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2010年7月31日土曜日

65年前の終戦記念日を思う その6

1990年代初頭の映画「メンフィスベル」です。


『無傷の"メンフィス・ベル"で最後の任務に飛び立つ、若き戦士たちの運命は…!』

1943年。イギリスの米軍基地は、ナチス・ドイツへのB-17による危険な白昼攻撃を繰り返していた。そんな中、その白昼攻撃を最後の任務として迎えることになった10人の若きクルーたちがいた。彼らが乗り込むのは、24回の出撃で唯一無傷を誇る戦闘機"メンフィス・ベル"。それでも撃墜の恐怖は消えるものではない…。それぞれの夢と不安を胸に、若者たちは、いまドイツ本土の激戦区へ向けて飛び立つ!



以上、アマゾンより

B17というのは、米軍の爆撃機です。日本を爆撃したのはこれではなくてB29です。「戦闘機 メンフィス・ベル」と出てきますが、戦闘機に10人乗りこめるわけなく、これは「爆撃機」の間違いです。この映画、なかなか面白かったので、皆さんにもお勧めします。

 このビデオを自宅で英国の友人と観た事があります。私としては、対ドイツ戦なので日本人の僕としても、英国の彼としても気まずい思いはしなくていいだろうなという思いがありました。劇中、主人公であるクルーの最後の出撃の前日、基地内で地元の女性も参加するダンスパーティがあるのです。アメリカの戦争映画ではよく出てくるシーンですね。

「おまえの国は戦争中にダンスして、娯楽があったんだなぁ」

と一人ごちた僕に、彼は「No dance party?」と目を丸くして僕に聞き返したのが印象的でした。つまり、彼は第二次大戦中の日本と、現在の日本のギャップを知るわけもないし、当時の日本でも、自分等の国と同じように戦争中とはいえ、休息も娯楽もあったはずと思ったわけです。

「ダンスどころか、食べるものも飲む水をなかったところが多かった。多くは死ぬまで帰れなかった」

「!!!」(外人特有の大きなジェスチャー付き)

と、こんなやりとりでした。僕は彼相手に熱く語ろうとは思っていませんでしたし、ただそんな状況でも戦ったかつての日本人を立派に思っただけです。


「撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なし」

日本軍の戦線で日常的に見られた状況を表すとこうなります。
「父よあなたは強かった」という軍歌があります。

「敵の屍とともに寝て、泥水すすり草を食み」
という歌詞が出てきます。これを米国人に教えたところ、「これは前線の悲惨な状況を訴える反戦歌か?」という答えが返って来たと、阿川弘之の本に出ていました。

僕はよく思います。かつてのこの国の人間が受け入れなければならなかった運命の下、果たしてこの自分に父祖と同じような振る舞いができるのだろうかと・・・。極限の状態の中でリーダーシップを発揮できるのだろうか、任務を果たす事ができるのだろうかと・・・。


2010年7月30日金曜日

心の食物

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりにも遠し
せめては新しき背広をきて
きままる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめの
うら若草のもえいづる心まかせに。


萩原朔太郎がこれを詠んだ大正時代には、一般庶民の海外渡航などは思いもよらぬことでした。今とは大違いですね。今は世界が狭くなりました。ただ、それがどれだけ僕らの人生を豊かにしたのかについては、疑問が残ります。「憧憬」は手に入れた刹那に「憧憬」ではなくなってしまうからです。心の中でずっと温めて続けている状態の方が幸せというような、ある種のつつしみみたいなものを一切、なくしてしまっていますからね、現在は。


若い時には旅をしろ、だとかよく言いますね。見聞を広めろとか・・・。僕はその言葉に否定的です。何の知識も、あこがれもなく、例えば海外へ旅へ出たって、心の中に残る事はそう多くはないと思うからです。逆に、常に自らを省みて沈思して心の中に「なにものか」を持っている人ならば、普段目にする何気ない日常の中に、海外で見る景色の素晴らしさ以上のものをみつける事ができるだろうと思うからです。




「われわれの人生に対する読書の意義は、一口で行ったら結局、『心の食物』という言葉が最もよく当たると思うのです」


「『心の食物』は、必ずしも読書に限られるわけではありません。いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。したがって、その意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいとも言えましょう」


「ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らなねば、かえって人々を損なうようなものです。同様に人生の深刻切実な経験といえども、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう」


これは西田幾太郎の弟子であった森信三が「修身」の講義で述べた言葉です。


そういえば、カントの言葉にも「知識は経験とともに始まるが、思推思考がなければ盲目となる」がありますし、
論語の「学びて思わざれば即ちくらし 思いて学ばざれば即ち殆し」がありますが、ほぼ同様なことを言っていますね。


僕の読書の目的は、「この世の絶対の真実を知りたいがため」といえるかも知れません。そんなものはありはしないのかも知れませんが、それを究める途上に読書があるのかなと・・・。すなわち僕にとっては「読書」は修行の一つです。



2010年7月29日木曜日

「死刑」「人権」等々

 現法務大臣が、就任後初めて死刑を執行したことがニュースになっています。
その千葉恵子なる女史は、先の参院選で落選したまま大臣にとどまっており、その事について批判が多く出ています。閣僚は議員でなくても務めることができるので、それについてとやかく言うつもりはありませんが、彼女は名うての「死刑廃止論者」らしいですね。この時期に死刑を執行したことについては、痛くもない腹をさくぐられても致し方のないことだと思います。


 さて、新聞によれば世論調査で国民の85%は「死刑」に賛成しているそうですね。世の中の論調は何でもかんでも「民意民意」と騒ぎ立てていますが、それならばこの「民意」の結果を尊重すべきでしょう。しかしながら、僅か15%に過ぎない小数意見をなぜクローズアップするのか、僕にはよくわかりません。しかも、死刑廃止を叫ぶ人々は「人権運動家」とか言われています。「人権」って何だ?


