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2010年11月10日水曜日

ベルツの日記

12月1日


 日本人とは驚嘆すべき国民である!


こう日記に書いたのは、エルヴィン・フォン・ベルツ。草津温泉を世界中に知らしめたベルツ博士と言えば有名でしょう。


明治9年、来日して半年後の事です。11月29日夜半に日本橋から築地に至る一体が大火に見舞われ、1万戸以上が灰燼に帰してしまったことを聞いた翌日の事です。この感嘆符のあとに続く文章はこうです。


「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものであるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。まだ残骸がいぶり、余燼もさめやらぬうちに日本人は、かれらの控えめな要求なら十分に満足させる新しい住居を魔法のような速さで組み立てるのだ。」


彼は来日する前に聞かされていた、いかなる悲運でも迎えることのできる日本人の「無頓着さ」というものを目のあたりにして、日記にそう書かしめるほど驚嘆せざるを得なかったのです。


「小屋がけをしたり、焼跡をかき探したりしていないものはといえば、例の如く一服をつける楽しみにふけっている。女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。」




 さて、ベルツ博士はドイツで生まれの内科医です。ある縁から日本政府に招かれて東京医学校(現東京大学医学部)の教授として来日するのです。その時若干27歳。僕は、温泉の効用を日本人に医学的にわかりやすく伝え、群馬県草津温泉の効能、その風景、人情の素晴らしさを世界に発信した彼は、相当な老人だったのだろうと勝手に想像していましたが、豈はからんや・・・。27歳で来日し、その後約30年に渡って日本に暮した人物でした。


彼は、来日5年後の明治14年に日本人女性ハナと結婚し、トク、ウタと名付けた子供をもうけます。ところが、ウタと名付けられた長女は、3歳のお祝いの節句を前に急死していまいます。


その深い悲しみを綴った彼の日記は悲痛です。


「明後日、わたしたちはかわいい子供を葬るのです。
思っただけでも、それはたまらないことです!どんなにあの子は、わたしを慕っていた事か。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使いが日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしたていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を拡げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に擦りつけるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
 
もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!」








 ベルツは、壮年期のほぼすべてを日本で過ごし、明治38年にドイツへ帰国します。それは、ほんのこどもであったこの国がたくましく成長していく過程と同時期でした。


彼は大正2年(1913)、シュトゥットガルトで64年の生涯を閉じます。死ぬ間際、彼は江戸の残映を色濃く残し、英国人写真家H.G.ポンティングが「この世の楽園」と呼んだ「日本」の全てを想起したに違いありません。


 今日はこれまで。

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