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2009年12月29日火曜日

今年も暮れる・・・

2009年も暮れる・・・。
僕は朝日より夕日が好きだ。
1日の終わりに安堵するから。
特に真冬の夕日が僕を照らし、足元から延びる長い影を見るたびに
1日の無事暮れることをいつも安堵する。

皆さまの2009年はどんな年だったでしょうか。
人の世の営みなど関係なく、日はまた昇り、そして沈んでいきます。
明けぬ夜はなく、消えぬ悲しみや苦しみもない。


拂意を憂うること毋れ(ふついをうれうることなかれ)
快心を喜ぶこと毋れ(かいしんをよろこぶことなかれ)
久安を恃むこと毋れ(きゅうあんをたのむことなかれ)
初難を憚ること毋れ(しょなんをはばかることなかれ)

『思い通りにならないからといって、憂えてはならないし、
思い通りになったからといってむやみに喜んではならない。
いつまでも安全無事だからといって、それをあてにしてはならないし、
最初に困難・災難にぶつかったからといって恐れ、尻込みしてはならない』

菜根譚

それではみなさん良いお年をお迎えください。




2009年12月16日水曜日

六分か三分か

大忘年会に出席頂きました皆さま、大変お疲れさまでした。
飲み会の席での各自のスピーチはなかなか面白かったですね。
冒頭にちょっと説明しましたが、三と一の会は2008年2月に第1回を開催して、前回の大忘年会が第22回。
延べ参加人数は256人となりました。月に1度の集まりですが、プレゼン内容だけでなく、その後の飲み会までも
毎回盛り上がる印象的なものになっていると思います。

さて、その席でちらっと話しました。与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」ですが、

「妻をめとらば才たけて 見目うるわしく情けあり 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」

ここでは、「六分の侠気」と言っているのですね。会のネーミングのもととなった菜根譚では「三分の侠気」なのです。
6か3か、どっちがいいかなんてわかるはずありません。そもそも量ることができないものですしね。
ただ、僕は「一分」では少ないかなと思うので、三分くらいがちょうどいいのではないかなと思っています。

「侠気」は「一肌脱ぐ」こと、「いっちょうやってやるか」といった採算度外視の心持ちの事だと思っていますが、
皆さんのお考えはいかがでしょうか。

さて、次回第23回は大新年会も兼ねようと思っているので、1月の早いうちに開催したいと思います。
決まり次第、また皆さんには連絡します。

それでは、風邪などひかぬように毎日を健やかにお過ごしください。
ごきげんよう。



2009年11月22日日曜日

憂国忌



我々は4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分まとう。共に起って義の為に共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない、日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち共に死のう。我々は至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

昭和45年 11月25日 檄


2009年11月14日土曜日

さて、本日はある作家の話

豊田穣という直木賞作家はご存知だろうか?

海軍兵学校第68期生で※艦爆乗りのパイロット。昭和18年4月、作戦飛行中、南太平洋ソロモン海で撃墜されて捕虜になった人物である。 彼の乗機は2人乗り、漂流する二人をニュージーランド海軍の哨戒艇が発見し引き上げようとした時、部下は彼にこう言う
「※分隊士、まだ死なんでもいいですか?」
彼はただこう答えた
「待て」と。
彼等2人は戦後昭和21年に帰国する。

その後、豊田は新聞記者から作家へ、その部下は航空自衛隊に勤務し、三等空佐で退官。
その間、幾度となくかつての上官であった豊田を訪ねていた。
独身を通したその部下は、退官後温泉地でマッサージ師として暮らしていたが、
警官をして「実に見事な割腹自殺です」と言わしめる程の自決を遂げる。
しばらくして豊田は、その部下が生前「多くの戦友が戦死しているのに、捕虜になって生き残って申し訳ない。
今度事があったら立派に死んでみせる」と語っていたのを知り言葉を失う。
独身を通したのも、戦地へ出る前に結核で死のうとしている婚約者に「生涯結婚はしない」を約束した事、それに「捕虜になって生き残った人間が人並みな生活を送っちゃあいけない」と思ったからだという。
豊田は、その事を書いた「割腹」という本の中で次のように述べている。

「世間の大部分の人は、幸せに生きる事に専念している。しかし、中には不幸になろうと希って生きてきた人間もいたのである・・・。
私は孤独を味わっていた。海上に漂流する浮舟の上の二人のうち、一人が突然別れのあいさつもかけずに消滅し、自分だけが浮舟の上に取り残されたのを意識した。」

その豊田については、「捕虜だったくせに大きな顔するな」などの投書も多く、彼の作家としての生涯は旧海軍の中でも賛否両論があったと聞く。死の前年に著わした「戦争と虜囚のわが半世紀」の中で、心臓肥大の病気に苦しむ毎日を送りながら次のように書き記す。