 ニュースでもアムネスティの日本支部長とかいう女性が、「人間の命に関わる重要な決断」云々と、死刑の執行に関して落胆したとか言っていましたが、その支部長は罪なく殺された被害者の命に関しては、どう考えているのでしょうか?同じセリフを被害者の遺族に、面と向かって言えるのでしょうか?その彼女だけでなく、死刑廃止論者は必ず「国家が命を奪う」ということに対して、一様に疑義の念を差しはさんでいるようです。


 たとえ自分の家族が殺されても、その加害者を許すという、寛容で愛に満ちた人もいるにはいるでしょう。僕もそういう人を尊敬するにやぶさかではありませんが、それを万人に強制しようとするのは大きな間違いでしょう。仮に、死刑廃止論者が被害者の遺族に「死刑よりももっと辛い刑を与えるために」と、現行の「無期懲役」ではなく、「終身刑」を課そうと説得するのなら、僕もわかるのですよ。僕ならその説得には耳を貸しませんがね。でも、そうではないですよね、必ず命を国家が奪うのはよくないというのが、彼らの主張ですから。もちろん、無実の罪で死刑になる可能性は0にはなりません。裁判の錯誤は必ずあります。しかし、そうはいっても裁判というものを信用せざるを得ないのが、この社会に生きる人間の定め、悲しいかもしれませんが宿命です。近代というものは、個人から復讐権を取り上げ、国家にそれを与えました。世にはびこる「人権論者」は、その復讐権は「人権」の中には含まれないという理解なのでしょうか。僕には理解できません。


 毎週欠かさず見ていいた「クリミナルマインド」というアメリカのテレビドラマがあります。先日シーズン4の最終回でした。
89人ものホームレスやジャンキーをさらってきて、知的障害である自分の弟を利用して人体実験していた四肢麻痺で寝たきりの兄が、こう言うのです。「たとえ、陪審員が僕を有罪と認めて、僕が罪を負ったとして今の僕の境遇以上の罪があるのか?」と。米国は衆によっては死刑がありません。結局、その兄は妹を殺された遺族に撃ち殺されてしまいます。後味の悪いエンディングで、罪と罰についての根元的な問いを発している内容でした。


 
 根元的な内容といえば、この本です。




かなり売れていますね。この社会の様々な矛盾や対立をあげています。まだ全部読んでいませんが、これまでのところ、非常に面白い本ですよ。いつかこれを題材に議論できたらいいとは思いますね。


 この世の中に解ける矛盾や対立は非常に少ないのだなとわかります。

2010年7月23日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その5

 昭和20年8月に日本国軍隊が降伏をしなかったら、連合軍は秋に南九州へ上陸するオリンピック作戦、翌年の3月には関東地方に上陸するコロネット作戦を遂行する予定でした。後者の作戦においては「史上最大の作戦」として名高いノルマンディ上陸作戦をはるかに上回る規模の上陸作戦となる予定でした。


 一方それを迎え撃つ日本軍は、15歳から65歳までの成年男子を根こそぎ動員し、2800万人を組織化して最後の戦いを行う算段でした。全員に行きわたる兵器もあるわけでなく、もうほとんど自殺攻撃だけが残された戦い方でした。まさに一億総特攻です。これは戦術とか、作戦の名に値しませんね。もはや精神の戦い、いわば「心法」です。


 幸いなことに、そのような事態は避けられたわけですが、連合国は、九州への上陸作戦だけで約25万人の戦死者数を予想していました。特に、沖縄での軍民一体となった戦いに衝撃を受け、本土へ上陸したことを考えれば、そのくらいの戦死者数を予想し、かつ恐れたのです。


 日本が米国と戦ったあの戦争をよく言う人はまずいません。いわく、「無謀な戦争」「勝ち目のない戦争」「無計画な戦争」・・・。しかし、僕はこう思います。「今に生きる『合理的』な日本人は、あのようなことを二度としないと断言できるのか」と。
対米英戦は、技術水準、物量の差からみて到底勝算などないことは、皆わかっていました。論理的に結論を求めれば「敗戦」となることは自明の理でした。何でもかんでも合理的、論理的に考えようとするなら、当時の日本人は皆狂っていたことになります。


 ただ、こうも言えるのではないでしょうか。


「個人の人生において、合理的、論理的な説明が不可能なことを為す場合もあるのだから、国家や民族においても、仮に負けるとわかっている戦いに、あえて身を投じなければならないこともある」


 僕は、日米の戦いは太平洋を挟んで向かい合ったこの両国の宿命であったと思っています。




さて、「東京裁判」正しくは「極東軍事裁判」について、皆さんがどれほど知っているのかはわかりません。毎年8月15日になれば靖国参拝で「A級戦犯」云々と、マスコミをにぎわしますが、あの裁判の「振り」をした復讐劇の茶番は、今でもこの国の矜持を汚すことに一役買っているようにも思えます。


次回の3と1は、その「東京裁判」について皆さんの理解を深めてもらうために、僕が講師を勤めようと思っています。第30回の開催。8月26日に行います。場所は未定です。



2010年7月22日木曜日

65年前の終戦記念日を思う その4

 今日は終戦にまつわる秘話を紹介します。


愛媛県松山市といえば、「坂の上の雲」の秋山兄弟、正岡子規が生れ、夏目漱石「坊っちゃん」の舞台となったことで知られていますが、戦争末期の昭和19年末に「343海軍航空隊」という部隊が創設され、日本爆撃に大挙飛来する米軍機に日本海軍航空部隊最後の大戦果を挙げたことは知られていません。その部隊を創設したのは源田実大佐で、真珠湾攻撃時の航空参謀であり、航空の専門家として海軍部内にあって大きな発言力を持った人間でした。源田大佐は、日本の上空における米空軍の跳梁跋扈を何としても阻止すべく、当時の新鋭機「紫電改」で戦闘機部隊をつくり、その搭乗員も南太平洋に広く散らばっていた、各航空隊のエースを彼の政治力によって松山に集めるということやってのけます。


