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2011年11月20日日曜日

ブログの引越し

約4年に渡って使用してきた3and1のドメインを12月に期限が切れ、再登録しないことに決めました。今のところ、不定期の開催になってますのでメーリングリストもほぼ必要なくなります。 
皆さんが取得した3and1のメルアドも失効しますので、ご承知おきください。
これまではマー君が管理人となっていろいろやってもらってました。
この場を借りてお礼申し上げます。

それに伴い、このブログも下記アドレスへ引越ししました。
新しいブログ名は「31と64」。
今までの「三分の侠気と一点の素心」に加え、「六分の侠気と四分の熱」の「6」と「4」を加えました。

http://31to64.blogspot.com/

これまで同様、ユーザー登録をお願いするとともに、ご高覧のほどよろしくお願いいたします。

それでは、新しいブログでお目にかかりましょう。

今日はこれまで。

2011年11月15日火曜日

自家撞着(でたらめもいい加減にしろ!)

本日(11月15日)の日経トップ記事。

TPP世界経済の4割


の文字が躍っています。まったくふざけた記事です!割合だけは確かにその通りです。日本が参加を表明し、カナダとメキシコが参加を表明したことを受けて、全部で12カ国になった結果が4割だというのです。

その数字は嘘ではありません。ただし、日米2カ国だけで世界経済にしめる割合が既に約30%だということをおそらく故意に書いてありません。Wikiによると、IMFが試算した2011年の世界経済の規模は単位が$US10億ドルで70,012、アメリカが15,065、日本が5,855です。

つまり、他の10カ国の経済規模が世界経済に占める割合は僅か10%でしかないのです。

カナダ、メキシコが参加したからといって、一挙にTPP参加国の経済規模が上がったわけではない!その2カ国での経済規模は2,944(単位同)でしかなく、同比率は僅か4%に過ぎない。しかも、その2カ国とも既にアメリカとはNAFTAにより自由貿易状態にある。したがって、その2カ国も輸出の標的は間違いなく日本であることは明白だ。

カナダ、メキシコはNAFTAでアメリカにやられた仕返しを日本にやり返そうとしているのですよ。それも、彼らは何も言う必要がない。だって、アメリカが日本の全てを壊してくれるから。

タネ本は忘れましたが、カナダの農業はNAFTAによって小規模農家は駆逐され、生産額の8割がアメリカ資本の企業なのです。したがって「赤毛のアン」でみるようなのどかな農家の物語りとは全く縁遠いのが実際のところ。



さて、記事にはこんなことが臆面もなく書かれている。

これまで「米国と小国の連合体」の色彩が強かったTPPだが、日本を含めた3カ国が加われば、経済規模は一気に世界の4割を占める

間違いなく断言できるのは、これまで交渉参加を嘘八百のでたらめを書いて煽ってきた日経はTPP参加交渉国を「「米国と小国の連合体」」とは一言も書いていなかったこと。今になって本当の姿を書いています。だって、そんなこと書いたら、「世界の潮流に乗り遅れるな」とか、「国際的自由貿易の枠組み」という言葉とは明らかに矛盾するからね。それが今になって何を言っているんだ!


さらに第一生命経済研究所のチーフエコノミストの口から、こんなことも語らせています。

中国並みの成長市場へのアクセスが容易になる

何でも日本を除く11カ国の今後5年間の経済成長率は中国に匹敵するとかで、この文章を載せているのですが、おいおいちょっと待て!その成長の原資は内需なのか外需なのかを書いていないじゃないか!外需で経済成長を為している国に、輸出なんぞできるのか?しかも、アメリカを除けば残り10カ国の市場規模なんぞたかがしれているだろう。

こんなことを平気で書く専門家がいかに馬鹿なのかがよくわかる。成長市場とかいう普通名詞に完全にだまされているんだね。

さらに続けます。

「日本、カナダ、メキシコのTPP参加交渉参加を歓迎する。米国で数万人の雇用を生み出す画期的な出来事だ」

とオバマ大統領の言葉を載せてますが、これなど米国で数万人の雇用を生むということは、裏返せばこの3カ国から同じだけの失業者を生むということ。しかも、カナダ、メキシコとはすでにNAFTAがある以上、このオバマ大統領の言葉の裏には標的は日本しかないということがすぐにわかる。


あきれ果ててものがいえない。きちんと事実を書け!


僕は、最近ここでしつこいくらいに書いてきた新聞の報道姿勢だけでなく、今までの社会認識のパラダイムが完全に変わらざるを得ない衝撃の事実を知ってしまった。これは、次回3と1で皆さんにご紹介したいと思います。

まさに信じがたい、正確にいうと信じたくないという思いです。

今日はこれまで。






2011年11月13日日曜日

だからいわんこっちゃない!

本日二度目の投稿です。

Yahooのヘッドラインニュースみまたしたか?


日米首脳会談 オバマ大統領、非関税障壁撤廃求める 今後の厳しい交渉暗示される場面も

野田首相は12日、ハワイでアメリカのオバマ大統領と会談し、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉参加に向け、関係国との協議に入る意向を伝えた。(フジテレビ系(FNN))
[記事全文]

ということが早くも出てきました。TPPなんぞ国を滅ぼす元だと反対している人たちにとってみれば

「だからいわんこっちゃない!」という冒頭の言葉になります。

非関税障壁とは、要するにアメリカの気に食わないこと全てが当てはまります。例えば、アメリカ車は左ハンドルなのに、日本は右ハンドルなのはけしからんとかね・・・。これは極端な例ですけど、ほんとに何でもありなんだよ。

比較的知られた話では、日本の高速道路で二人乗りが認められるようになったのは、アメリカが日本に提出した年次改革要望書にそれがあったから・・・。日本でハーレーが思ったよりうも売れないのは、その制限のせいだということで、アメリカの業界団体がアメリカ政府に圧力をかけて、その圧力がアメリカ政府から日本政府にかけられたということ。高速道路での二輪車の二人乗りの禁止というのも彼らのいう非関税障壁なわけだ。

政府や推進派が言っていた「保険診療は交渉分野に入っていない」という言葉は、もうすでに「でたらめ」だったことが明白。アメリカはここぞとばかりにたたみかけてきますよ。日本の商慣行の全てを標的にしますね。間違いなく!それが交渉分野に入っていなかったのは、そこに日本市場がなかったからにすぎません。

簡単に想像がつくのは、今の「エコカー減税」についてのいちゃもんですね。アメ車はその恩恵を受ける車種がありませんので、それも「非関税障壁」になるでしょう。また、車検制度とかもその俎上にのぼるかも知れません。


これは松尾さんから聞いた話ですが、今のSuicaはソニーの技術が採用されているらしいのですが、これは全世界を対象にプロポーザル形式で募集したらしいですね。その際の技術基準が

「非接触型で0.2秒以内に情報を読み取れること」

だったのですが、これにアメリカ企業はかみついたらしいですよ。

「そんなことができるわけがない。日本の企業は実現不可能な技術を条件に参入ハードルをあげているに違いない」とね。これも彼らの目には「非関税障壁」に映ったのです。

ところが、こういわれたJR側は慌てずにこう切り替えしたらしい。

「ラッシュ時の新宿駅の改札をみてきてください。0.2秒以内に情報を読みとらなければどんな事態になるかがわかります。」

アメリカ企業は納得したらしいですがね。

オバマ政権は輸出倍増戦略を掲げ、なりふりかまわず輸出攻勢を仕掛けてくるでしょう。そんな中に日本がのこのこ出て行くのは、ほんとに焚き火の中にまきを背負って飛び込むようなものだ。

なぜ、こんなことがわからないのか?

今日はこれまで。




ほくそ笑む

これまで、問題を矮小化して幼児のような二項対立の世界観でもって、無責任なでたらめな論説でその参加の旗振り役を務めてきたマスコミは、してやったりでしょうね・・・。

交渉に参加すると野田首相が明言してしまいましたから・・・。

この期に及んでも新聞は正気とは思えないことを書いてます。例えば、「アジアとアメリカの橋渡しとなって、有利な条件を勝ち取るように交渉せよ」とかね。

宮沢・クリントン時代から始まった「年次改革要望書」は、日本だけが一方的にそれを飲まされている事実を何故にマスコミは公表しない?対米通商交渉は、古くは繊維から始まって牛肉・オレンジの交渉まで、常に日本が譲歩し続けている事実をなぜ問題視しない?

おそらく、それを知らせてしまったらアメリカとの有利な交渉など進められっこないということを皆が知ってしまうからだろう。都合の悪い事実は伏せるのは彼らの常套手段。

大体、国の安全保障という国家存立の首根っこをアメリカに抑えられているのに、そのアメリカ様に対等な交渉ができると思うことが間違っているだろう・・・。

特に、マスコミがこぞっていう「アジア」(実はアジアなんてほとんどない)の国々は、台頭する中国への押さえとして皆アメリカの軍事力に頼っているんだぞ。日本と組んでそのアメリカにたてつく国などあるわけがないだろう・・・。

もう何度書いたかわからないけど、ほんとにその報道姿勢にはあきれてしまう。国を売ろうとしているとしか考えられない。

今日はこれまで。


2011年11月11日金曜日

想定外もしくは予想外

震災以降、「想定外」という言葉をよく耳にするようになりました。


さて、オリンパスの事件が世を賑わせています。決して後知恵ではなく、外国人社長が突然の解任となった事件の直後に、「会社ぐるみで何かを隠しているな」と直感しました。あの直後に明らかにされた買収の仲介会社への巨額の報酬はただ事ではないし、しかも「適切に会計処理した」と再任された社長が強弁するに及んで「ますます怪しい」と思いました。

案の定です。

もう、何とも言葉がないなというのが率直な感想です。おそらく菊川社長と、その2代前くらいの社長たちは、株主代表訴訟を起こされるでしょう。晩節を汚すのも極まれりといったとこ。

「自殺でもしたほうがいい」

と、父親は言い放ちました。僕もその罪万死に値すると思います。

テレビで意見を問われる弁護士やらは、「ガバナンスの問題」とか、すぐに組織の問題を口にします。僕が思うに、「彼らに公徳がなかったから」というだけの問題だと思います。それを隠蔽し続けた組織の体質ではなく、そのトップには「社」の徳があって、「公」の徳がなかっただけのことです。

とはいえ、法律を犯した罪人であっても、家庭や地域では善良な人、しかも社会的地位のある人であったわけで、決して極悪非道な人ではなかったはず。しかるに、なぜ「会社」という組織ではその「私」なり「公」なりの「徳」が覆い隠されるのか・・・。僕はそんなことを考えてしまいます。

したがって、彼らを弁護しようとは思いませんが、声高に断罪したりすることにも違和感があります。個人のそれが、時に何かに流され、押しつぶされ、心の奥底に沈めざるを得ないこともあるというのは組織に生きる人ならば皆思い当たるだろうから・・・。

この国ではその「何か」が「空気」なわけですね・・・。

それを感じ取れなかった外国人社長が、初めてそれを口にして大騒ぎとなった。

あの外国人社長は、菊川社長が連れてきたのではないの?だとしたら、菊川社長は内心忸怩たる思いでしょうね・・・。

飼い犬に手をかまれたということですね。おそらく彼にしてみれば「予想外」のこと。

これも人生の不思議さですね。

今日はこれまで。


2011年11月7日月曜日

秋は夕暮れ・・・

ここのところ、めっきりと秋が深まってきました。

昨年はちょうどこの頃、「柿」についていろいろ書いていたのを思い出します。

今年はというと・・・。日が暮れ行くさまのもの悲しさに心をうたれます。

秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいてなどの連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。

僕が感じる秋への思いは、1000年以上前に清少納言が言っていたことですね。彼女がみた秋の風景と、僕のみることのできる秋のそれは、明らかにことなりますが、それが映し出す心象は同じものだといえるのかも知れません。

今日はこれまで。

2011年11月4日金曜日

たまに新聞を開いてみれば・・・

やはり不愉快にならざるを得ない・・・。

テレビのニュースもそうです。例えばギリシャの財政危機問題。決まって言われるのは日本は対GDPでみた「国」の借金がギリシャよりも大きいと、危機感を煽るような言い方です。「国」と括弧でくくったのは、三橋貴明が言うように正確には「政府」の借金であって「国」のではないということを至極妥当なものだと思うから・・・。

大体、借金額の多寡だけを論じるのは大きな間違いだということに気がつかないのだろうか?資産1億円の人の2億円の借金と、資産100万円の人の1億円の借金ではどちらがまずい状況かはすぐにわかる。それは借金額の多寡ではない。しかるに、報道も、さらには国会議員ですら額の多寡だけを問題にして危機感を煽っている。これは正しい姿なのか?

本日(4日)、驚いたのは日経の5面。

内閣府の発表した2.7兆円の効果。TPP参加した場合の数字です。同記事にはこうあります。

中立的な立場から内閣府が提示した試算は、「10年後の実質GDPは2.7兆押円し上げられる」。単純計算した累積押し上げ額は13.5兆円。年1兆3,500億円の効果となる。

僕にはこの計算の意味がわからない。10年後に2.7兆円となるのに、それに10をかけるのか?正しくは10年後に2.7兆円になるから、単純計算して年に2,700億円の押し上げ効果ではないのか?

さらに、相変わらず「試算には単純な関税撤廃効果だけで、アジアの今後の成長を織り込んでいない」とか書いている始末。だから、どこの「アジア」なのか教えてくれ!

日経だけでなく、読売もそうなのだが、TPPへの参加を国家の安全保障の観点から説いている記事が多い。

その主張のおかしなところは、そういう主張と同じ口で「交渉が不利になったら離脱すればよい」とかいってること。とにかく「安全保障」という観点があるのなら、離脱などおかしいではないか?

歴史を知らぬ、戦史を知らぬ人に教えよう。経済の結びつきなど戦争防止には何の役にも立たないのだと・・・。

第一次大戦時の各国の経済的結びつきは今よりもずっと強い。
1913年の主要国のGDPに占める輸出の割合は以下の通り。()内は1993年の値。

英:33.9(19.4)
仏:13.8(16.5)
独:19.2(23.1)
ベルギー:57.1(52.9)
伊:12.4(18.5)
日:14.2(8.4)
米:7.2(7.2)
豪:42.2(12.3)

出所「戦場の未来」ジョージ・フリードマン&メレディス・フリードマン


世界は二度の大戦を経てグローバル化したのではなく、その前からそうだったのだ。もちろん、金融・投資の面では当時は今とは比較できないが、あくまでも製品輸出だけでも、今と変わらぬほど密接なつながりがあったのだ。

この歴史を鏡とするなら、たんなる経済上の取り決めが安全保障にも極めて重要だという主張には留保がつけられるべきだと僕は思う。


そういえば、伊藤元重という東大教授がこんなことをTPP参加推進者の集会で述べていたのをテレビでみて唖然とした。いわく「国を閉ざして繁栄した国は私の知る限りない」と・・・。

自国民の食料のほとんどを輸入に頼っているこの国が「閉ざ」されているなどとはいえないだろうというのが、第1点の僕の疑問。第2の疑問は江戸の鎖国政策は270年にも及ぶ平和な期間を生み出し、世界にも類を見ない「非支配層が文化を生み出した」という歴史があるではないか。それは繁栄とはいわないのか?ということ。いい加減に江戸時代は暗黒だったという虚妄から目を覚ませといいたい。

僕は、この伊藤元重という人の本を数冊持っていたので、非常にがっかりしました。

今日はこれまで。


2011年11月1日火曜日

不愉快

最近、ここ2週間ばかり新聞には目を通さなくなりました。
正確に言うと、番組欄とスポーツ欄だけはみていますが、主要記事満載の1面には
目をつむっています。

精神健康上には、そのほうがどれほどいいかわからない。

とはいえ、ネットから情報は得ているので目にしたくないものであっても、目に入ってきてしまいます。


内閣府が発表したTPP参加時の国内GDPに与えるプラス効果が2.7兆円という数字・・・。
日本のGDPは530兆円なので、その中の僅か0.5%程度だということは、内閣府が賛成派のいう「アジアの成長を取り込んで輸出を伸ばせ」ということを

「そんなうまくいくわけはない」

と打ち消したに等しいと思っていました。

ところが、この2.7兆円という数字。何と単年ではなく10年間の累積だと知ってびっくり!

さらには、「10年間という正しい注釈をつけて報道したのは、僕の不倶戴天の敵である朝日新聞のみであったと知って、もう体から一切の気力がうせてしまいました。

10年間で2.7兆円ということは、単年で2,700億円にしかすぎないことになります・・・。何のこっちゃ?

まったくもって新聞の報道姿勢はおかしなことだらけ・・・。アメリカからお金でももらっているのだろうとしか考えられないですな。

不愉快極まりない・・・。

今日はこれまで。


2011年10月20日木曜日

果たして真意は那辺にありや?その4

民主党政権は、普天間での失策をTPPへの参加で補おうとしているのですね・・・。日経・読売・産経もアメリカべったりの現状の姿勢から、この国の真の独立への一歩を踏み出すことなく、「アメリカ様の要請ならば・・・」ということなのでしょう。それがおそらくTPP参加への真意でしょう。

しかるに、朝日や毎日の反米は一体どこへいったのか?

その真意は未だ「那辺にありや?」です・・・。おそらく、この国のかたちを滅ぼしたいのだな・・・。そのためには時に反米、時に親米・・・。

この問題では「赤旗」だけが唯一正しい!


昨日の読売には、ようやく、ホントに今になってようやくですよ、24の作業部会の項目が掲載され、そのそれぞれについての日本のメリット、デメリットが箇条書きで記されていました。もうアホらしくて
コメントする気もおこりません・・・。

「成長著しいアジアの市場を取り込め」

それが賛成派の一番の根拠ですが、その筆頭である中国も韓国も入っていないじゃないか!一体、どの「アジア」なんだ?

「中国封じ込めにも資する」

とか、要するに安全保障上の意味合いからも参加せよとか言ってるが、TPPは経済連携であってそこに軍事的な側面など微塵もないだろうが!アホか!

