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2010年11月19日金曜日

明治生まれの笹川良一という人

僕が子供の頃、笹川良一はテレビCMで馴染みの顔でした。

「戸締り用心火の用心」と流れていた曲は今でも歌えます。何のコマーシャルなのか不思議に思えました。「一日一善」の掛け声で終ったように記憶してます。

長ずるにつれ、彼は不起訴のA級戦犯の一人であり、「右翼の大物」ということを知りました。


僕は笹川良一を間近で見たことがあります。僕が18歳の頃です。

笹川は、当時僕が修行していた少林寺拳法の開祖と昵懇であり、開祖死後も少林寺拳法世界連合総裁という肩書きがありました。もちろん、無数にある笹川の肩書のほんの一つであったに過ぎません。

ある時、彼が僕の住んでいた市に来て講演することになったのです。事の詳しい経緯は知りません。ただ、当時市議会議員だった人が、県議会議員に立候補するための地ならしとして、どういうつてがあったかは知りませんが、笹川良一を招聘したのです。

僕のいた道場のシンパであった地元の実業家の一人が、その件の市議会議員を応援していました。その関係で、道場の僕ら大学生が会場の警備の一端を担うことになったのです。

「左翼の連中が妨害しにくるかも知れない」

まぁ、今から思えば噴飯ものですが、僕らは実際にそう言われていました。

講演は地元の市民会館でで行われました。600人ほどの収容人数です。当日の入りがどの程度であったのかは全く記憶にありません。それは平日の月曜日であったように思います。月曜日はゼミの授業があり、タイミングの悪いことにちょうど、僕の課題発表の日だったのですが、僕はそれをすっぽかして笹川良一を間近で見ることを優先したのです。

僕は演台の右手奥に、会場を向いて立っていました。心中「山口二矢みたいなのが出てきたらどうしよう」と考えてばかりいたのを憶えています。だから、笹川良一が何を話したのか全く覚えてません。

彼は、自身が講演している時間、そして彼を招聘した市議会議員が自分の業績を自画自賛し、そして笹川良一をどうして知ることになったかを延々話している間、合計で3時間弱だったと思いますが、その間、ずっとほぼ「気をつけ」の姿勢を崩すことがありませんでした。その姿勢の素晴らしさと我慢強さだけが僕の記憶に残っていることです。

最後に、司会者が「笹川先生に○○議員の応援の意味を込めて万歳三唱の音頭をとってもらいたい」と言ったところ、笹川は、それを円滑に受け流し、「○○市万歳」と変えて音頭を取りました。僕はこの人は「えらい」と思いました。彼を招聘した市議会議員は「話が違う」と思ったかも知れませんが・・・。

「気をつけ」の姿勢を長時間続けるなど、常人のできることではありません。ただの一度も足の位置をずらす事つまり「休め」をとることなく、直立不動だったのです。「明治生まれ」の一端、当時の僕はそう感じましたが、それを僕は間近で垣間見ることができました。

冒頭に挙げた本は新刊です。非常に興味をそそられます。

今日はこれまで。







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