この頃、日本海軍の「零戦」は性能の面でもはや米軍機に太刀打ちできず、しかも搭乗員の技量も低下する一方でした。当時の日本の戦闘機は陸海軍含め1000馬力のエンジンでしかなく、一方の米国は2000馬力のエンジンを積んだものでした。新鋭機「紫電改」は海軍戦闘機の中で唯一2000馬力のエンジンを積み、しかも空戦性能を飛躍的に高める「空戦フラップ」という新技術が織り込まれた、まさに起死回生の期待を担う戦闘機でした。


源田大佐は、優秀な搭乗員、優秀な戦闘機を集めただけではなく、戦闘方法もこれまでとガラリと変えて、名人技に頼ることなく、常に編隊という組織で戦うことを徹底させました。空中での組織戦を支える高性能の無線機も完璧に揃えさせました。信じられないことでしょうが、それまでの海軍の航空機に装備されている無線機は、非常に性能が悪かったため、いざ空中にあがると手信号による意思疎通しかできなかったのです。


源田大佐のこの目論みは、大成功を収めます。爆撃機B29には目もくれず、ただその護衛戦闘機だけに狙いを付ける作戦は、紫電改の高性能、搭乗員技量の卓越さ、編隊戦という新作戦で、昭和20年3月の初陣で米国戦闘機50機を超える撃墜を成し遂げます。


しかしながら、たび重なる戦闘により優秀な搭乗員も次々と戦死し、かつ機体の補充もおいつかず、部隊の戦闘力を維持できずに最後は終戦を迎えるのです。


ちなみに、現在の旅客機は高度約9000mを飛行しますが、B29は高度約1万mを飛行してました。日本の航空機は、その高さで自由に戦闘する事ができず、しかも、航空機を落とすための高射砲もその高さまで届きませんでした。唯一その高さまで射程距離のある高射砲は、僅かに2門あるだけでした。


さて終戦後。源田大佐は、海軍上層部から秘密命令を受けます。それが「皇統を護持せよ」というものです。つまり天皇家の血筋を護れということです。連合国が天皇家の将来についてどのようにするか予断をゆるさかなった時、その血を継ぐものを護り、かくまうことを命じられたのです。


そのいつ解除されるかもわからない秘密命令は、8月19日になって部隊員に告げられ、23名がその任務につきます。終戦直後の具体的行動は、どこに皇統をかくまうか、その場所を探すことでした。数名ずつがグループになり、各地を歩いて回ったのです。


幸運なことに、その秘密命令はその目的を果たさずに済む事になります。その命令の解除式は戦後36年目の昭和56年に行われました。中には、いつ命令の発動が来ても良いように、ずっとその準備を怠らなかった人間もいたそうです。源田大佐は、その後航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長を務めたあと参議院議員となります。


この秘話をどうみるか、現在の視点からみればある種の迷夢かも知れません。しかし、「歴史」というものはこうした無意味ともいえるものにかける人間の情熱の集積が、その流れを作っていくものなのかも知れません。僕はそう思っています。

2010年7月21日水曜日

経済道徳合一説

 不定期ですが、日経朝刊に「200年企業」という記事の連載があります。あいまいな知識ですが、日本は創業100~150年超の企業が世界一多いとか・・・。本日(20日)のそれの冒頭は次のように始まっています。


『長寿企業の経営哲学や家訓の共通項を調べると、勤勉や創意工夫、倹約と並んで社会貢献・地域貢献を重視していることがわかる』


これを読んで思い出したのが渋沢栄一です。日本における「近代資本主義の父」ともよばれ、幾多の企業を輩出してきた渋沢栄一は、「経済道徳合一説」というものを唱えました。「論語と算盤」という本の中に出ています。
彼は、富を独占するのではなく、国を豊かにするために富を共有すべしと広く社会に還元することを説いたわけです。「226」執筆時にいろいろ調べましたが、かつてのこの国は超格差社会でした。貧しい者はとことん貧乏で、富める者は考えられないくらいに大金持ちでした。ただ、その頃の大金持ちの中で少なくない者は、優秀だが貧乏で進学できないこどもに学費を援助してやる、または広く美術工芸品等を集めて、今に残る美術館を作ったりと、富める者の果たすべき義務を果たしていました。米国では、今でも個人の名を冠した民間の奨学金制度が多く、貧しい家庭に育つ子供の学問への道は篤志家によって広く開かれています。


翻ってこの国はどうでしょう?かつてと違い、大金持ちが生まれにくい社会にはなっていますが、「篤志家」なる言葉は死語になりつつあるような気がします。

2010年7月20日火曜日

市場対国家





梅雨明けしたとたんに猛暑です。


この本、1999年に読んだ本です。既に11年前ですが、初めて読み返しました。名著です。買った当初、自民党総裁選に小渕、梶山、小泉の3人が立候補しました。田中真紀子が「凡人、軍人、変人」と彼ら3人を言い表した総裁選です。僕は、田中真紀子が大嫌いですが、彼女の言葉のセンスには舌を巻きます・・・。
さて、この時の総裁選に対し、新聞には「市場は誰を認めるか」というような記事が出ていたのを明確に覚えています。「市場」が総理を信任するなど、これまでの総裁選では何の考慮もなかったからです。で、買って読んだのがこの本です。
今は文庫にもなっているので、是非読んでください。非常に面白い本です。


印象的だったのが、第二次大戦後の英国の状況です。英国は、1954年まで食料の配給制度があり、キャンディですら1953年まで配給制度の対象になっていたというのです。これには驚きました。戦勝国ですからね、英国は・・・・。


大日本帝国の戦争目的の一つに「大東亜共栄圏」の建設がありました。これは、その基本思想はかつてのEC(ヨーロッパ共同体)と同じです。そのためにアジアから欧米諸国の植民地を一掃したわけです(もちろん、帝国にとっては資源目当てでした)。帝国は敗戦の憂き目に遭いますが、帝国が戦争をしたおかげで、植民地が独立できたことも事実です。そして、その結果が英国の没落・・・。果たして真の勝者は?と考えてしまいます。