世の中の風潮=マスコミの論調ではないということを再認識しました。おそらくこの問題も多くの国民は参加しないほうがいいと思っているのではないか?ただ、問題は政治家がマスコミを向いて仕事をしているということで、世の中の声なき声をわかっていないということ。

心底嫌になるわ・・・。

今日はこれまで。

2011年10月17日月曜日

良書紹介

ここ1週間ほど寝込んでいた僕は、その間かなり本を読みました。

そのいくつかをご紹介します。そしてここに挙げた本が、ここのところTPPに関わる新聞記事を批判した文章のタネ本となります。順不同でご紹介しますが、まず「公共事業が日本を救う」と題された本には、世の中に流通している公共事業悪玉論の中には明らかな事実誤認や、都合のよいように書き換えたデータが数多く存在し、そんな嘘をベースに公共事業を不要にしたらこの国が滅ぶと警鐘をならしています。かなりよい本です。著者は京都大学の土木の教授です。氏の示すところによって日本の道路は先進国の中で最悪の水準であることが明らかとなり、異様に高いといわれ続けている公共事業費の、世界との比較でも、条件を同じにすればアメリカと大差はないということが書かれています。
GDP=消費+投資+政府支出+経常収支なのだから、消費と投資がデフレ下で伸びないのならば、積極財政によって政府支出を伸ばす以外にGDP成長の道はないと明確に言い切ります。その論旨が明確で小気味が良い。



「TPP亡国論」「間違いだらけのTPP」は、TPPとは一体何なのかを考えるときの必須の双璧です。どちらもきちんとしたデータを使い、そのでたらめさ、そしてアメリカの狙いを予想しており、一貫してその参加は国を滅ぼすもとだと言い切ります。TPPに関する書籍はこの2冊を読めば十分でしょう。

これだけ読めば、世に流通するTPP参加の論説のいい加減さでたらめさがすぐにわかります。これらが僕のその論説批判のタネ本です。


亡国論の著者は中野剛志。以前も紹介しましたね。現役経産相の官僚で現在京都大学へ出向中。最初に紹介した藤井聡氏のもとにいるようです。

まちがいだらけの著者は東谷聡。彼はかなり硬質なジャーナリストだと僕は思っています。西部邁主幹の雑誌でよく記事を挙げていました。








ちょっと、毛色はかわります。僕の好きな三品和広の「戦略暴走」。ずっと読んでみたいと思っていたのですが、ようやく一気に読み終えました。これは、タイトルのとおり、新規事業の失敗を「戦略の暴走」と名づけ、その原因を追ったもの。事例は様々な業種から179集められています。中でも僕にとって興味深かったのは1990年代初頭の「リゾート法」によって多くの企業が、それに参入した後の、いわば「夢の宴」の後始末。そのころ、そんな仕事に関わっていたので、他人事とはあまり思えなかった。あとは伊勢丹がバーニーズと合弁した顛末とかね。伊勢丹はその何と平均利益の9年分の損失を出したんだとか・・・。三品氏の面目躍如は今回もでていて、それは、その暴走をなした経営者そのものを出していること。その主役として必ず分析対象としています。経営は属人的な要素の強いものであり、戦略は為すではなく、むしろ読むにあるといっている三品氏の研究姿勢には大きな共感を覚えます。

最近、立て続けに本を出していますね。また次の著作が楽しみです。


最後は、最近新聞の書籍広告で多く見ていた三橋貴明の著作です。彼は2ちゃんでの書き込みが発端で、ブログがブレイクし、それがもとで作家デビューをしたのだとか・・・。面白い経歴ですが、著作も実に面白かった。タイトルは「何があっても日本経済は破綻しない本当の理由」

彼も、最初に紹介した藤井氏と同様に、世の中に流通しているデータの解釈、その嘘を暴きます。たとえば、「国の借金」という言葉遣い。彼によればそこでいう「国」は単なる中央政府のことにすぎず、「国」という言葉をつかうのならば企業、民間あわせた借金を示さなければ正しい言葉遣いとはいえないといいます。まさしくその通り。そして「国の」とした場合の日本国の借金などなく、逆に250兆円近い、黒字があり世界一の金持ちなのだと。

そして、国債発行というかたちでまかなわれる中央政府の借金は、そのまま国内の金融機関やら個人の資産となる、つまりは形をかえるにすぎないといいます。彼も積極財政によるデフレ脱却を主張します。

三橋氏の著作はかなりありますが、あと2,3冊読んでみようとは思いません。僕には好きになれない文章だから・・・。決して内容のことではありません。

今日はこれまで。

2011年10月16日日曜日

果たして真意は那辺にありや?その3

今日は、13日の日経「経済教室」の「TPP参加の意義(下)」戸堂康之氏(東大教授)によって書かれた
論説をとりあげます。

結論から言うと、氏の論説は何の価値もなく、TPP参加の意義を無理やり作り出すために相当苦労したのだなとすら勘ぐってしまう。もう情けないの一言。こういう論説を撒き散らすのは害悪だ。

氏のいうポイントは3つ。

・輸出によって企業の生産性や効率性は上昇
・世界で戦えるのに国内にとどまる企業多い
・日本の農産物は高品質で輸入品に対抗可能

まず、「生産性」「効率性」の話。

企業は「金儲け」をするたに、海外市場に進出するのであって、「生産性」やら「効率性」やらを上げるためにそれをするのではない。そんなものは海外進出の結果であって、ましてやそれが企業の目標になるのか?したがって、海外進出が成功か否かを図るは、あくまでも利益が中心となるべきだと思う。生産性、効率性を追い求めるのがいかに「儲け」を阻害しているかは「ザ・ゴール」で明らかだ!

ついで2番目。

氏は、世界で戦えるのに国内にとどまる企業を「臥龍企業」と名づけ、いくつかの事例を紹介している。もちろん、そういう企業はたくさん世の中にあると存在していると僕も思う。ただ、そういう企業に対して僕がまず思うのは「円高で大変だな」ということ。もし、海外市場のために新たな投資でもしていようものなら、償却が大変だろうと心配する。氏はそのことについては一切触れない。

それに、そういう国内の企業が海外へ積極的に出て行きたいのなら、別にTPPなぞいらないのではないか?関税で多少有利になったとしても、為替リスクでそれは相殺されてしまうと思う。むやみやたらに海外、海外というのは無責任だろう。

氏は、こういうことを言う。

臥龍企業が目覚めて国際化することは、彼ら自身の国内生産や雇用を増やすばかりではなく、彼が海外で得た日本国内の他の企業にも伝わることで、日本経済全体の活性化にもつながる。

だから、それを後押しするためにEPA(経済連携協定)が必要であるというのだ(TPPはEPAの過激な形)。笑ってしまうのは、海外から得られた知識が他の企業に伝わる云々のところ。これは要するに企業ノウハウの公開ということで、こんなことがありえるのか?自社の優位性を揺るがすことをするわけがない!もう少しまともな作文を書けと言いたいわ。

そしてやはりこう言うのだ。

EPAの中でも、米国をはじめ環太平洋経済連携協定(TPP)は日本経済にとって特に重要だ。理由の一つは貿易拡大効果が大きいことだ。

として、その後に内閣府や経産省の試算した数字をそのまま挙げている。その検証もせずに・・・。何度もいうが、TPPに参加したって日本の輸出は増えない。参加国をみればわかるではないか。それにこの円高・・・。

しかし、それ以上に重要なのはTPPによる新しい知恵や技術の創出効果である。先進国である米国、オーストラリア、シンガポールなどが参加する予定のTPPでは、特にこれが顕著であるはずだ。実際、専修大学の伊藤恵子准教授の研究によれば。先進国向けの輸出を開始した企業は生産性を向上させるが、アジア向けの輸出についてはそのような効果はない。

これなど、何を言っているのかわからない。TPPによる知恵や技術の創出効果とは一体何を指しているのか、単なる願望ではないのか?またおかしなことに、日本とシンガポールは既にEPAを結んでいるし、この輸出額がGDPを上回っている特異な通商国家に今以上の何を輸出しようとしているのか示してもらいたい。また、TPP参加国の半数以上は農業国。国内の市場ははっきり言って非常に小さい。そんな国には輸出などできないでしょ。さらにいえば、それらの国に輸出したって生産性は向上しないらしい・・・。アジア=先進国ではないという定義だろうから。しかし、生産性なんぞ二の次だろう。そんな指標を持ち出すことがよくわからない。

最後は、日本の農産品は高品質云々であるが、これは氏の願望だろう。希望的観測に過ぎない。それも何のデータもなしにこう書いている。床屋政談ですな、まるで。

氏は、「臥龍企業」があるように必ず「臥龍農家」があるはずで、きっと世界に打って出る農家も現れるはずだというのだが、僕もその可能性は否定しない。ただ、それとTPPは何の関係もない。コメの輸入量が多い国はフィリピン、ナイジェリア、イラン、イラク、サウジアラビア、マレーシア、EUがあげられるが、この中でTPP参加国はマレーシアのみ。マレーシアが日本の高品質で高価格なコメを買ってくれるとは到底思えない・・・。たとえ、関税が0だとしても。

おそらく、氏は近年のバブル経済で富裕層が多くでてきた中国を想定して書いたのかもしれないが、中国は参加国ではないし、しかもいつはじけてもおかしくない中国の富裕層をターゲットとするのは、あまりにもリスキーであると僕は思う。それに、長いスパンを必要とする農業の投資先としては不適当だろう・・・。

そもそも、仮にも経済学の専門家であるならば、日本国内の高価格なブランド米が国内で消費できるよう日本国民の所得を上げることを考えるのが先ではないのか?

いやはや、あまりにもお粗末な記事でほんとにびっくりです。日経もこんなので「だからTPPは参加しろ」というのだから、お里が知れるというもの。


参考にした書籍は次回アップします。

今日はこれまで。









2011年10月15日土曜日

果たして真意は那辺にありや?その2

今日は、昨日の続きつまり日経「経済教室」記事のでたらめさを書こうと思ったのだが、13日に韓国とアメリカのFTAが正式に決まったという記事が出たので、それについてちょっと書こうと思う。

察しのつくとおり、米韓FTAの発効に伴い日本の企業は韓国勢に対してますます劣勢になるから、はやくTPPに参加しろということらしい記事なのだが・・・。

韓国と日本ではその国情が全く異なるのに、その違いをきちんと知らせることもなくただただ危機感だけを煽るというのは、一体どういう了見なのか?

ちなみに、ソースは13日の読売新聞夕刊。副の見出しにこうある。

日本の輸出産業に逆風

基礎となる数字、対GDP輸出額比率についてだが、(財)国際貿易投資研究所 国際比較統計によると、日本のそれは2009年で11.46%、韓国のそれは43.44%である。ちなみにアメリカは7.48%でかなり低い。この数字でわかることは、日本は輸出大国ではないということだ。

このデータを見る限り、そのことは一目瞭然なのだが、どうも日本人は

日本は少資源国だから、海外から原材料を輸入してそれを加工して外国に売らないとだめ。そのために外貨を稼がないといけない。輸出は最重要。

という子供のころに習ったことが刷り込みとして事実を見る目を曇らせているのではないかと思っている。まさにイメージ先行・・・。イメージ先行といえば、小学生の頃「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」という交通標語があった。日本は狭い国土だと思っているのは日本人だけで、世界には日本より狭い国土面積の国はたくさんある。そんなたぐいのものかも知れない。

そういう刷り込みがあるものだから、輸出産業の花形である自動車、例えばトヨタとか日産とか、そういう大企業の業績がそのまま日本の経済にストレートに影響を与えると思ってしまっている。そんな気がする。たかだか1割強の比率である。

さて、韓国は輸出をしなければ国の成長を実現できない国だという事実。一方の日本はそれとは全く異なる。その国情の差を正確に把握しなければ比較などできない。一般大衆はいいとして、新聞こそそういうことを知らしめなければならないだろう。

副題にあるように「輸出産業に逆風」とあれば、刷り込みされたひとたちは「すわ一大事!」と思ってしまうのではないだろうか。ミスリードもきわまれりだ。

米韓FTA発効後は、韓国製自動車(トラック以外)が米国で売られる場合にかかる関税2.5%が0になる。一方日本製は価格に2.5%が上乗せされるため、価格競争力で不利になるのだという。

ちなみに、僕もつい最近知ったのだが、日本における輸入車の関税は1978年に0になっている。自動車に関しては世界で最も開かれた市場らしい。これには驚いた。ということは、おそらく日本人は輸入自動車を不当に高く買わされているのかもしれない。とはいえ、それが海外メーカーのブランド戦術ならば成功事例。

と、ここまで書いて気づいたが、日本の道路交通法の規定がまさしくアメリカの言っている「非関税障壁」なのかも・・・。ウインカーの色とか細かく規定があるからね。それにあわせて改造したら、やはり高くなるのかな?関税0でも。


さて、記事に戻る。

新聞は大事なことをまたも伝えていない。アメリカで売られる韓国製自動車の55%は現地生産なので、関税などそもそも関係ないから、それで価格競争力で有利になるというのはストレートにはつながらない。また日本車にいたっては、全体の約6割が現地生産だし、ホンダにいたっては8割が現地生産なのだ。したがって、関税の有無はあまり関係がない。

輸出品のもうひとつの花形である家電品は、さらに現地生産の比率が高いのではないか?これは調べていない。

韓国経済は確かに最近は元気がいい(ように見える)。日本の家電メーカーが韓国勢にやられっぱなしだし、韓流ドラマ、韓流タレントを日本のテレビで見ない日はないほど・・・。

しかし、その元気の源はウォン安にある。だから韓国製品は世界を席捲しているのだといえる。これは関税とは全く関係ないし、そのおかげで輸出産業は恩恵を受け、逆に輸入品は高騰している。Webで閲覧できる韓国の「聯合ニュース」によれば、急激なウォン安によって輸入食品が高騰して、何でもマクドナルドの韓国の時給(日本円で320円)では、バナナ一房も買えないのだとか。

それが普通の姿だろうか?

おそらく、韓国国内での大騒動、暴動へと簡単にエスカレートしそうなそれは、FTAの正式な発効後かも知れない。5年以内に95%の関税が撤廃されるというし・・・。重ねていうが、韓国は輸出を伸ばさなければ生きていけない国。その痛みも受けざるを得ないのかも知れない。

ただ、日本は違う。その違いを正確に知ることが必要だ。

今日はこれまで。



2011年10月14日金曜日

果たして真意は那辺にありや?その1

いよいよTPP交渉参加に向けての動きがきな臭くなってきました。つい2,3日前には野田首相が参加へ向けた地ならしを行うよう指示を出したとかという記事がありました。

この問題での僕の大きな問題は、以前から書いていますが日本の全新聞が賛成していること。これはちょっと異常な状況だと思うし、ある意味で恐ろしいことであると思っています。

ちなみに、アマゾンで「TPP」と検索すると、出てくる本は皆反対派の本で、賛成派の本は一冊もないんです。マスコミはそろって賛成なのに、このいびつさは一体どういうことでしょう。

読売も日経も、最近になってようやく「医療」「労働」「政府調達」などの交渉もあることを書き始めましたが、「交渉に参加しなければその中身もわからない」から「参加しろ」とかいう始末。何があってもその結論を変えようとはしません。

いやはや、まったくもってわからない。

日経は、12日、13日と「経済教室」の紙面で「TPP参加の意義」を載せています。一人は木村福成という国際貿易論が専門の慶応の教授、もう一人は戸堂康之という国際経済学、経済発展論が専門の東大の教授が書いています。

素人の僕が読んでも噴飯物です。大学教授は馬鹿でも務まることの見本かも知れません。空疎な言葉のオンパレードです。

今日は、最初の一人木村福成氏の論説のおかしさを指摘します。

記事にはポイントとして次の3つが書かれています。

・日本は自由貿易体制の維持に責任を果たせ
・FTAで途上国より自由化度低いのは問題
・不参加ならば東アジア経済統合の質下げる

まず最初のポイントですが、氏は自由貿易体制は一種の国際公共財なのだとしています。これはそうなのかも知れません。ただ、その維持の責任を果たせということは、氏の中で「いまそれは崩壊の危機に瀕している」という思い込みがあるのでしょう。しかし、そんな自由貿易体制が崩壊の危機だとは僕は寡聞にして知らない。 さらに、氏のいう自由貿易体制は関税0がその定義で、関税があっては自由貿易とは言わないのでしょうか?自由貿易の恩恵で日本は戦後復興したのだから、その恩恵を広く世界に与えるべきだというのは分かりますが、自由貿易とはいいつつも保護的な関税品目があるのが当然の世界でしょうが!一体、この人は何を言っているのだか・・・。

ちなみに日本が果たす国際責務は、世界貿易会議の報告書に「アメリカにかわって世界経済の牽引役になること」とあります。責務というか、期待感ですね。そうです。もっと日本の内需を増やせとその報告書は言っているのです。

次のポイントですが、僕にはこの何が問題なのかが理解できない。日本・ASEAN経済連携協定の貿易自由化度という表を載せているのですが、関税率が0となる品目数が日本は少ないということを問題だとしているらしいです。先進国は途上国に対して度量を示せと・・・。確かにそうなのかも知れませんが、日本はASEAN諸国に対しては多額の政府開発援助を与えてきているし、一方的に彼らを収奪・搾取しているわけではない。もっと多面的にみる必要があるだろう。コメの輸出国タイとの交渉では、タイ国内への農業技術の提供や、貧困対策などを日本が援助することの引き換えに、タイのコメの自由化要望を取り下げさせたという経緯もある。こういう、交渉の結果としてその数字になっているわけであって、ただ自由化度が少ないということだけで批判の対象になるのだろうか?

さらに、この人は最近のFTAは関税0が98~100%だという世界の潮流だといって、「関税」という国境措置ではなく、国内補助金への切り替えが必要だといっているから驚く。ということは、今よりも補助金漬けにしろということなのか?


最後のポイントについては、まさしく噴飯ものだ。氏は「21世紀型地域主義」という言葉を使い、その構築への貢献も日本が担う国際的責務だというのだが、果たしてそれは何を意味し、何をするものなのかという説明がないまま、その言葉を使っているのはおかしくないか?先ずは氏のいうそれがいったい何なのかを説明するのが筋だろう。これではまるで民主党政権のキャッチフレーズと同じではないか・・・。

氏はこんなことも言う。

世界貿易機関(WTO)がグローバリゼーションに対応する政策の拡張に失敗する中で、新たな国際経済秩序の構築の尖兵は柔軟性に富む地域主義となってきた

これもとってつけたようなもの。WTO加盟は150カ国。そんな中で加盟国共通のルールを決めることは困難だ。原則賛成、各論反対はどこの世界にもあることだ。だからこそ、各論だけを決めようということで、2国間、または地域間で交渉するようになっただけで、それは極めて普通のこと。国際経済秩序の構築とか、そんな大それたものではないと思うが・・・。150カ国では一致は無理だが、2国間あるいは10数カ国とかならまとめられるだろうということに過ぎない。

どうです?最初に言いましたが、素人の僕にですらこれだけの指摘ができる。

最後に、氏はこう言うのです。

世界共通後である経済学の論理に耳を傾けず、国内政治の問題を自ら解決できず、国際的責務を果たさずにう内にこもる国、他国の冷笑を浴びるような国になってはいけない。

僕からすれば、飢えた大男の前に「鴨がねぎを背負って前にでる」(中野剛志の言葉)ようなTPPに参加すること、そのものが「冷笑」をあびることそのものです。

「国益を考えずにアメリカの言いなりになる国」。これはTPP参加国のうちアメリカ以外の国の冷笑。

一方のアメリカは「またもこんな簡単な餌に食いついてきた・・・」という冷笑です。

氏の言う「経済学の論理」でいえば、この国の状況を何とかしようと考えるとき、まずはデフレからの脱却が急務であり、この10年以上続くデフレの状況下で、何をどう考えれば「自由貿易」などというますますデフレを加速させるような政策に賛成するのか?それこそ経済学の論理に反してはいないか?


今日はこれまで。

2011年10月6日木曜日

哀悼

スティーブ・ジョブズが亡くなった。

僕自身が感じているこの喪失感とも形容できるような感情はいかなる理由か?一経営者が亡くなったに過ぎないのに・・・。

以前ここで書いた。初めてマックを買って触った時の感動。そしてすぐに、その裏でそれを作り出した人間をすぐに考えたこと。それが彼だったわけで、何とも言いようがない。まだ56歳というからな。

彼の作り出した「モノ」によって、一体世界のどれだけの人が恩恵を受けたのか?想像もつかない。

ホントに残念。ただそれに尽きる。筆も進まん。

今日はこれまで。


2011年10月4日火曜日

市場は万能か?

