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2010年11月29日月曜日

迷羊 ストレイシープ

「三四郎は何とも答えなかった。
 ただ口の内で、迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)と繰り返した」


夏目漱石の「三四郎」は、このように幕を閉じます。

この「迷羊(ストレイシープ)」という言葉は、19世紀英国美術において最も優れた絵画の一つであるとされているホルマン・ハントの「雇われの羊飼い」から得られたもののようです。



1969年生まれの英国人ダミアン・フラナガンなる日本文学博士の書いた「日本人が知らない夏目漱石」という本があります。僕は夏目漱石が好きだと言っても、その「好き」という感情は、高校生の頃の感情そのままで、それに触発されて漱石の評伝まで読み漁ることまではほとんどしませんでした。この本は僕の読んだ数少ない漱石の評伝の一つです。

この英国人の日本文学博士は、漱石を大絶賛しています。

彼はこういいます。


「夏目漱石は時代に限って、また日本に限って一定の価値があるが、西洋的価値観からすれば、ジェームズやプルーストのそれには比べものにならないのかも知れない。明治時代の小説も、日本の小説を成熟に導く通過点としてしか評価されていない。」

と、こうした実際を認めながらも、次のように指摘しています。

「もっとおかしいことに、日本人自身が自分の国文学の国際的な価値に対して、時によって、自信不足になぜか悩む傾向があるようである。かつて私が悪戯半分に、ある国立大学の教授に、夏目漱石をトルストイのような作家に比べてどう思われますか、とたずねたとき、『格が違う』と即答された覚えがある。もし格の差があれば、私見では、漱石が優位な位置に立つと思う。谷崎潤一郎の言葉遣いを真似るなら、『小説の王様』は、トルストイではなく、ドストエフスキーでなく、ジェームズでもなく、プルーストでもなく、ジョイスでもない。『小説の王様』は他ならない夏目漱石である。」


 僕は、このまえがきに記されたこの文章に触発されたようなものです




 さて、話はかわります。

「キング・カズ」がセリエAに移籍した時、大方の日本人は、その日本人初の快挙に大きな期待を抱く一方で、「所詮は世界には通用しない」と、半ばその活躍を不安に思うといった揺れを感じていたと思います。僕もその一人でした。結果は残念がら、というか大方の予想通り成功とはいえないものとなったのは人のよく知るところ。

その数年後、今度は野茂が大リーグのドジャースに移籍しました。ここでも大方の日本人はカズが移籍した時と同じような思いを抱いたと思います。ところが、彼は移籍した1年目だったと思いますが、ノーヒットノーランという大記録を打ちたてました。「日本人も世界に通用する」と、この時初めて感じた人が多かったのではないでしょうか。その数年後に野茂は2度目のノーヒットノーランを達成するなどして、最早日米の「格の差」などないことを日本人に強烈に実感させました。

今では、野球でいえばイチローの活躍、サッカーでいえば、カズの後にセリエAに移籍した中田の活躍もあり、昔ほど「格の差」を感じることもないようになっています。


夏目漱石を巡る「格の差」に戻ります。

文学や学問の世界でそれを言わなくなる日が来るのかどうかについては、僕はかなり否定的です。自国の文化、業績を卑下するというのは、どういう心性からくるのか不思議ですが、日本以外の国でこのような傾向はみられないのではないでしょうか。ちなみに僕は知見がないので、「小説の王様」が漱石であるということについては何も言えません。ただ、純粋に喜ばしいと思うのみです。ただ、大方の日本文学の博士たちは、この教授の云うが如くの反応をみせるのではないかという想像は容易につきます。何かにつけ、外国と比較し、自国の劣等をことさら言い募ることが学者の本分であるかのような言説はかなり多いですからね。

明治期、日本にとって「近代化」は「西洋化」と同義語でした。貪欲に西洋文明を学び追いつこうとするその心情に、「過去の日本」はなかったも同然です。

「僕らの国に歴史はない。今から僕らがつくるのだ」

という物言いを多くの日本人が発したようです。チェンバレンやハーンがそれを遺しています。

ことさらに自国を卑下する物言い、その心性のもとはこれと同様なのかもしれません。常に学ぶ目的があり、それが西洋であるという意味においてです。そんな事では永遠に「迷羊」であることからは逃れられないでしょうね。

今日はこれまで。

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