市場は、競争によって成り立ちます。小泉改革と呼ばれたかつての規制緩和の大合唱は未だ記憶に新しいですが、竹中平蔵とともにその旗振り役を務めた中谷巌は、その大合唱の果ての日本の姿に、「自分は間違っていた」と反省の意を表明し、以下の本を著しました。




センセーショナルな題名ですが、資本主義を市場万能主義と読み変えればいいのではないでしょうか。ちなみにこの本は読んでませんが、彼の反省の意はいろいろな雑誌で取り上げられていたので、大方内容は推測できます。


計画経済がうまくいくわけがないのは、最早周知の事実。あのソビエトの壮大な実験の失敗は皆がわかっているはずですし、最大の共産主義国家中国の経済的発展は、その教義に従ったわけではなく、本来不倶戴天の敵であるはずの市場経済によるものです。資本主義=市場経済が自壊したのではなく、それを万能の如く崇めたのが間違いだったです。


経済の語源は「経世済民」。この言葉をもう一度考えるべきでしょうね。


僕は、モラルなくして経済なしと考えています。モラル=道徳がその根幹にあってしかるべきだと思います。これは市場での敗者のためにセーフティネットを整備するというテクニックとは別次元の問題だと思います。残念ながら、それを筋道立てて説明する見識は僕には未だありませんが・・・。漠然とそんな風に思っているのです。


管政権は、成長分野に集中的に投資していくと、自らの政権構想で公言してますが、その「成長分野」はどこにあるのか、官僚や政治家ならそれがわかるとでも思っているのでしょうか?僕にはどうもひっかかる言葉づかいであります。





2010年7月16日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その3

戦争中、海軍の中堅幕僚だった人々が昭和56年から始めた、「海軍反省会」と題した討議内容をまとめたのが、この本です。数年に渡って行われたらしいのですが、この本にまとめられているのはほんの一部です。未曽有の敗戦となったあの戦争についての海軍側からみた反省録となっています。「なぜ陸軍に引っ張り回されたのか」「なぜ硬直した人事制度しか採りえなかったのか」「なぜ難局を担う資質のある人間がトップにならなかったのか」等々・・・。電子兵器の遅れ、物量の差、開戦ぜざるをえなかった原因など、多くの事柄について反省をしていますが、突き詰めれば、「人」の問題に帰するという結論になっています。人事制度、教育を含めてです。

 ただ、ひとつ「なるほどなぁ」と目を開かされた意見がありました。少し説明を要します。

 日露戦争後、日本海軍は米国を仮想敵国とします。これは地政学上からいって当然の帰結でしょう。急激に海軍国として台頭してきた日本と、ハワイ王国を謀略によって併合までした米国とは、いずれ太平洋の覇権をかけて戦わざるを得ないとみたからです。

「来るべき日米戦をいかに戦うか」についてまとめられたのが「邀撃作戦」というもの。この作戦を根幹に海軍の軍備は進められていくことになります。これは、要するに太平洋を西上してくる米国太平洋艦隊を、待ち伏せて一気に艦隊決戦に持ち込み、日本海海戦の再現を目指すものでした。ただ、当然海軍力の差は歴然としてあるので、いきなり正面からぶつかったのでは勝ち目はない。そこで、まずは潜水艦によって米国太平洋艦隊を少しづつ沈め、さらには駆逐艦による夜襲により、相手の兵力をそぎつつ、彼我の兵力を五分五分として、最後の戦艦同士の艦隊決戦に持ち込み、勝利を得るというものです。これが海軍の対米国戦の根幹にあった作戦です。

ところが、いざ日米開戦すると、ご存じのとおり日本海軍はその劈頭に航空機によって米国の太平洋艦隊の基地であったハワイを急襲します。「邀撃=まちぶせ」から「先制攻撃」へと変更したわけです。米国は、この攻撃を受けたことによって、戦術を一変させます。多数の空母を集中的に運用し、航空機による艦船攻撃に変更するのです。日本から学んだことです。ところが、日本海軍は真珠湾攻撃でみせた戦い方に主軸を置くには至りませんでした。艦隊決戦をどうしても捨てきれなかったからです。

「反省録」で出てきた意見は、「邀撃作戦の方がよかったのではないか」というものでした。空母運用による作戦を否定してはいませんが、作戦の根幹を変えることはなかったではないかという意見でした。「いかに戦うか」について日本海軍は最後ま中途半端でした。米国海軍は一気に変えました。見事なほどに。

後世からみれば、あれ(真珠湾攻撃)で海戦の主役は航空機に移ったということは簡単ですが、当時はまだ五分五分だったのでしょう。米国はリスクを冒して航空機に主軸を移し、日本海軍はリスクを冒さずに中途半端であった。しかも、それまで積み上げてきた「邀撃作戦」への夢断ち難し・・・・といったところでしょうか。僕は、反省の中にそれが出てきた事に、例の「組織の不条理」でみた「合理的なるが故に不条理」という事を思い描く一方で、それは後世だから言えることであって、当時の情勢からみれば、その是非はわからなかったはずだと共感した次第です。


真珠湾攻撃の発案者は今でも著名な山本五十六連合艦隊司令長官です。海軍省、海軍軍令部ともにその作戦については猛反対をします。これまでの「邀撃作戦」とは相容れないものですし、リスクが大きすぎるとみたのです。山本五十六は「この作戦を許可しないならば職を辞す」といい、半ば恫喝して最終的にこの作戦許可を得るのです。時の軍令部総長(海軍の作戦の総責任者)永野修身は、「山本があれだけいうのだから好きなようにやらせてやれ」と・・・、こういったと言われています。成功したからよかったものの、失敗していたら大変なことでした。

