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2010年11月23日火曜日

僕の祖先は・・・

僕の母方の祖父の祖父、つまり僕からみて高祖父にあたる人ですが、その人は越後三根山藩士でした。「藩」といっても、石高1万石あまりの小藩で越後長岡藩の殿さま「牧野家」の分家でした。小泉純一郎が施政方針演説の中で取り上げた「米百俵」の故事がありますが、その米百俵を本家である長岡藩へ贈った藩です。

越後長岡は戊辰戦争で激戦の地となりました。三根山藩は戦わずして薩長に降伏。本家を見捨てた形となります。贈った米百俵はその償い。罪滅ぼしの意味もあったといいます。

明治後、旧三根山藩士の家の多くが教師になったといいます。それくらいしか生きていく道がなかったからです。僕の曾祖父もそうだったようです。昔は子だくさんですので、生活はかなり苦しかったことは容易に想像ができます。

祖父の死後、祖父が幼き日の記憶を綴った日記を読んだ僕の母親が、その話を聞かせてくれました。それによると、「武士の子」だからという理由で、廻りの友達と比べて我慢させられることの多く、悔しい思いをした日々が綴られていたとのこと・・・。僕は哀しくなりました。


父方の祖父は、郷里での帰省中に東京で関東大震災がありました。明治大学の学生であったそうです。学校へ戻ろうとする祖父を廻りが止めたといいます。「おまえは朝鮮人のような顔をしているから殺されるぞ」と・・・。震災後の混乱の中で朝鮮人が殺された騒ぎがあったからです。祖父は大学中退で、地元の学校の教員になりました。

その祖父の父親(僕にとっての曾祖父)は、僕の父親いわく「山師」であったそうです。新潟で初めてタクシー会社を興したり、今で言う広告代理店のような商売を始めたりといろんな事業に手を出したりしていたそうです。そして何一つ大成功はしなかったと・・・。なかなかの文化人だったようで、自ら「如水」と号していたようです。

その奥さん、僕の曾祖母にあたる人は新潟の助産婦の草分けに当る人だったそうで、明治になって新潟に初めて設立された助産婦の学校を極めて優秀な成績で卒業したらしく、山形有朋の名前が入った表彰状が現存しています。新潟県の助産婦の組合長を務めたりしたそうです。

明治時代に、女性に「学問」をさせるなど、相当に進歩的で裕福な家庭であったことが想像されますが、僕の曾祖母の家は海産問屋だったらしく、曾祖母の母(僕にとっての高祖母)は、江戸に出て勝海舟の家で女中をしていたらしい。


と、まあここまではかなりの確かさでわかっている僕の祖先にあたる人々・・・。母方の方は僕の祖父、祖母ともに士族の出で、祖母の家は幕府の代官の家でした。

戦前は履歴書に「士族か否か」が記載されていたのですが、母は祖先の話をする際、今でも決まってそれを言います。士族ではなかった父への「あてこすり」でもあるのでしょう。ちなみに、三根山藩士であった祖父の家系は清和源氏から記されたものが、映画などで見るごとく、まさに「巻物」の形であります。

しかしながら、日本の家系図のほとんどは偽書なのです。「下剋上」という言葉で語られる14世紀半ばから16世紀にかけてのこの国は、大きな変動を遂げたため、この約200年間を正確に辿ることができるのは、皇室と宮廷貴族以外は、ほとんど稀なのです。だから清和源氏からつながるというのその前半部分はほとんど「嘘」でしょう。後生の偽作です。


「蜂須賀小六」といえば、太閤記に出てくる人物。確か、秀吉を最初に見いだした山賊か何かの親玉だったと思います(違ってたらごめんなさい。記憶が曖昧です)。その蜂須賀家は戦国の混乱期を潜り抜け、江戸期も大名として存続して明治になり「爵位」を与えられる華族となります。

でも残念なことに、世評は依然として「山賊の親玉」。決して良いイメージではありません。それを苦々しく思ったのでしょう。昭和の初めだったと思いますが、時の蜂須賀家の当主が非常に高名な歴史学者に蜂須賀家の家系図調べを依頼したのです。結論は「わかりません」だったらしい。これは新聞でも取り上げられたニュースだったらしいですが、世の多くの人は「馬鹿なことを・・・」と嘲っていたようです。

今日はこれまで。

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