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2010年11月30日火曜日

技術の伝統について

「技術の伝統について」という大仰なタイトルですが、内容はあまり大したことはないかもしれません。

もう10年程前になるかと思います。

仕事で網走に行きました。その時乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。

その運転手さんは、ハンターでもあり「熊」を撃つのだそうです。熊は害獣らしく、殺害すると1頭あたり80万円(だったかな)の収入が道庁からあるらしいです。「熊の胆」は別で高額で売れるとのこと。かなりいい臨時収入になるらしいです。鹿も値段は熊に劣るけれども、やはり1頭あたり20万とかで買い取る業者がいるとのことでした。

熊撃ちの場合は、一人では危険なので必ず数人でチームを組むらしいですね。北海道ですからヒグマで、かなり大きいものもいますから、やはり命がけなのだそうです。

僕は、その使用するライフルに興味があったので、それを尋ねました。熊という巨体を撃つのですから、その使用する弾も相当の大きさです。散弾銃ではありません。

「ライフルは日本製ですか?」
「いや、国産の銃はだめだ」
「じゃあ、どこの国?」
「ずっとチェコスロバキア製だなあ」
「!」

と、まあこんな会話でした。

チェコスロバキアというのは、世界で初めて機関銃を実用化した国なのです。坂の上の雲で秋山好古が馬で挽いた機関銃も、旅順の要塞で突撃して来る日本兵をなぎ倒したロシアの機関銃も、皆チェコスロバキア製のはずです。

「なるほど、技術の伝統はそんなところにも生きているのか」と非常に驚きました。今では二つの国にわかれているので、どちらがその伝統を継いだのか、もしくは双方に息ずいているのかはわかりません。

光学レンズは「ライカ」とか、刃物は「ゾーリンゲン」だとか、今でもブランド力を持つ「技術」は多いですね(ゾーリンゲンは地名ですが)。大口径砲の砲身なんかは「ラインメタル社」というドイツの会社の技術が今でもピカ一らしいですし、自衛隊の戦車の砲身もそうでした。スウェーデンの「サーブ」は、航空機まで作っているメーカーですし、実はここは武器の輸出国でもあります。「カール・グスタフ」というスウェーデン国王の名を冠した歩兵用兵器は、多くの国の軍隊で使われてます。

世界中の特殊部隊、その中には日本のSATやら、海保の特殊部隊も含まれますが、彼らが携帯する小火器はドイツ製「ヘッケラー&コッホ」という会社のものです。この会社は19世紀末に創立されて、第二次大戦までのドイツ国防軍を支えた、モーゼル社の伝統を受け継いだ会社です。ドイツといえば、ルパン三世が持っていた「ワルサーP38」の「ワルサー社」も有名です。ベルギーも「FN社」という世界に冠たる銃器メーカーを持ってます。


日本は実に平和な社会だとつくづく感じます。銃器のメーカーなんかないですからねほとんど。武器輸出が解禁されたとしても、その技術的伝統がありませんから、市場は相手にしないでしょうし・・・。

今日はこれまで。

2010年11月29日月曜日

迷羊 ストレイシープ

「三四郎は何とも答えなかった。
 ただ口の内で、迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)と繰り返した」


夏目漱石の「三四郎」は、このように幕を閉じます。

この「迷羊(ストレイシープ)」という言葉は、19世紀英国美術において最も優れた絵画の一つであるとされているホルマン・ハントの「雇われの羊飼い」から得られたもののようです。



1969年生まれの英国人ダミアン・フラナガンなる日本文学博士の書いた「日本人が知らない夏目漱石」という本があります。僕は夏目漱石が好きだと言っても、その「好き」という感情は、高校生の頃の感情そのままで、それに触発されて漱石の評伝まで読み漁ることまではほとんどしませんでした。この本は僕の読んだ数少ない漱石の評伝の一つです。

この英国人の日本文学博士は、漱石を大絶賛しています。

彼はこういいます。


「夏目漱石は時代に限って、また日本に限って一定の価値があるが、西洋的価値観からすれば、ジェームズやプルーストのそれには比べものにならないのかも知れない。明治時代の小説も、日本の小説を成熟に導く通過点としてしか評価されていない。」

と、こうした実際を認めながらも、次のように指摘しています。

「もっとおかしいことに、日本人自身が自分の国文学の国際的な価値に対して、時によって、自信不足になぜか悩む傾向があるようである。かつて私が悪戯半分に、ある国立大学の教授に、夏目漱石をトルストイのような作家に比べてどう思われますか、とたずねたとき、『格が違う』と即答された覚えがある。もし格の差があれば、私見では、漱石が優位な位置に立つと思う。谷崎潤一郎の言葉遣いを真似るなら、『小説の王様』は、トルストイではなく、ドストエフスキーでなく、ジェームズでもなく、プルーストでもなく、ジョイスでもない。『小説の王様』は他ならない夏目漱石である。」


 僕は、このまえがきに記されたこの文章に触発されたようなものです




 さて、話はかわります。

「キング・カズ」がセリエAに移籍した時、大方の日本人は、その日本人初の快挙に大きな期待を抱く一方で、「所詮は世界には通用しない」と、半ばその活躍を不安に思うといった揺れを感じていたと思います。僕もその一人でした。結果は残念がら、というか大方の予想通り成功とはいえないものとなったのは人のよく知るところ。

その数年後、今度は野茂が大リーグのドジャースに移籍しました。ここでも大方の日本人はカズが移籍した時と同じような思いを抱いたと思います。ところが、彼は移籍した1年目だったと思いますが、ノーヒットノーランという大記録を打ちたてました。「日本人も世界に通用する」と、この時初めて感じた人が多かったのではないでしょうか。その数年後に野茂は2度目のノーヒットノーランを達成するなどして、最早日米の「格の差」などないことを日本人に強烈に実感させました。

今では、野球でいえばイチローの活躍、サッカーでいえば、カズの後にセリエAに移籍した中田の活躍もあり、昔ほど「格の差」を感じることもないようになっています。


夏目漱石を巡る「格の差」に戻ります。

文学や学問の世界でそれを言わなくなる日が来るのかどうかについては、僕はかなり否定的です。自国の文化、業績を卑下するというのは、どういう心性からくるのか不思議ですが、日本以外の国でこのような傾向はみられないのではないでしょうか。ちなみに僕は知見がないので、「小説の王様」が漱石であるということについては何も言えません。ただ、純粋に喜ばしいと思うのみです。ただ、大方の日本文学の博士たちは、この教授の云うが如くの反応をみせるのではないかという想像は容易につきます。何かにつけ、外国と比較し、自国の劣等をことさら言い募ることが学者の本分であるかのような言説はかなり多いですからね。

明治期、日本にとって「近代化」は「西洋化」と同義語でした。貪欲に西洋文明を学び追いつこうとするその心情に、「過去の日本」はなかったも同然です。

「僕らの国に歴史はない。今から僕らがつくるのだ」

という物言いを多くの日本人が発したようです。チェンバレンやハーンがそれを遺しています。

ことさらに自国を卑下する物言い、その心性のもとはこれと同様なのかもしれません。常に学ぶ目的があり、それが西洋であるという意味においてです。そんな事では永遠に「迷羊」であることからは逃れられないでしょうね。

今日はこれまで。

2010年11月28日日曜日

地球滅亡 もののあはれ

 何億年後かは忘れましたが、いずれ地球は消滅するらしいことは確実なようですね。

膨張し続ける太陽にのみ込まれてしまうのだとか・・・。もちろん、その数億年間には全ての生物は死滅しているらしいですが。

前に地球誕生の約45億年前を1月1日とたとえると、人類の誕生は12月31日午後11時37分であると、ここで紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_11.html


どんな星にも必ず寿命はあるわけで、その星の寿命が尽きる時が地球の消滅する時だということです。

昨年「2012」とかいう映画がありました。マヤ文明の暦が2012年で終っていることから、人類の滅亡を暗示しているということで、地球の大規模な地殻変動が人類を滅ぼすと・・・そんな話です。

内容的には全くの駄作。ただCGにおカネをかけているだけのお決まりのハリウッド映画ですが、「絶対に助からない」という事態を人間はどのように受け止めるだろうかと考えます。

運命として受け入れることができるのでしょうか。

果たして僕自身はどうなのか。その最後の時を迎えて、恥ずかしくないふるまいができるか否か。
静かにその悲劇を受け入れることができるのか、どうも、そんなことを考えてしまいます。

悲劇といえば、哀しい琵琶の調べとともに語り継がれた「平家物語」は、かなり長い間に渡り、そして僕ら現代人が想像するよりももっと、庶民の間に浸透していました。

「祇園精舎の鐘のこえ諸行無常の響きあり」

日本人にとっては、「無常」ということが「悲劇」と受け止められました。悲劇とはなんでしょう。

人智にはどうすることもできないものの一つではないかと僕は考えます。桜の花に対する感傷めいたものも、そのひとつかと思います。

本居宣長はやまとごころを称して「もののあはれ」と喝破しました。

まさしくその通りだと思います。


今日はこれまで。

2010年11月27日土曜日

韓国と日本

今の韓国大統領、李明博の名前を僕が知ったのは、今から5年程前。彼がソウル市長だった頃です。その市長時代に彼の為した事業を聞いた時、

「日本はそこまでも韓国に負けてしまった・・・」と慨嘆しました。というより大ショックでした。

僕がそう思わざるを得ない彼の為した事業というのは、ソウル市内に流れる川の復元に代表される彼の大胆な都市計画でした。

記憶が曖昧ですので、やや不正確な所があるかもしれません。ただ、概ねは間違っていないと思います。それは、こうです。

日本統治下にその川(清渓川)は暗渠(あんきょ)とされました。暗渠というのは、要するに川に覆いをすることです。その川の上部は道路になり、ソウル市内では、日本でいえば都心の環七くらいの交通量があったほどの動脈道路として利用されていました。

