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2011年3月31日木曜日

桜に託するもの

これは、「桜花(おうか)」と名付けられた特攻兵器です。ほとんどの人は知らないでしょうね。先端に1トン爆弾を積み、爆撃機に吊り下げられて敵地まで運ばれ、目標とする敵艦船に近づいてから放たれ、ロケット推進によって敵艦めがけてまっしぐら・・・これごと体当たりする兵器です。昭和20年4月の沖縄戦で使われました。

親機から放たれれば音速を超えて飛びますので、おそらく相当な戦果を挙げることができたと思いますが、残念ながら親機が低速ですぐに敵戦闘機に捕捉されたので、親機に吊り下げされたままともに撃墜されることが多く、ほとんどめぼしい成果を上げることができませんでした。

しかしながら、この特攻兵器に乗って命を散らした若者が多くいたことは事実です。

米軍はこの兵器に「BAKA BOMB」と名前を付けたといいます。僕らが今、イスラムの原理主義者たちが行う自爆行為を、狂信的で理解不能と思うようなことを、末期の大日本帝国は国民に強要し、その国民は、それを強要とも思わずに「死処を与えてくれた」と感じ、受容していったのです。

そんな狂信的な兵器の名前が「桜花」なのです。このギャップとは一体何なのか?日本人の精神性を考えると実に不思議です。アメリカ人文化人類学者ルース・ベネディクトが名付けた「菊と刀」はまさしく、この日本人の精神のフォルムを実に端的に表していると感心します。



戦後間もないころ、柳田国男が折口信夫に向かってこんなことを言ったそうです。

日本人は、戦の場で潔く死ぬことを誇りとして、死を恐れない。ちょうど桜の花が一夜に美しく散るように、命を散らすのを民族の誇りとしてきたようなところがあって、こんどの戦争でもしきりに桜をいろんな引き合いに出して、若者たちに命を惜しむなということを言って励ましたり、いましめたりした。しかしよく考えると、これほど命を軽く考える民族は世界でもあまり類がないように思われる。それは昔はあったのかもしれないけれど、そういう死生観を持った民族はいち早く滅び果ててしまったのではないだろうか。海にへだてられた日本人だけが辛うじて残ったとして、これから一体こういう民族はどうなるのだろう。

聞かれた折口は何も答えず、ふたりでじっと黙って考え込んだといいます。

釈超空という名前でも知られる折口ですが、彼は戦後「桜はさみしい花だ」といって、桜の季節になると心がふさいでたまらない様子であったといいます。折口も柳田同様の気持ちを持っていました。

よく知られるように、万葉集では桜よりも梅や萩の花の方が多く詠われています。古今集の時代になってようやく桜が、それらを上回るようになるのです。平安の頃からですね。

そうして、今のぼくらに通ずる桜が体現するはかなさ、潔さが人びとに広く伝わったのは、悲劇を詠った平家物語の大流行によってです。




僕の地元には桜の時期になると桜祭りが開催され、近隣からも多くの人が訪れる桜の名所があります。今年は、震災の影響で中止とすることが早々と決定されました。今は花の下でのドンチャン騒ぎよりも、静かに花の下で過ごすほうがふさわしいのでしょうか・・。

おそらく、被災した人びとにとっての今年の桜は、従来のそれとは異なる心象を与えることでしょう。願わくば、その心象が人びとのこころを鎮めるものであってほしいと願うばかりです。

今日はこれまで。


2011年3月30日水曜日

「数」

今回の災害での物的な被害もさることながら、その多さに言葉を失ってしまうのは何といっても死者・行方不明者数の多さでしょう。2万人を超えています・・・。阪神大震災で5千人を超えたときにも非常に驚きましたが、今回は宮城県だけで、阪神大震災の死者数を上回っています。何とも言葉がありません。

世の中が平和で、死者数の多さに言葉を失うというのは極めて健全なことだと思います。かつての大東亜戦争では、多くの島々で玉砕した部隊が多数ありましたが、たとえば沖縄では軍民合わせて20万人の死者数ですし、硫黄島での死者数が確か2万人でした。日本人のみの死者数ですが、アメリカ群も合わせればもっと数が多くなります。