「そのように苦難のとき、私は自分の捕虜経験にぶち当る。戦死すべきところを生き残った自分は、もっとも惨めに死んでゆくであろう・・・。(中略)そのようなとき。私は天を仰ぐ。南緯十度、ソロモンの海面で仰いだ南十字星がそこにあった。私の生涯でもっとも印象的な星がそこにあった。あの星の下で今も多くの同期生が、自分を待っているのだ・・・そう考えると私は平安を取り戻した。」

1994年、豊田は74年の生涯を閉じる。最後の瞬間、南十字星は希望の星の如く彼を導いたに違いない・・・。

※艦爆:艦上爆撃機(空母からの離着陸ができるような爆撃機)2~3名乗りが普通
※分隊士:分隊の一番上が分隊長、その下が分隊士

2009年11月12日木曜日

振る舞いを考える

ここのところ、どうも政治ネタが続いています。今日も障りはそれですが、言いたいことは別にあるのでお付き合いください。

行政刷新会議なるものが喧しい。事業の仕分けをして予算から無駄を省くためだそうです。
その意気やよし!ただ、仕分け人なる人の品位は何とかならんか?
まるで弱い者いじめのような光景がテレビで映しだされていますね。
一体、おまえら何さまのつもりだ!と怒鳴りたいですね僕は。
まるで担当の官僚を苛めているようにしか見えないのですが、皆さんは違いますか?
世の中には、自分の立場が上となると、極端に下の者を見下して、横柄でぞんざいな
言葉づかいをする人間が多いですが、あの光景はまさしく、それですね。見ていて非常に気分が悪くなります。

意気やよし!ただ振る舞いは最低!

自分の立場が上だからこそ、下の立場を思いやるのが当然でしょう!
なぜ彼の仕分け人なる人たちはそれができないのでしょうね。
品性下劣。オルテガの言うまさしく「大衆」の見本のような人たちです。

先日、仕分け人の人選(外国人がはいってる)に亀井静香が文句を付けましたね。
あれは正論でしょう。公権力の行使に何故外国人がはいっているのか?
やはり民主党を疑いますね、僕は。

さて、その外国人。かなりテレビにも出ていて日本語が堪能で証券会社だったっけな?
経済調査部長らしいです。

仮にも知識人のはしくれなら、遠慮しろよ!というのが僕の感想です。
「選ばれたのは光栄ですが自分は外国人ですので、日本国の公権力の行使にかかわるのは、
どうかと思います」くらいは言って、民主党に渇を入れてほしかった、と思うのはないものねだりですかね。

良識、常識ある大人の振る舞いをしましょうね。
もとい、カッコいい振る舞いをしましょうね。
言葉づかいも、所作動作もすべて。

しかし、たった1時間の話し合いで廃止やら何やらを決めていいものか?
緊急には必要ないかもしれないが、長期的にみて必要なものまで
廃止してるんじゃないのか?
みなさん、どう思う?

今日は以上です。




2009年11月4日水曜日

決心つかず・・・

死ぬまでには絶対読破しようと思っていた本がありまして、その中の一つが「失われた時を求めて/マルセルプルースト」です。文庫で全10巻!それもみんな600頁くらいの厚さです。この春よりずっと小説づいていたので、その勢いを借りて「いよいよか」と気負いましたが、いざ読み進めようとすると、ページを繰る手付きが鈍ります。つまりは、決心がつかないのです。

この本の内容ははっきりとはわかりませんが、題名の通り人間の記憶を通した物語です(だと思います)。
不惑を越えると、「忘れっぽい」ことが非常に多くなってきていて、先日は「なぜあれを思い出せなくなるのか」など言う本を読んでしまいました。ほんとに記憶の強さが薄れてきているようです。

にもかかわらず、何故人は「思い出したくもない嫌な記憶」を簡単に消すことができないんでしょうか。そういった記憶こそ真っ先に勝手に消失してほしいのですが、それがある故にくら~い気分になったり、怒りに胸がかきむしられるようになったり、心が乱れることがあります。

というようなわけで、人間の記憶に関する物語である、冒頭の書を読んでみようと思い立ったわけですが、それをその記憶が邪魔をするという、何ともいいようのない状況になっています。

さて、明後日は久々の三と一の定例会です。そろそろ12月の忘年会についてもアイデアを出さないとだめですね!
それでは明後日にお会いしましょう。

2009年10月26日月曜日

20回記念で合宿!

祝20回開催!

