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2010年11月3日水曜日

吉田松陰 2

以前、ここでご紹介しましたが、吉田松陰=「ヨシダ・トラジロウ」の伝記は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者スティーブンソンによって日本で松陰の伝記が著されるより前に書かれていたと。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_21.html

今日はこの続きを書きます。出所は「烈々たる日本人」よしだみどり 祥伝社です。


同書に、著者自身が訳した「ヨシダ・トラジロウ」が出ています。その最後は次のように締められています。


「これはひとりの英雄の話であると同時に、英雄的な一般の人々の話でもあることを、読者が気づいてほしいからである。ヨシダのことだけを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。私たちはあの足軽のことも、クサカベのことも、また、熱心すぎて陰謀がばれてしまった長州の18歳の少年・ノムラのことも、忘れてはならない。
 これらの気高い志の紳士たちと同時代を生きてきたということは、気分がワクワクするようなすばらしいことである。
 宇宙の比率で語るとすれば、たった2,3マイル離れた所で、私が学校の授業をのらりくらりと受けているころ、ヨシダは眠気を覚ますために自ら蚊に刺されていたし、あなたが所得税の1ペニーを出し惜しみしているころ、クサカベは高潔な名言を吐いて死に向かって歩んで行ったのである。」


ここに出てくる「足軽」とは、松陰とともに密航を企てた金子重輔、「少年・ノムラ」は野村和作、松陰が企図した対幕府戦の密使となり脱藩するも捕えられる人物です。「クサカベ」は薩摩の日下部伊三次の息子、日下部祐之進の事でした。また、ここで出てくるクサカベの高潔な明言とは、


「大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
瓦となりて全うすること能わず」


でした。


 スティーブンソンは、かなり詳しく松陰のことを知っていたことがわかります。一体、誰が彼に日本の吉田松陰のことを伝えたのでしょうか。


 それは1878年の夏ごろと作者は書いています。その頃日本から留学生を受け入れていたエジンバラ大学のジェンキン教授の下で学んでいた元長州藩士正木退蔵から、松陰のことを聞き知ったといいます。正木は自身も松下村塾生でした。


 何が、スティーブンソンをしてヨシダトラジロウの伝記を書かしめる程の感情を起こさせたのでしょうか。おそらく、正木から聞く松陰の人となりと、その志が彼の心の琴線に触れたことと思います。同書にはそのあたりの事情も書かれていますが、ここでは触れません。


 松陰は、すべての人に非常に優しい態度で接したと言われています。それをなさしめたのは、彼の末弟である敏三郎の生来の聾唖という障害のためであったと同書に書かれています。私はそれを知りませんでした。獄中の囚人でさえ、感化してしまう彼の人間力の一端は、そういった深い人間愛、愛情によって育まれたのでしょう。


最後はスティーブンソンの言葉で締めくくります。


「彼(松陰)の人生と体力と時間のすべてを捧げて、ついには命をも投げ打ってまで得ようとしたものは、今日の日本が広く享受し、大いに恩恵に浴しているものであることを忘れてはならない」


今日はこれまで。


 

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