第二次世界大戦という世界全体に目を転じれば、その死者数は3千万人を超えると言われています。ちなみに中国共産党は最近になって、軍民の犠牲者数を3千万人とか言ってますが、これは真っ赤なウソです。


死者の「数」に無神経である世の中ではあってほしくないとつくづく思います・・・。ところが、日本の自殺者数は年間で3万人を超えているからなぁ・・・。

それにはそれほど関心を示さない日本の世論というのものは、一体どうなっているのでしょうか?

今日はこれまで


2011年3月29日火曜日

「神の使い」の警告?

パンダの話です。

パンダはそもそもが肉食動物らしいのですが、なぜ笹しか食べなくなったのか、その原因は一切不明らしいです。笹を体内で消化する酵素がなく、そのためそこから栄養を吸収するのが非常に非効率なんだとか。だからものすごい量が必要になるらしいです。

また、パンダの繁殖期は1年のうち僅か数日間。その期間に交尾しなかったら、また1年待つしかないらしいですね。ですから人工的に繁殖させるのがとても困難だとか。今は人工授精でその障害を乗り越えているらしいですがね。

さらに、めでたく妊娠したとしても、生まれてくる頭数は1匹が通常で、たまに2匹以上生まれても、母パンダは1匹しか育児をしないのです。だからあぶれたもう1匹は自然の状態ならば死ぬしかないわけです。そして、皆もよく知っているようにパンダの赤ちゃんは、成獣の巨体からは想像もつかぬくらいちっちゃくて、そこから成長して大人になるのには非常に危なっかしいような気さえします。

どうもですねぇ、パンダは繁殖、生存することを拒んでいるような気がするのですよ。人の手の入らぬ自然界で、このような脆弱でか細い繁殖能力が生き残るわけがないでしょう・・・。パンダがその愛くるしい姿と、愛嬌のある仕草で人間の人気者になってからまた半世紀も経っていないと思いますが、それからは人工的な環境と、人工的な繁殖技術、飼育技術で種の保存が図られていて、人間に発見されたとき、もしかしたらパンダという種は自らその身を滅ぼそうとしていたのでは?と考えてしまいます。

パンダは、きっと昔は肉食で繁殖能力も普通の野生動物程度はあったのだ。それがこの世界の人間どもの為すことに愛想が尽き、緩やかな種の自殺をするために、肉食から草食へと変換したのですよ。そして繁殖能力も低下し、育児も1匹のみとした・・・。つまり種の進化ではなく退化です。

そんな時、つまりもう少しで種の集団自殺が可能となったとき、偶然人間に発見されたのではないかな。

僕なんかそう、考えてしまいますね。だから、タイトルの「神の使い」なのではないかと・・・。

勝手な妄想ですが、種が集団自殺することもきっとあり得るのだと思います。そして、パンダはその魁なのですよ、きっと。

自然というのは実に恐ろしいですね。この「恐ろしさ」というのは、何でもありだなという恐ろしです。

今日はこれまで。


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2011年3月28日月曜日

大わらわ・・・

 先週の火曜日の朝、突然女房が

「義援金集めのバザーやる!」

と突然言い出しまして、あまり深く考えもせずに「OK」と返事したら、いろいろと仕事が降りかかってきて大変です。今は自宅に持ち寄られた商品が山となっていて、足の踏み場がない・・・。

収益は全額寄付するのだそうです。

ちなみにここだけの話、僕はあまりそういう活動が好きではない。寄付したいのなら個人がやればいいことで、そのための受け入れ機関も多数ありますからね。まあ、でも女房は小学生の娘にもポスターを書かせたりして、「困っている人を助けるということで協力する」ということを見せるんだと言っておりまして、それについての批判はないので、積極的な協力者として動いている次第です。