 早いもので、2008年2月が第1回となった三と一の会も、2009年10月度の開催で20回を数えることになりました。これも毎回資料を準備してくれたプレゼンターと、それを支える会の皆さまのおかげだと思っております。

 合宿場所は信州蓼科高原。紅葉の美しさに目を奪われ、日本酒の旨さに酔いしれ、酔っ払った時しかいいことを言わないいつもの人の口舌に頷き、事前に計画していった決定予定事項のほとんどは決まらず・・・。基本的にはいつもの飲み会でした。総勢6名(男5、女1)の参加でした。

 来るべき30回に何をしたいか?その時までにどうなっていたいか?などなど、話し合った内容は密度が濃かったように思います。特に「この会はそもそもなんだ?」という極めて根源的な問いには、私自身上手に回答することができませんでした。菜根譚からとった「三と一」は説明できても、会の趣旨である「観を養う」とは一体どういうことなのか。それを説明できなかったのはまったくもって私の不徳、不勉強のいたすところでお恥ずかしい限りです。

 異業種交流会は「あざとい」、自己啓発は「照れくさい」・・・。それとは別の「愉快な飲み仲間」(入会基準である飲んで楽しい人というのは未来永劫遺したい基準です)であるにも関わらず、プラスアルファの「何か」があり、それを求めて人が集まってくるようなそんな会のイメージは、漠然とですがみんな共有できたと思います。

 その第三の道を表す言葉を見つけ、それを旗頭にもう一度「三と一の会」の趣旨を皆さんに諮りたいと思います。何かよい考えがあったら是非とも出して下さい。この会はどんな会であってほしいのか?

 詳しくは、次回11月6日の第21回三と一の会で説明したいと思います。

 最後になりましたが、今回の合宿幹事を卒なくこなしてくれた菅原さんと、ともこちゃんに合宿参加者全員の気持ちを代表して
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

 15時から飲み始め、途中眠って深夜の2時に起きたら、例の人はこんな素敵な顔になっていました(笑)。



2009年10月16日金曜日

片付かない物語

この夏目漱石の写真は最も人口に膾炙しているものだと思います。
最近知ったのですが、この写真の夏目漱石は今の私と同じ年だったそうです。
ちょっとびっくりしました。明治天皇の大喪の礼の時だそうです。
腕に喪章をつけてますしね。

さて、先月彼の後期3部作の最後である「こころ」を読了して、改めて、近代化への抗しがたい大きなうねりの中へ、否応なく投げ込まれざるを得なかった夏目漱石の悲哀というか、苦衷というかがわかったような気がしました。

前期3部作「三四郎」「それから」「門」から、後期3部作と言われる「彼岸迄」「行人」「こころ」と読み進めてきて初めてわかりましたが、彼の小説は決して最後に片付いていないのです。どこか中途半端で終わっているのです。
「こころ」の後に書かれた「道草」の最後は

「何、世の中に片付くものなんてありやしないのさ」と主人公がつぶやいて終わります。

「道草」は漱石の自伝とも呼ばれていますが、最後の主人公のセリフは漱石の心情を誠にうまく表していると思います。
彼は、そういう心持から一時も離れることができなかったのかも知れません。
後年彼は「則天去私」という境地を好んで使いますが、漱石は、最後までその「私」がどこの何者なのかの答えを探し続けて悶えていたような気がしてます。決して悟ったのではないと思っています。







2009年9月24日木曜日

「こころ」夏目漱石

5連休はいかがお過ごしでしたか?
僕は19日が娘の運動会でした。20日からは2泊3日で
乗鞍高原の無印キャンプ場へ行ってきました。
帰路は、みなさんご承知のとおり中央道の大渋滞にはまり、8時間以上
ハンドルを握っていました。車降りてもしばらく体が揺れてましたよ。
恐るべし、1000円の威力。この先、無料になったら一体どういうことになるのでしょうか?
さて、今日は民主党政権への文句ではなく、
タイトルの通り夏目漱石の「こころ」についてです。

今年の春からいずれ娘にも読ませようと思い、ちくま文庫の「夏目漱石全集」を
買いそろえています。僕はもう全集読破も目前となりました。
ふと思いましたが、娘が夏目漱石を読む頃はもう、「本」ではないかもしれませんね。
田村さんや関根さんが心配するごとく・・・。

夏目漱石や森鴎外といった明治の文豪が学校の教科書から消えて久しいですね。
一体、国語で何を習うのでしょうか?僕が夏目漱石の「こころ」を読んだのは、
16歳のころ、釧路~東京間の船中でした。30時間の長旅の無聊を、それでしのいでいたので
明確に覚えているつもりでした。しかしながら、ついこの間読み返した時に、
ほとんど内容を忘れていたことに愕然とさせられました。
また、29年間前に16歳だった今の自分の年齢にも非常に大きなショックを受けました(泣)

皆さんは読んだことがありますか?
漱石の小説は、そのほとんどが男女関係を中心に描かれていますが、
「こころ」はその集大成かもしれません。要は人間の「エゴイズム」についての話です。
この年齢になって再び読み直すとは思いもしませんでしたが、
実に深い内容です。むしろ、若造だったころは何もわかっていなかったかも知れません。
比べるつもりなど毛頭ありませんが、僕も「矛盾」な人間ですので、
漱石が生涯かけて悩み続け、外見だけを欧化して取り繕っているかのような社会に対して
抱いていた嫌悪感の一端がわかるような気がします。

