人気の投稿

2011年7月27日水曜日

帝国陸軍震撼ス

明治27、8年の日清戦争における戦死者977人に対し、実に4064人の死者を出したもの、それは「脚気」である。今の若い人達はこの言葉すら知らない かもしれないが、ビタミンBの欠乏による多発性神経炎で、両脚、両手等の運動障害、麻痺に始まり、心筋に至る筋肉活動が冒される病気である。日本の食生活 において、白米ばかり取り続け、栄養の偏りがあると簡単に起こりえる病気である。明治の日本陸軍は、この「脚気」に対して国の存立が危うくなるといった危 機感を持っていた。しかし、その原因が僅かながらも明らかになるのは大正10年のこと。また、当時の西洋医学でも脚気に対してはなす術を知らなかった。パ ン食が主である西洋ではビタミンBの欠乏など起るはずもなく、その病気すら知らなかったからである。日本に来た多くの西洋医学者たちは、日本(アジア)の 風土病だと思っていた。明治の陸軍は銃砲創や伝染病で倒れる兵士の何倍もの死者を出し続けながら戦ったことになる。

10年後の日露戦争時、その脚気はさらに猖獗を極めた。動員された陸軍軍人110万人以上の中で、戦死者47千人、傷病者は353千人、うち脚気 患者が212千人、脚気で死んだ者は28千人という驚くべき結果であった。外国からの観戦武官は「日本軍は酔っぱらって戦争をしている」と思ったという。 皆一様に脚気によってふらつく足取りをしていたからである。

さて一方の「海軍」はどうであったか?日清戦争中の出動人員3096人中、脚気患者は34名、死亡者は僅か1名。日露戦争中は脚気患者の重傷者は皆無であった。日本海海戦における奮戦は、脚気患者の撲滅によってなされたとも言える。

海軍も明治12年の状況は陸軍同様であった。兵員総数5081人に対し、脚気患者1978人、うち死亡者は57人。戦闘集団として看過できない大 問題であった。しかし、明治17年に「脚気の予防には白米をやめてパン食にすればいい」という事を実験して気づき、そのための策を着々と進めていたのであ る。もちろん、脚気の原因は不明であったが、あくまでも実証によってその有効性を認めたのである。これは、医学研究者として英国留学経験のある高木兼寛軍 医局長の功績によるところが大きい(南極大陸に「高木の岬」と名づけられた岬がある。英国が命名した岬であり、英国が彼の功績を認めたからである)。

一方の陸軍では、その海軍の脚気予防策を知りながら、科学的に証明されないとして、その有効性を頑として認めなかった。その急先鋒の一人が、後の 陸軍軍医総監、ドイツ帰りの森林太郎、鴎外その人である。彼は頑に白米至上主義を取り続け、脚気細菌説をとっており海軍の成功例を完全に無視した。その結 果、明治の両戦役において「古今東西ノ戦役記録中殆ト其例ヲ見サル」と陸軍自らが後に認めるに至った惨禍(多分に鴎外の責も大きい)をもたらしたのであ る。

何ともやりきれない事に、平時の陸軍師団の中には独自に「麦飯」が脚気予防に有効な事に気づいたり、海軍の成功例を聞いたりして白米をやめ、麦飯 に変えた師団もあり脚気の予防に成功していた。しかし、戦時ともなると兵站は中央の仕事。その中央にあり「白米」を戦地に送り続けていたのが鴎外なのであ る。

誤解なきよう言うと、この鴎外の「大罪」と彼の文学者としての功績、地位は別であろう。ただ、彼の有名な遺言「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラ ス」について、高校の現国の教師が言った「俗世の名誉や自身の功績に拘泥することなく、ただ一人の人間としてありたい」とした鴎外の素晴らしさをそのまま 受け取っていた私だが、別の一説「爵位を貰えなかった恨み」(その責を取らされたと思っていた)を知って以来、後者かも知れないなと思うようになった。鴎 外は、脚気の原因を国の臨時脚気病予防調査会が「ビタミンBの欠乏による」という結論を下した2年前に死んだが、もし彼の生前にそれがくだされていたら一 体どうしただろうか?という興味が湧きおこってくる。

 出所「鴎外最大の悲劇/坂内正/新潮選書」「白い航跡/吉村昭/講談社文庫」
今日はこれまで。
にほんブログ村 歴史ブログへ

0 件のコメント:

コメントを投稿