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2009年7月23日木曜日

もういっちょ、鹿児島ネタ

西南戦争時に官軍で組織された抜刀隊を讃えた歌です。


吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従ふつはものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぢぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起せし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし


この作詞は東京帝国大学教授だった外山正一。 作曲は陸軍軍楽隊教師として招いていた仏人、 シャルル・ルルーであった。初演は明治18年、 鹿鳴館においてである。


「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」

作詞者外山正一はこう言っている。

これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。



この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
愛国心を鼓舞するはずのこの歌が何故か哀しい調べに聞こえる。


前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登るのは 未来のことと聞きつるに
此の世に於て目のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして
族を征伐するがため 剣の山も何のその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。


江藤淳はこのように言う。


「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」

「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」


弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後を遂ぐるとも 忠義のために死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更にうらみなし
われと思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
幕臣の子として蕃書調書に学び、最初の日本人留学生として米国ミシガン大学に学んだ秀才であった。
彼もまた亡んだものへの哀切の情、西郷や桐野の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたに違いない。

再び江藤淳。

「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」

出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」

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