僕としては、深刻に暗く考えるよりも、人をたくさん集めて、好きな商品を買ってもらって、その集まった何ほどかのお金が被災者へ渡るという、Win-Winの場の提供ができればいいなと思っています。

マー君、菅原さん、あと栗の字も手伝いにきてもいいぞ。近くには花見の名所があるので、桜が咲けばすごい人手になる。

しかし、幼稚園、学校と母親仲間のネットワークはすごいですね。僕なんか地元に住んでいるにも関わらず、当時の友達とはほとんど付き合いがないので、携帯の番号すら知らない奴がほとんどなのに、札幌出身の新参者の女房の母親つながりというのはすごいです。僕なんかと比べ物にならない。

チラシも1000枚ほど用意し、それをポスティングしてくれるお母さんたちも、多数いらしてホントに心強い限りです。

開催日は4月3日、あと5日しか準備期間がないので大わらわです・・・。

今日はこれまで。

2011年3月27日日曜日

節電・・・

原発事故が未だ予断を許さない状況です。

厄介なのは、仮に安全宣言が出されて事故が終息したとしても、多くの様々な問題が尾を引くということでしょうね。たいして被害もない首都圏ですら、野菜の不買がおこったり、水の買い占めが起こったり、風評被害による影響が農水産業でなかなか終わらないことは容易に想像がつきます。それに観光地としてのイメージも大幅なダウンは避けられそうにありません。

何でもドイツでは「反原発」のデモに25万人集まったんだとか・・・。欧州は陸続きですから、どこか1国でも原発の事故があれば、全欧州がその被害をこうむることになります。神経質になるのもむべなるかなと思います。

CO2も排出せず、原子力でもない新たなクリーンエネルギーの創造に向けて、世界はその叡知を結集させる必要があるかもしれませんね。もちろん、日本がそれを独力で成し遂げたなら、それに勝る喜びはありません。何としても「1番」にならなければならない・・・。

かつての陰翳を楽しむ時代に戻りますか・・・それは個人でならいいだろけど、もうそんな社会へ後戻りは出来っこない。

Yahooのトップ画面で電力消費グラフがでています。緑黄赤の色分けで電力の消費状況が一目でわかるようになったものです。ただ、供給量(電力)というものがあまりにも大雑把すぎて、どうにもピンときません。東京電力の通電範囲って、どこからどこまで?それがわからない状況であのグラフを見せられても、全然節電への強い動機づけにはならんな。もっと範囲を狭めたとしても、それが強い節電への動機づけになるとは到底思えない。だって、皆が考えるべきは「日本のエネルギー政策」そのものでしょう。節電は確かに大切ですが、それは企業に例えれば、あくまでも経費削減という消極的なものでしかすぎない。「節電」という国民運動はあくまでも現状対処の方策で、将来への方策ではない。ビジョンがないまま右往左往するのは、日経が得意気に語る「戦略不在」ということ。

仮に、オンタイムでグラフが増減したらどうでしょう?おそらくネット上で「明日の19時の消費電力を10パーセントさげてみせよう」とかいう動きがでて、その通りの結果がでるかもしれません。それにはどの程度の人間の協力が必要なのか想像ができませんが、不可能な話ではありません。ただ、それが実現できたとしても、社会現象としては大変に興味深いとは思いますが、本来考えるべき日本の電力、エネルギー事情へ何の影響も与えないマスターべ―ションのようなもの・・・。


少なくとも一般家庭の消費電力は、太陽光発電で賄えるようにしたらいいのではと思うのですが、今の性能では、とても夏場のピークの消費電力を賄うことは無理らしいしですね。でも、各家庭へのその設置を義務付けたらいかがでしょうか。もちろん国の補助で。そうして各メーカーがその性能発揮へしのぎを削れば、必ずや飛躍的な製品が出てくるのもそう遠くない将来に実現しそうな気がします。あくまでも希望的観測ですが・・・。