彼は、その暗渠を取り払って川を復元し、その両側を遊歩道としてソウル中心部を大胆にもつくりかえたのです。その前後の写真を見ると、景観的な素晴らしさは見事です。車中心の中心部を人間中心につくりかえたとでもいいましょうか・・・。彼の為した事業は、世界中の土木関係者、都市計画に関わる人たちからも大絶賛されたと聞きました。

東京の都心で置き換えると、首都高速を地中に埋め、日本橋にかかる首都高速をトッパらうようなものとイメージしてください。そうなった時の東京の景観がどのように変わるのか、想像して下さい。


確か、パリ市内を流れるセーヌ川の両側道路でも、夏のある期間はその車が乗り入れできなくなって、即席のビーチに変身するとか・・・。

一般的に、途上国というのは経済重視で、環境とか景観とかにあまり考慮を払わないものです。日本は既にその経済の発展段階を終え、環境、景観に関わる法律も出き、国民感情もそういった経済以外に関心を持つように変わってきています。

しかるに、日本と比べて「途上国」韓国はソウルという国の首都をそのように人間中心につくりかえ、「経済一流」と自惚れた日本の首都東京は、人間中心、あるいは首都としての景観要素など一切顧みられることはありません。もちろん、都市の規模は違います。しかし、これは規模の大小の問題ではないですね。思想の問題です。

だから、僕はそこまで韓国に負けたか・・・と思ったのです。


東京の都心は、川の上を首都高速が縦横無人に走っています。昭和39年に東京オリンピックに合わせて建造されたものですが、当時は土地代がかからない素晴らしいアイデアだったと思います。しかし、既に半世紀近く前のこと。

都心の川の上空から首都高がなくなる事を想像するのは、完全な夢物語なのでしょうか。四国に架かる橋の一つを止めれば、実現できたとも聞きますが、重要なことはそういう「思想」がこの国にないということですね。何でもかんでも「カネ」ばかり・・・。

今行われているアジア大会でも、韓国は日本をメダルの数で上回っています。人口は日本の半分であるにもかかわらずです。僕を含めて日本人は負け惜しみをいうしかない

「奴らは死に物狂い」だと・・・。

しかしながら、もはやそういう問題ではないような気がしますね。国のもつダイナミズムというか、伸張性というか、そういう根元的な問題になりつつあるような気がして仕方ありません。

僕だけの杞憂であればいいのですが・・・。

全くこの国はどこへ行こうとしているのだか・・・。



今日はこれまで。

2010年11月26日金曜日

ある逸話 日本人 小日向白郎(こひなたはくろう)

日本の右翼の源流は中国との関係を重視する大陸派とも呼ばれた一群です。かつては中国大陸に渡って一旗挙げようとする人間が多かったと言いますね。中華民国の父と呼ばれる孫文を陰日向に支えた多くの日本人もいましたし、泥沼に陥ってしまった支那事変の行く末を苦々しく思っていた「中国通」と呼ばれる軍人、政治家が多くいたのも事実です。

「橘くんは中国人より中国をよく知っている」

「阿Q正伝」の著者、魯迅をしてこう言わしめたのは橘撲(たちばなしらき)という日本人。彼は満州事変勃発後、軍より先に満州奥地に入って農村の救済運動に奔走した人物です。同様の運動をした、「満州青年連盟」という団体の合言葉は、「満州に資本家を入れるな」。彼らはまさに「五族協和」「王道楽土」の実現を夢見て満州に渡った人々でした。小沢開策という人間もその一人。彼は関東軍に出入りし板垣征四郎、石原莞爾とも親交を深め、自身の息子に「征」と「爾」をそれぞれ一字づづもらって名をつけました。世界的指揮者小沢征爾です。

満州は、地方軍閥が割拠していました。軍閥といっても半分は泥棒みたいなもので、良民はその収奪に苦しめられていました。そこで、自衛の組織を持つ必要に迫られます。そうして出来上がったのが「馬賊」と呼ばれる武装集団です。その馬賊の長は「攬把(らんぱ)」「大攬把(たーらんぱ)」とも呼ばれ、絶大な兵力と権力を持ちました。

「馬賊、少なくとも正統な遊撃隊の精神は仁侠の一語である。仁は人をたすけ、侠は命をすてて人をたすけることと言われた。私は、あるときは単身拳銃をとって敵と闘い、あるときは百千の配下馬隊をひきいて山野を進軍した。」


大正5年、15歳の少年が奉天の停車場ホームに降り立ちました。彼の名は小日向白郎。大陸を横断してドイツを目指そうとした彼の冒険が始まりました。

彼は、その冒険途中、ひょんなことから馬賊に命を救われ、以後その馬賊と行動を共にするようになります。そうしてめきめきと頭角を現し、「攬把」そして「大攬把」と登りつめていくことになるのです。中国名は「小白竜」、または「尚旭東」と言います。


今の中国国歌は「義勇軍行進曲」と呼ばれるものです。この義勇軍とは「東北抗日義勇軍」のことで、満州事変勃発後に地方軍閥や馬賊から構成された組織でした。驚くことに組織のトップは、日本人小日向白郎その人でした。

白郎は、抗日に集る馬賊の気持が痛いほどわかりました。日本軍は見境なしに良民の村まで破壊しに来るからです。一方、日本人として日本を敵にすることもできず相当な葛藤を抱いたことでしょう。彼は何とか抗争をとめようと奔走することになります。

さて、その義勇軍行進曲は、支那事変が拡大するに従って中国全土に知れ渡り、大ヒットする国民歌となります。そうしてついには国歌にまでなるのです。その義勇軍が自ら選んだ総司令が日本人であったなど思いもしなかったと思います。今でもそうだと思います。今の中国政府はそれを認めないでしょうね・・・。

本人小日向白郎は、敗戦後に収監された刑務所で自らが主人公となった映画を見せられ仰天したと言います。その映画で流れていたのも「東北抗日義勇軍行進曲」でした。

白朗は、多くの配下の者に守られ、生きて日本に戻り、昭和57年に82歳の生涯を閉じます。彼は新潟県三条市の出身。僕の両親と同郷でした。

僕が彼を知ったのは、祖父からもらった本「馬賊戦記」(番町書房)からです。長らく絶版になっていたようですが、今はアマゾンで中古が買えます。文庫の上下巻にもなっているようです。

読んだのは若かりし頃です。血沸き肉躍る冒険小説で、しかも実話であるところが何ともすごい。

今日はこれまで。

2010年11月25日木曜日

今日は憂国忌

 昨日、まーくんと会ってきました。一緒にお昼を過ごし、形而上の事をあれやこれや話してきました。気の合う仲間と言葉の「キャッチボール」というのはいいですねぇ。

さて、今日の話題。

昭和45年(1970)11月25日。本日は憂国忌です。「憂国」忌とはいい響きですね。

三島由紀夫は「やがて日本はなくなろう。残るのは東洋の片隅に残る経済団体のみ」のようなことを書き残していますが、今の日本はまさしくそうなっていますね。彼は明確にこの国の将来を見通していたことになります。

「生命尊重のみで魂は死んでもいいのか。生命尊重以上の価値なくして何のための軍隊だ」

これは彼の檄文の一節ですが、僕は四半世紀前に知ったこの檄文を今でも諳んじています。

「今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国日本だ。」

と続くわけです。


今もテレビでよく目にする三輪明宏は、三島と親交がありました。三輪は当時は丸山明宏という名前でしたが、ある時パーティーの席上で

「三島さんの後ろに刀を下げた血みどろの人が立っている!」

と言ったそうです(そんなことをよく言えたなと思いますが)。

すると三島は「大塩か?(大塩平八郎)」と尋ね、三輪が「違う」と返すと

「磯部か?」とさらに問い、三輪が「そう、その人」と答えたといいます。

「磯部」とは、磯部浅一。2・26事件で刑死した者の一人で、獄中で天皇を呪詛する言葉を残す人です。

「天皇陛下、何と云う御失政ですか!皇祖皇宗に御謝りなされませ」と・・・。

この磯部の絶叫を元にしたのが「英霊の声」で、三島自身、「何かに憑依されたように無意識で何枚も原稿を仕上げたことがある」と残しています。きっと磯部の霊が憑依したに違いありません。


三島由紀夫が少年の頃に書いた小説は、驚くほど大人び、かつ流麗な文体で驚きます。

「夭折」という言葉ありますが、あのような文章を書ける少年が、年老いるなどとても想像が出来ないように思います。彼の結末を知っているからという後知恵かもしれませんが、どうも「夭折」を予感させるような気がする文章なのです。

三島の最後の作品は「豊饒の海」4部作で、輪廻転生の物語です。

「きっと会う、また。滝の下で」

という言葉を親友本多に残し、1巻「春の雪」で主人公は死にます。その主人公の生まれ変わりが2~4巻にまで出てくる話です。

三島は自身の輪廻転生を思い描いていたでしょうか。

「七生報国」(七たび生まれ変わって国に報いん)

今日はこれまで。



2010年11月24日水曜日

何ともいえない驚く国

北朝鮮という国は、別の時間が流れているようですね。僕ら同じ時間に存在している国とは思えないのです。中国も同様ですね。そういえばこの両国は親密な間柄であるので、異なる時間に存在している国同士ということかも知れませんね。まるで19世紀から20世紀初頭にかけてのふるまいだわ。


前にも書いたかも知れません。

この国の経済人は好況の時は政府に「口出し」するなといい、「規制緩和」の大合唱となるくせに、いざ不況になると政府に対策を望む・・・。彼らに矜持はないのでしょうか。

今は「法人税減税」の大合唱ですね。財務省はここにきて妙な理屈をつけてますな。「減った分、他で課税」だとか。それでは減税にならないでしょうが・・・。

減税は企業の利益の取り分を増やします。だから企業活動は活発化する。活発化して結果的に利益総額は増えるから、その結果減税しても徴収税額は上がるというのが「減税」の効果だと思います。それを課税ベースを拡大して、減った分を他で課税では何もしないことと同じですね。いっそのことそんな議論はやめたらいいですよ。意味がわからん・・・。要するに税の徴収方法を変えようとしているだけでしょ。