同じセリフでその上司が判断して大失敗したのが、昭和19年3月に始まった「インパール作戦」でした。言ったのはビルマ方面軍のトップ川辺正三陸軍中将、言わせたのは配下の第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将でした。補給をまったく考慮しない無謀極まりない作戦で、当初からそれに反対する人が多くいたのですが、東条首相の意向もあり、最終的に許可されてしまいます。孤島ではないにもかかわらず、約9万人の兵力を投入して最終帰還者は1万人前後、戦病死4万人のうちそのほとんどが餓死と言われています。

牟田口中将は、戦後も「あれは部下が無能だったから失敗した」と言い続け、自身の葬儀の際にも会葬者に自己弁護を綴った紙を配布させたそうです。

20年近く前だと思いますが、靖国神社でその作戦が行われたビルマから持ちかえられた銃や、鉄兜、飯合が展示されているケースの前で、それを見ていた僕に話しかけてきた老人がいました。「私もビルマにいた」と・・・。その老兵は怨みつらみを一切言わず、ただ「国がこうまでして集めて来てくれてありがたい」と言っていました。僕はびっくりしてただ「御苦労さまでした」とだけ言うのが精いっぱいでした。その老兵もおそらく今は墓の下、しかし今でもあの老人の姿が目に焼き付いています。

アルピニストの野口健が、日本軍の遺骨収集を熱心に進めているらしいですね。いろいろな山のゴミ拾いはマスコミに取り上げられますが、そういった彼の活動は一切マスコミに登場する事がないのは何故なんでしょう・・・。

出るのはため息ばかりです・・・。



2010年7月14日水曜日

65年前の終戦記念日を思う その2

 敗戦後、海外の領土と占領地から引揚げてきた日本人の総数を想像できますか?
陸海軍人311万人、民間人318万人で総計629万人と推定されています。最も多いのは満州からの100万人で、以下中国本土、朝鮮半島、台湾と続き8割以上がいわゆる「大東亜共栄圏」からの引揚げでした。
現在の海外在留邦人数は110万人でしか過ぎないので、いかにかつての大日本帝国の海外進出が壮大な規模であったか想像できると思います。
 
 人口約4000万人で明治を出発したこの国は、飛躍的な経済発展を遂げていくのですが、所詮は農業国であり、かつ無資源国、この狭小な国土のみでは膨張する人口を養っていく事はできなかったのです。したがって、戦前は「移民」として海外へ渉人が非常に多かったわけです。そしてそれが国策でもありました。アメリカをはじめ、ブラジルやハワイなど、今は三世、四世なのでしょうが、当時の日本の国策を今でも現代の僕らに偲ばせます。貧しい国から豊かな国への人の流れは今でもありますね。当時はそれがもっと切実だったのだと思います。


 さて、「強制連行」とか言う言葉、かつてのこの国の悪鬼の如くの行いが、お隣の韓国、北朝鮮から糾弾され続けています。今もこの国に暮らす多くの在日韓国人はもとをただせば、それによってこの国に住まざるを得なかった被害者、犠牲者だと・・・。ちなみにこの「強制連行」という言葉は反日左翼の日本の学者だかジャーナリストがつくった言葉です。


 今日は、このあたりの歴史の事実をご紹介しましょう。


 いわゆる「強制連行」なる言葉の意味する、本人の意思に反して強制的に朝鮮半島から日本に連れてくることを出来るようにしたのは昭和19年2月からの「徴用」というものです。これには確かに強制力がありました。


 朝鮮半島での戦時動員が始まったのが昭和14年9月からです。最初は「自由募集」から始まりました。日本国内の炭鉱、工場での労働力確保ために始まりました。この14年時点で日本在住の朝鮮人は約80万人です。もちろん、すべてが自由渡航です。これは現在の在日朝鮮人の数よりも多い数です。


 昭和14年から16年の2年間で、朝鮮半島から日本への渡航者は107万人。このうち、前記「自由募集」で渡航した者は約15万人、それ以外の92万人が自由渡航者です。どちらも「好き」で渡航した人間です。


 昭和17年2月には、「自由募集」形式では思うように労働力が確保できないので「斡旋」という方式を採るようになります。これは、日本国内の事業主が朝鮮総督府に対して、必要とする人員の確保を斡旋を依頼するものです。強制力はありません。そして、昭和19年2月に思うように集まらない労働力を強制的に集める事ができる「徴用」を開始するのです。


 しかしながら、昭和17年1月から昭和20年5月までの約3年間の朝鮮半島からの渡航者は137万人。このうちの52万人が「斡旋」「徴用」による、国策が関与した渡航者でしたが、残りの85万人が自由渡航者です。


 お分かりのとおり、朝鮮半島から日本に渡航した人々は、その圧倒的多数が「自由渡航者」なのです。その大多数が「強制的に連れてこられた」というのは、事実を無視した虚像です。


 また、これは非常に重要な事ですが、昭和26年の日韓国交化正常化交渉。反日政策を精力的に推し進めていた李承晩政権時代ですが、ここで取り上げられたのは「韓国人被徴用者に対しての未収金」問題だけです。つまり、未払い給与を払えということだけです。日本が行ったとされる、人さらい同然の「強制連行」など、一言も触れられていません。


 この国には、なぜか自らの国を貶めることを生甲斐としている人間が多くいます。かつて世を賑わした「従軍慰安婦」問題なるものもそうですね。火を付けたのは日本人ですから。この国を断罪するために韓国まで行って、裁判の原告をさがして来るなど、常軌を逸した行動だと思いますが・・・。そういった人々は、かつての大日本帝国は悪魔の国だったと、歴史を捏造してまで、今のこの国に「反省しろ」「謝罪しろ」「金払え」と、声高に叫びます。仮にそれが主張するような「セックススレイブ」であったなら、大きな人間愛の発露で、かつて虐げられた人々に、救いの手を差し伸べたいのなら、先ずは自分の全財産を投げ打って件の人々にお金を与えたらいいじゃないですか。何故、そういうこともせずに、人(国)に「謝罪しろ」「反省しろ」などと言えるのか?僕には品性お下劣な見本としか思えません。さらに嫌になることは、テレビ、新聞等のマスコミもそういう人間の尻馬に乗っかっているということですね。政治家ですらそうです。


