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2010年7月7日水曜日

理想のリーダー像

 かつての帝国陸海軍と戦火を交えた国の将官は、一様に次のように述懐してます。
「日本軍は現場指揮官は素晴らしいが、上級指揮官はくずのようだった」
この話をすると、経営コンサルタントとして多くの企業をみている人は、「今の日本の企業も同じです」と慨嘆します。

 今日は、ここから話を進めます。

これ、よく考えると極めて不思議な話だと思いませんか?現場指揮官を中隊長(200名規模)として考えてみましょう。
この中隊規模と言うのは、一人のリーダーが完全に統率できる人数の限界ではないかと私は思っていますが、最前線で戦う指揮官として、権限を行使して責任もとる覚悟が最も如実に表れる立場の指揮官であるといえるでしょう。このクラスの指揮官は、敵国からも賞賛されるくらいの立派なリーダーがたくさんいたのだと思います。さて、「くず」と称された上級指揮官は、当然のことながら、現場指揮官としての経験を積んでからその立場にたちます。しかし、なぜ上級指揮官になると「くず」呼ばわりされるほどになってしまうのでしょうか?

私見ですが、上級指揮官になると「権限を行使して責任をとる」というリーダーの必須条件がないがしろになってしまうからではないかと思っています。偉くなればなるほど「権限を行使しないで責任をとる」というリーダーになってしまうからだと思うのです。西南戦争時の西郷隆盛のごとく、「坂の上の雲」で描かれた大山巌のごとく、全てを部下に任せて好きなようにやらせ、最後の責任だけはとる、というような指揮官のタイプこそ理想だという風潮があったからではないかと思うのです。そして、今でもそれはこの国に残っているように思います。(今は責任もとらない人間が多いかも知れません)

現場指揮官ならば、判断は自らの意思だけで済みますが、上級指揮官になればなるほど多くの意思との調整をしなければなりません。そういった時でさえ、明確な判断を差し控えたからではないかと思うのが僕の推測です。判断できないのではなく、差し控えたのです。部下の好きなようにやらせ、最後の責任だけをとるのが指揮官だという妙な呪縛から逃れられなかったのです。

昭和3年に陸軍参謀本部が著した「統帥網領」。これは階級では中将以上、職責では軍司令官以上の高級指揮官の教科書ですが、その中に「軍隊指揮の消長は『指揮官の威徳』にかかる」と統率を定義しています。そして、その『威徳』を次のように定義しています。
①高邁な品性
②公明な資質
③堅確な意思
④卓越した識見
⑤非凡な洞察力
⑥無限の包容力
そして、「これを身につけ全軍が仰ぎ慕う将になれ。それが将に将たる所以であり、そこに統率の本義がある」と強調しています。以前、ここでも紹介した米国の陸軍士官学校の教育が「人格教育」がその根幹にあるのと、ほぼ同様であるといえるでしょう。(余談ですが、昨今流行のリーダー論やコーチング論には、この極めて重要なものが欠落しているように思えます)しかし、最後の「無限の包容力」は日本独自のものです。包容力を強調する「無限」という言葉は、要するに「高級指揮官はゴチャゴチャ言わずに部下の言う通りにやってくれ」というのが本音のように思います。参謀本部が参考にしたのが日露戦争時の満州軍総司令官大山巌の統率だったと言われています。大山巌こそ将軍の中の将軍、品性から包容力に至るまでのリーダーの要件を備え、特に包容力については抜群の存在である、とされたのです。このあたりのエピソードは「坂の上の雲」でも描かれ、広く人口に膾炙してますが、これが実は虚像であったという説もあります。しかし、その虚像をもとに、参謀本部が高級指揮官を補佐する参謀が働きやすいように勝手に理想の指揮官像を作り上げ、それを教科書にしてしまったのです・・。そして、今なおそれがこの国に蔓延している理想のリーダー像になっているような気がしています。

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