23日付の読売新聞に「漁業監視船は軍艦だ」といった物騒な記事がでてました。中国に拿捕されたベトナム漁船の船長の言葉だそうです。同記事には、今年5月、インドネシア海軍が自国領で操業していた中国漁船を拿捕したところ、中国の漁業監視船に威嚇発砲され、漁船を解放したと出てました。

南シナ海でその覇権主義を露わにする中国に対し、東シナ海で対峙するこの国は、単に自衛隊を沖縄南西諸島に増強するといった事だけではなく、交戦規定を明確に定め、集団的自衛権を行使することをはっきり宣言しないといけませんよ。使えない軍隊をいくら増やしても意味がない。

野党は野党で、箸にも棒にもひっかからない柳田とかいう法務大臣のことに躍起になっている場合ではありませんし、他の閣僚の罷免要求などにうつつを抜かしている場合ではない・・・。

北の軍事行動への備えは万全でしょうか。これで失敗したら民主党は二度と立ち上がれないほどのダメージを被りますよ・・・。

今日はこれまで。


2010年11月23日火曜日

僕の祖先は・・・

僕の母方の祖父の祖父、つまり僕からみて高祖父にあたる人ですが、その人は越後三根山藩士でした。「藩」といっても、石高1万石あまりの小藩で越後長岡藩の殿さま「牧野家」の分家でした。小泉純一郎が施政方針演説の中で取り上げた「米百俵」の故事がありますが、その米百俵を本家である長岡藩へ贈った藩です。

越後長岡は戊辰戦争で激戦の地となりました。三根山藩は戦わずして薩長に降伏。本家を見捨てた形となります。贈った米百俵はその償い。罪滅ぼしの意味もあったといいます。

明治後、旧三根山藩士の家の多くが教師になったといいます。それくらいしか生きていく道がなかったからです。僕の曾祖父もそうだったようです。昔は子だくさんですので、生活はかなり苦しかったことは容易に想像ができます。

祖父の死後、祖父が幼き日の記憶を綴った日記を読んだ僕の母親が、その話を聞かせてくれました。それによると、「武士の子」だからという理由で、廻りの友達と比べて我慢させられることの多く、悔しい思いをした日々が綴られていたとのこと・・・。僕は哀しくなりました。


父方の祖父は、郷里での帰省中に東京で関東大震災がありました。明治大学の学生であったそうです。学校へ戻ろうとする祖父を廻りが止めたといいます。「おまえは朝鮮人のような顔をしているから殺されるぞ」と・・・。震災後の混乱の中で朝鮮人が殺された騒ぎがあったからです。祖父は大学中退で、地元の学校の教員になりました。

その祖父の父親(僕にとっての曾祖父)は、僕の父親いわく「山師」であったそうです。新潟で初めてタクシー会社を興したり、今で言う広告代理店のような商売を始めたりといろんな事業に手を出したりしていたそうです。そして何一つ大成功はしなかったと・・・。なかなかの文化人だったようで、自ら「如水」と号していたようです。

その奥さん、僕の曾祖母にあたる人は新潟の助産婦の草分けに当る人だったそうで、明治になって新潟に初めて設立された助産婦の学校を極めて優秀な成績で卒業したらしく、山形有朋の名前が入った表彰状が現存しています。新潟県の助産婦の組合長を務めたりしたそうです。

明治時代に、女性に「学問」をさせるなど、相当に進歩的で裕福な家庭であったことが想像されますが、僕の曾祖母の家は海産問屋だったらしく、曾祖母の母(僕にとっての高祖母)は、江戸に出て勝海舟の家で女中をしていたらしい。


と、まあここまではかなりの確かさでわかっている僕の祖先にあたる人々・・・。母方の方は僕の祖父、祖母ともに士族の出で、祖母の家は幕府の代官の家でした。

戦前は履歴書に「士族か否か」が記載されていたのですが、母は祖先の話をする際、今でも決まってそれを言います。士族ではなかった父への「あてこすり」でもあるのでしょう。ちなみに、三根山藩士であった祖父の家系は清和源氏から記されたものが、映画などで見るごとく、まさに「巻物」の形であります。

しかしながら、日本の家系図のほとんどは偽書なのです。「下剋上」という言葉で語られる14世紀半ばから16世紀にかけてのこの国は、大きな変動を遂げたため、この約200年間を正確に辿ることができるのは、皇室と宮廷貴族以外は、ほとんど稀なのです。だから清和源氏からつながるというのその前半部分はほとんど「嘘」でしょう。後生の偽作です。


「蜂須賀小六」といえば、太閤記に出てくる人物。確か、秀吉を最初に見いだした山賊か何かの親玉だったと思います(違ってたらごめんなさい。記憶が曖昧です)。その蜂須賀家は戦国の混乱期を潜り抜け、江戸期も大名として存続して明治になり「爵位」を与えられる華族となります。

でも残念なことに、世評は依然として「山賊の親玉」。決して良いイメージではありません。それを苦々しく思ったのでしょう。昭和の初めだったと思いますが、時の蜂須賀家の当主が非常に高名な歴史学者に蜂須賀家の家系図調べを依頼したのです。結論は「わかりません」だったらしい。これは新聞でも取り上げられたニュースだったらしいですが、世の多くの人は「馬鹿なことを・・・」と嘲っていたようです。

今日はこれまで。

2010年11月22日月曜日

柿は胆の毒・・・

 柿つながりです

「柿」といえば、僕はいつも石田三成を思い出します。

関ヶ原での負け戦後、石田三成は自害せずに山へ落ちます。再度の挙兵を目論んでいたと思います。決して死ぬ事を厭っていたわけではありません。


刑場へ引かれて行く途中、彼はのどの渇きを覚え白湯を所望します。すると、警備の兵は傍らの柿の木から柿をもぎとって差し出しました。その時、石田三成は

「柿は胆の毒である」

と言いました。警備の兵は

「この後すぐに首を切られる人間が、胆の毒もないものだ」

と嘲笑うと、

「お前等のような小物にはわかるまい。しかし、真の侍はその死の瞬間まで生きて主君に忠義を果たす務めがあるのだ」

と言い放ったといいます。

柿を食べる度に僕はこの石田三成のエピソードを思いだすのです。


石田三成といえば、「関ヶ原」へは2度行ったことがあります。最初の訪問は駅でレンタサイクルを借りての合戦場巡りでした。駅で大まかな地図はもらったものの、途中道に迷って畑仕事をしている婦人に道を尋ねました。その時の婦人の返答を今でも覚えています。

「あ~、宇喜多さんのとこなら・・・・」

地元の人たちにとっては、青年武将宇喜多秀家は今も生きているかのような印象を受けました。「さん」づけです。


東西両軍20万人を超す軍勢が集ったわけですから、決して狭いわけはないことはわかっていたのですが、実際にその地に立つまでは、そのスケール感が全くわかりませんでした。石田三成本陣から、松尾山の小早川秀秋の陣までの遠い事には驚きました。

石田三成は僕の好きな人物の一人です。

今日はこれまで。

2010年11月21日日曜日

秋の日はつるべ落とし

「秋の日はつるべ落とし」

とは、本当によくできた言葉。

まさしく、今時分の「日」はちょっと目を離した隙に「ストン」と落ちてしまうようです。

先日、近所の庭にある柿の木になっている沢山の柿を頂きました。

「!」と感嘆符がつくほどの甘さで驚きました。何の手入れもせずにただ実ったものがこのように甘く、人の舌を魅了するなど、おそらく「柿」くらいしかないのではないでしょうか?和歌山や愛媛なら「蜜柑」でもそうなのでしょうか?こればかりは判りません・・・。愛媛の人に聞くところによると、蜜柑の産地での蜜柑畑は、皆海風をうけるところにあるということ、その潮風が蜜柑に甘さを加えるらしいのですが。

砂糖などない時代、果実の甘さくらいしかそれを知る機会はなかったと思いますが、中でも「柿」は特に甘い部類に入るのではないでしょうか。人工甘味料等とは、別種の甘さがしますし、もちろん砂糖のような「重い」ような甘さでもない・・・。

あまりにも手軽に手に入るため、その本当の価値に気付かないことがいかに多い事か。

「甘味」ということもその一つでしょう。

今日はこれまで。

2010年11月20日土曜日

次回選挙選の戦い方

 失点続きの民主党政権にあって、唯一得点を稼いでいたと思われる「事業仕分け」なるものの効果は僅か1兆5千億円、埋蔵金を含めても約4兆5千億円でしかなかったらしいです(11月19日読売新聞朝刊)。


2009年の衆院選マニフェストでは、最大16兆8千億円の財源を創出するとうたっていたんだと・・・。


開いた口がふさがりませんな。まるっきりの空語、根拠なき空しいスローガンだったのでしょう。それが今でも「再々仕分け」とかやってる始末・・・。


いつになるかはわかりません。しかし、確実に選挙はやってきます。


本日言いたい事は、次回衆院選での民主党のスローガンです。これから選挙までの最長3年間で、国民をうならせるほどの高得点を挙げられる可能性はなきに等しいでしょう。彼らはどうやって選挙戦を戦うのでしょう?