漱石はその苦悩の果てに「則天去私」という一つの境地に達したと言われてます。
達したというより、それを無理やり作りだしたのではないかなと僕は思います。
言葉で理解してもそれを実際に行動に移せない、自らの行動原理にならないという
矛盾を痛いほど感じていたのではないかと思います。

漱石の臨終時、傍で泣く娘に、漱石の妻が「泣いてはいけません」と叱りました。
その際の漱石の言葉は

「いいんだよ、泣いても」

だったそうです。

好むと好まざるにかかわらず、「近代」という時代の中に突然放り込まれ、
それをさらりと受け流すことのできなかった、真面目すぎるほど真面目で
純粋であった夏目漱石が、彼が背負ってしまった「近代」という魔物から
最後に開放された言葉であったと僕は思っています。

2009年9月18日金曜日

またまた政治ネタです。

かつて藤原道長でしたかね、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることのなきと思へば」と詠ったのは。

民主党は、今まさしくこんな感じかも知れませんね。
衆議院議員定数450のうち、300超ですからね。3分の2を超えているわけですから「憲法改正」すらできてしまう。
でも、確か300超の内の半数近くだかが1年生議員なんでしょ?
これを異常事態と言わずに何と言ったらいいのでしょう?
新人議員はおそらく、そのほとんどがシングルイシューを訴えてきて、しかも有権者にとってみれば
「とりあえず民主党だから」といったムードだけで当選させてしまったわけですからね。
そんな素人議員だらけで、この国の運営がきちんとできるのだろうかと心の底から心配してます。

マニュフェストなるものの実行が民主党政権に託された使命だとか言ってますが、
「過ちは改むるにしかず」という言葉を知っているのかどうか・・・。
僕は、政治家たるもの思想・信条のぶれはあってはならないと思いますが、マニュフェスト(政策)なんてものは
朝令暮改で結構だと思っています。政権の外にいて、100%の情報がない中で作成した政策が、
いざ与党になってみて、従える官僚たちからでてきた情報と比べてみた時、そこに掲げてきた政策の
実現不可能、または実現後の不都合が明らかになったなら、躊躇なく修正すべきだと思うのですが、どうでしょうか?

そもそも、政策だけを掲げてそれを国民に選んでもらうのだ、と臆面もなく行ってますが、
それなら、国会議員は何のためにいるのか意味がわからなくなります。
政党が政策を考えて、どっちがいいのか国民に選んでもらうことが理想の姿だと思うのなら、
果たして、「政治」を担う議員の存在価値は那辺にありや。

さてさて、一方の自民党はどうなっちゃうのでしょうか?
もうかつての党勢を取り戻すことはしばらくできないのではないでしょうか?
秘策などあろうはずもないと思いますが、ここらで先祖がえりをしたらどうかなと思います。
明確に保守本流を標榜する以外、民主党に対抗する術を持ちえないと思っています。
僕は密かに安倍晋三さんに期待してたのですよ。彼は明確に保守を打ち出していましたからね。
ところが、やはりお坊ちゃんでしたね。わずか1年で投げだしてしまうとは・・・。
やはり最後は「人の質」に戻ってくるのですね。もう少し彼に強さがあれば、自民党の今の大敗は
なかったかもしれませんしねぇ・・・。
次の福田さんは申し訳ないですが、論外です。
一体彼のよってたつ基盤は何だったのですか?
いろいろ言われた麻生さんの方が僕は数倍「まし」だったと思います。

かつて小泉総理が「自民党をぶっ壊す」といって国民の喝采をあびましたが、
彼は結果的にその通りのことをして、政界を引退してしまいましたね。
彼がこの国に遺したものは、一体何だったのでしょうか?
それを「非」とした人が今回の選挙で大挙して民主党へ流れたのではないですか?
思い出してほしいのは彼が総理に就任した時の支持率の高さです。
今の鳩山さんも同じですね。
いい加減に「支持率」なるものがいかにくだらない指標なのか、いや指標にすらならない
くだらないものなのかを国民は気づいてもよさそうだとは思うのですがね。

さてさて、他愛もないことを書き連ねましたが、民主党の支持者の人がいたらごめんなさい。
僕は鳩山さんのコスモポリタンみたいな、日本を背負わない言動が大っ嫌いなのです。
おまえは何語をしゃべって、どこの国に生きているんだ!と問い詰めてみたいですね。
と、面と向かって言いたい政治家が今回は他に2人も入閣、もしくはそれに準じてますね。
社民党の福島瑞穂と辻本清美のおバカコンビですが・・・。
そのことだけでも、今の政権に対して絶望するのに十分な条件です、僕にとっては。

