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2009年7月23日木曜日

今日は鹿児島

鹿児島と言えば、西郷隆盛です。彼ほど愛された人物は日本の歴史上存在しないのではないでしょうか?
つくづく考えてしまいます。
でも、かれは新政府に弓を引いた賊軍の大将ですよ!
何故こんなにまで顕彰されているのでしょうか?僕自身は、彼を好きでも嫌いでもないのですが、若い頃もそして今ですら目標としたい人物ではありません。その理由は簡単で、同じ人間としてのスケール感を持てないからです。けた外れと言うか、彼の度量を測り知れないからです。
それと、倒幕の頃の西郷と、維新後の西郷は人物が変わってしまったのではないかと思うほど、その行動が異なっていると思っているからかも知れません。倒幕の中心だった頃の西郷は、リアリスティックな革命家で、物事をかなり正確に、論理的に捉えていたかと思うのですが、征韓論に敗れて下野してからの彼はそれがすっかりなりをひそめるような気がするからです。

「おはんら、一体なんちゅうことをしでかした!」

西南戦争は、西郷のこの言葉から始まりました。鹿児島私学校生徒が、政府の弾薬庫を襲ったときの彼の言葉です。
巷間言われていることですが、西南戦争時の彼は、一切の指示も決断もせず、ただ周りに担がれたままでした。彼は、この言葉を発した時に自らの運命を悟ったのではないかと思います。

「拙者儀今般政府への尋問の廉之れ有り」
これにはじまる鹿児島からの出陣も、ついには負け戦となって再び鹿児島への逃避行となります。 西南戦争は哀しいですね。 僕には、武士の中でも戦国の美風をひときわ遺す薩摩兵が、自ら滅びの道を選び取り、そして当初の目的通り、滅んでしまったように思えるからです。

「西郷、もういい加減にせんか」
病床にあって、乱の行方を心配していた木戸孝允は、こう云いました。 しかし、「いい加減」にはできなかったのでしょうね。儒教的倫理観の固まりのような大西郷は、維新後の世の中の全てが汚らわしく、特にかつて武士としての埃を捨て、自らの栄達ばかりに奔走する多くの人間が我慢ならなかったと思います。そんな連中に一泡ふかすには、自らが死ぬまで戦うしか道がないと思ったのでしょう。もとより勝敗は度外視だったと思います。

彼は、この国が何百年もかけて築き上げたこの国のかたちと、愛すべき薩摩の士風とともに、滅びの道を歩んだのだと思います。 それが、彼を愛すべき人物として今なお顕彰の対象となる理由かも知れません。

西南戦争時、西郷軍の一番隊大隊長篠原国幹(陸軍少将)の子孫と、おとといは朝4時まで飲んでました。
これも不思議な縁ですなぁ。









1 件のコメント:

  1. 田村です。

    小学生の時、同時に読んだ伝記2冊が西郷隆盛と織田信長。
    分かり易い戦国時代の織田信長に比べ、西郷隆盛はやはり
    難しい内容でした。

    まだ覚えているのは、月照と一緒に船から飛び込んだイラストです。
    西郷隆盛だけ生き残り、月照は帰らぬ人に。

    ♪大君の ためにはなにか 惜しからむ
     薩摩の瀬戸に 身は沈むとも♪ 月照・時世

    たしかこの時、西郷隆盛も詩を詠んでいますが、
    ネットですぐに見つかりませんでした...

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