 僕は、この国の政治家の中にも、特に民主党の1年生議員に多いと思いますけど、中国、台湾、日本の三カ国の近代100年の歴史を知っている人は少ないのではないかと想像し、暗澹たる気持ちになります。台湾とは正式に国交が無い事すら知らないのではないか・・・。出るのはため息ばかりです。
 

2010年7月13日火曜日

65年前の終戦記念日を思う その1

 数年前にWOWOWでアメリカのテレビドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」という、第二次大戦の欧州戦線での米国部隊を主人公にした物語を放映してました。テレビドラマとはいえ、製作総指揮にスティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスが名を連ね、総製作費数百億という大作です。田村さん、ご存知ですよね?
 さて、今度はそのメンバーによる米国海兵隊を主人公とした「ザ・パシフィック」が同じくWOWOWで放映されます。今からとても楽しみです。


 さて4年程前、「硫黄島からの手紙」という映画が好評でしたね。今日は、その周辺の逸話を紹介します。


 1949年の元旦に、硫黄島で二人の日本兵が投降した。彼等は戦友達の玉砕も日本の敗戦も知らず、4年間昼間は地下壕に身を潜め、夜間に米軍倉庫から食料、衣服を盗み出し生きていたのだ。投降した時の2人は、長い地下壕生活で顔色は冴えなかったが、ふっくらと太っていたという。 

 その内の1人、山蔭光福元海軍二等兵曹は内地に帰還した後、警察予備隊の発足に際して志願するも、持病のヘルニアが原因で不合格となってしまう。恐らく失意の日々を送っていたであろうその人に、「硫黄島での4年間の思い出を書いてはどうか」と彼等の生還と、そのインタビュー記事を本国に送った米国人ジャーナリストが救いの手を差し伸べた。山蔭応えて曰く「四年間島で日記をつけていました。没収されるのをおそれて土に埋めて隠してきたのです。あれを掘り出して参考にすれば、きっと正確な記事が書けると思います。取りに行かせてもらえませんか。」 
NBC極東支局長であったその米国人ジャーナリストは、早速彼の硫黄島渡航を滞在1泊という条件付ながら実現する。1951年5月7日、彼を乗せた飛行機は硫黄島へ向けて飛び立った。山蔭は非常に嬉しそうだったと言う。 

 しかしながら、彼は日記を見つけられなかった。火山地帯のため、地形は大きく変動しており、かつての生活場所の変貌は想像以上だったのだ。 

 翌日の朝、飛行機の出発時刻を間近に控えた山蔭ら(エスコートの米軍人含む)は写真撮影のために硫黄島を象徴する摺鉢山へ向かう。山頂に着いた山蔭は感慨深げに海を見渡していた。出発時刻が迫り、彼は車に向かって歩き出した。 
だが、車まであと数歩というところに戻った彼は、突然踵を返して走り出し、あっという間に摺鉢山の断崖から太平洋めがけて飛び込んだのである。 

「太平洋へ死の跳躍」 

 彼の死を伝えた毎日新聞の見出しにはこう記された。それを間近に目撃したエスコート役の米軍人は次のように記している。 
「・・・山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メートル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭い崖の突出部から身を躍らせた・・・」 

 件のジャーナリストはこう言っている。
 
「戦友の死霊に招き寄せられるように太平洋めがけてとびこみ自殺を遂げた」 

 山蔭は、硫黄島へ渡る直前岩手の実家へ帰郷し、「硫黄島で咲かせるのだ」といて鳳仙花の種を鞄にぎっしり詰めていったという。1925年生まれの彼は26年間の人生を、その最も過酷で地獄のようだった硫黄島で自ら終らせた。地下壕生活から生還して僅か2年4ヶ月余の人生だった。 

 彼を知る誰もが、そして死の直前まで一緒にいた米軍人でさえも 
彼がよもやそんな事を企んでいたとは思いもしなかったという。 
快活で喧嘩も強く、また几帳面な性格でもあったのだろう、彼は海兵団にいた頃から日記は欠かさずつけていて、1944年9月に硫黄島に立つ前にそれを実家に送ってもいる。 

 彼、山蔭光福を主人公とした小説「硫黄島」(著者菊村到)は1957年上期の芥川章受賞作である。 

 本日の出所「硫黄島いまだ玉砕せず/上坂冬子/文芸春秋」 
(この本は同島の遺骨収集に命をかけた元海軍大佐和智恒蔵が主人公)


 先日テレビで知りましたが、1944年7月のサイパン島の日本軍組織的戦闘が終了してからもゲリラ戦を展開し続け、日本軍の救援を信じ続けて戦い続けた陸軍部隊を主人公とした日本映画が製作されているようですね。唐沢寿明がその部隊長を演じるそうです。この部隊が日本の降伏を知り、正式に米軍に投降したのが昭和20年12月の事でした。

2010年7月12日月曜日

この結果を何とみるか・・・

 予想通り、与党民主党は大敗しましたね。管総理は、大敗の原因を自らが発言した消費税率の問題について、あまりに唐突にすぎたのが原因と一番最初に挙げてました。ところが僕はそうはみません。
大敗の一番の原因は、これまでの民主党政権に対しての評価だとみています。ヤフーの投票でも、それが最も多い大敗の原因でした。消費税云々とは違います。それをしっかりと認識してもらいたいと思います。やはり、前党首鳩山という人間のあまりの定見のなさ、しかもそれを支える人間が民主党内にいなかったことが、予想以上の失望を多くの人に与えたのではないかとみています。力もないくせに個人プレーに走った挙げ句があの迷走でした。外務大臣、防衛大臣、沖縄担当大臣は一体何をしていたのか?特に沖縄担当大臣は前原で、彼は米国でそれを認めている程の安全保障の専門家ですよ。鳩山という個人が辞めることで責任をとるだけではすまないと僕は思います。

未明の管総理の会見で、「民主党の国家観は?」と問われた彼の回答は「国民主権、あくまでも国民の生活が第一だ」と述べてましたが、果たしてそれは「国家観」でしょうか?そしてもうひとつ、「国民主権」という場合の「国民」とは誰を指すのか?ということ。そういう言葉の定義をきっちりと語ることが政治家に求められることだと思うのですがどうでしょうか?