「もういちどやらせてください!」


とは言えないでしょうね・・・。


「今度こそうまくやります!」


等誰も信用しない・・・。




いや、ほんとに民主党はまずいですよ次回選挙。まぁ、もともと「泡」みたいな政党なので、パッと消えるのも宿命だとは思いますがね。


それにしても選挙選をどう戦うのか「見もの」だ。


今日はこれまで。

2010年11月19日金曜日

明治生まれの笹川良一という人

僕が子供の頃、笹川良一はテレビCMで馴染みの顔でした。

「戸締り用心火の用心」と流れていた曲は今でも歌えます。何のコマーシャルなのか不思議に思えました。「一日一善」の掛け声で終ったように記憶してます。

長ずるにつれ、彼は不起訴のA級戦犯の一人であり、「右翼の大物」ということを知りました。


僕は笹川良一を間近で見たことがあります。僕が18歳の頃です。

笹川は、当時僕が修行していた少林寺拳法の開祖と昵懇であり、開祖死後も少林寺拳法世界連合総裁という肩書きがありました。もちろん、無数にある笹川の肩書のほんの一つであったに過ぎません。

ある時、彼が僕の住んでいた市に来て講演することになったのです。事の詳しい経緯は知りません。ただ、当時市議会議員だった人が、県議会議員に立候補するための地ならしとして、どういうつてがあったかは知りませんが、笹川良一を招聘したのです。

僕のいた道場のシンパであった地元の実業家の一人が、その件の市議会議員を応援していました。その関係で、道場の僕ら大学生が会場の警備の一端を担うことになったのです。

「左翼の連中が妨害しにくるかも知れない」

まぁ、今から思えば噴飯ものですが、僕らは実際にそう言われていました。

講演は地元の市民会館でで行われました。600人ほどの収容人数です。当日の入りがどの程度であったのかは全く記憶にありません。それは平日の月曜日であったように思います。月曜日はゼミの授業があり、タイミングの悪いことにちょうど、僕の課題発表の日だったのですが、僕はそれをすっぽかして笹川良一を間近で見ることを優先したのです。

僕は演台の右手奥に、会場を向いて立っていました。心中「山口二矢みたいなのが出てきたらどうしよう」と考えてばかりいたのを憶えています。だから、笹川良一が何を話したのか全く覚えてません。

彼は、自身が講演している時間、そして彼を招聘した市議会議員が自分の業績を自画自賛し、そして笹川良一をどうして知ることになったかを延々話している間、合計で3時間弱だったと思いますが、その間、ずっとほぼ「気をつけ」の姿勢を崩すことがありませんでした。その姿勢の素晴らしさと我慢強さだけが僕の記憶に残っていることです。

最後に、司会者が「笹川先生に○○議員の応援の意味を込めて万歳三唱の音頭をとってもらいたい」と言ったところ、笹川は、それを円滑に受け流し、「○○市万歳」と変えて音頭を取りました。僕はこの人は「えらい」と思いました。彼を招聘した市議会議員は「話が違う」と思ったかも知れませんが・・・。

「気をつけ」の姿勢を長時間続けるなど、常人のできることではありません。ただの一度も足の位置をずらす事つまり「休め」をとることなく、直立不動だったのです。「明治生まれ」の一端、当時の僕はそう感じましたが、それを僕は間近で垣間見ることができました。

冒頭に挙げた本は新刊です。非常に興味をそそられます。

今日はこれまで。







2010年11月18日木曜日

衝突ビデオ流出問題に一石を投じる その2

 よくよく考えてみると、例のビデオで流出した「事件映像」を見て、「再犯の恐れはない」「計画性はない」とかいうのは、全くの大嘘でしたね。


 「ここは一般車両立ち入り禁止ですから直に出て下さい」


進入車両に対して、こう警告したパトカーに


「しゃらくせえ!撃てるものなら撃ってみろ!」とぶつけているわけですよ。


 那覇地検は国民に対して大ウソを言ったわけですよ。それを政府は現場の判断で「了」としたと・・・。アホか!仮に現場の判断でいいです。それなら、その判断を下した検察の責任を問いなさい!なぜ世の中はそれを言わないのか、まったく意味がわからない。ただ目前の現象に反応しているだけのものですよ。


 政府がビデオを公開しなかったのはむべなるかな・・・。あれを見たら、「なぜ釈放した!」という声が沸き起こるはずでしたからね。ところが、管見の限りではその声はないようです。それを問い詰めるのではなく、「流出」という、これまた目前の現象だけに捉われた物言いしかしてないようです。これはどう考えてもおかしいことです。


 件の海上保安官を擁護、応援する多くの国民の声があるといいますが、問題がちょっとずれているのではないですか?


長歎息・・・。やはり目を閉じ耳を塞ぐが得策・・・。


 今日はこれまで。





2010年11月17日水曜日

過去の過ち・・・

 最近の政府を見ていると、何だか観ている方がげっそりとしてしまいます。


もう末期症状のように思えるのは僕だけではないでしょう。断言しておきますが、昨年の衆院選で民主党に投票した人は、自分の過ちをはっきり感じて下さい。こうなることは目に見えていた事ですよ。簡単なことです。当時率いていた人の顔をごらんなさい。あれが一国を担う顔に見えますか。しかもご丁寧なことに、彼の醜悪なのは顔だけでなく、頭の方はそれに輪をかけてひどかった・・・。外国のマスコミに「ルーピー」とかと言われる一国の首相がどこにいるのですか!そのマスコミは言葉が汚いのかも知れませんが、多くの日本人もそれに同調したのは事実でしょう。


なんと、彼はまだ民主党にうごめいているのですよ。




 理想の世の中は、鼓腹撃壌http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08256906780800/

政治なんかに拘るのは不幸のもとですね。やはり目を閉じ耳を塞ぐが得策か・・・。


とはいえ、先日あまりにも腹にすえかねることがあって、自民党の埼玉県連に抗議のメールを送りました。
もちろん、住所氏名明記の上です。応答あればとことんまで「やって」やろうと覚悟してのことです。


予想通りというか、呆れたというか、「ご意見ご希望をお寄せください」のHPが呆れるワ・・・。


 今日はこれまで。

2010年11月16日火曜日

政治行動

 言うまでもなく、政治行動の究極の形は「テロ」であります。


今上映中の「桜田門外の変」もテロですね。






一番新しいその記憶は、昭和35年の社会党の浅沼委員長への「テロル」でしょう。


「山口二矢(おとや)」という、当時17歳の少年による犯行でした。浅沼が国交回復前の中国を訪問し、




「米帝国主義は日中共同の敵」


という言説を吐いたことに、腹を立てての犯行でした。。彼は留置所だったかな、その中で首つり自殺を遂げます。「七生報国」という遺書を残して。


 
 さて、そもそも政治というものは主義主張の対立するものを抹殺しなければならないものです。「テロル」というのは、その抹殺手段に言葉ではなく、力を行使するだけだとも言えます。思想的に考えれば、政治の一行動といえるものです。




「民主主義の時代にテロルなどとんでもない」


世の中一般ではこう言います。要するに、言葉で戦う土俵上に、それ以外のものを持ち込むことはまかりならんというわけですね。この場合は、「力」というか、「暴力」といってもいいでしょう。


ならば、「数の力」は暴力ではないのか?


あくまでも思想的に言ってます。


同じ事です。


かつて世を騒がせた、全学連でも全共闘でも、彼らは「テロル」でなく「デモ」という手段を使ってこの国のありようを左右しようと目論んだ。これこそ、衆をたのんで、つまりは数を力を以て世の中を恫喝したわけ。どう考えても、美しい振る舞いではない。


それをあるべき姿と見るべきなのか?


デモによって政治が左右される世の中を是とみるのか?


僕は真っ平御免だ。


 


今日はこれまで。























2010年11月15日月曜日

出会い

 10月にmixiの日記にコメントをつけてから、その人の関係が始まりました。
その返信に、僕と似ているものを即座に感じ取りましたので、マイミクになって頂きました。
前にここで紹介した渡辺京二「逝きし世の面影」はその彼に教えてもらったものです。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_19.html


浄土真宗に関わる「非僧非俗」という日記に対して、明治後の日本仏教の自堕落、出タラメ加減に意見を一にし、和辻哲郎の「日本倫理思想史」に話が及ぶにいたっては、彼の博学振りに目を見張りました。




その後、福澤諭吉について僕に再認識、再評価の目を開かせてくれ、20歳の頃に毛嫌いしてから、ほとんど学んでいなかった福沢諭吉の言説は、最近の僕の考えを裏付けてくれているようなものだと思うようになりました。


つまり、僕を啓蒙してくれたのです。


その彼と、昨日リアルで会い、一献傾けて参りました。


彼は若干29歳!


博士のたまごで、日本思想史を学んでいる学究の青年でありました。


例え話や、考えを述べるのに、「相手は知っているだろうか?」というためらいなしに議論が出来たのは、私にとっては初めての経験でした。6時間半も延々と飲み、話し、時間があっという間に過ぎて行きました。


世の中にこんな青年がいたのかという嬉しい驚きです。他日の再会を期したのは言うまでもありません。


機会があれば、メンバーの皆にも紹介したいと思います。


 今日はこれまで。



2010年11月14日日曜日

この世の楽園とは・・・

「英国人写真家の見た明治日本」著者ハーバード・G・ポンティング。


副題に「この世の楽園・日本」とつけられています。著者のポンティングは、スコットの南極探検に同行した写真家であり、彼は明治35年(1902)頃に初めて来日し、明治39年(1906)までの間、日本を度々訪れ、日露戦争勃発後はアメリカの雑誌社の特派員として日本陸軍の第一師団に順従軍している。日本での彼の滞在期間は、合計で3年ほどあったらしい。


彼は離日後の明治43年(1906)に、日本での滞在記録を自身が撮影した豊富な写真とともに出版したのだが、その題名が


「この世の楽園・日本」


であった。


前に紹介したチェンバレンの日本事物詩では


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/bh.html


ポンティングが日本に滞在した頃の日本を、その急激な変化の波に洗われていく様子を、「古き日本は死んでしまった」と表現しましたが、その頃でさえなお、初めて日本を訪れた英国人写真家をして「この世の楽園」と言わしめるほどの「なにものか」をこの国は持っていたことになります。


 本書の特徴は、豊富かつ素晴らしい写真の数々です。彼が旅行した日本の各地の風景だけにとどまらず、日常の日本人の暮らしぶりが写真に収められ、その生き生きとした表情には僕らが息をのむような美しさがあります。


 本書の中で、ポンティングは日本の婦人を絶賛してます。


「日本を旅行するときに一番すばらしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには一日たりとも過せないことである。」