昨日(10月3日)の日経社説には絶望した。決して大げさな表現ではなく、世の中のほとんどの経営者が読む、つまりは責任ある人々が読むであろう新聞としてこの程度のレベルかと絶望したのである。

読み返したくもないので引用はしないが、要するに日本が成長するために戦略が必要で、そのためには規制緩和が急務だというのである。そこには市場こそが万能であるという妙な思い込みがある。

この論調、数年前の小泉・竹中の叫んだ「構造改革」と同じであることに気づく。その結果日本の社会がどうなったのか忘れているのだろうか?あの結果が今の社会であり、今の社会を非とするならば、あの「構造改革」なるものが失敗だったと認めるざるを得ないということになるのだが、おそらく彼らは「あれは中途半端だった」というのだろう。

想起してほしいのは、日本の自殺者が3万人を超えるようになったのはあの絶叫とともにであり、ワーキングプアだとか、下流社会とかいう言葉が出てきたのも同時期である。

同社説は、お決まりの「日本農業の大規模集約化」を言う。要するに効率をあげろというのだ。そして国内市場だけでなく積極的に海外市場を取り込むべきだというのだ。彼らのいう海外というのは、「成長著しいアジア市場」が念頭にある。だからTPPに参加しろと言ってるからね。しかし、TPP参加国のうちアジアと呼べるのはシンガポール・ベトナム・ブルネイ・インドネシアくらい・・・。日本の高い
農産物を買ってくれる国はないとみるのが自然だ。

仮に、農業が輸出産業として大成したとしよう。そしてそれが日本経済全体の底上げにつながるとしよう。そうなればますます円高は進行するのではないか?自家撞着だ。

こんなことも言ってたなぁ。「混合診療も認めろ」と・・・。保険適用薬品と、適用外薬品を消費者(つまりは患者)に選択できるようにするべきだと。そううすれば医療薬品分野での技術革新が進むと言っている。

これは要するに、「貧乏人は死ね」ということだね、極端にいえば。適用外薬品というのは、海外で開発されて海外で使用されている薬品のこと。なぜ日本が認可しないがわからないけど、適用外だから値段も高い。それを使えるのは高所得者に限られるでしょ。

ちなみに、TPPの交渉項目にはこの分野(医療)も入っている。参加したらこのようになる。株式会社の病院が出来て、医療過失裁判のリスクの高い診療科目(よくわからんけど、産婦人科とかかな?)は敬遠されるだろう。それすらも市場原理にまかせていいのだろうか?


よく彼らは「グローバル化」の波に乗り遅れるな、それが世界の潮流だという。不思議なのは、乗るのはいいが、問題はその乗り方。もっといえば、グローバル化などというのはアメリカ化と同義語だ。抵抗したってよいではないか。この国にはこの国の国柄がある。

ホントに日経にしろ、読売にしろ、新聞のいうアホな論調にだまされないで欲しい。ほんの少しの想像力を働かせてくれればいいのだ。それには普通名詞でなく、固有名詞で考えればいい。

今日はこれまで。


2011年9月30日金曜日

絶筆・・・でもないか

10歳の娘は国語で「ごんぎつね」を習っています。

あの話から、何か教訓を見つけようというのは困難です。というよりも、それを何からでも得ようと思うのが間違っている。

本居宣長のいう「もののあはれ」とは、ただあるがままを感じることにこそ価値があるのだということ。その顰に倣っていえば、ごんを撃ってしまった兵十が、これから背負っていくであろう贖罪の意識、おそらくそれは苦しみだろうと想像できますが、それだけを感じ取れればいいのです。

おそらく、ひとは悲しみを悲しみのまま背負って生きていくことはできないが、苦しみは背負って生きていくことができる。悲しみは時が癒すが、苦しみは時が癒すことない。例えば親しい人との死別による悲しみは、その根源を辿れば「言うべきことを言えなかった」「為すべきことを為さなかった」という身悶えであり、それは苦しみではないか・・・。釈尊がとうの昔に言い表した「愛別離苦」は、まさにこの通りのことだ。

苦しみ・・・。


乃木大将の自裁に対して、「こころ」の先生は次のように言った。

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうを思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
乃木希典という克己の人だからこそ、ずっと持ちえた苦しみかも知れません。昨日の続きでいえば、誰もこの自裁を否定できないでしょう。どんな言葉を持ってそれを否定しても、それは非常に薄っぺらいものになると僕は思います。

苦しみ、痛みと置き換えてもいいが、人はすべてそれを心の中に秘めていると思う。僕の場合なら、人には決して言えぬそれがある。僕も含めて普通の人はそれを誤魔化して生きている。でもやはり心の奥底には苦しみがある。意識するしないに関わらず、皆それを感じているはず。でも、もしかしたらそれこそが他人への配慮や、優しさの原資なのではないだろうかと僕は考えている。

ほんの少しの想像力をはたらかせて、自分と同じ苦しみを持つものとして他人を見ればいいのです。問題はその想像力を持ちえるか否かということ。



昨日書いた「普通名詞でしか考えない日本人」という現象こそが、実は以前書いた「底の浅さ」や、「薄っぺらな社会が恐ろしい」の根源にあるような気が僕はしている。これ以上のことは今は書けない。ただ「何かが絶たれている」という喪失感を僕はこの国に感じざるを得ない。おそらくそれはかつてのこの国にはあったはずだと僕には確信めいたものがあるのだが、その「絶たれた」ものは何なのかうまく表現できない。でも確実にそれは「絶たれている」。

その「絶たれている」何ものかが復活し、豊かな音色を奏でるときが巡ってくるのか、それとも永久にこないのか、僕自身はその未来に絶望にも似たものを感じている・・・ということを表白して昨年10月から毎日書き続けていたこのブログの更新を、一旦はとめることにします。

今後は書きたい時に書きます。

それでは皆さまごきげんよう。

2011年9月29日木曜日

普通名詞でしか考えない日本人

最近よく思うことを題名にしました。

「日本人というのは、普通名詞でしか物事を考えないのではないか」

という疑念があるからです。あくまでも世の中に流通する論調とか、言葉の使い方の意味です。どういうことかと言うと、いくつか例を挙げましょう。


「嘘をついてはいけません」

親や先生はこどもにこう教えるはずです。一般名詞としての「嘘」は、いいか悪いかを問われれば、僕も「悪い」といいます。ただ、実際のところ僕らの社会の中で一般名詞そのままに判断することはまずありません。「嘘も方便」という言葉もありますが、社会の中では「ついてもいい嘘」というのが存在するのを皆わかっているはずです。この場合は、普通名詞のそれではなく、固有名詞としての嘘といっていいでしょう。

「戦争に賛成しますか反対しますか?」

こんな馬鹿げた質問も、よく目や耳にします。あくまでも推測ですが、日本以外でこんな質問はまず皆無でしょう。そこに必ず「イラク戦争に~」というような固有名詞として質問されるからです。ところが、日本ではこう質問されて、人々は皆一様に「反対です」と応えます。一般名詞で考えれば当然のことです。

僕ならば回答は留保します。固有名詞で考えるからです。一般名詞としての戦争ならば僕も即座に反対します。当たり前のこと。しかし、一般名詞としてのそれはこの世の中にはないですから、固有のものとして考えざるを得ない。「祖国防衛戦争」というものもあり、それすらも否定するのは偽善以外のなにものでない。したがって、そういう質問が馬鹿げているといったのです。

極論を言えば、「殺人を認めるか否か」ということでもいいです。これについては、一般名詞としてのそれですら肯定するひとはいないでしょう。しかしながら、裁判ではその背景や動機を探ります。これは要するに一般名詞から固有名詞化させているということでしょうね。そうして量刑の基準とするわけです。

「自殺がいいか悪いか」

こう訊かれて僕は回答を留保します。以前ここで紹介した江藤淳の自裁(http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/12/blog-post_14.html)を、誰がどんな資格で「よくない」といえるのか。したがって、肯定せざるを得ないそれもあると僕は思うからです。


一般名詞で考えるというのは、想像力の欠如ということです。人間同士の付き合いで考えれば、他人の心情を忖度できないということになります。そんな人間に重きをおきますか?付き合いたくもないでしょう?

これらの例を挙げるまでなく、世の中に一般名詞で考えられる事象などないのです。

しかるに、どうでしょう?世の中はそんなワンフレーズが横行し、みなそれをもってあ~だこ~だ言っている始末。アホの所業です。

えらそうに社会の正義をきどる新聞などのマスコミは、「開国か鎖国か」「自由貿易か保護貿易か」と幼児のような世界観、二項対立で記事を書く・・・。これも要するに普通名詞で物事を考えているということ。偏差値の高い大学を出て、難しいであろう入社試験をパスした人間の書く文章とは僕には到底思えない。



たった一度戦争に負けて、戦争反対の思考停止状態になり、今度は一度の原発事故で「原子力反対」の大合唱になる・・・。なんと子供っぽい国なのか。

維新後の廃仏毀釈によって、今まで拝んでいた対象である仏像を風呂の薪代わりにする節操のない変わり身の早さは、その約80年後には、鬼畜米英だったはずのアメリカに跪くということに再び発揮される。

そして、それは未だに続いているではないか。


今日はこれまで。








2011年9月28日水曜日

カール・ユング曰く

公共の場でよく目にすることですが、聞き分けのない子供を注意するのはいいのだけど、必ず手を上げる親。見ているこちらが首をすくめてしまいます。

子供を叩く親は多いですね。

例えばクラスにいる乱暴者の子供などは、間違いなく親に叩かれることが日常茶飯事、親にされていることを自分のまわりにしているのだと思います。


健全な人間は人を虐げない
人を虐げるものは自らが虐げられたものである


とはカール・ユングの言葉ですが、犯罪を犯すような暴力的な人間がいかなる家庭環境で育ってきたか統計的にみれば、おそらくその人自身も暴力の被害者であったことでしょう。

昨今、この国で幼児虐待がかなりの頻度で新聞記事となります。これも、自ら虐げられたものが大人になって、自身がされたことをそのこどもにしているのでしょう・・・。

ということは、全部とはいいませんが、今虐待されている子供たち、いえ日常的に親に叩かれて育ったこどもが親になったとき、また同じことが繰り返されるようになるのでしょう。

想像すると恐ろしくなります。社会、い~え人間というものが抱える闇です。

今日はこれまで。

2011年9月27日火曜日

弁護人

先月、8月16日に「百日紅」のことを書きましたが、我が家から見えるそれはもう僅かに花の残滓が残るのみとなっています。やはり「百日」は大げさで、実質50日前後かなと思います。

さて、ちょっと前から自分自身の思想的、いえそんな大げさなものではなくてこの国の過去への接し方みたいなものをワンフレーズで言えばどういうものかということを考えていました。先日「これだ!」というものに出会えたのですが、

「かつての帝国の弁護人」

だろうと思います。罵倒されているあの帝国の弁護人という視点こそが、僕が文章を書く基盤になっているのです。弁護人であれば必ずその背景を探り、その真意を探ろうとします。普通名詞ではなく、固有名詞で判断します。その視点は、おそらくずっと前から僕自身にあったものだろうと思うのです。簡単に言えば、「そんなに悪く言うな!」という思いですね。「現代の日本人がそんなにえらいのか!」という反発も強いと思います。

いずれ、そう遠くないうちに帝国で人格形成を為した人々はこの国からいなくなります。そうして、事実とは異なる嘘の歴史のみが世の中に流通していく・・・。そんなことへの僕の抵抗ですね。

今日はこれまで。

2011年9月26日月曜日

断捨離ブーム

半袖で過ごすことが寒く感じられるようになってきました。今日の最高気温は25度に届かないようだし。暑い、暑いと言っていたのもはるか昔のような気がします。

「断捨離」ブームの影響か、昨日BookOffへ言ったら、大きな紙袋を抱えた人の多さに驚きました。「買取」を希望する人たちです。

「断捨離」の著者は、BookOffから金一封をもらってもいいでしょうね。

ちなみに、僕は本を買うと直ぐに買った日付を書いてしまうので売れなくなります。一昨日買った本も、もう二度と読まないだろうとは思いましたが、すぐに日付を書いてしまって失敗しました。これからは、読んだ後に日付を書くことにします。

福井靖敏でしたか、「亡国のイージス」とか「終戦のローレライ」を書いた著者ですが、彼の本に一時期はまっていました。ただ、そのときは初版本を買ってすぐ売ることを考えていたので日付を書かず、読んだ後に、ヤフーオークションで売りました。新刊値段と大差のない高値で売れたことを覚えています。

今朝も、三島由紀夫の小説(文庫本)を廃棄しました。さすがに四半世紀以上経ち、かなり劣化していたのでいつか処分しようと思っていたもの。またまた本棚がすっきりしました。

今日はこれまで。

2011年9月25日日曜日

所詮・・・

昨日書いた「高速を超えるニュートリノ」は、まだまだ確定とはいえないようで、測定結果に多くの「?」が出ているようですね。実際のところはどうなるのかわかりませんが、「大山鳴動鼠一匹」でアインシュタインはやはり正しかったという結論に落ち着くかもしれません。

そういえば、昨日久々に本屋で本を買いました。三品和弘の「戦略暴走」を買うつもりでいたのですが、その本屋になくて結局別の本・・。

「日本海軍400時間の証言」(NHKスペシャル取材班)

という本で、以前3回にわたって放送されたものの書籍版だそうです。どうにもその取材班自身の自画自賛的な、心情吐露的な文章が余計に感じられ、日ごろの偏向した内容とも重なり、あまりいい読後感はもちえませんでしたが、かつて海軍の中枢にいた人間の生の声にはやはり臨場感というか、そういうものがありましたね。

ただ、内容的には今までいろんなところで書かれたものが多いので、本の帯に書かれている「第一級の資料」「驚愕の昭和史」というのは誇大表現ですね。間違いなく。

やはり、所詮NHKだわ・・・。

今日はこれまで。

2011年9月24日土曜日

光より速いという興奮とTPPに関するあきらめ

今朝の読売新聞の1面。

驚きました!

「光より速い素粒子観測」


アインシュタインの特殊相対性理論が覆る新発見ということになるのですから、これは驚きました。僕自身は、光よりも速いというのはあり得ないことだと思ってましたし、それが自明の理だと思ってましたけど、ニュートリノという素粒子は光よりも僅かに速い速度で飛ぶことが明らかになったとか・・・。

この今回の発表にしても、特殊相対性理論を覆す衝撃の大きさを考慮し、測定誤差かもしれないということを何度も何度も繰り返し実験してそれを打ち消した上で発表に踏み切ったのだとか・・・。

確か、ホーキング博士がタイムマシンによる時間旅行の可能性について「否定も肯定もしない」と言ってましたが、最新物理学の世界では、理論的にそれは可能だということが定説らしいです。

今後、この結果を受けどのような体系付けられた理論が出てくるのか?非常に興味深く、かつ待望されることです。

それにしても、あらためて思うのはアインシュタインの偉大さですね・・・。まさに「神」の領域。今ほど実験技術のなかった100年前に、あれだけの理論を組み立たのですから。 もしかしたら現代物理学は、彼の理論は本当か否かの検証に費やされていたような気もします。


さて、またTPPです。

本当に不思議でならないのですが、なぜ新聞は「製造業対農業」という図式でしか説明しないのでしょうか。そして決まって「開国」という言を使います。新聞がこんな言い方しかしないので、TPPへの参加は日本の「消費者」にとっての利益だという言説がでてくるのです。

何度も言いますが、真っ赤な嘘です。TPPへの参加は国を滅ぼします。その思想的なことを抜きにして状況的なことだけを考えてください。このデフレ時期にさらに安い製品が流入したらデフレはますます加速するだけです。そんなことすら分からないのか?

それと、大事な点ですがTPPは農業とか製造業にかかわる関税だけの問題ではなく、締結の議題には「医療」「金融」「労働」「政府調達」と20以上の分野での自由化がテーマとしてあるのです。

「労働」で考えて見ましょう。TPP交渉国のほとんどは労働市場の輸出国ですよ。低賃金で働くことを甘受するそれらの労働者が大量に流入してくることも想定されるのがTPPに参加するということなのです。そんな事態を想像できますか?

「医療」で考えますと、日本の医療制度(保険診療)が根底からゆらぎ、金持ちと貧乏人の受けられる医療サービスに差が出てくる可能性が出てきます。同じ「癌」で、貧乏人(保険診療)と金持ち(保険適用外診療)で治癒の可能性に大きな差がでてくるような世の中をどう考えるか、想像力を働かせてください。

アメリカは病院の株式会社化を日本市場で展開しようと目論んでいます。そこでは保険診療が基礎となり、等しく同様の診療を受けられる日本の現行制度を障壁とみているのです。


今、この国はTPPに関するこれらの問題点を想像することも奪われています。マスコミが事実を報道しないからです。政治家もこのような正論、つまりはTPPで交渉される全ての議題を公表するだけのことですが、それすらも述べる人が少ないですね。いや、いてもマスコミに無視されれば、国民は知ること能わず・・・。


同じく本日の読売新聞の記事では、枝野経産相は「早期の交渉参加は日本の主張をTPPのルール作りに反映できる利点があるが・・・・」と述べたらしいですが、この発言もアホ丸出しです!

多国間交渉での締結の決め手は多数決。交渉参加が早かろうが、遅かろうが日本と主張を同じくする国は、他の交渉国には皆無なのです。よって、日本の主張など認められるわけがない。

少なくともアメリカは、日本だけを標的にしてます。日本の市場だけでなく金融資産も虎視眈々と狙っています。

TPP参加が消費者の利益になるとか、日本農業も積極的に世界の市場に打って出るべき・・・とかいうことだけで物事を考えてはいけないのですよ。

今日はこれまで。

2011年9月23日金曜日

提案

昨日、1年ぶりくらいに奥田さんと話をしてきました。酒を飲みもせず4時間くらい「あ~だこ~だ」と。

僕の書いている文章の内容や、話すこと、よく人に「難しい」といわれます。自分ではそんなつもりもないのですが、それが人に伝わらないのは文章にせよ、話すことにせよ、まだまだ自分の力不足なのでしょう。

ただ、僕は話すときにはかなりいろんなことを頭の中でめぐらしながら話をしているのです。酔っ払っているときは別ですが、素面のときはたったひとつの固有名詞だけで表現できることを、その固有名詞の相手の知らないことを推測し、それを説明するために多くの言葉を使うのです。結構気を使います。しかも、回りくどい説明をしている最中にその説明が別の説明を生み、話が別な方へいくことも多いです・・・。やはり頭がそれほど優秀ではない証拠ですな。


さて、奥田さんから提案をもらいまして、12月に大忘年会をやりましょう!