今日はこれまで。

2011年3月26日土曜日

東北・関東で大地震 番外編

がんばろう 日本


こういう時は、「にほん」ではなく「にっぽん」なのでしょうね。語感が全然違う。

この標語で世の中は盛り上がっていますね。僕としてもなんら批判も否定もするつもりはありませんが、表向きはそういいつつ、被災者の痛みを我が痛みとして感じみたいなことをいいつつも、日常やっていることはあさましい人間がホントに多い・・・。さもしい料簡というのかな、ペットボトルの買い占めが物凄い・・・。大方、残留放射性物質の報道によってだと思う。野菜も一緒。

乳児を抱えているのならわかる。しかし、どうもそれだけではないな、この異常な買い占めぶりは。これからの一生分の水を買い込むような勢いだ・・・。できるものならやってみろ!


昨日、床屋へ行って「床屋政談」をしてきました。近所の床屋で同じ停電のグループに属します。停電になると、もちろん営業ができなくなるので商売あがったりだとぼやいていました。ただ、被災者のことを思えば、たかが停電くらいとあきらめもつくとは言ってましたが、主人曰く、「不公平だ」ということ。要するに一回も停電にならない地区があって、そこは普通に営業、生活できるのに、この不公平さは一体何だ!ということです。

同感!

もちろん、送電区域によって停電のない地区ができるのは仕方ないが、せめて基本料金の差ぐらいつけろ!と大いに話が盛り上がってきました。強制的に停電となり、使いたくとも電気を使えない家庭と、そうした事態は起こらない家庭が同じ基本料金を支払うのは、どう考えても公正な仕組みとはいえません。

と、家に帰って夕刊をみたら、おいおい、電気料金値上げの記事!!!

長嘆息です。



15年以上前の事ですが、三陸海岸に沿って走る鉄道にのって北上し、青森まで行ったことがあります。もちろん仕事でですが、「フィッシャリーナ」が整備されている漁港の写真撮影と、その管理者である役場の担当者にインタビューに行ったのです。

今回、役場が壊滅した大槌町。僕はどうも行ったことがあるような気がしていたのですが、正確に思い出す事が出来ず、そのままうやむやにしていました。昨日、「!」と思い立って、名刺の整理をしたら、やはりありました。大槌町役場の訪問相手の名刺があったのです。女房の旧姓と僕の名前が組み合わさったお名前で、それが印象深くて捨てずにとってあったのです。

そうそう、確かに訪問したんです。木造2階建ての古い役場でした。その方は無事でいるのかどうか・・・。

今日はこれまで。




2011年3月25日金曜日

偲ぶよすが・・・無常ということ

 確かなことは言えませんが、昔の日本人は誕生日を祝うということがなかったらしい。おそらくその習慣が始まったのは戦後のことでしょう。誕生日よりも命日の方が重要で、より生活に密着していたといいます。そのせいかどうか、僕の父親は自分の両親(僕の祖父母)の誕生日を知りません。

津波に流された自宅の跡地や、瓦礫の下から自らの思い出を探そうとしている多くの人がいることを新聞で知りました。捜索に当たった自衛隊員や、警察、消防の人たちも、その過程で見つかったアルバム等を持ち帰り、1か所に集めてその持ち主を見つけようとしているんだとか。

「家族との思い出まで流されてしまった」

と、家を失っただけでなく、家族や親族、友人たちまで失った人たちは、そう悲痛な声をあげています。アルバムの中の写真は、確かに在りし日を偲ぶよすがになります。しかしながら、明治以前の人たちには思い出を「写真」におさめることなどなかったわけですので、上記のような言葉づかいはまったく想像もつかないと思います。

「だって、お前、思い出は心の中にあるんだろうが・・・」

とでもいい返すかもしれませんね。もしかしたら、彼らの日常の言葉遣いに「思い出」という単語はなかったかもしれませんよ。少なくとも江戸時代には・・・。どうもそんな想像をしてしまいます。過去も、未来もなんら特別なものではなく、ただ「今」しかなかったのが近代以前のこの国の人びとの心性だったと思います。正確にいうと、「今」と「死後」かな・・・。当時の彼らの心性の根っこにあったものは「無常」ということでしょうね。形あるものは必ず壊れ、人はいつか死ぬということを身にしみてというか、当然のこととしてうけとめていたように思います。無常を知る者は真の自由人かもしれません。囚われるものがないからです。