 ご承知かも知れませんが、人前で決して涙を見せない日本婦人に対しては「冷たく同情にかける」という誤解が外国人の中でありました。出征する自分の夫を見送るとき、またはその死と対面するとき、日本の婦人は強い自制をもって泣き叫んだり、取り乱したりすることがなかったからです。


「前線に行く許可を日本で待っていた間に、私は哀しい光景を何度か目撃した。戦場へ行く船に乗り込む前に、兵隊が妻や母親に最後の別れを告げる場面を多く見たが、そこで、彼らが涙を流しているのを見たことがない。逆に笑顔を見たことは何度もある。というのは、日本では笑顔は心の中の苦しさを隠す仮面となっているからだ。婦人たちの表情は毅然として少しも気落ちしていないようにみえたが、こんなに可愛らしく心優しい人々にとって、それだけうわべを装うのはかなり難しいことであったにちがいない。別れるときは抱擁をしないでお辞儀を何度も繰り返し、優しい声で何回もナヨナラを言った。」


こう、目撃した場面を綴ったあと、著者は次のように続けます。


「別れが終わって、妻と母親が背を向けて主人のいない家へ帰って行くとき、彼女たちの胸の奥深く潜む不安と心配を知りたいと思っても、その外観からはそれを窺わせるものを何一つ見いだすことはできないだろう。何故なら彼女の顔は、死を覚悟しながら笑みを浮かべて出征していった夫の顔と同じように、何世紀もの間、感情を抑制することに慣らされてきた民族に独特の偽りの仮面だからである。」




 今日はこれまで。

2010年11月13日土曜日

もしそんなことになったら日本は亡びる・・・

昭和7年5月15日に犬養首相が暗殺された、世に言う5.15事件。


「話せばわかる」


「問答無用」


の犬養首相と海軍将校の暗殺直前のやり取りが有名ですが、撃たれた犬養首相は気丈にも


「あの者どもを連れて来い。話して聞かしてやる」


と駆けつけた人たちに言い続けたといいます。


 実行犯であった海軍将校は海軍の軍事法廷、連座した陸軍士官学校生徒は陸軍の軍事法廷、橘孝三郎率いる愛郷塾塾生たちは一般の裁判所で裁かれます。世論は圧倒的に犯人たちに同情的でした。減刑嘆願書は100万通を数えた程です。仮にも一国の首相が暗殺され、その犯人は現役の海軍軍人だったのですから、事は非常に重大。海軍の軍事法廷は「死刑」の極刑をもって臨もうとします。しかし、世論とそれを焚きつける新聞報道によって、それは大きく捻じ曲げられるようになるのです。


 この頃の思い出を、竹山道雄が「昭和精神史」という本の中に書いています。竹山道雄は「ビルマの竪琴」の作者です。


「岡田良平という枢密顧問官がいて、反動教育家として悪口をいわれていたが、この人は私の伯父だった。あの裁判がすすんでいるとき、私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決ったら、仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、死刑にはできないだろうといますが』
『そうかも知れぬ』と老人はうなづいて、しばらく黙った。そして、顔をあげて身をのりだして、目に口惜しそうな光をうかべて語気あらくいった。『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
 そのとき私は『亡びるとうのは大袈裟だなあ―』と思った。しかし、後になって空襲のころによくこれを思いだした―『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』」


 判決は、事件の首謀者であった海軍将校2名の懲役15年が最も重く、13年、10年の禁固刑と続き、それ以外は執行猶予がつきます。なお、首謀者への求刑は「死刑」でした。


 陸軍では全員が禁固4年の実刑でした。


 一般の裁判所で裁かれた民間人らは、最も重いのが橘孝三郎の無期懲役を筆頭に、懲役15年が3名もあり、最も軽い刑は懲役3年6カ月というもので、陸海軍の軍事法廷での量刑とは大きな差がありました。


 この事件は海軍青年将校が「主」として企て、実行し、陸軍士官学校生徒は「従」、愛郷塾性らの民間人は「従の従」くらいのものです。参加民間人の使命は変電所を襲って停電させることでしたが、それは失敗しているために実際の被害状況はかなり軽微です。にもかかわらず、この量刑の差です。


 この結末が、4年後の2.26事件を生む一因になります。それを引き起こす陸軍青年将校らは、「事が起こっても必ず軍は俺たちを守ってくれる」と確信するからです。ちなみに、2.26事件の首謀者となる陸軍青年将校らは、5.15事件の時には海軍側からのたび重なる蹶起への依頼を断り続けます。「時期尚早」というのが陸軍青年将校らの言い分でした。


 


 つい最近物置を整理していて、初めての「東京見物」を題材とした僕の作文が出てきました。昭和46年当時のものです。東京タワーにのぼり、「きどうたいとがくせい」の騒ぎを父親に尋ねています。そういえば、そんな記憶がかすかにあるような気もします。


 2.26事件に連座し、無期懲役刑を受けた山口一太郎という陸軍大尉がいます。彼は蹶起将校らからは「別格」と呼ばれ、「蹶起」という直接行動には与しないが、後輩である蹶起将校らに理解を示していた「革新将校」の一人でした。


 戦後、山口は反政府デモを繰り広げる学生らの数を目にして、次のようにつぶやきます。


「これだけの一般人が我々に味方してくれていたら、あの事件は一挙になった」


事実、その可能性はあったのかもしれませんが、これは後知恵だと僕は思います。彼らは「軍人」でしたから、「衆をたのんで」事を起こすなどとはただの一度も考えた事はなかったと思います。「軍」こそが社会の腐敗堕落を糺すことができると思っていたからです。


 2.26事件の裁判においては、減刑運動は起こりませんでした。軍は法律を曲げてまで非公開の軍事法廷を開いたからです。また、将校らに勝手に連れだされた兵士たちの親が大騒ぎもしました。軍は徴兵制の危機を感じ取ります。都合のいい時だけ彼らを利用し、おだてあげ、都合が悪くなって彼らを切り捨てたのです。実行犯に対し極刑をなしただけを「粛軍」と称し、以降事あるごとに国の政治を左右するようになっていくのは周知の事実。






 国が「亡びる」というより、国運が傾くとか、国力が衰えると言い換えると、この国は見事ににその要件を満たしていますね。何も経済という社会の下部構造だけの事を問題にしているのではありませんよ。本来その上の乗っかって居るべき上部構造、即ち人々の生きかたや暮らし方、会話のマナーやルール、その総体としての文化や文明というもの、そんなもの霧散霧消してしまっているように僕には思えるからです。


これまでは経済だけは「一流」と呼ばれていたので、その「つけ」を払わずに済んでいただけだと思いますが、今や一気にそれを払わなければならないような状況に陥っているように思えます。稀薄な家族関係の記事は記憶に新しいですね。肉親が死んでも、年金目当てでそれを申告しない。「行旅死亡人」として扱われる、引き取り手のいない孤独な死者は、年間の交通事故死者数をはるかに超える。社会の最低単位である家族の状況ですら、このように寒々としています。


 尖閣の漁船衝突事件に関わる問題では「日中関係の重要性を鑑み」と言われ、重要性の中身はただ単に「経済的なつながり」だという。TPPの交渉開始については、「農業生産額と製造業生産額の多寡」あるいは「雇用人口の多寡」だけが問題となる。要するに「カネ」のことしかないのですね、この国は。






 「日本では宗教教育のかわりに武士道がある」


新渡戸の生きた時代にはこれが通用したのかもしれません。しかし、戦後の日本はそれを否定した。その代りに何をもってきたのでしょう。「平和教育」?もうアホくさくて嫌になります・・・。


前にも書きました。「命」が大事と教えたいのなら、人間とそれ以外の差をきちんと教えるべきです。そうでないなら、すべての殺生を禁じることを教えなければならない。それができないのなら、「人間は他の命あるモノを食べなければならない」、その罪深さを教えて、すべての自然に対して謙虚に向き合う事を教えるべきだと思います。そして「人間とは何か」をきちんと考えさせる・・・。


 このままでは「エコノミックアニマル」だけが大量に住む国になってしまうかも知れません。


もしそんなことになったら日本は亡びる・・・。
 
 今日はこれまで。



2010年11月12日金曜日

袋小路に・・・

 幕末から明治初頭に来日した多くの外国人の記録を見ると、かつてのこの国の社会は、人間も動物も分け隔てのない暮らしをしていた事がわかります。いくつかその例を紹介してきました。「江戸の町には犬が多い」と多くの外国人が書いていて、「江戸の犬は人間が石を拾って投げつけようとしても逃げない」と、彼らの祖国での犬の様子と異なることを書いています。中には刀傷と思われる大きな傷痕を背中に残した犬もいたようですが、誰が飼い主であるわけでもなく、その町全体で多くの犬を養っているようだと書いた人もいます。


 肉を食べる習慣もなく、牛の乳を「子牛から横取り」して飲む習慣もなく、鶏は飼っていても卵だけが目的で、馬は去勢も調教もされていない・・・。


 日本の社会は、いつからそうだったのか、その経緯を考えると袋小路に入ってしまいました。


悪名高い「生類憐みの令」の世に知られる事の「嘘」は以前ここで書きました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/2.html

病気の馬や犬を棄てるな!という法令が出たということは、それまでそう言う事が日常的に行われていたことを表します。それが、幕末から明治の頃にはそんな事など微塵も感じさせない世の中になるですから、この「生類憐みの令」なる法令の浸透で世の中が変わったことになります。


 そんな事ありえるのでしょうか。というのが僕の疑問です。




 もし、あり得たのならばどのような過程を経たのかが大いに知りたいところであります。


江戸期以前の人間と動物の関わり方はどうだったのか?
江戸期に入ってどう変わったのか?
変わったとするのなら、その原因は何なのか?