1年で3万人を超える自殺者があり、人口比でみれば先進国中で最悪の事態が争点にもならず、韓国の哨戒船を魚雷で沈めた北朝鮮の問題、軍拡路線をひた走る中国、GDPで日本を追い抜いてしまう中国の台頭に、この国はどう向かっていくのかというビジョンを説いた政党があったのか?まさしく国家観の欠如!かつて三島由紀夫がこんなことを言っていました。

「やがてこの国はなくなろう。そして東洋の一角に経済共同体が残るのみ」

もはや「経済共同体」として残るのも疑わしい事態になってきているではないですか。考えれば考えるほど嫌になります。

2010年7月8日木曜日

救国論

 今月号の文藝春秋の巻頭は藤原正彦の「一学究の救国論 日本国民に告ぐ」でかざられています。僕は、彼のベストセラー「国家の品格」を読んだ事がないので、初めて彼の論を読みました。彼の主張はこの国の混乱の原因は、GHQと日教組にあるとし、「東京裁判史観からの脱却」によって、「誇りある国家を取り戻せ」ということで、まさに我が意を得たりといったところでした。

「東京裁判史観」なるもの。いつか皆さんにご紹介したいと思いますが、このめちゃくちゃな政治劇を金科玉条のように崇め奉っているこの国の姿は奇怪であるといいようがないと思っています。昭和16年11月26日に米国から突き付けられた最後通牒、通称「ハルノート」をご存じでしょうか?それまでの十カ月に及ぶ交渉の経過を完全に無視して「日本は明治維新前の四島に戻れ」と言ったに等しいこの文章によって、日本国政府は絶望するのです。「最早戦争しかない」と・・・。米国との戦争を欲していた政府高官、陸海軍人の高官はほとんどいませんでした。もちろん、中には勇ましい言を吐く軍人もいましたが、それが軍の総意ではありませんでした。勝てる見込みがないのは皆わかっていたからです。

もう少し敷衍しますと、交渉の重要案件は日本が中国本土からの撤兵に応じるか否かでした。日本国は満州国さえのこれば、中国本土からの撤兵も止むなしとさえ考えていたのです。それで米国が禁輸を解消するなら・・・。当時の米国世論は8割が戦争反対、ルーズベルト大統領も「皆さんの息子を戦場には送りません」といって大統領になったのです。欧州ではドイツが全土を席捲するような破竹の快進撃を続けていた時です。既にフランスは降伏し、英国は虫の息、ソ連も危ないという中で、米国民はそれでも対岸の火事であると見なし、戦争に反対していたのです。議会も反対でした。それをなんとしても打破して、欧州戦線に介入したいのが米国政府の意向、そのための生贄になったのが日本でした。

東京裁判において、日本の弁護団の一員だった弁護士米国人ブレークニーは、法廷で次のようにいいます。

「このような通牒を突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも米国に対して銃を持って戦うだろう」

彼は、「広島、長崎に原爆を落とした国が『平和に対する罪』で被告を裁こうとしている」と米国にとって痛い事を平気で裁判で述べるなどの正義の人でした。

東京裁判の判決で有名なのはインドの判事として臨席したパール博士(法学)でしょうね。彼は「日本無罪論」をかなりのボリュームでまとめて判事団に提出しました。

後日談ですが、朝鮮戦争で中国本土の爆撃を具申して解任されたマッカーサーは、その直後の米国上院の公聴会において、かつての日本の戦争を「自存自衛の防衛戦争であったと思う」と証言してます。

安倍総理の時でしたか、インドの大統領が国会で演説しましたが、その内容が日本のマスコミによって発信されることはありませんでした。その演説内容は、かつての大東亜戦争の意義を掘り起こし、日本に感謝の意を表す内容だったのです。

市井の庶民が切歯扼腕しても致し方のないことで、そういうことが煩わしいので僕はあえて目を閉じ耳を塞いでいますが、
かつて三島由紀夫が「絶対の青空」と言った夏の青空が広がる季節になると、つらつらそういことを考えざるにはいられないのです。

2010年7月7日水曜日

理想のリーダー像

 かつての帝国陸海軍と戦火を交えた国の将官は、一様に次のように述懐してます。
「日本軍は現場指揮官は素晴らしいが、上級指揮官はくずのようだった」
この話をすると、経営コンサルタントとして多くの企業をみている人は、「今の日本の企業も同じです」と慨嘆します。

 今日は、ここから話を進めます。

これ、よく考えると極めて不思議な話だと思いませんか?現場指揮官を中隊長(200名規模)として考えてみましょう。
この中隊規模と言うのは、一人のリーダーが完全に統率できる人数の限界ではないかと私は思っていますが、最前線で戦う指揮官として、権限を行使して責任もとる覚悟が最も如実に表れる立場の指揮官であるといえるでしょう。このクラスの指揮官は、敵国からも賞賛されるくらいの立派なリーダーがたくさんいたのだと思います。さて、「くず」と称された上級指揮官は、当然のことながら、現場指揮官としての経験を積んでからその立場にたちます。しかし、なぜ上級指揮官になると「くず」呼ばわりされるほどになってしまうのでしょうか?

