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2010年11月26日金曜日

ある逸話 日本人 小日向白郎(こひなたはくろう)

日本の右翼の源流は中国との関係を重視する大陸派とも呼ばれた一群です。かつては中国大陸に渡って一旗挙げようとする人間が多かったと言いますね。中華民国の父と呼ばれる孫文を陰日向に支えた多くの日本人もいましたし、泥沼に陥ってしまった支那事変の行く末を苦々しく思っていた「中国通」と呼ばれる軍人、政治家が多くいたのも事実です。

「橘くんは中国人より中国をよく知っている」

「阿Q正伝」の著者、魯迅をしてこう言わしめたのは橘撲(たちばなしらき)という日本人。彼は満州事変勃発後、軍より先に満州奥地に入って農村の救済運動に奔走した人物です。同様の運動をした、「満州青年連盟」という団体の合言葉は、「満州に資本家を入れるな」。彼らはまさに「五族協和」「王道楽土」の実現を夢見て満州に渡った人々でした。小沢開策という人間もその一人。彼は関東軍に出入りし板垣征四郎、石原莞爾とも親交を深め、自身の息子に「征」と「爾」をそれぞれ一字づづもらって名をつけました。世界的指揮者小沢征爾です。

満州は、地方軍閥が割拠していました。軍閥といっても半分は泥棒みたいなもので、良民はその収奪に苦しめられていました。そこで、自衛の組織を持つ必要に迫られます。そうして出来上がったのが「馬賊」と呼ばれる武装集団です。その馬賊の長は「攬把(らんぱ)」「大攬把(たーらんぱ)」とも呼ばれ、絶大な兵力と権力を持ちました。

「馬賊、少なくとも正統な遊撃隊の精神は仁侠の一語である。仁は人をたすけ、侠は命をすてて人をたすけることと言われた。私は、あるときは単身拳銃をとって敵と闘い、あるときは百千の配下馬隊をひきいて山野を進軍した。」


大正5年、15歳の少年が奉天の停車場ホームに降り立ちました。彼の名は小日向白郎。大陸を横断してドイツを目指そうとした彼の冒険が始まりました。

彼は、その冒険途中、ひょんなことから馬賊に命を救われ、以後その馬賊と行動を共にするようになります。そうしてめきめきと頭角を現し、「攬把」そして「大攬把」と登りつめていくことになるのです。中国名は「小白竜」、または「尚旭東」と言います。


今の中国国歌は「義勇軍行進曲」と呼ばれるものです。この義勇軍とは「東北抗日義勇軍」のことで、満州事変勃発後に地方軍閥や馬賊から構成された組織でした。驚くことに組織のトップは、日本人小日向白郎その人でした。

白郎は、抗日に集る馬賊の気持が痛いほどわかりました。日本軍は見境なしに良民の村まで破壊しに来るからです。一方、日本人として日本を敵にすることもできず相当な葛藤を抱いたことでしょう。彼は何とか抗争をとめようと奔走することになります。

さて、その義勇軍行進曲は、支那事変が拡大するに従って中国全土に知れ渡り、大ヒットする国民歌となります。そうしてついには国歌にまでなるのです。その義勇軍が自ら選んだ総司令が日本人であったなど思いもしなかったと思います。今でもそうだと思います。今の中国政府はそれを認めないでしょうね・・・。

本人小日向白郎は、敗戦後に収監された刑務所で自らが主人公となった映画を見せられ仰天したと言います。その映画で流れていたのも「東北抗日義勇軍行進曲」でした。

白朗は、多くの配下の者に守られ、生きて日本に戻り、昭和57年に82歳の生涯を閉じます。彼は新潟県三条市の出身。僕の両親と同郷でした。

僕が彼を知ったのは、祖父からもらった本「馬賊戦記」(番町書房)からです。長らく絶版になっていたようですが、今はアマゾンで中古が買えます。文庫の上下巻にもなっているようです。

読んだのは若かりし頃です。血沸き肉躍る冒険小説で、しかも実話であるところが何ともすごい。

今日はこれまで。

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