さて、僕はその言葉遣いには何の違和感もないし、その言葉の裏にある絞りだすかのような悲痛な苦しみもよくわかる気がします。が、しかしあくまでもそれは、形あるものにとらわれて過ぎているような気がしないでもない。写真や映像がなくても、僕らはきっと上手に思い出すことができると思うし、それがあるためにかえって上手に思い出すことができなくなっていることもあるのでないかとも思う。





思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。

とは小林秀雄の「無常といふこと」にある一節です。

今日はこれまで。

2011年3月24日木曜日

オール電化が裏目・・・ そして友情の話

3月23日付読売新聞夕刊によると、オール電化住宅は2002年末で13,000戸だったのが、2010年末には855,000戸に急増したんだとか・・・。特に08年末の456,000戸から倍増しているらしい。それによる電力消費の増加分は何と原発2基分だと!

「原子力は発電時に二酸化炭素を排出せず、地球温暖化の防止につながる。省エネにもなる」

というアピールを、至極妥当なものと僕は感じたわけですが、そして日本の技術力と耐震基準に対する信頼度は僕にとっては確実なもので、その原子力がまさかこんな騒ぎを引き起こすとは思いもしなかった。確かに二酸化炭素は排出しないけど、おこってはならない事故で放射能を撒き散らすんじゃなぁ・・・。おっと、これはやや煽情的な物言いですね。

きちんと確認すべきだとは思うのは、地震による揺れで緊急停止した原発の震災対策はほぼ完ぺきだったということ。その後の事故はすべて津波によるものということですね、それも想定外の・・・。事故処理において、人がなしうる最善の策が他にあったかどうかはさておき、津波さえ想定内のものであればあのような事故は起こらなかったのではないでしょうか。

100年に1度の津波は想定しても、1000年に1度の津波など想定しえず、仮にそれを想定できても、それから守るに足る設備の建設など、コスト的に不可能でしょう。ただ、原子力は特別だからコストは度外視すべきだったという議論も否定はしませんけどね・・・。

日本政府の対応が海外から批判されているようですが、僕は間違いなく言える、というよりそう信じていたいのは、自然災害における原発の安全性の担保について、日本の技術力を持ってしてもだめなら海外の原発など何をか言わんやだということ。勝手なことばかり言うな!と思いますね、海外からの批判は。

ただ、事故後の対応については実際に原子力空母や、原子力潜水艦を保有しているアメリカには到底太刀打ちできないとは思います。ハード(設備)だけでなく、それを補完する意味でソフト(事故の対応)についてアメリカから教えてもらう必要がありそうです。

同じく読売新聞に、ウォール・ストリート・ジャーナル紙アジア版の記事がでいました。

福島原発事故を受け東京を脱出した外国人に職場復帰の動き。日本人同僚とぎくしゃくも

だそうです。日本人には書けない記事をストレートによく書いていますね。まあしかし、そうなることは致し方ないとおもいますね。友達が苦しんでいるときに見捨てて逃げて、自分が安全になってから再び戻ってくるのは、僕ら日本人からすれば頭では理解できてもすっきりと腑に落ちる行動ではないですからね。

まあでも大目に見てやりましょう。そして、僕らは卑怯な振舞いをしないようにすればいいだけの話。
それに、当人たちの記事ですから、おそらく良心の呵責があるのですよ。だから責めることはやめにしたいいですね。


石田三成と大谷刑部の茶席での話はご存知ですかね?

