにしてそれを受け入れ、わかった振りをしていると言います。内発的な開化ではないと・・・。

食前に向かって皿の数を味い尽くすどころか元来どんな御馳走が出たかハッキリと目に映じない前にもう膳を引いて新しいのを並べられたと同じことであります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かねばなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのはよろしくない。それはよほどハイカラです、よろしくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫ってもろくに味さえわからない子供のくせに、煙草を喫ってさもうまそうな顔をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ちいかない日本人はずいぶん悲酸な国民といわなければならない。






すでに開化というものがいかに進歩しても、案外その開化の賜としてわれわれの受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうであることは前お話したとおりである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊な状況によってわれわれの開化が機械的に変化をよぎなくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、まことに言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとかいうのではない。どうすることもできない、実に困ったと歎息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸いであったのでしょう。真というものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思うことが時々あります。




 戦後の日本もまたアメリカの唱える「民主主義」やら「個の尊重」とかいう上皮を滑って行くだけ、しかも厄介なことに、今となってはそれがあたかも「人類の進歩」の如く語られている・・・。

この漱石の透徹した批評眼は、戦後のこの国をどう見るのか。

考えただけで憂鬱になります。

今日はこれまで。

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