終わり



2009年9月3日木曜日

「変化」と「現状維持」のジレンマ

自民党が大敗しました。
僕自身は保守本流を自称していますので、自民党を是とはしませんが、
この大敗には驚きました。まさかこれほど負けるとは・・・。

かつて小泉純一郎が「自民党をぶっ潰す」といって、総裁・総理になり、
国民の支持率は8割を超えましたね。
彼が絶叫していたのは要するに「変化」です。

変化によって、失うものは明確にわかるのに、
変化によって得られるものは、あくまでも予想でしかありません。
不確実なものでしかありえないと思っています。

8割もの「変化」を支持した人は、その望んだ「変化」の先の今のこの国に
いかなる状況が出現したかを少しは思い起したらどうでしょう。

それでもなお彼らが、今は現状維持より、変化を望む一種の「賭け」に出ることを選択したのなら、
かつてこの国が中国と戦い続け、疲弊しながらも対米英戦に突入した歴史を「不合理」の名の
元に切り捨て、嘲ることはやめてほしいと思います。
あれは、「賭け」「乾坤一擲の大勝負」でしたからね、まさしく・・・。

と、いろいろ考えてしまいます。









2009年8月13日木曜日

226追記1

前回の三と一で「僕は安藤輝三大尉の事が知りたくて226にはまった」と言いました。
この写真の人物です。32歳でした。
彼は蹶起に最後まで反対しており、参加の決断は事件の4日前でした。
しかしながら、彼の率いた歩兵第3聯隊第6中隊は、他の将校に率いられた部隊の兵たちがが勝手に本隊に逃げ帰ってしまったりした状況も多かった中で、最後まで鉄の如き団結を保持していました。

事件が収束に向かいつつある時、彼の上官が安藤大尉を説得にやってきます。

「安藤、兵がかわいそうだから兵は帰してやれ」

それを聞いた安藤大尉は憤然、次のように言い放ちます!

私は兵がかわいそうだからやったのです!あなたにそんなことを言われると癪に触ります!」と・・・。

この安藤大尉の絶叫、226の一断面をよく伝えていると思います。

このような状況は、蹶起の失敗が濃厚になってきた頃のそこかしこに見られたようです。

蹶起将校の一人、野中大尉が兵を引くか引かぬかに迷いながら、

「兵がかわいそうだから、兵だけは帰してやろう」と

事件の幕を自ら達の手で引こうとしたとき、

「兵がかわいそうですって!全国の農民はかわいそうではないんですか!

と、野中大尉を翻意させたのは、蹶起将校とつながりがあり、応援のためにそこにきた民間人渋川善助でした。

彼も銃殺刑となりました。

それでは、また。



2009年8月2日日曜日

日本を今一度洗濯いたし申し候

また坂本龍馬ネタです。

タイトルの言葉、今ではかなり人口に膾炙してますね。
28歳のころに、姉乙女に送った手紙にあった言葉です。

龍馬28歳のころと言えば、土佐藩を脱藩して江戸に出てきて勝海舟の弟子になったころだと思います。
もしくは、神戸海軍操練所の塾頭になったころかな・・・。

いずれにしても、かくも気宇壮大なことを本当にやってしまったのだから、とにかく凄い。
しかも、何の悲愴感もなく平然とやってのけたところが、今なお万人を惹きつける魅力だと思います。
彼の場合は、自分のやりたいことをやるのに、時の幕藩体制が邪魔だったから潰してしまったというような感がありますね。

先日、この手紙の文句を、龍馬直筆の手紙(おそらく複製)でみたとき、
迂闊にもうるうる来てしまいました。

2009年7月28日火曜日

坂本龍馬

今日は高知に来ています。
「竜馬がゆく」を読んだ後の魂が震えるような感動は未だに忘れられません。
司馬遼太郎はあとがきにこう書いています。

「この若者の場合、天がこの国の混乱を鎮めるためにこの世に遣わし、その役割を終えた途端に天に召し上げたとしか思えない」

彼は確か33歳の誕生日11月15日に暗殺されています。暗殺犯は未だに謎が多く、特定できていないようですね。薩摩藩が後ろで糸を引いていたとの説もありますね。龍馬は戦争を必要なかったと思っていましたしね。徳川慶喜が大政奉還したときに、徳川慶喜に対して涙したと言われてます。彼は自分が商売(貿易)しやすい世の中になればそれでいいと思っていました。一方の薩摩は振り上げた拳の下ろし先を何としても見つけたかった。何としても戦争を欲した薩摩にとってみれば、龍馬は眼の上のたんこぶだったんですね。そう考えると、「龍馬暗殺の背後には薩摩藩がいた」と言われても納得してしまいます。「さもありなん」と・・・。

龍馬は大政奉還の後、「船中八策」を書き上げ、薩摩藩邸で西郷隆盛に新政府の青写真を示します。
その中に彼自身の名前のない事を訝った西郷の、「おはんの名前がみあたらんど?」との言葉に

「わしは役人にはならん」
「じゃ、何をすっど?」
「世界の海援隊でもやりますかいのう」

との会話がなされたようですね。
その場にいた陸奥宗光が書き記しています。

僕はこの下りが「竜馬がゆく」の中で一番好きな個所です。これぞ「坂本龍馬」ですね!