「三と一の会」今だ健在なりということで。また皆さんに連絡します。

今日はこれまで。


2011年9月22日木曜日

台風一過

昨夜の台風で、帰宅が困難となり足止めをくらった人も多かったのではないでしょうか?早めに帰宅しようとして夕方退社した人ほど、大変でした。21時くらいにはかなりおさまってましたからね。 

深夜遅くの空には断雲と、そこから垣間見える星のきらめきがきれいでしたよ。

「想定外」と形容詞のつく今回の「津波」にしても、先日和歌山県の甚大な被害をもたらした台風12号にしても、ホントに災害というのは百年とか数百年とかに1度というレベルの大災害にもきちんと備えておかなければならないというのは明白ですね。そのためのコストがいかに高かろうと、その危機が現実さ化したときのコストと比べて勘案してみれば、どちらがいいのかは明白です。

治山治水というのは、施政者の必須事項でした。武田信玄は治水の技術に長けており、その技術が最近の河川の「多自然型」というキーワードにのり、従来からのコンクリートで固められた護岸ではない、新しい護岸として取り入れられていることが多いのです。

護岸とか治水のことで思い出して腹立たしくなるのは、やはり「れんほう」とかいうアホのこと。あいつはまったく頭の中に「金」のことしかなく、それ以外のことを考えられない人なんだな。パフォーマンスだけで今もなんとか大臣でしょ?いい加減にしてくれよ。

「スーパー堤防」を中止にしたのは彼女であり、「200年に1度の災害に備える堤防が、今の進捗状況だと400年先になる」ということを、無駄な公共事業の象徴として切ったわけですが、あの担当官僚を馬鹿にしたような顔つきは今でも覚えていますが、馬鹿にされるべきは「200年に1度の災害にそなえるべき事業の進捗をスピードアップさせるために必要なのはどんなことなのか」と極めて当然な質問をしない、アホな政治家れんほうその人にむけられるべきもの・・・。

今日はこれまで。

2011年9月21日水曜日

今年は「水」・・・。

3月の大津波、台風12号、15号の大雨。いずれも水ですね。

雨には「慈雨」という雨もあるのに、ここのところのそれは、とても「慈」という言葉をあてられるものではなく、「恨」とかいう字がふさわしいようです。

「せき止湖」「土砂ダム」という言葉はおそらく始めて聞きました。未だ予断を許さない状況らしい。


僕が中学生の頃、台風の影響で学校へは行ったものの僅か1時間も経たずに一斉下校になったことがあります。仲のよい友達数人が学校へ出てこられなかったのを覚えています。僕らはこれ幸いとばかりに、友達の家へあがりこみ、ビーチボールに洗剤を塗ってドッチボールをして大騒ぎしていたのを今でも覚えています。

正確なメンバーは覚えていませんが、汗だくになるほど大騒ぎして大笑いしたのです。あんな「笑い」をしてた頃が懐かしい・・・。

今日はこれまで。


2011年9月20日火曜日

日本人の微笑み

と題した小泉八雲の文章があります。外国人が不思議に思い、時に不快となる日本人の微笑みに
対して、「それはこういうことなのだ」とその弁護を買ってでたような文章です。それによると、日本人は悲しい時でさえ顔に笑みをたたえるのは、自分が悲しい顔をすることによって、周りの人を不幸にしたくないという気配りなのだというのです。だから、肉親が亡くなったときでさえ日本人は悲しみを大げさに表現することをせず、周りを気遣うために微笑をもらす。

この日本人の心性には、何というのでしょう、「私もあなたも共に死ぬ者です」ということが根底にあるように思います。どんなに泣き叫んでも故人は帰ってこないことを思えば、そして、悲しむ私もそれを見るあなたも共にいずれは死ぬ身なのだと思えば、「仕方のないこと」として微笑むことで、「私はそれを受け入れます。あなたもそんなに悲しみなさるな」ということなのでしょう。


ここから透けて見えるのは、「人間は自然の一部である」ということです。西欧のごとく「人間は自然の支配者である」ということとは完全に異なります。

日本人は「永遠」にあこがれつつも、それはないものねだりだということを知っていたのでしょうね。平家物語にある「諸行無常の響きあり」は、その心性を巧みに表現したものといえるでしょう。


そういう人々が作り出したのが江戸の文明であり、近代=西欧化ということのアンチテーゼとして、もっと世に広く知られていいと僕は思います。

そう思うと「近代」は、人間を増長させ傲慢にさせる麻薬のようなものかも知れません。

今日はこれまで。

2011年9月19日月曜日

秋の日はつるべ落とし



http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/blog-post_21.html

昨年は11月の中旬過ぎにこれを書きましたが、こういうように思えるのは、もうすでに始まっているのだと実感しました。今この時期でさえ、17時半には薄暗いのが、18時になるともう暗闇になってしまうんです。

中秋の名月以来、依然として月明かりがまぶしいですね。そして、よくよく空を見上げると冬の星座の配置になっているのに気がつきます。南のそらには青くきらめくオリオン座が見えるようになっています。

最近は、よく星が見えます。なぜでしょうか、空気が乾燥して空が澄んでいるからですかね・・・。僕の記憶が正しければ、確か北極星は地球から1200光年の距離にある。なので、僕らがみるあの輝きは1200年前の光だということらしい。

宇宙の広さを人は知り、その中に地球と同じような星があるかも知れないと考えるのは自然なことでしょうね。僕もそう思います。

でも、UFOは信じません。地球で目撃されるそれが、はるか宇宙の彼方から飛来したとは思わないというこです。

今日はこれまで。

2011年9月18日日曜日

仕えるということ


「人の上に立ちたいか」

「人に使われたいか」

という二元論をよく聞きますね。これを訊かれた場合には、前者と応えないと「覇気のないやつ」と思われてしまいそうな、そんな恐れを抱いてしまうのではないでしょうか。例えば、就職試験でその会社で役職のあるえらい人が面接官であるとしましょう。そうであるなら、こんな質問を投げかけるだけで、その人は立派なリーダーではないという風にじますね。

人の上につというのは、たいていの場合結果にすぎません。 その人がその組織に尽くし、よい結果を残したことが認められたことの証です。

一方、使われるというのはその過程でありますが、これもたいていの場合、そういう意識でいる人は前段のような良い結果を残すことにはならないのでしょうか。

第三の道があることを忘れている。

「仕える」ということです。これは表面だけみれば「使われている」というのと同じにしか見えないかもしれません。しかし、実は大きな差があります。これは能動的で、使われるという受身とは全く異なります。

上司に仕える。先輩に仕えるなどなど、人に仕えるには何かしらの「無私」の精神が必要です。そしてこの「無私」というものこそ、リーダーが持たなければならない必須の「徳」であると考えます。

日経の「私の履歴書」をみるまでもなく、世に名を為したリーダーというのは、皆間違いなく良き部下であったはずです。「仕えた」からです。

人や仕事を管理する能力など本来稀有なもので、まず徳がなければならない。徳など、若いころから自分を無にして他者や仕事に奉仕できるように自分を訓練してきた人にはじめてできるもので、年功序列がその徳をつくるものではない。

これは司馬遼太郎の文章ですが、まさしくこの通りといえるでしょうね。年功序列がその「徳」をつくるものではないのは当然ですし、いわんや流行のハウツー本を読んだり、講習を受けてつくれるものではない。皆何か多きな錯覚をしているのではないか。

今日はこれまで。

2011年9月17日土曜日

不確かな「生」と確実なそれ

人生にはいろんなことがある、というか起こるものです。自分だけではなく、自分とかかわりのある人間でさえも、それは当然のことなのですが、どうも人間は自分だけが特別だという疎外感や、逆にいいことが起こればそれはそれで、自分を特別視しがちなものです。

「生」ほど不確かなものはなく、「死」ほど確実なものはないのですが、そんなことを僕らは日常、微塵も考えることはありません。それはそれだけ日常が満ち足りているということの証でもあります。

ただ、それが何かの拍子で狂ってしまうと、「生」というものの危うさを再認識せざるを得なくなるのではないでしょうか。

自分への自信や、他人との関わり合いの安心感が薄れたとき、僕らは返るべきよすがとして、「歴史」しかないのではないかと思うのです。

「歴史」は個人の「生」と「死」が完結しています。僕らの「生」が不確かに揺らいだ時、寄る辺となる精神的支柱は、やはり歴史の中にいる人物の生と死の物語から汲み取るしかないのではないか・・・。

信仰へ傾くこともあるでしょう。しかしながら、「信仰」というものすらも過去のある「生」から紡ぎだされたものであり、やはり歴史への回帰と同じになると思います。

僕がここでいう「歴史」とは、過去から読み継がれている小説やらも含みます。

生きている人間は人間になりかけの不完全なもの

とは、川端康成が小林秀雄に語ったものですが、何だか最近の僕はこの言葉が非常にわかるような気がしています。なぜなら、「死」を迎えない限りは「生」は完結しないからです。そして、歴史にはそれがあるからです。

確か、ラテン語「メメント・モリ」(死を想え)とは、おそらくこういうことも言っているのだと思います。

今日はこれまで。

2011年9月16日金曜日

宇宙時代の新常識

というタイトルの講談社の現代新書が家にあります。僕の買ったものではなく、父親が買ったものですが、昭和44年の本で値段は250円!今、新書って700円以上すると思いますが、約40年前はこんな値段だったんですね。

僕はこの本を15歳の時に読んで、大感激した覚えがあります。相対性理論を知ったのはこの本によってです。

時間の流れが不変ではないことや、双子のパラドックスなど。ホントに面白かった。今でも明確に挿絵を覚えていますからね。

別に理由もないのですが、一昨日からデスクトップ画面をアインシュタインの写真に変えました。それで急にその本を思い出したんです。今もその本が絶版にならずにあるのかどうかはわかりませんが、教養として相対性理論を学ぶのにはうってつけの本だと思いますね。

今日はこれまで。

2011年9月15日木曜日

逃げるにしかず

書くことがないので、また政治ネタを。

新しい首相を迎えての国会の会期が僅か4日間にされたことで、野党が猛反発しているらしいですが、まあ当然でしょうね。前首相の居座りから3ヶ月間空白だったことの穴埋めに、猛スピードで案件処理をしなければならないのに、4日間では果たしてその決意ありやと疑われても仕方ない。

新聞も書いてますが、おそらく大きな疑問符がつく新大臣への追求を恐れているんでしょう。逃げているわけですね。果たして民主党の真意がどこにあるのか分かりませんが、そう勘ぐられるということだけで情けない。

アホな経産相は、集中砲火を浴びる前にさっさと辞任しましたが、次なる標的は「素人」だとぬかした新防衛相でしょう。僕はこっちの方が罪が重いと思います。銀行の警備責任者が「私は警備の素人だから」というのと一緒だと読売新聞に書いてあったな。まったくその通りだ。

素人は素人でもいいけどね、それを口に出すなよ!そんな配慮もできないのか!

というより、素人の方に価値を置いたんでしょうね。左翼的心情丸出し・・・。


そういえば、八つ場ダムの建設続行を結論づけた関東地整に前原氏が不快感を示したとか。確か、前国交省のときに、建設白紙は白紙にもどされたんじゃないか・・・?だとするなら、不快感を示す相手は地整ではなく、前大臣だろう・・・。あれ、前じゃなくて、前々かな?どっちでもいいけど。

正論を言えば、民主党のマニフェストなるものの破綻が明らかになった時点で、解散総選挙をすべきですね。「理念は活かし」というのは、言い訳に過ぎない・・・。

今日はこれまで。

2011年9月14日水曜日

頭を垂れていた稲も刈り取られるところが散見されるようになり、なにより日が短くなりましたね。

秋です。

秋の寂しさは虫の声とは切っても切れない関係にあるとは前に書きました。我が家のまわりは本当に
すごいです。

本の整理をしたと
きに、「出家とその弟子」を取り出しました。2冊あります。1冊は1988年9月14日の日付、もう一冊は1年後の1989年の同日の日付でした。そして、その2年後の同日に僕は結婚した。実に不思議なものを感じた。今までまったくわからなかったこと。

作者の倉田百三は広島県三次市の出身だったかな。奥田さんと同郷だ。

「世界の果てまでいってQ」をみるたびに思うのだが、森三中の大島は山科さんとよく似ている。

今日はこれまで。

2011年9月13日火曜日

名月

昨夜の月を見ましたか?

まさに中秋の名月の名にふさわしいいでたちでした。月の光を浴びているだけで、心が洗われるだけでなく、何かしらのパワーまでもらえるような、そんな月でしたよ。

月はくまなきものをみるものかは

吉田兼好はこういいましたが、そうは言ってもやはり完璧な月の形も美しく、詩的な情操を刺激するものであることは間違いないですね。

今日はこれまで。

2011年9月12日月曜日

あれから10年・・・

昨日11日は、9.11として永遠に語り継がれるのでしょうが、月日のたつのは早いですね。もう10年ですからね。

未だに、あの映像を見た驚きは忘れられませんよ。

「テロとの戦い」をアメリカは標榜し、それと意を同じくした西欧諸国がともにアフガンで戦いましたが、日本では、口先ではそういいつつもその覚悟も準備もないのは明白。完全な他人事ですからね。戦うということは、自分の命を危険にさらしながら、相手の命を奪う行為へとなりますが、そのことの覚悟がこの国にはありませんからね。


前にも書きましたが、あの映像をみたときに「アメリカと戦うのには、これしかないな」と思いました。貧者がアメリカには歯向かうには、ああいった行動しかないだろうという意味です。

石原のぶてる氏が、9.11を評して「歴史の必然」という言葉を使ったとか新聞にでてましたが、政治家ならもっと言葉選びには慎重になるべきですね。あれはそんなわけはないでしょう。「アメリカという国が持つ宿命」ならば分かりますがね。どうでもいいことだけど。


今日はこれまで。
今日は

2011年9月11日日曜日

昨日の続き

今朝、2ヶ月ぶりに熱い珈琲を飲みました。夏の間ずっとアイスコーヒーを作っていたので、実に久しぶり。1年くらい前から珈琲豆は楽天の澤井珈琲店というから買っていて、それは鳥取県だか島根県だかにある店舗なのですが、Web市場というものがなければ出会うことのなかったものです。そう考えると、Web市場というのはホントにすごい。

楽天の社長によれば、シャッターが閉まりっぱなしの商店にしても、その裏では毎日発送作業に追われているWeb市場進出店がかなりあるらしいとのこと。それもむべなるかなと思います。


昨日話題にした経産相が辞任したらしく、昨夜のニュース速報を見た時に女房と笑ってしまいました。今朝の新聞に、彼の地方事務所の後援者の弁が出ていて、いわく「初入閣で浮かれていたのか・・・」。

何とも言葉がありません。

今朝の日経「春秋」では、舌禍で辞任する政治家は昔もいたのだが、最近のはあまりに程度が低いとの嘆きが載せられていました。まさしくその通り。

ただ、昨日の僕の文章の続きでいえば程度が低いのは、その個人特有のものではなく、この国の社会全体にかかわること。だから、いいおっさんが国家の安全にかかわる機密を公開したりするのです。

考えてもみてください。アメリカの大統領専用機の飛行計画を知りえたとして、それを公開したらいかなる事態を引き起こすかということは、程度のよい中学生でもわかること。これは守秘義務を負う国家公務員だからとか、そういう問題ではない「常識」の範囲でしょう。それすら考える能力がないのが、50歳という年齢でしかも管制官という重責を担う職に就いてたという事実は、考えれば考えるほど恐ろしいこと。


まだ、公開の理由を「アメリカ大統領暗殺のため」とか言ってくれたほうが、僕の中ではすっきりする。

浅学非才の身では、この国の社会の現状を作り出した「もの」の全容などわかるはずもありませんが、ひとつ言えるのは「公」の概念が喪失したことと無関係ではないとみること。大東亜戦争に負けて、「戦争はもうこりごり」とした日本人は、その「戦争」を引き起こす主体となる「国家」というものまでも卑小にしてしまい、自分やその家族といった「私」以上の価値の所在、いや存在すら見失ってしまったからでしょう。もう少しいうと、「私」以上の価値を「会社」に見出したこともあった。

と、僕は考えています。

政治というものは、形而上のものまで含んだ価値を論じるべきなのに、論じられるのは常に「形而下」のことばかり・・・。そういう政治家がいなくなったのは、そういう政治家を選ぶ能力をもつとされる有権者も、形而下のことだけしか考えられなくなった結果に過ぎません。

そんな人間だらけの世の中が薄っぺらいのは仕方のないこと。

今日はこれまで。


2011年9月10日土曜日

薄っぺらな社会が恐ろしい

50歳代の羽田空港の管制官が、アメリカ大統領専用機の飛行計画などを、自身のブログで公開していたというニュースが読売新聞の本日(10日)のトップ記事でした。


識者のコメントでは「国家公務員としての自覚が足りない」とか出てましたが、この情けない行動に関しては、そこに「国家公務員として」という言葉は不要で、まさに「大人」としての自覚が足りないで十分でしょう。

しかも、恐ろしいのはその自覚の足りない人間が50歳代という年齢だということ・・・。

おそらく、これと根の部分は同様だと思うが、新しい経産相の「人っ子一人いない死の街」発言。これなども、「閣僚としての」自覚が欠如しているのではなく、「大人としての」未成熟なのでしょうね。心の中でそう思うのはいいとして、それを公式の場で発言するなどどう考えてもこどもの振る舞いでしょう。

しかも、視察時の防護服を旧知の報道関係の人にすりつけ、「ほら放射能」とか言ったんだとか・・・。彼を弁護するつもりはありませんが、こういうジョークは僕は嫌いではありません。僕もやるかも知れません。ただ、僕は時と場合を選びます・・・。


この経産相の発言には、政治家としてのプロ意識などまったくなく、まるで素人の発言なのには驚きましたが、世の中は手垢にまみれた自民党の政治家から、こぞって「素人」の民主党政権にこぞって賛同したのであるから、これも仕方のないことか。

新しい防衛相も、「素人だから完全なシビリアンコントロール」とか発言してましたが、この人はシビリアンコントロールという言葉の意味も理解していない低脳な政治家であることを宣言したようなもの。
大体、「プロ」がだめで「素人」なら正しいと錯覚しているのが、政治家や金持ちは全て「悪」で、市民や貧乏人は常に「正しい」という、一昔前の左翼的な観念であり、それにすら気がつかない人間が防衛相というのは、僕には悪い冗談にしか思えない。

情報を漏洩した管制官にしても、まるで「アホ」のような発言をする同年代もしくはそれより上の世代の人たち・・・。彼らを生んだこの国の風潮こそが僕には大問題だと思えるし、そういう世代に育てられた人間の社会は、まちがっても今より厚みが増すとは到底思われない。

今日はこれまで。

2011年9月9日金曜日

秋ぞあはれ

昨日の続きです。

秋の虫は、なぜ物悲しいのでしょう。いろいろな音色も、リズムもそのすべてが何か悲しいような調べです。

僕は夏が終わると、1年が終わったような気がして秋になるとセンチな気分になるのですが、考えてがると、それはこの虫の声があるからかも知れません。

春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる

今日はこれまで。

2011年9月8日木曜日

いつの日か日本へ行かれるのなら

是非一度は縁日へ足を運ばれるとよい。


という書き出しで始まる「虫の演奏家」という小泉八雲の文章がある。いつの間にやら我が家の周りでは騒々しいくらいにその「演奏」が始まっていて、ふとその文章を思い出してそれを久々に手にとってみた。

彼の暮らした明治の時代は、縁日で籠に入れられた虫が売られていた。それがいつの頃から姿を消したのかはわからないが、「虫を売る」というのは商売として成立していた。江戸の市中にもその行商がみられたし、それが明治までは確実に存在していた。彼によれば、最も高価な金額で取引される時期に、最も高額な虫は「キリギリス」で一匹12~15銭。最も安い「鈴虫」で3.5銭から4銭。

彼はこんな風にいう。

だが、虫はその出す音色のため珍重されているとわかったとたんきっとびっくりするだろう。日本人のようにたいそう洗練されてまた芸術的な国民の美的生活の上で、この虫たちが西洋文明でつぐみや孔雀やナイチンゲール、そしてカナリヤが占める地位にひけをとらない地位を占めている、と語り聞かせてわかったもらうのには骨が折れる。千年の歴史を持つ文学が、ものめずらしく繊細な美充ちあふれる文学が、このはかない命の虫という題から成り立っている、などとはどんな外国人に想像できるだろうか。



虫の声一つあれば優美で繊細な空想を次々に呼びおこすことが出来る国民から、たしかに私たち西洋人は学ぶべきものがある。機械の分野ではそういった国民の師であることを、全て人工的に醜く変えてしまうことでは教師であることを、私たちは誇ってよいだろう。だが、自然を知るということにかけては、大地のよろこびと美とを感じるということにかけては、いにしえのギリシャ人のごとく、日本人は私たちをはるかにしのいでいる。しかし、西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力をわかり始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまったとき、つまり美のかわりに実用的なもの、月並みなもの、全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いときのことになるのだろう。


「虫よ虫ないて因果が尽くるなら」


今日はこれまで。

2011年9月7日水曜日

何をえらそうに!

