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2009年7月28日火曜日

坂本龍馬

今日は高知に来ています。
「竜馬がゆく」を読んだ後の魂が震えるような感動は未だに忘れられません。
司馬遼太郎はあとがきにこう書いています。

「この若者の場合、天がこの国の混乱を鎮めるためにこの世に遣わし、その役割を終えた途端に天に召し上げたとしか思えない」

彼は確か33歳の誕生日11月15日に暗殺されています。暗殺犯は未だに謎が多く、特定できていないようですね。薩摩藩が後ろで糸を引いていたとの説もありますね。龍馬は戦争を必要なかったと思っていましたしね。徳川慶喜が大政奉還したときに、徳川慶喜に対して涙したと言われてます。彼は自分が商売(貿易)しやすい世の中になればそれでいいと思っていました。一方の薩摩は振り上げた拳の下ろし先を何としても見つけたかった。何としても戦争を欲した薩摩にとってみれば、龍馬は眼の上のたんこぶだったんですね。そう考えると、「龍馬暗殺の背後には薩摩藩がいた」と言われても納得してしまいます。「さもありなん」と・・・。

龍馬は大政奉還の後、「船中八策」を書き上げ、薩摩藩邸で西郷隆盛に新政府の青写真を示します。
その中に彼自身の名前のない事を訝った西郷の、「おはんの名前がみあたらんど?」との言葉に

「わしは役人にはならん」
「じゃ、何をすっど?」
「世界の海援隊でもやりますかいのう」

との会話がなされたようですね。
その場にいた陸奥宗光が書き記しています。

僕はこの下りが「竜馬がゆく」の中で一番好きな個所です。これぞ「坂本龍馬」ですね!



2009年7月27日月曜日

第18回三と一の会お知らせ

メンバー各位

第18回三と一の会を8月7日(金)にちよだプラットフォームにて19時より行います。
場所は地下のミーティングルームとなります。

久しぶりに私がプレゼンターを務めたいと思います。テーマは「226」!
このテーマは、私が3年ほど前からずっと研究してきたもので、、話すとなったら全10回あっても足りないのですが、とりあえずその1として、皆が知らない事件の一断面をご紹介したいと思います。

この写真は、平成元年の映画「226」です(確か松竹で、監督は五社英雄)。史実的には「?」というか、でたらめもありますが 雰囲気はよく伝えていると思います。

それでは、当日お会いしましょう!



2009年7月23日木曜日

もういっちょ、鹿児島ネタ

西南戦争時に官軍で組織された抜刀隊を讃えた歌です。


吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従ふつはものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぢぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起せし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし


この作詞は東京帝国大学教授だった外山正一。 作曲は陸軍軍楽隊教師として招いていた仏人、 シャルル・ルルーであった。初演は明治18年、 鹿鳴館においてである。


「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」

作詞者外山正一はこう言っている。

これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。



この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
愛国心を鼓舞するはずのこの歌が何故か哀しい調べに聞こえる。


前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登るのは 未来のことと聞きつるに
此の世に於て目のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして
族を征伐するがため 剣の山も何のその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。


江藤淳はこのように言う。


「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」

「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」


弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後を遂ぐるとも 忠義のために死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更にうらみなし
われと思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
幕臣の子として蕃書調書に学び、最初の日本人留学生として米国ミシガン大学に学んだ秀才であった。
彼もまた亡んだものへの哀切の情、西郷や桐野の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたに違いない。

再び江藤淳。

「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」

出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」

今日は鹿児島

鹿児島と言えば、西郷隆盛です。彼ほど愛された人物は日本の歴史上存在しないのではないでしょうか?
つくづく考えてしまいます。
でも、かれは新政府に弓を引いた賊軍の大将ですよ!
何故こんなにまで顕彰されているのでしょうか?僕自身は、彼を好きでも嫌いでもないのですが、若い頃もそして今ですら目標としたい人物ではありません。その理由は簡単で、同じ人間としてのスケール感を持てないからです。けた外れと言うか、彼の度量を測り知れないからです。
それと、倒幕の頃の西郷と、維新後の西郷は人物が変わってしまったのではないかと思うほど、その行動が異なっていると思っているからかも知れません。倒幕の中心だった頃の西郷は、リアリスティックな革命家で、物事をかなり正確に、論理的に捉えていたかと思うのですが、征韓論に敗れて下野してからの彼はそれがすっかりなりをひそめるような気がするからです。