私見ですが、上級指揮官になると「権限を行使して責任をとる」というリーダーの必須条件がないがしろになってしまうからではないかと思っています。偉くなればなるほど「権限を行使しないで責任をとる」というリーダーになってしまうからだと思うのです。西南戦争時の西郷隆盛のごとく、「坂の上の雲」で描かれた大山巌のごとく、全てを部下に任せて好きなようにやらせ、最後の責任だけはとる、というような指揮官のタイプこそ理想だという風潮があったからではないかと思うのです。そして、今でもそれはこの国に残っているように思います。(今は責任もとらない人間が多いかも知れません)

現場指揮官ならば、判断は自らの意思だけで済みますが、上級指揮官になればなるほど多くの意思との調整をしなければなりません。そういった時でさえ、明確な判断を差し控えたからではないかと思うのが僕の推測です。判断できないのではなく、差し控えたのです。部下の好きなようにやらせ、最後の責任だけをとるのが指揮官だという妙な呪縛から逃れられなかったのです。

昭和3年に陸軍参謀本部が著した「統帥網領」。これは階級では中将以上、職責では軍司令官以上の高級指揮官の教科書ですが、その中に「軍隊指揮の消長は『指揮官の威徳』にかかる」と統率を定義しています。そして、その『威徳』を次のように定義しています。
①高邁な品性
②公明な資質
③堅確な意思
④卓越した識見
⑤非凡な洞察力
⑥無限の包容力
そして、「これを身につけ全軍が仰ぎ慕う将になれ。それが将に将たる所以であり、そこに統率の本義がある」と強調しています。以前、ここでも紹介した米国の陸軍士官学校の教育が「人格教育」がその根幹にあるのと、ほぼ同様であるといえるでしょう。(余談ですが、昨今流行のリーダー論やコーチング論には、この極めて重要なものが欠落しているように思えます)しかし、最後の「無限の包容力」は日本独自のものです。包容力を強調する「無限」という言葉は、要するに「高級指揮官はゴチャゴチャ言わずに部下の言う通りにやってくれ」というのが本音のように思います。参謀本部が参考にしたのが日露戦争時の満州軍総司令官大山巌の統率だったと言われています。大山巌こそ将軍の中の将軍、品性から包容力に至るまでのリーダーの要件を備え、特に包容力については抜群の存在である、とされたのです。このあたりのエピソードは「坂の上の雲」でも描かれ、広く人口に膾炙してますが、これが実は虚像であったという説もあります。しかし、その虚像をもとに、参謀本部が高級指揮官を補佐する参謀が働きやすいように勝手に理想の指揮官像を作り上げ、それを教科書にしてしまったのです・・。そして、今なおそれがこの国に蔓延している理想のリーダー像になっているような気がしています。

2010年7月3日土曜日

指揮官たるもの・・・

 1998年のフランスワールドカップ直前に、当時の岡田監督は遠征先の土壇場で「カズ」を外しました。これまで、どんなに調子が悪くても不動のフォワードとして、オフト、加茂時代の代表から定位置を約束されていた彼を外したのです。「自らの戦術に合わないから」と・・・。日本国中は大騒ぎしました。血も涙もない監督だと。これまでのカズの功績を考えたら、誰もが驚愕する事件でした。僕は今でも残念でなりません。

今回のワールドカップでも、岡田監督は不動の10番中村俊介をレギュラーから外しました。これもすごい決断だったと思います。どうも岡田監督は、そういう決断をせざるを得ない星の下にあるような人ですね。血も涙もある人間でしょうから、岡田監督の胸中は察するにあまりあります。

組織には機能体(ゲゼルシャフト:例えば企業、軍隊)と共同体(ゲマインシャフト:例えば家族、地域社会、趣味の会)があります。このふたつは構造も目的も違うわけですから、その運営にあたってはその違いを明確に認識する必要がありますが、日本人は、どうも情に弱く、機能体でありながら共同体に流れやすいように思います。この二つの組織の明確な違いを一つあげると、人材評価の尺度があります。機能体では「外的評価による能力と実績」、即ち目的への効率性とでも言えましょうか。一方の共同体は「内的評価による人格」、即ち情であり、波風立てるなといった世界です。これまで何度か述べてきた帝国陸海軍は、機能体でありながらその人事評価は共同体のそれでした。最後までブレイクスルーができませんでした。これも敗戦の原因の一つです。つまり、適材適所ができなかったのです。

さて、日本代表を二度に渡って率いた岡田監督は、明確にその人事評価を貫いた名指揮官といえるでしょう。言うまでもなく日本代表チームは機能体組織であるべきで、そうであるならばその人事原則が最優先されるべきです。カズを外したのも、岡田監督の考える勝つための戦術に彼が不要だったからで、今回中村俊介を外したのも同様の理由でしょう。これはすごい決断だったと思います。考えてほしいのは、今回ベスト16まで進めたからいいようなものの、1次リーグで敗退していたら、多くの非難を浴びたのは間違いありません。どちらにせよ、指揮官の相当な勇気と覚悟がいります。それを見事に成し遂げた岡田監督は本当に勇気ある指揮官だったと思います。

ところで、企業経営にせよ戦争にせよ、純粋な機能体組織こそがベストなのか?といえば、歴史はそうは教えていません。織田信長のつくりあげた軍事組織は、純粋な機能体組織でしたがその末路と、その後の歴史はどうだったか。次いで登場した豊臣秀吉は共同体組織から機能体組織への転換がうまくいかなったことを教えてくれています。

ここから先はまたいずれ。

話は変わりますが、岡田監督が帰国会見の席で「日本人の中に脈々と受け継がれているものをもって」戦ったといいましたが、果たしてそれは一体何を意味するのでしょうかね?惜しくも負けてしまったブラジルですが、代表監督ドゥンガはかつてジュビロ磐田でプレーしてましたが、当時からブラジル代表でもあった彼が、なぜサッカー後進国のJリーグでプレーすることを決断したかを問われて、「日本はサムライとカミカゼの国だから」と言ったことはご存じでしょうか?この国が教えもせず、忘れ去られている「神風特別攻撃隊」は、今なお海外で脈々と語り継がれているているのですよ。