昨日(6日)の読売新聞の社説。

交渉のテーブルに早くつけ

だと。TPPのことです。まったく、えらそうに何を言っているんだか。しかも「なぜ」という根拠は、

少子高齢化が進む日本は、成長著しいアジアなどの活力を貿易自由化によって取り込み、成長を実現する必要がある
だけしか示さない。なんという傲慢。これ本当か?


記事は、民主党代表選の際の鹿野農相を、彼は

TPP参加は国のかたちをかえるとさえ主張し、否定的な考えを示した

として、

危機感が薄いのではないか

とまで書いている。アホか・・・。僕は鹿野農相の懸念はもっともなものであると思っているが、僕と同じ意見の新聞は赤旗だけ。何度も書くが、読売も日経も揃って「参加せよ」の一点張り。

先日も書いたが、多数の意見は間違っていることが多い。これもきっとそう。

国が壊れてからでは遅いのだ。

今日はこれまで。

追伸)
僕がなぜTPPに反対しているかは、ここで何度も書いているので書きません。

2011年9月6日火曜日

台風一過

とはいきませんでしたが、今日の曇り空から垣間見えた空の青さはすばらしかった。

みなさんは空を見上げることがありましたか?

空の高さとあの青さはまさしく秋でしたよ。日中は気温があがりましたけどね。

台風12号のもたらした紀伊半島の被害は甚大でしたね。家ごと川の濁流に流されたひとも多いとか・・・。何とも言葉がありません。北は津波、西は台風の自然災害に見舞われるとは今年は一体どういう年なのでしょう。


ひとは自然の恵みがなければ生きていけず、しかし自然は時として猛威を揮いひとのつくりあげたものや、命そのものまでも奪ってしまう。自然とどのように向き合ったらいいのでしょうね。

今日はこれまで。

2011年9月5日月曜日

アホくさ・・・

新しい内閣への支持率が歴代5位の65%なんだとか・・・。

よ~く考えて欲しいのは、昨年6月の菅直人内閣の支持率も64%あったということ。もっといえば、目の虚ろな人の支持率は75%もあったんですよ(出所;http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110903-00000643-yom-pol)。

支持率なんかろくなもんじゃないとは散々書いてきましたが、もうそろそろそんなことを話題にするのはやめたらどうか。新聞もいい加減に気づけよ。世論調査とか、民の声とか、そんなものほどいい加減なものはないとね。

ネタ元の読売新聞によると、内閣発足時の支持率ランキングは、

1位:小泉内閣 87%
2位:鳩山内閣 72%
3位:細川内閣 72%

となっていますが、彼ら3人が一体何をしたのかよく考えてみたらいかがか。特に2位、3位の内閣など、害悪しか残さなかったではないか。

小泉内閣は、この国の経済の行方を巨視的に考えなければならないときに、「規制緩和」「郵政改革」と、極めてミクロなことのみに終始し、その間円安と相まって見かけ上の経済成長は成し遂げたが、それがほとんど賃金上昇に結びつかないという状況をつくりだした。あの内閣のおかげで「失われた10年」はもう「20年」になろうとしている。

鳩山内閣は、書くのも憚られる。

細川内閣は(唯一この内閣のみその発足時には僕も少しは期待したが)、何を成し遂げたのかさっぱり思い出せない。ただ、クリントン大統領と何かの協議か交渉が決裂したときに、「できないことはできないと拒否をする大人の関係」とかわけのわからんことをいって顰蹙をかったこと、国会での答弁で「先の戦争は侵略戦争で私自身、間違った戦争だったと思っている」と述べたこと。

大体、彼が総理を辞任したのも佐川急便からの政治献金にかかわることだったと思うが、どうもそれは単なる言い訳に過ぎなくて、彼は総理大臣に厭きたのだろうなあと、当時の僕は考えた。その後ほどなく政界から引退したので、彼が厭きたのは総理ではなく、政治だったことがわかった。


民の人気の高い政治家はこんなもんですよ。だから、少数意見の方が正しいんじゃないかと僕は思えてくるわけであって、多数の声が正しいだろうと仮定する民主主義なんぞ、今のところそれ以外に「良い」と思える政治システムがないから、しかたなく行っているのだ、くらいの気持ちしか持ち得ない。

しかしながら、世の中はそれを「価値」のように崇め奉る・・・。テレビに出演する政治家は口を開けば「民主主義なのだから、よく議論をして云々」というが、民主主義は話し合いで解決するわけではなく、多数決という「力」の行使で物事を決めていくのだから、そういう発言はおかしいだろうと思ってしまう。


いろいろ書きなぐりました。


今日はこれまで。


2011年9月4日日曜日

そういえば

毎日の更新は昨年の10月1日からはじめているので、この9月を終えればちょうど1年ということになります。

とりあえずはそれが一区切りで、10月からは書きたいときに書くという姿勢で臨みます。毎日書くというのは結構しんどい。第一にネタがなくなるんだ・・・。

とはいえ、昔書いた文章を読み返すのは結構楽しい。

なので、あともう少しだけ毎日の更新を続けます。

今日はこれまで。

2011年9月3日土曜日

びっくり! その2

昨日、宝島社のふざけた広告を見て憤慨してたら、どうも僕同様の思いを持った人も多いみたいで、「いい国つくろう・・・」でググったら、多くのブログで批判的に取り上げられてましたよ。

宝島社のHPをみたら、下記のような広告意図が大真面目に載っていて2度びっくりしました。




敗戦や災害など、これまで幾度となく苦境に直面してきた日本。
日本人はそのつど、不屈の精神と協調性を武器に国を建て直してきた歴史があります。
世界のどこを見ても、これほどしぶとく、強い生命力を秘めた国民は存在しないのではないか。
そんな気さえするのです。
「いい国つくろう、何度でも。」
この投げかけを通じて、
日本人が本来持っている力を呼び覚ましてみたいと考えました。







アホさもここまでくると立派というか、無知なるものは強いとただただ恐れ入るしかないですな。「敗戦や災害など」と同列に扱っていますが、敗戦は日本建国以来たった一度きりです。「そのつど」などという形容詞は「災害」だけにかけて欲しいもの。


そのたった一度の敗戦で「戦争はもうこりごり」と考えるのをやめ、たった一度の原発事故で「原発はもういらない」と思考停止する日本人に「しぶとく」という形容詞ほど不釣合いなものはない。あえていうなら、諦めが早すぎる・・・。生命力云々ではないでしょう・・・。


まあ、そのことに対して彼らの無知蒙昧さを責めたてるつもりはないのですが、問題はこの写真ですよ。これを屈辱として日本が立ち上がったのならいいのですが、残念ながらこの国の多くは彼に尻尾をふり、媚を売り、へつらったわけですよ・・・。決してポーズではないですよ。本心からそうしていたはずですよ。そんな国民のどこに「しぶとく、強い生命力」が垣間見られるというのでしょう。

もしかして、再び占領されたがっているんじゃないでしょうね・・・。

今日はこれまで。



2011年9月2日金曜日

びっくり!

ご覧になった方も多いと思うけど、本日2日の日経。


両見開きの全面広告に宝島社の広告が出てました。「いい国つくろう何度でも」というコピーはいいのですが、呆れ果てたことにそこには昭和20年8月26日(だったかな?)に厚木飛行場に降り立ったマッカーサーの写真を使っているのです。

まるで、マッカーサーが「いい国」をつくった人のような扱いですが、この広告を考えた人間、そしてそれを許した宝島社の人間は日本人ではないな・・・。

アメリカの日本人洗脳計画の最高の結果でしょう。すでに、日本の主権回復から来年で60年になろうとしているのに、なぜそんな頭の状態のままでいるのか不思議でなりません。

マッカーサーが日本の軍国主義を倒し、米国流の民主主義を日本に根付かせたから、それをもって「いい国」の「何度でも」の嚆矢としたいのでしょうが、そんな妄言、妄説を未だ信じていることがすでに常識となり、疑うこともしないのでしょうね。

ホントに信じられないことは、この広告にかかわった人間は数多くいるのに、にもかかわらずこんなふざけた売国奴的なものが出来上がったということ。

宝島社など、買いもしない出版社ですので、不買行動ができないのが残念です。でも、街宣車とかが出るんじゃない?僕がその筋の人ならやりますね。

今日はこれまで。

2011年9月1日木曜日

思い出したこと その2

思い出したことを書つけます。

毎朝見る田んぼの稲は実りもたわわに、重そうにその頭を揺らしています。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

というのがありますね。何だかつくづくいい言葉だと思います。やはり、人間も何事に対しても謙虚でなければいけませんね。自分の立場を嵩にきて、弱い立場のものにぞんざいで横柄な態度をとってはなりません。


さて、稲穂を見て思い出しのが夏目漱石。

彼は稲穂を見て、その先に実っているものが毎日食す「米」だとは知らなかったらしいですね。彼の友人だった正岡子規が書いています。漱石の家は代々今の新宿区に住む名主であり、江戸っ子だったわけですが、ちょっと驚きですね。一方、愛媛は松山から来た子規は自分の田舎者であることを再認識したでしょうね。

子規の「仰臥漫録」は哀しいです。毎日の食事のことが克明に記されているのですが、そのことに克明にならざるを得なかった彼の不自由さが感じられるからです。

とりとめのないことを・・・。

今日はこれまで。



2011年8月31日水曜日

何故事実をみないのか

先日、本を処分したことは書きました。

今日は処分できなかった本について書きます。

司馬遼太郎の小説は、また読むことがくるかも知れないのでほとんど残しました。同時に、彼のエッセイというのか、雑記みたいなものがまとめられた本も残しました。

日曜日は終日、それらを読みふけっていました。読むたびに本当に彼の該博な知識には舌を巻いてしまう。彼がドナルド・キーンと対談したものをまとめた本など、最高に面白い・・・。そして、ドナルド・キーンの知識と日本に対する愛情の深さに心打たれる・・・。


さて、巷間「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名をうくること勿れ」という悪名高い「戦陣訓」は知っていると思います。要するに、それが軍人だけでなく民間人までをも拘束していて、沖縄をはじめとする孤島で、無用な命を散らすこととなったというのが、今の世の中の理解ですが・・・。

池上章とかがテレビでもこう言っているんですよね。一緒にでていたのは、おばかなコメンテータばかりなので、いちいちそれに納得してましたが、、彼はサイパン島の「バンザイクリフ」と名づけられた断崖から多くの民間人の婦女子が身を投げたのも、それが民間人をも拘束していたからだと・・・。

そんなのは嘘っぱちです!

僕がこういう言説は「嘘」だと確信したのは、山本七平の著作「ある異常体験者の体験」を読んでからだ。彼はその中で「戦陣訓など私の軍隊経験の中で見たことも聞いたこともない。ましてや初年兵教育に使われたことなど絶対にない」と断言していたからだ。

そして、その数年前に司馬遼太郎も確か同じことを言っていたのを思い出したからだ。

!!!!!

そして日曜日にとうとう、僕は司馬遼太郎のそのタネ本を見つけたというわけ。



この本はおそらく高校生の頃に買った本だと思う。司馬は、この中でこう書いている。


なるほど、そういうチャチな小冊子があったことを久しぶりで思い出した。しかしそういう陸軍大臣の名前による刊行物が、兵士たちのモラルや意識を拘束してついに横井氏のようなひとを出してしまったというほど重いものだったかどうかは、疑問である。(中略)


私は関東軍で教育を受け、そのあと現役兵のみの連隊に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、「戦陣訓」というものが教材につかわれている現場を見たことがないのである。


「生きて虜囚の辱めを受けず」


というあの美文調の刊行物が、現実の軍隊社会でどれほどの影響力や拘束力をもっていたかということになると、そういう刊行物とは無関係に軍隊社会は存在していたと証言せざるを得ない。(中略)


戦陣訓」が発行されたときそれをニュースとしてやかましく書き立てたのはむしろ新聞であって、それを新聞紙上で読まされた民衆が兵隊としてとられるとき、ああ、ああいうものがあったな、という程度の影響として存在したものであろう。要するにマスコミのから騒ぎである。

戦後28年経ってグアム島の密林から横井庄一氏が現われ出てくるという異常な事件にぶつかったとき、この事件の理解にくるしんだあげく、「つまりは戦陣訓の重みである」というごく簡単な整理法による解釈に落ちつかせてしまおうとしているらしいのは、ずいぶん手前勝手な観がある。


そういえば、山本七平が戦陣訓に触れた文章を書いたのは、この横井さんより数年後のルパング島の小野田寛郎氏の出現によってであり、やはり新聞記者からコメントを求められた際の、記者の「やはり戦陣訓ですか・・・」という勝手な感想に反発してのことで、司馬と同様の思いだった。

池上彰にしても、その発言を許す新聞なりテレビなりは、この司馬や山本の発言を知らないのだろうか?それとも知っていて無視しているのだろうか・・・不思議でならない。

司馬が同じ本で書いている「轢き殺して行け」という言葉はよく他のところでも、旧日本軍の残虐性やらでたらめ振りを表すものとして引用されていることを思えば、おそらく都合の悪いことは無視しているに違いない。

まったく、マスコミというのはまさにゴミとしかいいようがない。少なくとも僕のブログを読むひとはホントにだまされないでほしいと思う。


ちなみに、「轢き殺して行け」というのは、司馬が自身の部隊(戦車連隊)が出動する際に、対向してくるであろう避難民の扱いをどうするかと上官に質問したときの回答である。

今日はこれまで。

2011年8月30日火曜日

昨日の代表選

昨日の代表選。

小沢一郎の神通力も薄まったと感じました。野田なる人への200を超す票は、そのまま「反小沢」の票で、彼の支配を苦々しく思っているのが党内の多数に及んでいることの現われでしょう。


何とも腹立たしいのは、目の虚ろな御仁。なぜ、彼はまだ発言する?彼は自身の責任を一切感じていないんだろう。呆れ返るしかない。さっさと引退しろといいたい。

海江田氏は、何の主義主張も持たない軽薄な人間。彼にはテレビのコメンテーターが一番似合う。

馬渕、鹿野の両名はまったくわからないので書きようがない。

野田氏は、財務省のいいなりと前に書いたが、彼は戦犯の名誉回復はすでになされているという立場を表明しているそうで、そこは少し見直した。問題は、総理就任後にも中・韓の言いがかりに屈することなく、自身の信念を貫けるかどうかだ。

「三度目の正直」か「二度あることは三度ある」か、そのどちらになるのだろうか?もし、後者ならこの国は滅ぶ・・・。

今日はこれまで。

2011年8月29日月曜日

秋の気配

今朝、久しぶりに早起きしてごみ出しにいきました。

昨日、またまた本の整理をして、200冊くらい処分しました。でもなぜかまだ本棚はすっきりしません。本棚以外のものを処分したからです。

で、今朝はすでに太陽はでていましたが、朝のにおいはもう夏のそれではなく、間違いなく秋のものでした。

日中はまだまだ暑いのでしょうけどね、早いものです。もう秋です。

今日はこれまで。

2011年8月28日日曜日

何だか言葉が出ない 2

昨日の続き。

「おこちゃま」みたいな政治家しかいないのは、民主党だけの問題ではなく、すべての政党にいえること。

ただ、ここで何度も書いているように、政治家もこの国の生み出した社会の縮図なのであってみれば、そんな政治家しか生み出すことのできない「社会」そのものが病巣ということになる。


昨日の読売新聞に昭和35年の岸内閣時の安保改定騒動の記事が出ていた。あの時は数十万人というデモ隊が国会周辺を多い、首相官邸をも取り巻いた。岸信介と佐藤栄作の兄弟は2人でそこに残り、

「殺されるのならここしかないじゃないか」

と言い合ってブランデーをかたむけていたという。


これだけの覚悟をもった政治家が半世紀前にはいたのに・・・。

そのあまりの断絶には言葉がでない。

今日はこれまで。

2011年8月27日土曜日

何だか言葉が出ない

新聞でも盛んに書かれていますが、民主党の代表選にあたって、各候補者の政策がわからん。果たしてどのような政策を持ち、どのようにそれを実現しようとしているのかがわからないまま、単に票獲得の数合わせに終始しているよう。

学級委員を決めるのではないのだから、告示から投票まで僅か数日というのはどう考えてもおかしいだろう。

とはいえ、候補者の顔ぶれをみればそろって、学級委員の器でしかないのかも知れないから仕方ないか・・・。

世間から人気の高い前原氏にしても、僕にはどうも「おこちゃま」に思える・・・。彼の出身である「松下政経塾」のカラーなのか、清濁併せ呑むという人間ではないな。小集団のトップなら務まるとはおもうが、一国を率いるのはまず無理だろうと思ってしまう。

そういえば、読売新聞だったかで菅直人を「権力を握ってしまった市民運動家」と書いていた。まさしくそうだと思った。

民主党の政治家は程度の差こそあれ、多くはそういうタイプだろうと思う。前にも書いたが市民運動家という言葉に、僕は嫌悪感を覚える。なぜならその裏には「左翼」が透けて見えるからで、彼らが叫ぶ「市民」は特定イデオロギーを隠すための隠れ蓑にすぎないからだ・・・。

そういう、声の大きなマイノリティーにこの国の政治を左右されたら、まちがいなくこの国は滅ぶ。
それとは逆の声の小さい、マジョリティーの中に守るべき「国民」の姿があると思っている。

今日はこれまで。

2011年8月26日金曜日

有権者の責任


しつこいようですが、鳩山・菅という最低最悪の総理大臣を戴いてしまった事実に対して、先の総選挙で「民主党」に投票した人は、等しく責任を感じて欲しいと思います。ホントにそう思います。

最近になってようやく彼らの「マニフェスト」の見直しが公然と語られるようになってきましたが、彼らは「これは国民との契約」だと言って憚らなかった。ならば、契約違反を先ずは謝罪し、その責任をとらなければならないはずだ。

「予算の組み替え」で財源はできると言っていたはず!

アホか!!

何度も言うが、鳩山・菅を選出した選挙民の方々に申し上げる。彼らを落選させることがあなた方の使命であり、良心の発露でもあります。重ねてお願い申し上げます。

今日はこれまで。

2011年8月25日木曜日

間に合わない

本日アップする予定の原稿を用意してあるにもかかわらず、接続できる環境になく、仕方がないのでそれを言い訳にした本日分のブログをアップしておきます。
今日はこれまで。

2011年8月24日水曜日

おかしな世の中だ・・・

代表選に出馬を決めた前原氏は、外務大臣という職を自身への外国人献金の責任をとって辞したはず。それも、中学生の頃から付き合いのあった焼肉屋の店主だとかで、金額も僅か数万円だったはず。これについては、僕は彼をとがめる気は全くしない。人情的にみて、いい話だと思う。

これについては、3月に書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/03/blog-post_07.html

ただ、これはもう水に流していいことなのか?という疑問があります。前原氏自身は、そう判断したのでしょうが、僕には何だか疑問符がつきます。大臣職を辞しただけで責任をとったことになるのかな?ちょっとわからん・・・

野党には攻撃材料になるでしょうが、こんなことで騒ぐのはやめてもらいたいと思う。現首相の政治団体が北朝鮮系の「市民団体」へ多額の政治献金をしていたのとは次元が異なる・・・。


そういえば、島田紳介が引退だとか。暴力団と親密な関係にあったことへの責任をとったそうですが、何とも不思議なのは、マスコミは暴力団に属する人の、彼らが大好きなところの「人権」は一体どう考えているのでしょうね?暴力団とかかわりをもっただけで、社会的な制裁を受けるのが当然というような風潮ですけどね。

どんな人であれ、恩義には報いなければならないのは当然のことだと僕は思います。島田紳介もそう思ったのでしょう。それは極めて当然のことだと思います。


闇のない社会などこの世に存在するわけないのに、その闇を明るみにだしたら、闇は移るだけ。酸いも甘いも、クリーンもダーティーも共存するのがこの世の中のはずなんだけどな。


ただ、僕は彼の引退はそれだけが原因ではないような気がする。会見では明らかにしてない文字通り「闇」の部分があったのではと勘ぐってしまう。

まあ、別にどうでもいいことだけど。

今日はこれまで。

2011年8月23日火曜日

未来

政治の混乱など僕らの日常に何のかかわりもなく、何か別の次元での話しのようにも感じられる。

「歴史的」と形容詞がつけられた民主党への政権交代であるが、何のことはない。彼らは一体何をした?