2009年7月27日月曜日

第18回三と一の会お知らせ

メンバー各位

第18回三と一の会を8月7日(金)にちよだプラットフォームにて19時より行います。
場所は地下のミーティングルームとなります。

久しぶりに私がプレゼンターを務めたいと思います。テーマは「226」!
このテーマは、私が3年ほど前からずっと研究してきたもので、、話すとなったら全10回あっても足りないのですが、とりあえずその1として、皆が知らない事件の一断面をご紹介したいと思います。

この写真は、平成元年の映画「226」です(確か松竹で、監督は五社英雄)。史実的には「?」というか、でたらめもありますが 雰囲気はよく伝えていると思います。

それでは、当日お会いしましょう!



2009年7月23日木曜日

もういっちょ、鹿児島ネタ

西南戦争時に官軍で組織された抜刀隊を讃えた歌です。


吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従ふつはものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぢぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起せし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし


この作詞は東京帝国大学教授だった外山正一。 作曲は陸軍軍楽隊教師として招いていた仏人、 シャルル・ルルーであった。初演は明治18年、 鹿鳴館においてである。


「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」

作詞者外山正一はこう言っている。

これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。



この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
愛国心を鼓舞するはずのこの歌が何故か哀しい調べに聞こえる。


前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登るのは 未来のことと聞きつるに
此の世に於て目のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして
族を征伐するがため 剣の山も何のその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。


江藤淳はこのように言う。


「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」

「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」


弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後を遂ぐるとも 忠義のために死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更にうらみなし
われと思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
幕臣の子として蕃書調書に学び、最初の日本人留学生として米国ミシガン大学に学んだ秀才であった。
彼もまた亡んだものへの哀切の情、西郷や桐野の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたに違いない。

再び江藤淳。

「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」

出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」

今日は鹿児島

鹿児島と言えば、西郷隆盛です。彼ほど愛された人物は日本の歴史上存在しないのではないでしょうか?
つくづく考えてしまいます。
でも、かれは新政府に弓を引いた賊軍の大将ですよ!
何故こんなにまで顕彰されているのでしょうか?僕自身は、彼を好きでも嫌いでもないのですが、若い頃もそして今ですら目標としたい人物ではありません。その理由は簡単で、同じ人間としてのスケール感を持てないからです。けた外れと言うか、彼の度量を測り知れないからです。
それと、倒幕の頃の西郷と、維新後の西郷は人物が変わってしまったのではないかと思うほど、その行動が異なっていると思っているからかも知れません。倒幕の中心だった頃の西郷は、リアリスティックな革命家で、物事をかなり正確に、論理的に捉えていたかと思うのですが、征韓論に敗れて下野してからの彼はそれがすっかりなりをひそめるような気がするからです。

「おはんら、一体なんちゅうことをしでかした!」

西南戦争は、西郷のこの言葉から始まりました。鹿児島私学校生徒が、政府の弾薬庫を襲ったときの彼の言葉です。
巷間言われていることですが、西南戦争時の彼は、一切の指示も決断もせず、ただ周りに担がれたままでした。彼は、この言葉を発した時に自らの運命を悟ったのではないかと思います。

「拙者儀今般政府への尋問の廉之れ有り」
これにはじまる鹿児島からの出陣も、ついには負け戦となって再び鹿児島への逃避行となります。 西南戦争は哀しいですね。 僕には、武士の中でも戦国の美風をひときわ遺す薩摩兵が、自ら滅びの道を選び取り、そして当初の目的通り、滅んでしまったように思えるからです。

「西郷、もういい加減にせんか」
病床にあって、乱の行方を心配していた木戸孝允は、こう云いました。 しかし、「いい加減」にはできなかったのでしょうね。儒教的倫理観の固まりのような大西郷は、維新後の世の中の全てが汚らわしく、特にかつて武士としての埃を捨て、自らの栄達ばかりに奔走する多くの人間が我慢ならなかったと思います。そんな連中に一泡ふかすには、自らが死ぬまで戦うしか道がないと思ったのでしょう。もとより勝敗は度外視だったと思います。

彼は、この国が何百年もかけて築き上げたこの国のかたちと、愛すべき薩摩の士風とともに、滅びの道を歩んだのだと思います。 それが、彼を愛すべき人物として今なお顕彰の対象となる理由かも知れません。