 疑問は果てしなく広がります。一冊で僕の疑問に答えてくれる本はないかしらと切に願っています。

 今日はこれまで。

2010年11月11日木曜日

衝突ビデオ流出問題に一石を投じる

 昨日youtubeに中国漁船と海保の巡視艇との衝突ビデオを流出させた人が自ら名乗り出たらしいですね。
勤務先近くの漫画喫茶から投稿したとか・・・。国家公務員守秘義務違反とかいうもので裁かれるらしいですが、僕は「犯人」という言葉をどうも使いたくないのです。大方の人もそうではないでしょうか。


 さて、「国家公務員守秘義務」というものはよく判りませんね。例えば新聞記者とかの「夜討ち朝駆け」によって、検察とかの人がよく断言しないまでもそれらしいことを「匂わす」ということがありますよね。それが記事になりますから。そういうのはそれに問われないのでしょうか。いろいろ疑問があります。


 これが疑問の第一点。


 次に、関係部局の多くの人が見られるビデオ映像は「国家機密」にあたるのでしょうか。


 これが疑問の第二点。


 最後に、編集したビデオというのは、裁判などで「証拠物件」として正式に認められるのでしょうか。


 この3点が疑問です。


 ネット上では、流出させた人物を「英雄」扱いしている論調が圧倒的におおいですね。ただ、僕はあえてそれに異を唱えます。細かいことは知りませんが、その理由を考えると、


「単なる人騒がせを狙った」


「義憤に駆られてやった」


のどちらかであろうと思いますが、まあ前者なら論外ですので、後者について僕の意見を述べます。


 いかに「義憤」に駆られてやった行動だとしても、僕は「卑怯」だと思いますね。理由は簡単です。「匿名」で投稿したからです。そして、足がつきそうな段階になってそれを「申し出た」からです。これはやはり「卑怯者」の振る舞いだと思います。


 今回の尖閣騒動での「俄か国士」も含めて、その問題に対して多くの人が憤っているのは事実でしょう。当事者であった彼も「義憤」を感じたのもよくわかります。現場の意見を代弁したんだと・・・。
僕もそれには100%賛意を表します。行動を責めるつもりなど毛頭ありません。ただ、なぜ実名で投稿する、若しくは直に申し出なかったのか、それが残念なのです。仮に、足がつきそうになかった場合には、ずっと頬っかむりしたわけでしょう。それはどう考えても「正義」の振る舞いではありませんね。

 昭和5年(1930)のロンドン軍縮条約。対米英の保有艦比率の低下に、「国防を全うすること能わず」として一人の海軍少佐が自刃しました。「諌死」ですね。僕自身には、そのような勇気はありませんし、今回の海保の人物にも同じようなことをすべきだったと言うつもりはありませんが、実名で投稿する、若しくはすぐに自首するということがなかったのが、僕は非常に残念に思うわけです。


 


 今日はこれまで。



2010年11月10日水曜日

ベルツの日記

12月1日


 日本人とは驚嘆すべき国民である!


こう日記に書いたのは、エルヴィン・フォン・ベルツ。草津温泉を世界中に知らしめたベルツ博士と言えば有名でしょう。


明治9年、来日して半年後の事です。11月29日夜半に日本橋から築地に至る一体が大火に見舞われ、1万戸以上が灰燼に帰してしまったことを聞いた翌日の事です。この感嘆符のあとに続く文章はこうです。


「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものであるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。まだ残骸がいぶり、余燼もさめやらぬうちに日本人は、かれらの控えめな要求なら十分に満足させる新しい住居を魔法のような速さで組み立てるのだ。」


彼は来日する前に聞かされていた、いかなる悲運でも迎えることのできる日本人の「無頓着さ」というものを目のあたりにして、日記にそう書かしめるほど驚嘆せざるを得なかったのです。


「小屋がけをしたり、焼跡をかき探したりしていないものはといえば、例の如く一服をつける楽しみにふけっている。女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。」




 さて、ベルツ博士はドイツで生まれの内科医です。ある縁から日本政府に招かれて東京医学校(現東京大学医学部)の教授として来日するのです。その時若干27歳。僕は、温泉の効用を日本人に医学的にわかりやすく伝え、群馬県草津温泉の効能、その風景、人情の素晴らしさを世界に発信した彼は、相当な老人だったのだろうと勝手に想像していましたが、豈はからんや・・・。27歳で来日し、その後約30年に渡って日本に暮した人物でした。


彼は、来日5年後の明治14年に日本人女性ハナと結婚し、トク、ウタと名付けた子供をもうけます。ところが、ウタと名付けられた長女は、3歳のお祝いの節句を前に急死していまいます。


その深い悲しみを綴った彼の日記は悲痛です。


「明後日、わたしたちはかわいい子供を葬るのです。
思っただけでも、それはたまらないことです!どんなにあの子は、わたしを慕っていた事か。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使いが日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしたていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を拡げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に擦りつけるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
 
もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!」








 ベルツは、壮年期のほぼすべてを日本で過ごし、明治38年にドイツへ帰国します。それは、ほんのこどもであったこの国がたくましく成長していく過程と同時期でした。


彼は大正2年(1913)、シュトゥットガルトで64年の生涯を閉じます。死ぬ間際、彼は江戸の残映を色濃く残し、英国人写真家H.G.ポンティングが「この世の楽園」と呼んだ「日本」の全てを想起したに違いありません。


 今日はこれまで。

2010年11月9日火曜日

人間という「種」への少しの期待

「戦争における人殺しの心理学」


何とも物騒なタイトルですが、これはいずれ講師として皆さんにご紹介したいと思ってた本です。そういえば、そろそろ忘年会の企画をしないといけませんな。


アマゾンのレビューを見てもかなりの高評価でした。この著者はアメリカ陸軍に23年間勤務し、その間ウエストポイント陸軍士官学校心理学・軍事社会学教授、アーカンソー州立大学軍事学教授でもあったデーヴ・グロスマンなる人です。




さて、「PTSD」という言葉をご存じだと思いますが、これは日本語に訳すと心的外傷後ストレス障害となるのだそうですが、アメリカではイラク戦争から帰還した兵士たちに多く見られた症状だそうです。さもありなんとは容易に想像できますね。戦場を経験する人間の最大のストレスは「自らが傷つき、死ぬことへの恐怖」というのがその想像の大元だと思うのですが、これは実は全く違うのです! 


「第二次大戦中、米陸軍准将S.L.Aマーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちの戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火戦に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか『自分の武器を使っていなかった』のである。しかもその割合は『戦闘が1日じゅう続こうが、2日3日続こうが』つねに一定だった。」


「第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15~20%しか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。」


なのだそうです。俄かには信じがたいような内容ですが、これを著者は次のように結論付けます。


「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」


この結論に対して、様々な調査結果から裏付けようとしているのが、本書の大まかな内容です。
よく考えてみると、なるほどそうなのかも知れないと思うようになります。また、この抵抗感は敵との距離により大きな差がでてきます。例えば空から爆弾を落とす空軍のパイロットや、数十キロ先の相手と撃ち合う艦艇の乗り組員は、この抵抗感を感じないものだといいます。殺す相手の顔が見えないからです。最も近いのがライフルマン、つまりは一般の兵士であるわけです。

第二次大戦中のアメリカのパイロットが撃墜した敵機のうち、その40~50%が僅か1%のパイロットによって挙げられた戦果だという驚くべき結果もあります。相手パイロットの顔が見えるくらいでないと撃墜できないのが当時の空戦ですが、そうなると大きな抵抗が働くらしいのです。ですから、ほとんどのパイロットは、敵機を撃墜しようとはしていないのだそうです。ごく少数(1%)を除いては。

狙撃兵、これはスコープの先で撃つ敵を確認しながら引き金を引くわけですが、それに耐えられるのは全体の2%程度しかいない、先天的に攻撃性の強い人間だと・・・。

エースと呼ばれるパイロットも、狙撃兵もおおかたの人間では務まるものではないらしい。


例えばこんなことも述べられてます。

「イスラエルの軍事心理学者ベン・シャリットは、戦闘を経験した直後のイスラエル軍兵士を対象に、何がいちばん恐ろしかったかを質問した。予想していたのは「死ぬこと」あるいは「負傷して戦場を離れること」という答えだった。ところが驚いたことに、身体的な苦痛や死への恐怖はさほどではなくて、「ほかの人間を死なせること」という答えの比重が高かったのである。
 シャリットは、戦闘体験のないスウェーデンの平和維持軍についても同様の調査を行った。このときには、「戦闘でもっとも恐ろしいこと」として、予想通り『死と負傷』という答えが得られた。そこで、戦闘体験は死や負傷への恐怖を減少させる、とシャリットは結論している。」

これから読み取れることは、

「死や負傷の恐怖は戦場の精神被害のおもな原因ではないということだ。事実、これはシャリットも指摘していることだが、社会的文化的通念では、兵士はわが身かわいさから死や負傷をなにより恐れると思われているが、戦場の兵士の心に重くのしかかっているのは、戦闘にまつわる恐ろしい義務を果たせないのではという恐怖なのである。」


であるとしています。

どうですか。「人間」という種にある種の期待、希望を見出せませんか。

ところが、最近ではそれをどう克服するかという手法が確立され、そのための訓練方法を行っているため、冒頭で述べた非常に少ない発砲率というのはないらしいです(もちろん、国によります)。朝鮮戦争時には55%にまで高まり、ベトナム戦争時でのそれは90~95%にまで高まっているらしいです。訓練次第ではやはり人間は「人を殺す」ことへの抵抗を薄めさせることができるようで、複雑な感想を残します。


国連の平和維持活動を担う兵士はベレー帽をかぶってます。これは、ヘルメットをかぶる兵士を撃つ抵抗が少なく、ヘルメットをかぶっていない兵士を撃つことへの抵抗が大きいからだそうです。頭を守るヘルメットがあるかどうかで発砲率が異なるのです。だから、平和維持軍はベレー帽をかぶっているのだそうです。この方が生きのびる役に立つと・・・。