でも、僕らの暮らしが変わったかといえば何も変わらず、ただ日常の仕事なり、勉強なり、子育てなり、家事なりをこなしていただけ。その暮らしぶり、生き方がこの国をかたちづくる。

そう考えれば、政治なんぞに熱狂するのは、ある意味暇人のみが行いうることだろう・・・。


しかしながら、おそらく政治は将来を語るものなのだ。自分たちの子供、これから生れてくるであ
ろう子供たちへ、今のこの国をひきつぐことを目標にすべきでないか。


どんな国をつくりたいか。

このビジョンなくして政治家なんぞ務まるわけがない。

そうして、今の自分もその子供たちも、この国の過去から流れ来るものであることを考えれば、必然的に、僕らの父祖やそのまた父祖たちのことへも思いを致さなければならない。

簡単な言葉を使えば歴史と伝統を離れたところに、国の未来なぞないのだ・・・。

民主党の代表選が来週らしいですがね・・・。

今日はこれまで。

2011年8月22日月曜日

年月

「としつき」と読んでもらいたい。

24時間テレビで、ランナーの徳光さんを激励するためにスターター役となって現れたミスターこと長嶋茂雄。僕の世代はおそらく彼の現役を知る最後の世代。彼があの名セリフを残して引退したのは、僕が小学校5年生の頃だったと思う。

だから、僕の中では彼は背番号90をつけた長嶋監督だ。

いつだったかの巨人と西武の日本シリーズ。

巨人軍は、九段下のグランドパレスに宿泊し、そこから東京ドームへ出かけていたことがある。ホテルの玄関前には選手を乗せたバスが並び、そのバスの最後尾に彼は座っていた。

思わず、無意識に僕は手を振った。そして彼は僕を見て手を振り返してくれた。

彼にはオーラがあった。

不自由な右半身を引きずりながら歩く彼の姿は、往時を知るものにとってかなしい・・・。もちろん、元気になってまた僕らの前に姿を見せてくれるのはうれしい。しかし、もうすっかりおじいちゃんになってしまった。

考えると、この僕もそれだけ年をとったのだが、それを知るのは他人を鏡としてみた場合のみ。
いつまでも自分だけは若いつもりでいるのだが、それが錯覚だと思い知らされる・・・。

今日はこれまで。

2011年8月21日日曜日

寒い・・・

金曜日から続く雨模様の天気・・・。

潤いを与えてくれる久々の雨はまさに慈雨であるが、この寒さは一体何?
まったくおかしな天気です。

「おかしな」といえば、民主党の代表戦に立候補しようとしている人たちも、国政の政治家とは思えませんね。誰一人として国家の安全保障の観点からの発言がない。ここでいう安全保障はエネルギー政策も含まれますが、エネルギー政策というものが国家の安全保障に含まれる分野であるという認識が欠如しているとしか思えない・・・。

「市民目線」だとか、「国民の声」だとか、そういう「空語」はいい加減やめたらどうか・・・。


今日はこれまで。

2011年8月20日土曜日

僕が無知だからか・・・

円が市場最高値を更新したらしいですね。75円95銭だとか。

アメリカの失速により、いっせいにドル売り円買いが続いた結果だとか・・・。

僕は疑問に思います。これが僕の無知なせいかどうかはわかりません。

日本の財政収支の「ヤバイ」状況は、新聞がこぞって書き立てますね。先進諸国の中で最悪で、GDPの何倍も借金がある計算になるとか・・・。

そういう状況で「ヤバイ」が現実化したのがギリシャだったわけでしょうが、日本の場合新聞が書きたてるようにそんな「ヤバイ」国であるにもかかわらず、なぜ「円」が買われるのでしょう?

単純に、日本の新聞や政治家や財務省がいうがごとく日本は「ヤバイ」状況ではないからだろう、だから海外の投資家は「円」を買うのではないか?ならば、海外からみた日本の姿(経済の実情)はいかなるものなのだろう?

という疑問です。う~ん・・・

今日はこれまで。




2011年8月19日金曜日

悲しいこと 悲しいこと


PCからの投稿ようやく復活しました。



つくづく思います。

目の虚ろな前総理・・・。彼は現総理とともに、どうも僕らの意識構造の外にいるようですね。彼は、沖縄の基地問題をぐっちゃぐっちゃにした張本人であるにもかかわらず、そのことの責任、いや呵責を感じているのでしょうか?

なぜに、今でも何の臆面もなく僕らの眼前にでてくるのでしょう?

厚顔無恥という言葉ですら彼を罵倒するには弱いですね。何と言ったらいいのでしょう。

そういえば、彼を「ルーピー」と書いたワシントンポストの記者氏がいましたが、その言葉はアメリカ人1000人のうち、僅か1人か2人が知っているくらいの悪い言葉らしい。僕らが使う「アホ」とか「バカ」とかいう次元の言葉では。ないようですよ。

「恥を知れ」

と言われて自らの行いを正すのが日本人であったはずですし、「潔さ」を出処進退の則としていた日本人でもあったはずです。

この2代続けての壊れた「日本人」・・・。そういえば属している政党は、「外国人参政権の付与」にえらくご執心でしたが、壊れた者の言うことだと考えればむべなるかな・・・。

悲しい。

今日はこれまで。

2011年8月18日木曜日

またも投稿トラブル

PCから投稿できん。携帯から投稿の途切れることを防ごうと目論んでますが、どうかな?昨日の夕方、赤トンボを見ました。秋の訪れか?

あれだけなついていたカナヘビが死亡してしまいました。ショックです。

外においてある植木鉢にトカゲが住み着いているようなので今度はそれを捕まえてやろうと思ってます。ただフォルムはカナヘビの方がカッコいいと思うな…。

今日はこれまで。
Ryo

2011年8月17日水曜日

これを知るを知ると為し・・・

ブックオフで、現代日本文学大系「小林秀雄」と「亀井勝一郎、林房雄、蓮田善明、保田興重郎」をそれぞれ200円で買った。かなりお買い得!とはいえ、今も読みかけの本が数冊あるので、またまた読みかけが増えるわけだが・・・。

最近、デザイン系の本にはまっている。主に配色にかかわるもの。自分で自覚しているのは、洋服の色使いはできるけど、それいがの配色センスはほぼないということ・・・。今は補色だとか、彩度・明度の勉強中でなかなか面白い・・・。絶妙なバランスとはまさに色使いのことをいうのかも知れない。

まだまだ学ぶことは多いなと思う今日この頃。学ぶ広さも深さも、その両方の意味でね。

これを知るを知ると為し、
知らざることを知らずと為せ。
是れ知るなり。


今日はこれまで。




2011年8月16日火曜日

百日紅

ひゃくじっこう

と読みますが、巷間「さるすべり」の名で知られる植物です。

我が家の近くにはいたるところで今盛りです。これは漢字が表すとおり、百日くらいの長い間花を咲かせています。毎年、いつ咲いて、いつ終わるのかを記録しようと思うのですが、いつも忘れます。

なので、本当のところはどの程度咲いているのかわかりませんが、とにかく長い間、花を咲かせています。

幹はつるつるとして、サルもすべりそうということで、さるすべりと名づけられたらしいですが、実物をみればさもありなんと思います。

ここのところの暑さでも元気ですよ、それは・・・。人もそうありたいと思いますね。そして花の咲くのもずっと続けばいいと。

今日はこれまで。



2011年8月15日月曜日

66回目の終戦記念日を思う その7

ちょうど66年前の朝日新聞の社説にはこうある。

被抑圧民族の解放、搾取なく隷従なき民族国家の再建を目指した大東亜宣言の真髄も、また我国軍独自の特攻隊精神の発揮も、ともに大東亜戦争の経過中における栄誉ある収穫といふべきであり、これらの精神こそは大戦の結末の如何にかかはらず、双つながら、永遠に特筆せらるべき我が国民性の美果としなければならない。


日本の新聞の論調が、「あれは恥ずべき戦争」とその意見を変えるのは、その約1ヵ月後、GHQの検閲が本格的に始められてからである。このあたりの経緯は江藤淳の「忘れたこと忘れさせられたこと」に詳しい。

さて、僕はこの社説のどこか間違っているのかを探すことはできない。戦争には必ず大義があり、その実現において、それとは裏腹のことが行われていたとしても、その大義自身までも否定することはないとも思う。

非常に簡単なこと。ヒトラーの戦争に「アジア」は関係ないが、僕らの戦争に「西欧」はいた。「西欧のアジア」から「西欧の」という言葉をとるための戦争だったと大まかにはいえる。


考へてみれば、あの戦争で、日本人の大部分はつひに”敵”といふ意識を抱かなかったのではなないか。自分らが戦ってゐる相手は”敵”ではなく、何か打ち克ちがたい巨大な自然であるかのやうな潜在意識に動かされてゐたのではないか。孤島に最後の一兵まで戦って玉砕した兵士も、捨身必死の特攻隊の壮烈な行為も、敵を打ち砕く意図によるよりも、運命への従順な屈従のままに、ひたすら死ぬことを願った自殺行為であったのではないか。


文芸評論家桶谷秀昭は「昭和精神史」の中でこう書く。あの戦争に向き合った日本人をこれ以上に的確に表現したものを僕はしらない。




「戦後」はいつになったら終わるのか。

この国が、僕らの父祖の戦った「大東亜戦争」を「太平洋戦争」とGHQの言いなりどおりに言い換え、天皇陛下がこの日に靖国神社へ行くこともできずにいる限りは、「戦後」は永遠に続くと僕は思っている。

今日はこれまで。



2011年8月14日日曜日

66回目の終戦記念日を思う その6

なんともいいようがない。

本日の読売新聞の文化欄に評者として朝吹真理子という今年の芥川賞作家の筆になる文章があった。1984年生まれということなので、僕より20才も下の女性・・・。

「コレクション戦争×文学19 ヒロシマ・ナガサキ」の書評であり、「『核』の惨禍すべて現在形」と見出しがつけられていた。

読後感は最悪。何の価値もない。

彼女は、ヒロシマ・ナガサキの惨禍と今回の原発事故を見事に混同し、こんなことをその終わりに書いている。

人類に自滅を選ばない意志があるのであれば、もうこれ以上、原子力エネルギーを使い続けるべきではない。この最悪の事故を契機に、原子力開発は永遠に終わってほしい。全54基が止まり、二度と稼動しないことを強く望む。
単なる一作家の意見なので、別にどうということもないのだが、彼女にぜひとも聞いてみたいのは、彼女が2歳のときに起こったチェルノブイリ原発の事故について・・・。長じて勉強する機会はあったと思うのだが、その時に同様な意見を持たなかったのか?「原子力」というものの危険性を強調するのならば、旧ソ連で起こった事故を知った時点で同様の感慨を持たねばおかしい。


あれは他人事。今度は自国の事。そう考えたのならわかる。だが、彼女の文章からは人類を勝手に代表したかのような傲慢さはあるが、そのエゴについての後ろめたさはまったくない。

なぜなら、彼女がいう、自身の過去4回にわたる原爆資料館への訪問によって得られたものが表層的で、「3.11」以後に初めて現在系であることを知ったということは、旧ソ連でのそれに何の感慨も持たなかったことを表しているからだ。

言っておくが、僕はそのエゴを責め立てるつもりはない。神様でもない限り、当然の持ちえる感情だからだ。「人命尊重」とはいいつつも、赤の他人の命が損なわれるより、自らの飼い犬の死の方が悲しいのが自然な感情だ・・・。でも誰もそれを口にしない。

作家のくせに、そんな薄っぺらいヒューマニズムから抜けきれないのか?

冒頭のこの文章も噴飯ものだ。

放射性物質であるプルトニム239の半減期が2万4000年であると知っても実感がわかなかった。把握できる時間を超えていると思った。人間の時間感覚と大きくずれたそれらの物質をつくりだしてみたいと思う科学者の興奮や欲望を、私は完全に否定することはできないのだが、ただ、それを手にしたら人間が何を起こすか、という人間の心への想像力さえ働いていれば、実際に使おうとは到底思えなかっただろうと信じている。

プルトニウムという元素を「つくりだし」たと書いている彼女の間違いは責めない。あまりにも表層的な「人間」というもの、「社会」というものの把握についてが噴飯ものなのだ。

想像できない、把握できないほどのものに満ち溢れているのが、この社会である。放射能の半減期を持ち出すまでもなく、彼女は最低限10兆円が必要と言われる震災復興費用が「想像」できているのかどうか。1日に100万円、365日使い続けてもそれは僅かに3.65億円にしかならず、100年使い続けてようやく365億円になるに過ぎない。僕なんかこれだけで想像をはるかに超える。1万年使い続けて、やっと3.65兆円になるだけ。想像できないほどに巨額なのかが、わかればいいのだ。

想像できないことだらけなのがこの社会でしょ・・・。


言うまでもなく、「3.11」による原発の事故原因は「天災」にある。もちろん、計画段階から事故後の処理にあたっての「人災」的側面は否定できないにしても、それは原因の「主」ではない。しかるに「ヒロシマ・ナガサキ」は「天災」ではないのだ。あれは戦争被害である。それも、明白な戦争犯罪行為の被害なのである。なぜそれらを混同するのか?

戦争までをもあたかも「天災」として、その運命を享受するような日本人の心性を僕は理解できるが、それはあくまでも実際の被害に遭われた人々がそう感じるのならという条件付きで、部外者がそんなことを言うのは非礼であろう。でも、国をあげてそう仕向けているとしか思えない。

原爆ドームを世界遺産に申請したとき、アメリカは猛反対した。当然である。自国の戦争犯罪が世界遺産になるなど、到底承服できるものではないからだ。日本への対抗措置もとった。従軍慰安婦にかかわった旧軍人の入国を禁じるというわけのわからないもの・・・。その人名は公表せずじまいだった。アメリカのその反応は、大方の日本人にとっては理解できなかったに違いない。日本人は原爆の問題を人類の問題としてすり替えているからだ。



彼女は日本だけの原発稼動が停止すればいいとして、他国の言及はしていない。「人類」として云々といいながらも、このエゴイズムにも目をつむる・・・。しかし、「人類」という言葉は空語である。そんなものの実体も具体性もない。そんな言葉を、その専門家たる作家が使ってどうする、という寂しい感情から僕は離れることができない。

言葉使いに関するあまりにも悲しい惨状・・・。

今日はこれまで。


2011年8月13日土曜日

66回目の終戦記念日を思う その5

昭和20年8月15日の敗戦を機に、陸海軍関係者の自決が相次いだ。夫妻で自刃した杉山元陸軍元帥や、陸軍大臣だった阿南維親、特攻隊産みの親と言われる海軍の大西瀧次郎中将など・・・。 その数は500名を超える。

しかしながら、酷な言い方をすれば、それはただ敗戦の責を追った自決であり、多くの部下将兵を死なせたことへの責任感の現われに過ぎないともいえる。

世上知る人は少ないが、あの敗戦で少なくない数の民間人が自決をしている。彼らはなぜ自ら「死」を選び取ったのか?

何かを回避するためではなく、純然たる信条体系の挫折のために、もしくは、自殺のうちに何らかの積極的意味を見出したがために、自刃した人々・・・

橋川文三は、こうした人々の自決を問題として、それを「敗戦と自刃」という書物に著している。


敗戦を契機として、大日本帝国という政体が崩壊しただけでなく、「神国日本」という体系までもが
崩壊した。

それは、神の世界から人間の世界に降り給うことを宣言した天皇の「人間宣言」ではなく、自らその天上の世界に上ったそれら市井の民間人の自決にこそ象徴されているのではないだろうか?


今日はこれまで。

2011年8月12日金曜日

まだまだ安心できない

というのは、居座り続けた総理大臣のこと。

ようやく、「退陣」を口にしたようですがホントに辞めるまでは信用ならん。前総理と並んで、日本の憲政史上最低最悪の総理という称号は間違いのないことでしょうね。

民主党は代表戦に向けて慌しい様子らしいですが、下馬評の高い野田とか言う現財務大臣。僕は詳しくは知りませんが、どうも財務省の言いなりになるばかりで、同省のスポークスマンかと思ってしまいます。あ~いう人が総理でもいいのでしょうかね?まあ、他の面子をみても皆、学級委員みたいな素人だらけで、どうにも素人臭さがするのはなぜなんでしょう・・・。民主党の体質なのでしょうか?

対抗する最大野党の自民党にしても、これという人はいませんね。人材の払底は由々しき事態だと思います。

さて、かろうじて日本が実行支配する尖閣諸島への中国の武力行動には、断固として自衛権発動を行うと、柄にもなく大胆な発言をした枝野官房長官。

極めて当たり前のことを言ったに過ぎないのですが、その当たり前のことを実行するのが困難なのが、戦後のこの国のことなので、果たしてどのていどの裏づけを持っての発言なのかが大いに気にかかるところです。

おそらく、防衛省は極秘のシナリオを持っていて、そのための部隊動員計画もしっかり持っているとは思いますが、いざそれを実行しようとすれば様々な法律上の制約にぶつかり、最終的には超法規的活動という事態にならざるを得ず、そこで求められるのは政治家の判断ですが、それが果たしてできるのか否か・・・。今の思いつきだけで物を言う人には無理かと思いますが、民主党の代表候補を騒がれる人は、または自民党の面々はどうでしょう?

とつらつら考えると、あまり気持ちは晴れませんね。

昨日11日は震災からちょうど5ヶ月。
5月前の朝に戻ってほしい。そしたらみんなが生きていたから。
とは、インタビューに答えていた女性の言葉。

その胸中を思うと胸が締め付けられます。

今日はこれまで。


2011年8月11日木曜日

66回目の終戦記念日を思う その4

広島つながりです・・・。

広島は町のいたるところに「平和」という言葉が散りばめられている。「平和大通り」「平和祈念公園」・・・。まるで「平和」という単なる状態が価値になったかのようである。

以前にもここで書いたが、平和祈念公園の碑に刻まれた

安からに眠ってください。
あやまちは決して繰り返しませんから

という言葉・・・。落とされた日本人がなぜ「あやまち」というのだろう?おそらく、あの言葉を支持するひとは、「戦争」いやもっといえば日本の近代の歩みすらもそうくくりたいのではないかしら?


あほですな・・・。過去を「あやまち」などという耳障りのいい言葉でくくるのは、傲慢以外のなにものでもない。ただ今を生きているだけの人間が、過去をどんな資格で「あやまち」などという言葉で断罪できるとおもっているのか?

