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2010年7月16日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その3

戦争中、海軍の中堅幕僚だった人々が昭和56年から始めた、「海軍反省会」と題した討議内容をまとめたのが、この本です。数年に渡って行われたらしいのですが、この本にまとめられているのはほんの一部です。未曽有の敗戦となったあの戦争についての海軍側からみた反省録となっています。「なぜ陸軍に引っ張り回されたのか」「なぜ硬直した人事制度しか採りえなかったのか」「なぜ難局を担う資質のある人間がトップにならなかったのか」等々・・・。電子兵器の遅れ、物量の差、開戦ぜざるをえなかった原因など、多くの事柄について反省をしていますが、突き詰めれば、「人」の問題に帰するという結論になっています。人事制度、教育を含めてです。

 ただ、ひとつ「なるほどなぁ」と目を開かされた意見がありました。少し説明を要します。

 日露戦争後、日本海軍は米国を仮想敵国とします。これは地政学上からいって当然の帰結でしょう。急激に海軍国として台頭してきた日本と、ハワイ王国を謀略によって併合までした米国とは、いずれ太平洋の覇権をかけて戦わざるを得ないとみたからです。

「来るべき日米戦をいかに戦うか」についてまとめられたのが「邀撃作戦」というもの。この作戦を根幹に海軍の軍備は進められていくことになります。これは、要するに太平洋を西上してくる米国太平洋艦隊を、待ち伏せて一気に艦隊決戦に持ち込み、日本海海戦の再現を目指すものでした。ただ、当然海軍力の差は歴然としてあるので、いきなり正面からぶつかったのでは勝ち目はない。そこで、まずは潜水艦によって米国太平洋艦隊を少しづつ沈め、さらには駆逐艦による夜襲により、相手の兵力をそぎつつ、彼我の兵力を五分五分として、最後の戦艦同士の艦隊決戦に持ち込み、勝利を得るというものです。これが海軍の対米国戦の根幹にあった作戦です。

ところが、いざ日米開戦すると、ご存じのとおり日本海軍はその劈頭に航空機によって米国の太平洋艦隊の基地であったハワイを急襲します。「邀撃=まちぶせ」から「先制攻撃」へと変更したわけです。米国は、この攻撃を受けたことによって、戦術を一変させます。多数の空母を集中的に運用し、航空機による艦船攻撃に変更するのです。日本から学んだことです。ところが、日本海軍は真珠湾攻撃でみせた戦い方に主軸を置くには至りませんでした。艦隊決戦をどうしても捨てきれなかったからです。

「反省録」で出てきた意見は、「邀撃作戦の方がよかったのではないか」というものでした。空母運用による作戦を否定してはいませんが、作戦の根幹を変えることはなかったではないかという意見でした。「いかに戦うか」について日本海軍は最後ま中途半端でした。米国海軍は一気に変えました。見事なほどに。

後世からみれば、あれ(真珠湾攻撃)で海戦の主役は航空機に移ったということは簡単ですが、当時はまだ五分五分だったのでしょう。米国はリスクを冒して航空機に主軸を移し、日本海軍はリスクを冒さずに中途半端であった。しかも、それまで積み上げてきた「邀撃作戦」への夢断ち難し・・・・といったところでしょうか。僕は、反省の中にそれが出てきた事に、例の「組織の不条理」でみた「合理的なるが故に不条理」という事を思い描く一方で、それは後世だから言えることであって、当時の情勢からみれば、その是非はわからなかったはずだと共感した次第です。


真珠湾攻撃の発案者は今でも著名な山本五十六連合艦隊司令長官です。海軍省、海軍軍令部ともにその作戦については猛反対をします。これまでの「邀撃作戦」とは相容れないものですし、リスクが大きすぎるとみたのです。山本五十六は「この作戦を許可しないならば職を辞す」といい、半ば恫喝して最終的にこの作戦許可を得るのです。時の軍令部総長(海軍の作戦の総責任者)永野修身は、「山本があれだけいうのだから好きなようにやらせてやれ」と・・・、こういったと言われています。成功したからよかったものの、失敗していたら大変なことでした。

同じセリフでその上司が判断して大失敗したのが、昭和19年3月に始まった「インパール作戦」でした。言ったのはビルマ方面軍のトップ川辺正三陸軍中将、言わせたのは配下の第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将でした。補給をまったく考慮しない無謀極まりない作戦で、当初からそれに反対する人が多くいたのですが、東条首相の意向もあり、最終的に許可されてしまいます。孤島ではないにもかかわらず、約9万人の兵力を投入して最終帰還者は1万人前後、戦病死4万人のうちそのほとんどが餓死と言われています。

牟田口中将は、戦後も「あれは部下が無能だったから失敗した」と言い続け、自身の葬儀の際にも会葬者に自己弁護を綴った紙を配布させたそうです。

20年近く前だと思いますが、靖国神社でその作戦が行われたビルマから持ちかえられた銃や、鉄兜、飯合が展示されているケースの前で、それを見ていた僕に話しかけてきた老人がいました。「私もビルマにいた」と・・・。その老兵は怨みつらみを一切言わず、ただ「国がこうまでして集めて来てくれてありがたい」と言っていました。僕はびっくりしてただ「御苦労さまでした」とだけ言うのが精いっぱいでした。その老兵もおそらく今は墓の下、しかし今でもあの老人の姿が目に焼き付いています。

アルピニストの野口健が、日本軍の遺骨収集を熱心に進めているらしいですね。いろいろな山のゴミ拾いはマスコミに取り上げられますが、そういった彼の活動は一切マスコミに登場する事がないのは何故なんでしょう・・・。

出るのはため息ばかりです・・・。



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