興味があれば一読を。

今日はこれまで。

2010年11月8日月曜日

秋の空 その2

 最近は、どうも「四季」というものがその様変わりをさぼっているようですね。


特に今年などは猛暑が終ってすぐに冬がきたような気がします。昨日は「立冬」でした。


僕は四季の中で「秋」が一番好きなんです。若い頃から、「夏」が終わると1年が終わったような気がして、その物悲しさを、色づき始める木々の緑と、つるべ落としのような夕日の残映が、一層それを飾るような気がするのです。


わが家から大きな柿の木が見えます。


今は、たわわに実をゆらすその枝が見事です。ちょうど西の方角にありますので、夕焼けの中で浮かぶその姿は何ともたとえようがありません。


「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」


有名な正岡子規の歌ですが、細かいことは知りません。ただ、僕はこれは夕方の情景であると確信してます。もしかしたら違うかも知れませんが、真実がどうかは問題ではないのです。この歌は僕の心にある「秋」という心象、そのものだからです。


「解釈に動じないものこそ美しい」


小林秀雄の言葉です。その意味の一端は、存外こんなところにあると思っています。


今日はこれまで。



2010年11月7日日曜日

日本事物詩 B.H.チェンバレン

  日本事物詩は、日本語という言語の研究者でもあったB.H.チェンバレンという英国人が著した本です。彼はイギリスはポーツマスの生れであり、偶然にも僕が住んでいた町です。住んでいた当時は彼の存在を知りませんでした。もし、知っていたらと思うと残念でなりません。


 彼は十数カ国語に通じていて、その中でフランス語、ドイツ語、日本語は母国語同様に操れました。彼に日本語を教えたのは、まだ両刀をたばさんだ古武士然とした老人で、古典が教科書だったと言います。間違いなくいえるのはチェンバレンは、現代の僕らよりも日本語の語彙が豊富なだけでなく、多くの古典にも通じていたということです。
彼の話す日本語は美しい大和言葉で、彼の愛弟子であった佐々木信綱は師であるチェンバレンから、次のように言われました。


「日本にはよい本が多くあり、またよい人が多くあります。よい本をよく見て、よい人の魂に触れるということはよいことであります。あの万葉集の、よき人のよしとよく見てよしと言いしという歌のようです。」


 彼は明治6年、23歳の時に来日して61歳になるまでの約40年間のほとんどを日本で過ごしました。その間、来日4年後の明治10年には「枕詞および言いかけ考」、13年には「日本古代の詩歌」、16年には「英訳古事記」などを次々と著します。彼は、最初海軍兵学寮(海軍兵学校の前進)の教師となり、ついで東京帝国大学にも招かれて、教鞭をとるようになります。


 この「日本事物詩」の初版は明治23年です。それまでの彼の見聞きし、研究した日本のあらゆる風物から、宗教、政治、詩歌、茶道など・・・非常に幅広いジャンルが扱われています。今では見る影もなくなってしまった当時の日本の姿、多くの外国人を魅了してやまなかった多くの日本の「事物」が書かれています。




 僕の読んだ本(ワイド版東洋文庫131「日本事物詩」平凡社)は明治39年(1905)の第5版でした。チェンバレンはその序論を次のように書き出します。


「現代日本の過度期を過してきた者は、不思議なほど年をとったという気持ちを感ずる。」


明治39年といえば、日露戦争で日本がロシアを破った年です。ほんのよちよち歩きだったこの国が、ロシアという大国を負かすほどになるとは、思いもしなかった事でしょう。


「この筆者を初めて日本語の神秘の世界へ手引きしてくれた信愛なる老武士は、丁髷と両刀をつけていた。この封建時代の遺物は、今はニルヴァナ(涅槃)の世界に眠っている。」


「古いものは一晩のうちに過ぎ去ってしまう。日本人はヨーロッパが15世紀も20世紀もかけて成し遂げたものを、30年か40年で成し遂げたと自慢する。或る者はさらに進んで、西洋人は競争に遅れたと、われわれを嘲る者もいる。」




 チェンバレンは急速に変貌を遂げつつあった日本をどのように見ていたのでしょうか。「開国」という運命の荒波に翻弄されながらも、必死にそれにのまれまいとして抗い、そのお手本となった西欧に何としても追い付きたいとする子どものように写っていたのではないでしょうか。そうして、日本がその追いつく過程の中で捨てなくてもよいものまでも迷うことなく捨ててしまったことに対して、西欧人としてのある種の懺悔とあきらめを感じていたと思います。と同時に成長期の青年特有の危なっかしさを見ていたように思います。




「封建制度は去った。鎖国は去った。信仰も崩壊し、新しい偶像が打ち建てられ、新しく緊急に必要とするものが出てきた。騎士道の代りに産業主義があり、日本人の貴族的美術鑑定家の少数の集団の代りに、巨大な外国の大衆という大いに無知な人びとの要求を満足させなければならない。すべての原因は変ってきた。それなのに、以前と同じ効果をあげようと期待しているのである。」


これなどは、彼自身が自らに言い聞かせているように思えます。


「いや、古い日本は死んだのである。亡骸を処理する方法はただ一つ、それを埋葬することである。そして、その上に記念碑を建てることができよう。よかったら、ときどきやってきて墓に詣でるがよい。それがまったく「日本式」というものである。このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼の弱点をも記録するものである。」




 チェンバレンは「古い日本は死んでしまった」と繰り返し書いています。その「墓碑銘」としてこの本があるのだと。この本で説明される日本の「事物」は今でも残るものも多くあります。例えば「花見」の習慣とか、どの花を愛で、どの花を愛でないかは、彼の観察したとおりで今も変わっていません。


 「逝きし世の面影」に書いてあったのですが、今でも残る昔からの習俗、習慣は多いが、それはいわざ寄木細工のひとつひとつのパーツみたいなもので、パーツがいくらあろうとそれを組み立てない限りはひとつの形にはならない。しかも、組み立てる術をもはやこの国はもたないと。チェンバレンもそのように感じていたのだと思います。そしてそれが、明治の終りに彼をしてそう書かしめたほどの変貌があったということが、僕には非常に驚きなのです。


 今日はこれまで。




 







2010年11月6日土曜日

食糧安全保障

 タイトルの言葉、ご存知ですか?


環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加を巡っての国内の議論の中で、その加盟反対派が必ず口にする言葉です。字面だけで、おおよその意味は推測出来るのですが、農水省によるとこういうことらしいです。


 食料は人間の生命の維持に欠くことができないものであるだけでなく、健康で充実した生活の基礎として重要なものです。したがって、国民に対して、食料の安定供給を確保することは、国の基本的な責務です。

 食料の多くを輸入に頼っている日本では、国内外の様々な要因によって食料供給の混乱が生じる可能性があり、食料の安定供給に対する国民の不安も高まっています。しかし、そういった予想できない事態が起こった際にも食料供給が影響を受けずに確保できるように準備しておかなくてはなりません。


 食料安全保障とは、このように予想できない要因によって食料の供給が影響を受けるような場合のために、食料供給を確保するための対策や、その機動的な発動のあり方を検討し、いざというときのために日ごろから準備をしておくことです。

 平成11年7月に公布・施行された「食料・農業・農村基本法」においては、不測時における食料安全保障に関する規定を設け、不測時において国が必要な施策を講ずることを明らかにしています。



出所:農水省HP

 そして、そのもとで平時における取組みとして以下のことを挙げています。

我が国の食料安全保障のためには、平時から食料の安定供給確保のための基本的な対策に取り組んでおくことが必要です。
 具体的には、輸入への依存をさらに高めていくことは、我が国の食料供給構造を不安定にするので、食料自給率の向上を目指して、国内の食料供給力の確保・向上を図ることが重要です。このことにより不測時における対応も行いやすくなります。
 また、消費者や実需者への安定的な供給を確保するため、食料安全保障上重要な農産物を適切に備蓄するとともに食料輸出国との安定的な貿易関係の形成などに努める必要があります。さらに、こうした取組とあわせ、国内外の食料需給に関する情報の収集・分析を行うことも必要です。
出所:農水省HP
 
 要するに、TPPを結ぶと日本の農業は壊滅的な被害を被り、平時から食料の安定供給確保のための基本的な対策」が取り得なくなるということを危惧していると考えられます。

 僕は、この問題に対して知見を持ちませんので、賛成とも反対とも言えません。双方の言い分に納得できることもありますし、できないこともあります。しかし、僕が奇妙に思えるのはその反対派の言うこの「食糧安全保障」というものです。

 多くの農産物を海外からの輸入に頼っている現状で、その輸入が途絶した場合のことを想定しての「食糧安全保障」ですが、それを声高に言い募る人々は、もちろん農水省の役人含めてですが、シーレーン防衛つまり海上通商路の安全保障に対しても積極的な物言いをしなければ筋が通らないのではないでしょうか?つまり、「海軍力を増強しろ」という声です。物事の順番から言って、まず広義の安全保障があり、次いで狭義の食糧安全保障であることは間違いありません。やや乱暴に言えば、命がなくなるかも知れないときに、食べ物の心配をしても仕方ないような気がするのです。僕のあてずっぽうな推量ですが、食糧安全保障を掲げて、自衛隊反対とか言う人結構いるんじゃないでしょうか?