西南戦争時、西郷軍の一番隊大隊長篠原国幹(陸軍少将)の子孫と、おとといは朝4時まで飲んでました。
これも不思議な縁ですなぁ。









2009年7月22日水曜日

佐賀藩と言えば・・・

山本常朝の「葉隠」が有名です。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の一節が人口に膾炙してますが、
「人間一生誠短きものなり。好いた事をして暮らすべきなり」や、または
「恋の至極は忍ぶ恋とみたて候」という一節が僕のお気に入りです。

先ほどの投稿でも書きましたが、幕末の佐賀藩は戦争を支えるかなり際立った技術を持った藩でした。
ここは、江戸期のある時期に超スパルタな藩士教育をしたことをご存知でしょうか?
家督相続の際、試験に合格しないと最大で8割の家督を召し上げたそうです。
そういう厳しい掟があったため、試験に合格するためテクニックのみが偏重されたようです。
それに反抗したのが、早稲田大学創始者の大隈重信でした。

「人ト生ジテ自助独立ノ権ナク、己ノ生涯ノ利害ヲ人ニ任シテ
不羈セラルルハ牛馬ニ均シカラズヤ」

彼の言葉です。福沢諭吉もそうですが、この両名、その建学の精神が似通ってますね。

そのスパルタの詰め込み教育は、昭和になってもしばらくはその残滓があったようです。
昭和40年代の司馬遼太郎の本に、佐賀県は人口当たりの司法試験合格者数が全国一と
言うことが書いてありました。今はどうかわかりませんが。

巷間、地方分権が喧しいですが、江戸期の日本のようにまた地方は豊かな文化を育むことが
できるのでしょうか?それなくしては、どこも金太郎飴のようにミニ東京が全国にできるだけでしょう。
そして、それが今の騒ぎの顛末のような気がしてなりません。


佐賀に来ています

またまた田村さんに喜ばれそうな写真です。戊辰戦争で大活躍した佐賀藩のアームストロング砲です。上野の山に立てこもった幕府の彰義隊を不忍池を飛び越えて加賀藩邸(今の東大赤門付近)から砲撃したのがこの砲です。もう一枚の写真は、140年の時を超えて今なお残る佐賀の乱の時の弾痕です。鉛色がわかるでしょうか?夏草や兵どもの夢の跡ですなぁ
Ryo

2009年7月10日金曜日

再び小林秀雄

読書家である、みなさんに今日は小林秀雄の「読書について」から一部抜粋してご紹介したいと思います。
これは、昭和14年に著されたものです。僕の好きな文章です。特に最後の「諸君に何の不足があるというのか」という問いかけは、自分自身に問われているようで、自然と襟を正してしまいます。



 文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に
目覚めさせるもので、読書は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうかを確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存ししたのはどういうわけか。はっきりと眼が覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。

 書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した顔に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。
 みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。諸君になんの不足があると言うのか。


解釈は皆さんに委ねましょう。

2009年6月28日日曜日

カナヘビ飼育中

食事中です。メニューはミールワームなる餌です。最初はそれをはしで掴む事が気持ち悪くて閉口しましたが、今では慣れました。娘は人間に飼われてる方が補食する苦労がなくて幸せかもよ、とかなり根元的な問いを発します。「自由」か、しからずんば「死」を!とこのちっちゃい恐竜の子孫が思ってるのか否か。
Ryo

2009年6月23日火曜日

第17回三と一の会お知らせ


各位
第17回三と一の会を7月10日(金)にちよだPF504会議室にて行います。
19時開始です。テーマは「『エッシャーのだまし絵と数学』(芸術と数学の密な繋がり)」で、
まげ店長がプレゼンターです。出欠をお知らせくださいね。

皆さんにもメールが行っていると思いますが、彼の次なる展開テーマは、軍事色ぷんぷんですね。とはいえ「軍事学」やら「地政学」やらが大学の学科として存在しないのは日本くらいなものなのですよ。「政治学」があるなら当然それを支えるものとして軍事学やら地政学やらは避けて通れないのですが、この国は未だに敗戦の亡霊に取りつかれていることが多々あると思います。そして、それこそがこの国混乱の大きな一因になっているとも。
ともかく、7月10日にお会いしましょう。

無常ということ


小林秀雄。
「日本における批評の文章を樹立した」と言うのが、彼を表す常套句です。僕が彼に興味を持ったのは、戦後間もない頃、この国が「一億総懺悔」などという風潮に覆われた中、
「私は馬鹿だから反省などしない。利口な奴はたんと反省するがいい」
と言い放ったということからです。

彼は非常に多くの短文を遺しています。彼にとっての畢竟の大作は「本居宣長」といえるでしょう。私は16年前にそれを購入してから、未だ読めずにいます。理由は簡単で、未だそれが読めるほど僕自身が成熟していないとおもっているからです。