おそらく、戦後のこの国の人々の心象は、あの碑に刻まれた精神によって過去を見下し、現実との齟齬を糊塗してきた。そして今もその迷妄から離れられないでいる。どうもそんな気がします。

今日はこれまで。

2011年8月10日水曜日

混同も甚だしい・・・

6日広島。

原爆犠牲者の慰霊祭で「原発に依存しない社会の実現」ということが言われ、マスコミの報道もそれに何の違和感もなくただ、垂れ流しています。

あまり書きたくもなかったのだが、9日の長崎でも同じようなことが言われ、何でも福島の原発の避難民である中学生が式典に招待されたのだとかいうことを聞き及び、何としても一言言わずにはいられません。

はっきりいって、原子爆弾という戦争の被害者と、今回の震災の原発事故による非難者では何もかもが異なります。ただ共通しているのは「原子力」という未だ人間が御しがたいのかもしれない技術だということのみ。しかしながら、その共通点だけをことさら強調するのは、例えば交通事故死の被害にあった家族が、F1の開会式とかで「車は走る凶器だ」と非難するのと同じ・・・。全く馬鹿げているでしょ。でも、原爆犠牲者の慰霊の場で、原発云々を言うのは同じくらい馬鹿げていることだとは誰も思わないらしい。

もう少し、きちんと物事を仕分けして考えたらいいよ。

原爆慰霊祭の式典が、各国からの代表も臨席する特別なものになっているのは、原爆という兵器の、あまりにも多くの命を一瞬にして奪ってしまうことの残虐性、さらには今になお残る後遺症という放射能というものの被害の時間軸の長さに、人類としてその兵器の存在自体に向かいあう必要があると思われているからでしょ。

そこになぜ原発の問題を持ち出すのか?全く意味がわからない・・・。


僕が間違ってる?


今日はこれまで。

2011年8月9日火曜日

子供の頃から

僕は文房具が好きだった。

今ももちろん大好きで、使っているペンやら、消しゴムやら、メモ帳やら・・・僕のこだわりは栗山さんがよく知っていると思う。

で、最近のヒットはこれ。僕はA5番の方眼タイプを使っているが、何と950円もする!でも、かなりの厚さだし、何と言っても鉛筆でもボールペンでも万年筆でも、紙の上を滑るようにペン先が動く、その紙の質に惚れたのだ。

メモ帳代わりのわけだが、メモ帳なんかどうでもいいと思っている人にはわからないだろうけど、特に万年筆を走らせているときは僕は快感さえ覚えてしまう・・・。

今は、ノートカバーの選択肢も増え、いろんなものが選べるから、その中からひとつを選び、カバーをかけて持ち歩いてほしい。

A5サイズにこだわっているのは、机の上でPCと違和感なく同居できて使えるから。これより大きいと、PCと一緒に使うにはちょっと厳しい。

そうえいば、RHODIAのメモ帳が世を席捲しているけど、それとは比べられないほどの品質の高さです。日本製で、ナショナリズムにも対応してます。

今日はこれまで。


2011年8月8日月曜日

66回目の終戦記念日を思う その3

昭和20年の今頃、というより沖縄が陥落した6月以降というのは、日本軍は大規模な戦闘を行う力もなく、ただ敵の圧迫をしのぐだけということが軍の任務であったと思います。もはや断末魔・・・。

それでも、陸海軍の特攻部隊は散発的に出撃していました。一度の攻撃が3~4機のみとかね、そんなもんです。何の戦果を期待するでもなく、惰性で続けられていただけかも知れません。

太平洋の沿岸部では、来るべき米軍の上陸に備えて築城工事が進められていたはずです。そして本来なら「兵士不適格」とされた人までも駆り出され、頭数だけは揃えたものの全員に行き渡る銃もなく、そんな、およそ近代の軍の姿ではない日本軍が、「一億総特攻」を叫んでいた・・・。

我が家の前の家、そこのご主人の従兄弟は確か8月15日に特攻、戦死したと聞きました。それも、本来の搭乗割りは16日以降だったらしいのが、15日に出撃するはずだった人が急性盲腸にかかり、その替わりに出撃したらしいのです。

その巡り会わせにはなんとも言葉がありません。運、不運という言葉では憚られるような気がします。


そんな、効し難い大きな力で翻弄された圧倒的多数の人々が今のこの国の有様をどうみるか・・・

僕はそんなことを考えてます。

今日はこれまで。

2011年8月7日日曜日

危機?

最近天候が不順だと思う。

35度を超えるような猛暑は勘弁してほしいが、かといって青空も太陽も見えないのはやはり寂しい。
果実や野菜の生育も気になるところだし。

片付けなければならない仕事が進まずに少々いらいらしているので、集中して読書をすることもなくなっている。新聞を開けば未だ居座り続ける人の動向やら、急激な円高への危機感、テレビから撤退を決めた日立のことまでも、何一つ明るい話題はなくかえって読む人を不快にさせるようなもので埋め尽くされている。

それにしても不思議なのは、円高の危機感だけが騒がれて、その恩恵についてはあまり語られないこと。例えば発電のために輸入が増えている天然ガスやら石油やらは、円高になって助かるはずだが、それよりも、日本の製造業の危機だけが煽られているような気がするのは僕だけか?

今日はこれまで。

2011年8月6日土曜日

これでいいのだ

2,3日前の日経「春秋」に赤塚富士夫のことが取り上げられていました。あのいつも酔っ払っていたような彼の人間の奥底にある悲しみみたいなものを初めて知り、そして考えました。

バカボンのパパの口癖

これでいいのだ

という言葉の裏には、その彼の人生から学び取られた深いものがこめられていたと・・・。女子サッカーワールドカップで負けた米国の人々は「It's a LIFE」と納得させるしかなかったのではと書きましたが、この「パパ」の口癖には、人生の不合理も不条理も、悲しみも喜びも、およそ人生で起こりうるすべてのことを突き放すでもなく、あきらめるでもなく、深く受け止めるといったような、深い意味があるように思えます。


おそらく、「出家とその弟子」の中で親鸞が弟子の唯円に向かっていった

そこに祈りがあるのだ

ということと、その根っこは一緒でしょう。親鸞の説く「他力本願」という言葉は、世の中に非常に間違った使われ方が流通していますが、「他力」というのは他人の力のことではなく、「阿弥陀」そのもののことで、要するに下界の人間何ぞに自力で救われる力などないのだということです。まず、自らの身に降りかかる一切のものを、受け止めること。そして祈ること。それでしか救われることはないのだと説いたのだと思います。

「パパ」は「祈り」こそ口にしませんでしたが、その前段階の「受け入れ」をあの口癖で表したのでしょうね。

と、そんなことを考えました。

巷ではフランス人女性シンガーの歌うアニメソングが流行っているようで、彼女の歌うバカボンの歌はいいですね。

今日はこれまで。


2011年8月5日金曜日

不幸

事故車両を埋めてしまう国・・・。

日本の国会議員を入国拒否する国・・・。

まこともって、この国は隣人に恵まれない。

外交に相互主義という言葉があります。文字通り「相互」という関係性が大切だということ。それならば、韓国にも同じ扱いをするのが礼儀というもの。

韓流ドラマも、韓国アイドルもすべて日本から締め出してしまうのも手だ。大体、なぜおばさん連中は韓国の男性アイドルに夢中になるのか・・・。今はチャン・グンソクとかいう人間の人気が沸騰中らしい。

「大人気ない」「感情的」という言葉をつけられることにあまりにも神経質になりすぎ、本来は譲れないことまでも譲ってしまっているのが、今のこの国の姿勢でしょうね。

国会議員が入国拒否など、友好関係にあると表明している国家間では考えられないことじゃないのか・・・。

領海の侵犯すら毅然とした対応ができないこの国のことなので、国の面子というものは関係ないと思っているのでしょうか。

右を向いても左を向いても、情けなくなることばかりだ。

今日はこれまで。

2011年8月4日木曜日

66回目の終戦記念日を思う その2

Yahooからいける「昭和TV」とかいうもので、「男たちの大和」が無料で見られるようです。前にWOWOWでやっていたのを途中から観ただけですので、最初から観てみようとも思っています。

戦闘シーンはショボかったですね。それが印象に残っています。


「もう海軍に船はないのか?」

この大和の特攻作戦は、昭和天皇のこの一言から立案されたのかも知れません。沖縄への特攻作戦は、陸海軍ともに航空機が主であったための素朴な疑問でしょう・・・。ちなみに、「義烈空挺隊」という陸軍の信じられない特攻部隊がありましたが、これは沖縄の敵飛行場へ強硬着陸して、敵に損害を与えようというもの。殴りこみですね。数十機飛ばして、強行着陸したのは僅か数機だったと思いますが、もちろん直ぐに撃退、日本の兵士はすべて戦死です。


「一億特攻の魁となってくれ」

この台詞がこの無謀で成功の見込みのない作戦に最後まで反対していた大和が所属する艦隊の司令長官を、ついにうなづかせる決め手でした。要するに成功しようがしまいが、それは二の次なのですね。

大和がなぜ沖縄へ向かったかというと、沖縄周辺を埋め尽くす連合軍艦隊と刺し違えるためです。確かに、そこまでいければ何がしかの戦果は期待できたかもしれませんが、絶対にそこまでたどり着けないことは皆分かっていました。だから、そんな作戦など成功するはずがない。しかし、それでも大和は多くの「男たち」を道連れにして出撃しなければならかったのです。この言葉によって・・・。

さて、その映画。

ユーザーレビューを見るとなかなか興味深いですね。「反省が足りない」とかいう意見も少数ですがありましたよ。「戦争を美化している」とかね・・・。

利口なやつはたんと反省するがいい。私は馬鹿だから反省などしない。

今日はこれまで。


2011年8月3日水曜日

歴史は鏡(昨日の続き)

昨日、言いたかったことは小林秀雄はこんな風に語っています。ちょっと長いけど実に味わい深い言葉なのでご紹介したい。



歴史教育の方法というものが今日やかましい問題になっているようだが、ぼくは、根本のところでは、これはじつに当たり前な、変わらないものでなければならぬと考えているのです。歴史は鏡だという考えで十分だと思うのです。鏡というのは、ただお手本という意味ではないのですね。こうやって生きているということがどういうことであるか、ということをつらつら考えてみることは難しい、現在に生きているだけでは、その意味合いをつかむことは難しい。だから歴史という鏡がいる。そういう意味があるのでしょう。鏡には歴史の限界なぞが映るのでない。人の一生が映るのです。生れて苦しんで死んだ人の一生という、ある完結した実体が移るのです。それを見て、こうやっていま生きていて、やがて死ぬという妙なまわり合わせが得心できる。それが、鏡という意味でしょう。そこに歴史学というものの目的があるんだろうと思うんだよ。だからぼくが歴史学を科学として認めないという理由はそこにあるんだよ。それを今の歴史教育というものがいちばん忘れている根本だと思うんだな。歴史を科学的に極めていけば形而上学的問題に触れる。その触れざるを得ないというところが大事なんだと思う。過去の清算という現代思想のうちに歴史家は巻きこまれているが、歴史家はそういう不自然な態度をとることが、どうしても難しくなってくると思います。歴史は清算を要するものではない、生き返らす必要のあるものだ。過去を否定したり、侮蔑したりして、歴史をやろうということが無理な話だ。ふつうに過去を思い出すという経験は、過去が統一された、全体として思い浮かぶという経験でしょう。過去から取捨選択するから、過去は有効に生き返るのでない。あったがままが思い出されれば、それは生き返るのです。人為的な技巧を捨ててみるからこそ、生き返ってくるのです。それが本当の実証主義でしょう。現代の歴史家の実証主義は、不徹底で、びくびくしたものだ。なぜびくびくしてるんだろう。将来の文化のために?私にはわからない。


これは、以前触れた田中美知太郎との対談(1960年)からです。

今日はこれまで。

出所:「プラトンに学ぶー田中美知太郎対話集」

2011年8月2日火曜日

66回目の終戦記念日を思う その1




歴史は学ぶものだろうか?

巷間、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの言葉が知られているが、最近はその言葉にも違和感が出てきている。歴史を教訓としてそこから学ぶということは、それを教訓として認知できる後世の人間だからこそなしえることで、いわゆる「高み」に立った立場からは逃れられない。それでは、その時代に苦悩呻吟し、その末に下したかもしれないぎりぎりの決断のその本当の意味を知ったことにはならない。

例えば、この国の大東亜戦争への歩みを「軍国主義」とか「帝国主義」とか断罪することは易しい。だが、それ以外に他にどのような選択肢があったというのだろうか。そこへ思いを致さないということは、人を裁く裁判官ですらなさないこと。裁判官でさえその動機は斟酌するだろう。なのに、それすらなさないということは、自分が「神」にでもなったつもりか?それほどの傲慢さがあると僕は思っている。

後付で考えるのは簡単だ。しかし、それでは本当の歴史への親しみとはならない。小林秀雄は「歴史は鏡である」といった。至言である。鏡であるならば、そこに映し出されたものをみるしかないのだ。そこには後付の知恵も、学ぼうとする姿勢もいらない。

「魂の震えるような共感」(福田和也の言葉)があればいい。

ただそれだけでいいのだ。

今日はこれまで。

2011年8月1日月曜日

今日から8月

ここんところずっと天候不順が続き、あのうだるような暑さから解放されてホッとしています。

が、やはり夏は夏らしくギラギラと照りつける太陽の強さがないと、どうにも締まらないような気がします。それに、野菜などの生育にもそれは欠かせないでしょう・・・。田の稲はいつの間にかずいぶんと大きくなっていますし、もう「桃」が出回っていて、あのみずみずしさと柔らかな甘い匂いがたまらない・・・。

これ、前にも書いたかも知れませんが、我が家のカナヘビはずいぶんと人に慣れてきて、水槽の蓋を開けると、えさがくるものと思って顔を上に上げるようになっています。こんなこともあるんですね、不思議な気がします。

震災直後は、盛夏の今時の計画停電を覚悟しましたが、今年はとりあえずそれはなさそうですね、今のところ。ただ、来春(?)だったか、国内の原発がすべて停止してしまえば今年以上の電力需給の逼迫が必至ですのでまだまだ油断はなりません。

それに、一般家庭の問題よりももっと心配なことは、工場などが電力不足により操業の危機に直面する事態でしょうね。電力の問題は緊急の課題です。

悲しいことに、この国総理大臣が「脱原発」などといい、その直後に「個人的意見の表白」という始末・・・。あの人は一体総理大臣という地位をどう思っているのでしょうね。

いろいろありますが、この8月を健康に楽しく乗り切りましょう。

今日はこれまで。



2011年7月31日日曜日

世の迷妄・・・その2

さて、その事件当時はおそらく東京帝国大学の教授であった吉野作造は、それをどうみていたのだろうか・・・それを紹介したかったのが、昨日と本日の目的である。

彼は事件をこんな風に述べている。

先年朝日平吾なる一青年が安田翁を殺したという報道を新聞で読んだとき、私には何となく之が普通の殺人でないように思われた。寄附を求めて応ぜず怒りに任せて殺したという風に報じたものもあったが、それにしては朝日の態度が立派過ぎる、事柄の善悪は別として、之には何か深い社会的乃至道徳的の意義がなくてはならぬ。殊に安田翁が如何にしてかの暴富を作ったかを思うとき、社会の一角に義憤を起すものあるも怪むに足らぬと平素考えていた私には、どうしても朝日をば時代の産んだ一畸形児としか考えられなかった。斯くて私は朝日という人物に就てひそかに勝手な解釈をもっていたのであった。


また、安田の各地小銀行の乗っ取りの手管や株式市場操作の悪辣さに言及した後、次のように筆を走らす。

今更死屍に鞭うつつもりはないが、冷静に考えれば、大学に講堂を寄附したり、市場調査会に巨額の金を提供したりした位で償える罪ではないように思う。私が彼の後嗣ぎなら、少くとも財産の半分位を公共事業へでも投げ出さなくては、とても寝覚めがわるくて生きておれぬ。

最後の「寝覚めが悪くて生きておれぬ」がなんとも正直というか、吉野も安田の富の蓄積の手段と、その安田自身に対して、よい感情を持っていなかったことがわかる。

かくいえばとて私は、安田翁を殺したのを当然だなどというのではない。朝日の行動には徹頭徹尾反対だ。ことに一安田翁を除くことによって直に社会を救うを得べしと考えた短見は憫笑の至りに堪えぬ。けれどもあの時代に朝日平吾が生れたというその社会的背景に至っては、深く我々を考えさせずには置かぬものがある。日本の青年には今日なお幾分古武士的精神が残っている。不義を懲らすためには時に一命をすてて惜まない。加之(しかのみらず)一方には富の配分に関する新しき理想も動いている。この時に当り社会の上流の金の為には何事をなすも辞せぬという貪欲な実業家があるとしたなら、この古武士的精神と時代の理想との混血児たる今日の青年が、物に激して何事を仕出すか分ったものではない。かかる形勢は我々よくこれを理解しておくの必要がある。

吉野の事件評は、ここで書いたものに要約できる。今風の軽薄な「知識人」が金科玉条のように述べるがごとくの「テロ反対」とは明らかに異なり、犯人朝日への同情、いや一種の愛情のようなものまでを僕は感じる。何に対してか?それは朝日の体現した「古武士的精神」への挽歌かも知れない・・・。と同時に、資本主義の発展に伴う社会的格差の増大と、それに伴う社会不安をも見越していたように思う。

この吉野の事件評について、橋川文三(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%B7%9D%E6%96%87%E4%B8%89)は次のように述べている。

その要点は、朝日を「古武士的精神と新時代の理想との混血児」としてとらえているところであろう。この表現を私なりに言い換えるならば、明治期における幾つもの政治的暗殺者をつき動かした志士仁的人的捨身の意欲と、第一次大戦を画期とする資本主義の発達と貧富の階級分化がひきおこした経済的平準化への平民的欲求との結合形態が朝日の一身に認められるということである。

吉野は、この橋川のいうがごとく、朝日を産み落とした社会の実相を正確にとらえていた。そして、朝日の行動そのものを憎みながらも、その背景の持つ深い闇を明確に感じ取っていたに違いない。


ことさらに、持ち上げられる吉野作造であるがこの彼の事件評を知ってのことなのだろうか?僕はこの事件評はきわめて真っ当なものだと思うが、おそらく朝日新聞を初めとする一群は、そうはとらないだろうな・・・。きわめて勝手な、ご都合主義で彼を持ち上げているに過ぎない。


最後に、渋沢や大倉までにも避難された安田善次郎であるが、彼は当時東京市長であった後藤新平の「東京市改良計画」に全面的に賛同し、当時の政府予算の3割に匹敵する額を寄附もしている。その寄附の一部が今なお残る日比谷公会堂である。

浅学な僕は安田の姿をほとんど知らないが、彼もまた大人物だったと思うことに吝かではない。

ということで、今日はこれまで。





2011年7月30日土曜日

世の迷妄・・・その1

先日、「へえ~っ」と、意外に思ったことがあった。意外というより、僕自身がその人に関して通り一遍の知識しかなかったことが原因。

朝日新聞を初めとする戦後民主主義の信奉者たちが、よく取り上げる大日本帝国時代の日本人、例えば石橋湛山など・・・。取り上げられる人間の特徴は、彼らが時の政府やらいわゆる「軍国主義」に反対したということになっているらしい。

さて、吉野作造という政治学者がいる。大正年間に活躍した人で「民本主義」(democracyの訳語)を唱えた事で、明治憲法下にあって、それを唱えたことがきわめて朝日系の人々に評判がよい。とはいえ、中央公論社が創設した吉野作造賞の受賞者は、保守系の人々も多くいるから、左右問わない人気がある。詳しくは下記、Wikiを参照してほしい。



今日は、その吉野作造についてである。


朝日平吾。

この名前を知っている人は日本の近代史にかなり詳しい人だ。彼は安田善次郎を暗殺した人間である。大正10年(1921)のこと。今から振返れば、この後の日本の中に一大政治・思想潮流となって出てくる「昭和維新」「超国家主義」の萌芽となった事件である。

暗殺された安田善次郎は、今なお残る東大安田講堂の寄付者と知られる、安田財閥の総裁。その当時83歳。いくつもの銀行を持つ大金持ちであった。

しかし、世上彼の評判は頗る悪い・・・。「ケチ」だったらしいのだ。渋沢栄一ですら

彼ほどの財力を少しは国家のために使ってくれたら・・・

と語り、大倉財閥の創始者大倉喜八郎も

慈善事業への出資はなく、金を握ったら話さない男だ・・・

と安田を語っていた。庶民の安田評も「大金持ちのくせにケチ」というものだった。

そんな安田が殺害されたのだから、犯人朝日平吾は一夜にして「国士」となった。非支配層、それも下層の人々の恨みツラミ、社会的格差の増大による社会不安などなど・・・。多くの人々のそれが大金持ちのくせに少しの施しもしない安田に向けられ、その彼が殺されたことに溜飲を下げたのだと思う。

続きはまた明日。

今日はこれまで。



2011年7月29日金曜日

産みの苦しみ

タイトルはデザインの悩みです。

僕は洋服や、持ち物の選び方や、着こなし、スタイル全般に関しては絶対の自信を持っているのだが、さてそれをWebページデザインにどう落とし込んだらいいのだろうか・・・ということで頭を悩ましている。

おそらく、無から有を作り出し、そのフォルムを形作るといったセンスは僕にはかけているのではないかと思うな・・・。文章ならば、駄文とはいえすらすら出てくることが多いのだが・・・

いや、そういえば「226」を書いていたときも相当に苦しんだことを思い出した・・・。

頭の中でもやもやしているイメージはあるんだけど、それを実現するのに今のデザイン構築環境と、僕の力量が不十分かも知れず、そんなことを考えているとなかなか前に進まない。

停滞だ・・・。

今日はこれまで。


2011年7月28日木曜日

この閉塞感はどうしたことか・・・

原発事故による放射能事故は思いもかけぬところから次々と出てきています。

汚染された稲わらを食べた肉牛から高濃度のセシウム、そして今度は園芸用品店で売られている腐葉土からも・・・。まったくあの事故の影響は一体どこまで広がっていくのか検討もつきません。

それにしても、もう震災から5ヶ月が経とうとしているのに、復興に向けた動きが非常に遅く感じられるのは一体どうしたことでしょう?これは僕だけの感想なのでしょうか?