 ちなみに、日本の農産物輸入の3割はアメリカからで、輸入国のほとんどは日本へ敵意を表わしてくるような国ではありません。唯一、中国のみが生鮮食料品輸入で5割近い輸入国になっているのみです。輸入総額は全農産物で5兆円、生鮮食料品の輸入総額は960億円にしか過ぎません。その中の5割ですから、中国との対生鮮食料品取引は微々たるものですね。多くの家庭もそうだと思いますが、わが家でも中国産の野菜は一切買いません。それに、中国からの野菜は国内で代替できるものばかりですから、あまり影響はないとは思います。
 自由化で安い農産物が入って来て日本の農家が大打撃を受けるというのが僕にはあまりピンと来ません。市場で勝負するのは価格だけではないからです。わが家で買う青森産のにんにくは1個で2~300円します。中国産は5個くらい入ったネットで100円です。青森産の高いにんにくは市場から駆逐されずに、高品質できちんと勝負できています(と思います)。

 いずれにしても、これは大局的な見地からの政治判断が必要になりますね。都市部選出の議員に賛成が多く、農村部選出の議員に反対が多いのかなと、容易に想像ができますが、それぞれの言い分を聞くだけでは判断に困ると思います。この問題で国民の100%の合意は得られないでしょう。

 ただ、ひとつ将来的に起こりえるかも知れないのは、各国の囲い込みが起こり一切の食糧輸出をストップするということです。これこそ食糧安保でしょう。もしくはバイオ燃料への転換という原因も考えられます。そうなった時に日本が慌てふためかないようにするためにはやはり国内農業を国策としてきちんと保護しておく必要があるのかなとも思います。

 前述したように僕には結論が出せません。

 今日はこれまで。

2010年11月5日金曜日

緊急

 今朝のニュースでびっくりしました!尖閣での漁船衝突ビデオがネットに流出したと!


海保は犯人探しに躍起になっているのでしょうが、流出させた人は国民の喝采を受けるのではないでしょうか。


映像は衝撃的ですね。明らかに日本の発砲はないと見越してぶつけて来てますから。よくもまぁ、ここまでなめられたものです。こういう確信犯には話し合いで等という防止策は一切無意味ですね。こちらは領海侵犯者への発砲を即座に認める以外再発防止策はないでしょう。大体それが普通の国の姿です。


 しかし、今の時代情報など隠しとおせるわけではないのに、限定公開などいう姑息なことをするからこういったことになると思います。「流出」などおそらく公開の方法として最悪ですね。国家の意思が全く見えてませんから。情けない・・・・。


 考えると憂鬱になるので、もうやめます。


 今日も空は澄み渡り、僕らの上に広がっています。

秋の空

 秋の、ちょうど今頃の空の色は何ともいえない素晴らしさがあります。昨日の空の青さを見たでしょうか?


4月にまーくんに請われて、彼の会社の新人社員に話をしました。


その中で僕は「徒然草」を題材とした話をしました。毎朝そらを見上げる習慣、毎夜星空を見上げる習慣をつけなさないと。これはあくせくと忙しく、かつ慌ただしく過ぎていく日常の中で心のゆとりを持つことが大切ですよと言いたいがためです。


吉田兼好の徒然草は、彼の理想とした生き方、理想とする心情に溢れています。


「花はさかりに月はくまなきものをみるものかは」


ここで言われているのは、花の盛りや欠けるとこのない月は、誰もが美しいと思う。そこには何の工夫もいらない。しかし、本当の美とは、生々流転する中にこそあるのであって、この例でいうならば、花は盛りじゃない時にそれを想像して「美」を感じるものであり、もしくは、やがて散るからこそ美しいと感じることこそ真の美意識だと。そして、そう感じる為には「教養」が必要であると。彼は、不完全なものを、想像力によって自らの心の中に完全な美として仕立て上げるには教養の力が必要だとしているのです。


 そう考える時、彼の言う「教養」なるものは、立ち止まる勇気でもあるような気がします。


 今日はこれまで。

2010年11月4日木曜日

日本奥地紀行 イザベラ・バード

 以前、外国人の目からみた幕末から明治初期の日本の記録、著者曰く「江戸の文明」の残映を「逝きし世の面影」というタイトルで著した渡辺京二の本をご紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_19.html

それに触発されて、今は実際のその記録を読みあさっています。今日はその中でも有名な「日本奥地紀行」イザベラ・バードなる英国女性の旅行記の一端をご紹介します。


これは、彼女自身が次のように書いているものをまとめたものです。


「本書は、私が旅先から、私の妹や、私の親しい友人たちに宛てた手紙が主体となっているが、このような体裁をとるようにしたのは、いささか気の進まぬことであった。というのは、この形式で本を書くと、芸術的に体裁を整えたり、文学的に材料を取り扱うことが不可能となり、ある程度まで自己中心的な書きぶりとならざるをえないからである。しかし、一方では、読者も旅行者の立場に立つことができるし、旅の珍しさや楽しみはもちろんのこと、旅行中のいろいろの苦難や退屈まで、筆者とともに味わうことができるというものである。」




彼女は、明治11年(1878)6月から9月にかけての約3ヵ月間、日本で雇った通訳の男性一人を連れて東京から北海道までを旅行したですが、特に日光から北については、外国人として初めて訪問したことになります。北海道のでアイヌの暮らしぶりも記録され、貴重な資料にもなっています。


 彼女は、来日の目的を英国代理領事に告げるのですが、彼はその奥地旅行の計画を聞いて次のように言います。


「それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう」
「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」


この2点は、英国代理領事だけでなく、他の全ての人も同じようなことを言ったとあります。


 何とも恐れ入るしかないような気がしますね。今も日本を訪れる外国人旅行者のほとんどが日本の「安全」を褒め称えますが、これも間違いなく「運ばれきしモノ」ですね。当時も今も、そんな事が許されるのは間違いなく「日本」一国でしょう(今はかなり怪しくなってきているとは思いますが)。


 彼女は、横浜で通訳兼ガイドを募集します。もちろん英語が話せることが必須条件でしたが、自薦、他薦とわず何人も応募があったようです。その中で「伊藤」という名の18歳の青年を雇うことになります。


 いくつも紹介したいエピソードがあるのですが、今日は一つだけご紹介します。


「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本では見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれていることに感心する。」


「私はいつもお菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。」




「赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく」というのは大仰でしょうが、日本のこどものおとなしさと行儀のよさは、彼女だけでなく多くの外国人が記録に残しています。そして「こどもの楽園」だと。彼女は、日本のこどもたちの服装について、よほど珍奇な印象を持ったようです。


「子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物と帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪なものである。」


こどもが大人と全く同じ服装をしているのが、「奇怪」だというのはちょっとわからないですね。日本の子どもは「小さいサイズの大人」だとは、この頃の外国人の記録によく見られる表現で、日本の社会は大人と子どもの区別がないというように見られていたようです。もっというなら人間も動物も区別がないような社会でした。区別がないから、馬には調教などという馬にとっては嫌なことをする習慣がなかったのです。去勢などもってのほかでしょうね。


 彼女は礼讃だけではなく、山深い貧しい村で暮らす人々の謹みのなさをこのように表現しています。


「私がかつて一緒に暮したことのある数種の野蛮人と比較すると、非常に見劣りがする。」


そして、次のように続けるのです。


「日本人の精神状態は、その肉体的状態よりも、はたしてずっと高いかどうか、私はしばしば考えるのである。彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ純粋でもない、と判断せざるをえない。」


 彼女の記録は、一見矛盾に満ちています。学術研究でなく旅行記ですのでそれを咎めたりすることは酷でしょう。同じ景色を見ても、その時の心のあり方によってそれが薔薇色になったり、灰色になったりするのが人間の心なのですからね。


 今日はこれまで。

2010年11月3日水曜日

吉田松陰 2

以前、ここでご紹介しましたが、吉田松陰=「ヨシダ・トラジロウ」の伝記は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者スティーブンソンによって日本で松陰の伝記が著されるより前に書かれていたと。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_21.html

今日はこの続きを書きます。出所は「烈々たる日本人」よしだみどり 祥伝社です。


同書に、著者自身が訳した「ヨシダ・トラジロウ」が出ています。その最後は次のように締められています。


「これはひとりの英雄の話であると同時に、英雄的な一般の人々の話でもあることを、読者が気づいてほしいからである。ヨシダのことだけを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。私たちはあの足軽のことも、クサカベのことも、また、熱心すぎて陰謀がばれてしまった長州の18歳の少年・ノムラのことも、忘れてはならない。
 これらの気高い志の紳士たちと同時代を生きてきたということは、気分がワクワクするようなすばらしいことである。
 宇宙の比率で語るとすれば、たった2,3マイル離れた所で、私が学校の授業をのらりくらりと受けているころ、ヨシダは眠気を覚ますために自ら蚊に刺されていたし、あなたが所得税の1ペニーを出し惜しみしているころ、クサカベは高潔な名言を吐いて死に向かって歩んで行ったのである。」


ここに出てくる「足軽」とは、松陰とともに密航を企てた金子重輔、「少年・ノムラ」は野村和作、松陰が企図した対幕府戦の密使となり脱藩するも捕えられる人物です。「クサカベ」は薩摩の日下部伊三次の息子、日下部祐之進の事でした。また、ここで出てくるクサカベの高潔な明言とは、


「大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
瓦となりて全うすること能わず」


でした。


 スティーブンソンは、かなり詳しく松陰のことを知っていたことがわかります。一体、誰が彼に日本の吉田松陰のことを伝えたのでしょうか。


 それは1878年の夏ごろと作者は書いています。その頃日本から留学生を受け入れていたエジンバラ大学のジェンキン教授の下で学んでいた元長州藩士正木退蔵から、松陰のことを聞き知ったといいます。正木は自身も松下村塾生でした。


 何が、スティーブンソンをしてヨシダトラジロウの伝記を書かしめる程の感情を起こさせたのでしょうか。おそらく、正木から聞く松陰の人となりと、その志が彼の心の琴線に触れたことと思います。同書にはそのあたりの事情も書かれていますが、ここでは触れません。


 松陰は、すべての人に非常に優しい態度で接したと言われています。それをなさしめたのは、彼の末弟である敏三郎の生来の聾唖という障害のためであったと同書に書かれています。私はそれを知りませんでした。獄中の囚人でさえ、感化してしまう彼の人間力の一端は、そういった深い人間愛、愛情によって育まれたのでしょう。


最後はスティーブンソンの言葉で締めくくります。


「彼(松陰)の人生と体力と時間のすべてを捧げて、ついには命をも投げ打ってまで得ようとしたものは、今日の日本が広く享受し、大いに恩恵に浴しているものであることを忘れてはならない」


今日はこれまで。