彼の「無常ということ」という文章について、先日まげ店長さんのコメントに書かせてもらいましたが、これはわずか5ページ足らずの短文であるにもかかわらず、非常に考えさせられる文章でした。僕の心の琴線に触れたのです。
その中に、川端康成が語った文章として次のようなことがかかれています。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くとしんでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

これを受けて、小林秀雄はこんな風に書いています。

「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が僕等を一種の動物であることから救うのだ。」

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれが現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。」

そうして、

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」

と続いて行くのです。

僕等は、「解釈」を通じて歴史や人間を理解しようとします。しかし、『解釈を拒絶して動じないものだけが美しい』という本居宣長が抱いた一番強い思想こそが、解釈だらけの現代には一番秘められた思想なのだと彼は言っています。「上手に思い出す」こととは、僕等が勝手に思い描く「解釈」を通じてではない、そこにある「常なるもの」、それを見ることなのでしょう。でも僕等はそれを見失っていると・・・。

これが、僕なりの理解です。


2009年6月17日水曜日

白河以北一山百文


福島にきています。
維新後、今でいう東北地方はタイトルのように言われました。
戊辰戦争。最後まで新政府に抵抗されたことへの腹いせをこのような蔑称にしたのだと思います。

さて、ご承知の通り会津藩は最後まで頑強に新政府軍に抵抗します。
前に三と一のテーマ「転換期の指導者像」で取り上げた河井継之助もそうですが、彼らの云い分は「武士が立たぬ」でした。
多くの藩が日和ったり、時流にのって新政府軍となったりした中で越後長岡藩と会津藩のみは、頑強に抵抗するわけですが、僕は若かりし頃、両藩ともに決して暗愚ではなかったはずなのに、「なぜ時流を読めなかったのだろう?」と不思議に思っていました。しかしながら、「中年の危機」を迎えてから「よくぞ頑強に抵抗してくれた」と思うようになりました。彼らの頑強な抵抗がなければ「型」にまで昇華した武士道250年の歴史は一体なんだったのか?と思うようになったからです。今では彼らの流した血によって「日本史は救われた」とまで思うようになっています。

「荒城の月」という歌がありますね。
「春高楼の花の宴・・・」で始まる物哀しい歌ですが。あれは仙台出身の土井晩翠という人の作詞に滝廉太郎が曲をつけたものです。土井晩翠が心に描いた荒城は、会津の鶴ヶ城でした。滝廉太郎が思い描いたのは九州竹田市にある岡城・・・。それぞれ心象は異なりましたが、彼らに共通するものは喪われた「武士の魂」だったように思います。「荒城の月」にこんな歌詞があります。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿いし
昔の光今いずこ

もうおわかりでしょう。

「昔の光」とは、かつて存在した武士が体現していた「なにものか」だったのです。



2009年6月12日金曜日

かくも救いなき・・・

 農民文学の記念碑的名作である。しかも漱石をして「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になたら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」と言わしめた作品。救いのような貧しさに、気が滅入りそうになりながらも、読み進めてしまう不思議な作品でした。

 夏目漱石は、こんな文章でこの本を説明しています。

「『土』の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活である。先祖以来茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼らの獣類に近き、恐るべく困憊を極めた瀬克つ状態を、一から十まで誠実にこの『土』の中に収め尽くしたのである。彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆ど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上がりがたいところを、ありありと眼に映るように描写したのが『土』である。そうして『土』は長塚君以外に何人も手を着けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。」

 これで十分でしょう。何とも言いようのない百姓の生活が、綿々と綴られ、しかもその歩みは亀のように遅いのです。そして、全編にわたって、自然の描写が恐ろしいほど細かく、美しいのが非常に印象的です。たとえば、この本の冒頭は、以下のように始まります。

「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ちつけては又ごうっと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛の響きを立てて泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつつ目叩いた。そうして西風がどうかするとぱったり止んで終ったかと思う程静かになった。泥を拗切って投げたような雲が不規則に林の上に凝然とひっついて空はまだ騒がしいことを示している。それで時々は思い出したように、木の枝はざわざわと鳴る。世間が俄かに心ぼそくなった。」

と、こんな調子です。自然(時に煌びやかな彩り)は彼らの生活を形づくりますが、彼らの生活に色彩はなく、地を這いつくばるような、まさに「土」色そのものなのです。

この本を読んだからでは決してないですが、最近は、日々の決まり切った日常、型にはまった日常の中にこそ真の歓びと真の美しさがあるような気がしています。冒険は飽きる・・・。ただそれだけなんだけどね・・・。

2009年6月2日火曜日

西へ行く人を慕ひて東行く


 僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。

 彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。

 

 かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。


 23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。

   風になびく富士の煙の空に消えて

   ゆくへも知らぬわが思ひかな

 晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。

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   西へ行く人を慕ひて東行く

   心の底ぞ神や知るらむ

 西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。

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   人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。


 やはり、男はこれだ!