「おはんら、一体なんちゅうことをしでかした!」

西南戦争は、西郷のこの言葉から始まりました。鹿児島私学校生徒が、政府の弾薬庫を襲ったときの彼の言葉です。
巷間言われていることですが、西南戦争時の彼は、一切の指示も決断もせず、ただ周りに担がれたままでした。彼は、この言葉を発した時に自らの運命を悟ったのではないかと思います。

「拙者儀今般政府への尋問の廉之れ有り」
これにはじまる鹿児島からの出陣も、ついには負け戦となって再び鹿児島への逃避行となります。 西南戦争は哀しいですね。 僕には、武士の中でも戦国の美風をひときわ遺す薩摩兵が、自ら滅びの道を選び取り、そして当初の目的通り、滅んでしまったように思えるからです。

「西郷、もういい加減にせんか」
病床にあって、乱の行方を心配していた木戸孝允は、こう云いました。 しかし、「いい加減」にはできなかったのでしょうね。儒教的倫理観の固まりのような大西郷は、維新後の世の中の全てが汚らわしく、特にかつて武士としての埃を捨て、自らの栄達ばかりに奔走する多くの人間が我慢ならなかったと思います。そんな連中に一泡ふかすには、自らが死ぬまで戦うしか道がないと思ったのでしょう。もとより勝敗は度外視だったと思います。

彼は、この国が何百年もかけて築き上げたこの国のかたちと、愛すべき薩摩の士風とともに、滅びの道を歩んだのだと思います。 それが、彼を愛すべき人物として今なお顕彰の対象となる理由かも知れません。

西南戦争時、西郷軍の一番隊大隊長篠原国幹(陸軍少将)の子孫と、おとといは朝4時まで飲んでました。
これも不思議な縁ですなぁ。









2009年7月22日水曜日

佐賀藩と言えば・・・

山本常朝の「葉隠」が有名です。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の一節が人口に膾炙してますが、
「人間一生誠短きものなり。好いた事をして暮らすべきなり」や、または
「恋の至極は忍ぶ恋とみたて候」という一節が僕のお気に入りです。

先ほどの投稿でも書きましたが、幕末の佐賀藩は戦争を支えるかなり際立った技術を持った藩でした。
ここは、江戸期のある時期に超スパルタな藩士教育をしたことをご存知でしょうか?
家督相続の際、試験に合格しないと最大で8割の家督を召し上げたそうです。
そういう厳しい掟があったため、試験に合格するためテクニックのみが偏重されたようです。
それに反抗したのが、早稲田大学創始者の大隈重信でした。

「人ト生ジテ自助独立ノ権ナク、己ノ生涯ノ利害ヲ人ニ任シテ
不羈セラルルハ牛馬ニ均シカラズヤ」

彼の言葉です。福沢諭吉もそうですが、この両名、その建学の精神が似通ってますね。

そのスパルタの詰め込み教育は、昭和になってもしばらくはその残滓があったようです。
昭和40年代の司馬遼太郎の本に、佐賀県は人口当たりの司法試験合格者数が全国一と
言うことが書いてありました。今はどうかわかりませんが。

巷間、地方分権が喧しいですが、江戸期の日本のようにまた地方は豊かな文化を育むことが
できるのでしょうか?それなくしては、どこも金太郎飴のようにミニ東京が全国にできるだけでしょう。
そして、それが今の騒ぎの顛末のような気がしてなりません。


佐賀に来ています

またまた田村さんに喜ばれそうな写真です。戊辰戦争で大活躍した佐賀藩のアームストロング砲です。上野の山に立てこもった幕府の彰義隊を不忍池を飛び越えて加賀藩邸(今の東大赤門付近)から砲撃したのがこの砲です。もう一枚の写真は、140年の時を超えて今なお残る佐賀の乱の時の弾痕です。鉛色がわかるでしょうか?夏草や兵どもの夢の跡ですなぁ
Ryo

2009年7月10日金曜日

再び小林秀雄

読書家である、みなさんに今日は小林秀雄の「読書について」から一部抜粋してご紹介したいと思います。
これは、昭和14年に著されたものです。僕の好きな文章です。特に最後の「諸君に何の不足があるというのか」という問いかけは、自分自身に問われているようで、自然と襟を正してしまいます。



 文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に
目覚めさせるもので、読書は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうかを確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存ししたのはどういうわけか。はっきりと眼が覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。

 書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した顔に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。
 みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。諸君になんの不足があると言うのか。


解釈は皆さんに委ねましょう。