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2010年11月7日日曜日

日本事物詩 B.H.チェンバレン

  日本事物詩は、日本語という言語の研究者でもあったB.H.チェンバレンという英国人が著した本です。彼はイギリスはポーツマスの生れであり、偶然にも僕が住んでいた町です。住んでいた当時は彼の存在を知りませんでした。もし、知っていたらと思うと残念でなりません。


 彼は十数カ国語に通じていて、その中でフランス語、ドイツ語、日本語は母国語同様に操れました。彼に日本語を教えたのは、まだ両刀をたばさんだ古武士然とした老人で、古典が教科書だったと言います。間違いなくいえるのはチェンバレンは、現代の僕らよりも日本語の語彙が豊富なだけでなく、多くの古典にも通じていたということです。
彼の話す日本語は美しい大和言葉で、彼の愛弟子であった佐々木信綱は師であるチェンバレンから、次のように言われました。


「日本にはよい本が多くあり、またよい人が多くあります。よい本をよく見て、よい人の魂に触れるということはよいことであります。あの万葉集の、よき人のよしとよく見てよしと言いしという歌のようです。」


 彼は明治6年、23歳の時に来日して61歳になるまでの約40年間のほとんどを日本で過ごしました。その間、来日4年後の明治10年には「枕詞および言いかけ考」、13年には「日本古代の詩歌」、16年には「英訳古事記」などを次々と著します。彼は、最初海軍兵学寮(海軍兵学校の前進)の教師となり、ついで東京帝国大学にも招かれて、教鞭をとるようになります。


 この「日本事物詩」の初版は明治23年です。それまでの彼の見聞きし、研究した日本のあらゆる風物から、宗教、政治、詩歌、茶道など・・・非常に幅広いジャンルが扱われています。今では見る影もなくなってしまった当時の日本の姿、多くの外国人を魅了してやまなかった多くの日本の「事物」が書かれています。




 僕の読んだ本(ワイド版東洋文庫131「日本事物詩」平凡社)は明治39年(1905)の第5版でした。チェンバレンはその序論を次のように書き出します。


「現代日本の過度期を過してきた者は、不思議なほど年をとったという気持ちを感ずる。」


明治39年といえば、日露戦争で日本がロシアを破った年です。ほんのよちよち歩きだったこの国が、ロシアという大国を負かすほどになるとは、思いもしなかった事でしょう。


「この筆者を初めて日本語の神秘の世界へ手引きしてくれた信愛なる老武士は、丁髷と両刀をつけていた。この封建時代の遺物は、今はニルヴァナ(涅槃)の世界に眠っている。」


「古いものは一晩のうちに過ぎ去ってしまう。日本人はヨーロッパが15世紀も20世紀もかけて成し遂げたものを、30年か40年で成し遂げたと自慢する。或る者はさらに進んで、西洋人は競争に遅れたと、われわれを嘲る者もいる。」




 チェンバレンは急速に変貌を遂げつつあった日本をどのように見ていたのでしょうか。「開国」という運命の荒波に翻弄されながらも、必死にそれにのまれまいとして抗い、そのお手本となった西欧に何としても追い付きたいとする子どものように写っていたのではないでしょうか。そうして、日本がその追いつく過程の中で捨てなくてもよいものまでも迷うことなく捨ててしまったことに対して、西欧人としてのある種の懺悔とあきらめを感じていたと思います。と同時に成長期の青年特有の危なっかしさを見ていたように思います。




「封建制度は去った。鎖国は去った。信仰も崩壊し、新しい偶像が打ち建てられ、新しく緊急に必要とするものが出てきた。騎士道の代りに産業主義があり、日本人の貴族的美術鑑定家の少数の集団の代りに、巨大な外国の大衆という大いに無知な人びとの要求を満足させなければならない。すべての原因は変ってきた。それなのに、以前と同じ効果をあげようと期待しているのである。」


これなどは、彼自身が自らに言い聞かせているように思えます。


「いや、古い日本は死んだのである。亡骸を処理する方法はただ一つ、それを埋葬することである。そして、その上に記念碑を建てることができよう。よかったら、ときどきやってきて墓に詣でるがよい。それがまったく「日本式」というものである。このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼の弱点をも記録するものである。」




 チェンバレンは「古い日本は死んでしまった」と繰り返し書いています。その「墓碑銘」としてこの本があるのだと。この本で説明される日本の「事物」は今でも残るものも多くあります。例えば「花見」の習慣とか、どの花を愛で、どの花を愛でないかは、彼の観察したとおりで今も変わっていません。


 「逝きし世の面影」に書いてあったのですが、今でも残る昔からの習俗、習慣は多いが、それはいわざ寄木細工のひとつひとつのパーツみたいなもので、パーツがいくらあろうとそれを組み立てない限りはひとつの形にはならない。しかも、組み立てる術をもはやこの国はもたないと。チェンバレンもそのように感じていたのだと思います。そしてそれが、明治の終りに彼をしてそう書かしめたほどの変貌があったということが、僕には非常に驚きなのです。


 今日はこれまで。




 







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