この停滞は、ひとえに今の政権の体たらくがもたらしたものだと思っています。何にもましてその元凶はおそらく菅直人その人。内閣不信任案が可決されそうだとなると、慌てて辞意を表明したにもかかわらず、今ではそれに目をつむって多くの人間をだました。新聞によれば、9月の国連総会も、10月の訪中も準備するよう指示を出しているんだとか・・・。

この破廉恥で節操のない人間、いや怪物を退治してくれ・・・。

今日はこれまで。

2011年7月27日水曜日

帝国陸軍震撼ス

明治27、8年の日清戦争における戦死者977人に対し、実に4064人の死者を出したもの、それは「脚気」である。今の若い人達はこの言葉すら知らない かもしれないが、ビタミンBの欠乏による多発性神経炎で、両脚、両手等の運動障害、麻痺に始まり、心筋に至る筋肉活動が冒される病気である。日本の食生活 において、白米ばかり取り続け、栄養の偏りがあると簡単に起こりえる病気である。明治の日本陸軍は、この「脚気」に対して国の存立が危うくなるといった危 機感を持っていた。しかし、その原因が僅かながらも明らかになるのは大正10年のこと。また、当時の西洋医学でも脚気に対してはなす術を知らなかった。パ ン食が主である西洋ではビタミンBの欠乏など起るはずもなく、その病気すら知らなかったからである。日本に来た多くの西洋医学者たちは、日本(アジア)の 風土病だと思っていた。明治の陸軍は銃砲創や伝染病で倒れる兵士の何倍もの死者を出し続けながら戦ったことになる。

10年後の日露戦争時、その脚気はさらに猖獗を極めた。動員された陸軍軍人110万人以上の中で、戦死者47千人、傷病者は353千人、うち脚気 患者が212千人、脚気で死んだ者は28千人という驚くべき結果であった。外国からの観戦武官は「日本軍は酔っぱらって戦争をしている」と思ったという。 皆一様に脚気によってふらつく足取りをしていたからである。

さて一方の「海軍」はどうであったか?日清戦争中の出動人員3096人中、脚気患者は34名、死亡者は僅か1名。日露戦争中は脚気患者の重傷者は皆無であった。日本海海戦における奮戦は、脚気患者の撲滅によってなされたとも言える。

海軍も明治12年の状況は陸軍同様であった。兵員総数5081人に対し、脚気患者1978人、うち死亡者は57人。戦闘集団として看過できない大 問題であった。しかし、明治17年に「脚気の予防には白米をやめてパン食にすればいい」という事を実験して気づき、そのための策を着々と進めていたのであ る。もちろん、脚気の原因は不明であったが、あくまでも実証によってその有効性を認めたのである。これは、医学研究者として英国留学経験のある高木兼寛軍 医局長の功績によるところが大きい(南極大陸に「高木の岬」と名づけられた岬がある。英国が命名した岬であり、英国が彼の功績を認めたからである)。

一方の陸軍では、その海軍の脚気予防策を知りながら、科学的に証明されないとして、その有効性を頑として認めなかった。その急先鋒の一人が、後の 陸軍軍医総監、ドイツ帰りの森林太郎、鴎外その人である。彼は頑に白米至上主義を取り続け、脚気細菌説をとっており海軍の成功例を完全に無視した。その結 果、明治の両戦役において「古今東西ノ戦役記録中殆ト其例ヲ見サル」と陸軍自らが後に認めるに至った惨禍(多分に鴎外の責も大きい)をもたらしたのであ る。

何ともやりきれない事に、平時の陸軍師団の中には独自に「麦飯」が脚気予防に有効な事に気づいたり、海軍の成功例を聞いたりして白米をやめ、麦飯 に変えた師団もあり脚気の予防に成功していた。しかし、戦時ともなると兵站は中央の仕事。その中央にあり「白米」を戦地に送り続けていたのが鴎外なのであ る。

誤解なきよう言うと、この鴎外の「大罪」と彼の文学者としての功績、地位は別であろう。ただ、彼の有名な遺言「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラ ス」について、高校の現国の教師が言った「俗世の名誉や自身の功績に拘泥することなく、ただ一人の人間としてありたい」とした鴎外の素晴らしさをそのまま 受け取っていた私だが、別の一説「爵位を貰えなかった恨み」(その責を取らされたと思っていた)を知って以来、後者かも知れないなと思うようになった。鴎 外は、脚気の原因を国の臨時脚気病予防調査会が「ビタミンBの欠乏による」という結論を下した2年前に死んだが、もし彼の生前にそれがくだされていたら一 体どうしただろうか?という興味が湧きおこってくる。

 出所「鴎外最大の悲劇/坂内正/新潮選書」「白い航跡/吉村昭/講談社文庫」
今日はこれまで。
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2011年7月26日火曜日

???

何だか、僕のメルアドがへんてこなものになってしまった・・・。その理由はよくわからない。そのあたりのGoogleからの情報を読んだんだけどね。

まーくんちょっと解説してくれ。

さて、日経の1面は「海洋権益 荒波の東アジア(下)」。

後手の日本、欠かせぬ戦略

とありました。不気味な膨張を続ける中国に対して、この国はどうするかということですが、日本が震災後国内事情にかまけている間にも、中国は着々とその覇権を行使しつつあり、周辺諸国は戦々恐々としています。

ただ、大事なのは日経のいうような「戦略」ではなく、何と言っても「覚悟」でしょうね。それがなければ所詮腰砕けにならざるを得ない。

考えてみると、戦後のこの国は国家としての覚悟を一度も決めたことがないような気がする。

今日はこれまで。

2011年7月25日月曜日

驚き

中国で大きな列車事故がありました。

日本からの技術供与を頬っかむりして独自技術だと主張して特許を申請しているものでしょ。それが何だかこんな大事故を起こしてしまって、死者まで出ているのですからびっくりします。

それにしても驚くのは、事故車両を埋めたということ!

おいおい、どう考えても事故原因の隠蔽しかその目的が考え付かないんだけど、一体どういうこっちゃ?

それとともに、こんなことをする国がいまや世界第2位の経済大国なんだから、もうこの世も末かも・・・。

彼らと付き合わなければならない世界の国の悲劇ですよ、いやもはや喜劇に近いかもね。

今日はこれまで。

2011年7月24日日曜日

鷹か鷲か・・・

もしかしたらとんびかも知れませんが、滞在中のマンションにそれがとまっていて、しばらく見惚れました。飛び立つ姿も飛んでいる姿もあれほど優美かつ雄々しいものはないですな。

神の使いと言っても僕は信じるな。

今日はこれまで。

2011年7月23日土曜日

久々の旅

今は熱海に向かう途中。

湯河原のマックからです。

明け方は寒いくらいの気温で震えましたよ。暦の上では大暑じゃなかったか?どうもピントがずれてますね。

今日はこれまで。


2011年7月22日金曜日

遅きに失した

民主党の岡田幹事長が、政権公約に掲げた諸施策いわゆるマニフェストに関して、その実現の甘さを国民に謝罪するとの弁を述べたらしい・・・。

極めて真っ当なことだとは思いますが、どうも時期的に遅きに失したと思います。もうこの期に及んで何を今さら・・・・とまたもや憫笑です。

もう彼らは何を掲げてもおそらく誰も信用しない。次の総選挙で一体何を掲げて戦うのでしょうか。ちょっとかわいそうでみていられない。

あまりこういう言い方は好きではありませんが、「政治不信」というものをまたもやこの国に蔓延させてしまったことは間違いありません。「所詮、どこが政権をとっても同じ」だというね・・・。

今日はこれまで。

2011年7月21日木曜日

思い出したこと・・・。

また、フと思い出したことを書きます。

第二次大戦時の各国の動員率。

分子は兵隊の数ですが、分母はおそらく成年男子なのでしょうか、はっきりとはわかりません。それによると、日本の最大のそれは11.5%でした。ドイツは14.6%、ソ連は11.3%、アメリカは7.6%というものでした。

軍国主義という言葉がありますが、僕にはそれが何を意味する言葉なのかわかりません。すべてが軍事一色に塗り固められたことを言うのでしょうか?それにしては、日本における大学生の徴兵猶予が停止されたのは、昭和18年10月のことですので、それまでの1年10ヶ月の間は日本の大学生は兵役につかなくてもよかったということになりますが、学生に対してそこまで甘い国を軍国主義というのでしょうか。もちろん、志願して兵役についた学生も少なからずいたことと思います。

一方のアメリカでは、真珠湾奇襲攻撃の翌日から大学構内で男子学生の姿が消えたといわれています。みな志願したからです。

日本の軍隊というのは、徹底的な平等社会でした。意外なことと思うかも知れませんが、ここでいう平等というのは、外の世界の身分や社会的格差が持ち込まれなかったことを意味します。したがって、東大の助教授だろうが、徴兵されれば皆二等兵から始めねばならなかったのです。

例えば、イギリスの軍隊ではそういうことは皆無です。大学の助教授が兵士となっても、いきなり士官クラスの階級となります。

日本の軍隊の悪しき慣習として私的制裁というのがありますが、これなどは階級・格差が霧消した閉鎖社会での避けられないことだったのかも知れません。無階級社会の暴力性はフランス革命後をみれば明らかですね。それと同じことが日常的に軍隊内で起こっていたと考えるべきかも知れません。

「アーロン収容所」で会田雄次が欧米人の残酷さを自身の体験として書き残しています。僕はこれは名著だと思います。日本人というもの、そして欧米人というものを知る上で欠かせないものだと思いうからです。

確かその本に出ていたことですが、英軍支配下の捕虜収容所で日本人向けの新聞発行の許可を願い出たところ、担当の英軍将校が「何人の人間が字を読めるのか?」と質問されたといいます。要するに大多数の盲文の人間には無駄だろうということの裏返しです。

これは欧米の軍隊をよくあらわしています。外の社会でも社会的身分の高い将校に率いられる読めぬ下層の兵士たち・・・。

しかし、日本はそういう軍隊に負けたのです。なんとも悔しい・・・。

今日はこれまで。





2011年7月20日水曜日

執念

ともかくあの国は滅ぼさねばならぬ・・・

ローマの大カトーは、議会演説の後に必ずこの言葉で締めくくったと言われる。

「あの国」とはカルタゴのこと。

大カトーにとって、目の鼻の先にあるカルタゴの経済的繁栄は自国の繁栄を危うくする元凶でした。何としてもその目の上のこぶを取り除きたかったのだと思います。あらゆる演説の後でも必ず、冒頭の言葉で締めくくったといわれるから、その執念たるや・・・なんとも凄まじい。


突然、こんなことを思い出してここに書いたのは、未だ居座る人のこと・・・。その人の執念は害悪そのもの、考えるだけでむかむかしてくる。

大カトーにならっていえば、

何としても彼は辞めさせねばならぬ。



今日はこれまで。

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2011年7月19日火曜日

200日

今日は2011年明けて200日ですね。
残すところあと165日。

今朝は台風の影響で大雨です。7月の台風というのはあまり記憶にありませんが、かなり大型でしかも進む速度も遅いということで、しばらくは大雨が続くらしい・・・。

昨日、2年前に書いた記事についてコメントがありましたよ。東北出張時に書いた「白河以北一山百文」ということについて、あれは薩長が使い出した侮蔑の言葉ではなく、岩手出身の原敬やら河北新報が使い出した言葉だと・・・。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2009/06/blog-post_17.html

言葉の出自までは私は知らなかったので、勉強になりました。それが事実ならね。ただそれが事実かどうかを検証する気はなく、はっきりいってどうでもいいのです。問題はその言葉を東北への侮蔑と感じた事実そのものなのでね。

コメントをくれた匿名氏は最後に「会津観光史学にだまされないように」と書いてありました。果たしてそれが何なのかはわかりませんが、自らを高見において人を見下すようなその言い方には非常に違和感があった。

今日はこれまで。

2011年7月18日月曜日

祝なでしこジャパン!

すごい試合でした!何度あきらめかけたことか・・・。

延長後半で追いつき、PK戦での決着になるとはまさにドラマでした。

おそらくボール支配率はアメリカの優位、シュート数もアメリカが多い。なのに試合には負けた。アメリカは納得できないでしょうね。

This is a life・・・

これも人生です。


今日はこれまで。

2011年7月17日日曜日

体重減少再び

ここのところ、毎日の睡眠時間がほぼ3時間。

猛暑の影響で大好きなおやつの間食も減ったためか、さらには往復で12kmのサイクリングのためか・・・体重がぐんぐん落ちていってます。今朝はついに59kg台にまでなってました。寝る前に測った時には60.4kgあったのですが、寝ている間に600gもどこかへ消えていた・・・。

体脂肪も同じように減ってきていて、腹筋の周りについた余計な肉は確かに薄くなり、もとの腹筋のこぶが見えるようになったのはいいのですが、やはり同じように筋肉量も減少しているのは困ります。
まあ、年のせいでもあるのでしょうが、やはり何とかしないとなりません。

前にもかきましたが、果たして筋トレを続ける気力があるや?自問しても答えが出ません。

今日はこれまで。

2011年7月16日土曜日

再び巡る日

昭和20年8月15日に、大日本帝国陸海軍はそれでもなお300万人超の動員兵力(あくまでの人数のみ)の余力を残しながら、戦いの矛を収めました。すでに敗勢明らかになっていたとはいえ、天皇陛下が「最後の一兵となるまで戦うべし」と言ったなら、文字どおりそうなるまで戦い続けたと思います。

戦後、大日本帝国と直接干戈を交えた連合軍の司令官級の軍人の少なくない人が、回想録やら手記などを著しました。その中の一人である英国人スリム中将、彼はインド東部今のミャンマー(当時ビルマ)において日本軍と対峙した部隊にいましたが、彼はこう言っています。

最後の一兵まで戦えとよく言うが、私の知る限り文字通りそうなるまで戦うのは日本人のみである。
これは、彼の著書「高貴なる敗北」に出てた言葉です。

また、真偽は明らかではありませんがこんな逸話もあるらしい。

天皇陛下が皇太子時代に、どこかの国が主催の晩餐会にご出席なされたとき、隣に座られたのが、第二次大戦時東南アジア方面の英国陸軍の総司令官であったマウントバッテン卿。卿は皇太子にこうささやいたといいます。。

過ぐる大戦において、私が戦った殿下の国の軍隊は、古今東西の歴史の中でもまたこれからも二度と現われることもないでしょう。
死力を尽くして祖国のために戦った兵士たちを褒め称えた言葉であることは言うまでもありません。

娘の国語の教科書にまた戦争を題材にしたお涙頂戴の物語が出てます。3年生の頃にもありましたから、なぜこうもしつこく扱うのかその意味がわかりません。こういう刷り込みをするから「戦争」というものを冷静に議論することができなくなり、ただその言葉の後ろに「反対」という言葉をくっつけて使えばいいような、そんな思考停止の人間が多くでてくるのかも知れませんね。

しかも、その話の時代考証が僕にはおかしく感じられてしかたない。

空襲が激しくなって、毎日敵の飛行機が爆弾を落としていた頃の家族の話なのですが、となると、間違いなく昭和20年の3月以降のことになります。そして、家族のお父さんが徴兵されて駅のホームで家族と別れるのが、コスモスの咲く季節らしいので5月~6月くらいのことですね。そのころは沖縄も米軍の占領下になっていました。日本の四海は完全に米軍の支配化にありました。
おそらく、あくまでもおそらくですが、その頃に徴兵された人というのは輸送船に乗って外地に出るより、来るべき本土決戦に備えて泥縄的に配置されつつあった太平洋沿岸へと配属されたはずです。したがって、死の確実性は低かったはず。
でも、その家族のお父さんは帰ってこないのです。そういう話の終わりになります。

「ちちうえも、戦争になったら君やママを守るために戦いにいくぞ。でも年とってるから兵隊にはなれないけど・・・」
僕の抵抗です。娘にはこう言いました。
「年とってると兵隊になれないの?あ~よかった」
というのが娘の答えでした。

昭和天皇の終戦の決断は「聖断」と言われています。本当に天皇陛下が「戦をやめよ」といわなかったら、この国は一体どうなっていたのか・・・。そんなことを考えてみたくもなります。本土決戦が行われていたら、おそらく軍民合わせて300万人超の戦没者ではすまなかったでしょう。全国土が壊滅したドイツでは800万人くらいの戦没者数ですからね。

また再びあの日がめぐってきます・・・。

今日はこれまで。

2011年7月15日金曜日

毎日暑い

いやあホントに暑い・・・。まいってしまいます。

たまにジャケットを着た人を見かけると、見ているこちらまで暑くなってしまいます。ホントにこの暑さはどうしたことでしょう。被災地の避難所ではエアコンがないとのこと・・・。そのつらさを思えばすこしは我慢しなければならないのでしょうね。節電の影響もあって、我が家では極力エアコンの使用を抑えているし、あまりつけなくもなりました。

娘の誕生日プレゼントに任天堂3DSを購入しました。あれはすごいですね。インターネットの接続もできるし・・・。ゲーム機の進化には目を見張ります。

最近よく中目黒へ通っています。これから一緒に仕事をする仲間の店舗兼事務所へです。中目はいい町ですね。安い飲み屋もたくさんあります。

今日はこれまで。