ある茶席で大谷刑部は、茶碗に自分の顔面から滲んだ膿だか、鼻水だかを落としてしまって、それを皆に見られたものだから、彼の後の武将らは一切口をつけずに飲んだふりだけをした中で、末席にいた石田三成だけは、彼に恥をかかせまいとしてそれを全部飲みほしたという逸話です。

大谷刑部は後に、負けるとわかっていながら三成の関ヶ原挙兵に力を貸すことになりますが、彼ら二人の関係は、まさに「盟友」の関係であり「友情」というものがあったはずだということを司馬遼太郎が書いています。

真の友情とはこうあるべきでしょうね・・・。

今日はこれまで。

2011年3月23日水曜日

大衆というものは・・・

 あなた達は野菜を洗わずに食べるのか?

常日頃から、毎日毎日そんなに健康に気を使った無菌の中で暮らしているのか?

ホウレン草やら生乳に、基準を超えた放射能が残留していたからといって、なぜそこまで神経質になる?その所業は病的、僕には愚かに思える。

よ~く、あなた達の好きなテレビ、NHKでもまたはくだらないワイドショーでも見て、きちんと勉強したほうがいい。ていうか、きちんと説明しているだろう。

「健康被害を及ぼすほどの数値ではない」と政府が示し、それを裏付けるようにいろんな専門家がテレビで解説しているじゃないか・・・。それに、あなた達が感じている「汚染された野菜」は、出荷を停止されたのだから、今現在店頭に並んでいる野菜は、それとは何の関係もないぞ。あほか!

そういう輩が「被災地のために何かできることを」とか言っているのではないかと考えると、ホントに腹が立つ・・・。エゴのかたまりですな。


原発の事故以来、僕はこの風評被害を大変に恐れていました。案の定ですね。今後は海水も検査するそうで、野菜だけでなく魚介類もそのような根拠のない感情によって、市場から締め出されるのではないかと心配してます。

ここは、総理自身がかつてカイワレを頬張ったパフォーマンスを見せたように、今度は茨城産のホウレンソウをむさぼり食い、それを福島産の牛乳で流し込むといったことを、国民にみせてやらねばなるまい。

「決死、決死」と連呼する総理の事ですから、そのくらいは朝飯前のこと。あっ、間違っても「決死」の覚悟でそれらを食すなどと言ってはだめですよ。余計被害が広がりますから。


たしか、民主党は党の決定として小沢一郎を党員資格の停止処分だったかを下したんですよね。
ところが、2,3日前の新聞記事によると、菅総理は党この国難を乗り切るため、かつての党代表経験者を呼んで、話を聞いたとか・・・。そこに小沢一郎も入っていてびっくりしました!

おいおい、彼の党員資格は停止されたんだろうが・・・。


1日に何度も記者会見に立つ枝野官房長官ですが、僕は彼の会見は誠意が感じられると思っています。つくづく思いましたよ、仙石とかいう赤い人ではなくてよかったと・・・。彼ではそういう印象は与えられないでしょうからね。

そういえば、政府は意味不明なポジションをつくりましたね。「節電啓発担当大臣」とかいうもの。完全に人気取りの人選だということが見え見えですね・・・。非常時だということで作業着を着て執務をしているようですが、あのばっちりメイクを施したお顔では、とても非常時には見えません。本人は険しい顔をしてそれらしらを演出したいのでしょうけどね。力が入りすぎた演技をする素人をみているようで、僕にはその姿は「痛い」と感じられます。

もうひとつボランティア担当大臣でしたっけ?それに任命された女性のことは文章に書きたくもありません。そもそも、ボランティアを担当するのは国務大臣がふさわしいのか?せいぜい地方公共団体で十分じゃないのか?


本日のタイトルに付け加えます。「まったく民主党というものは・・・」


今日はこれまで。

2011年3月22日火曜日

陰翳礼賛再び

 以前、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」を紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/12/blog-post_24.html

反近代という範疇でご紹介したつもりですが、我が家では計画停電が既に4回ほど実施され、うち2回ほどは夜だったので、懐中電灯とろうそくの灯りのお世話になりました。テーブルの上にたくさんろうそくを並べて、娘は宿題をしてました。子どもにとっては楽しいのでしょうね。

ゆらゆらとゆらめく炎を見ながら、僕はその本のことをまた考えていました。


「電気」というのは、僕らにとって「電灯」と同義語なのです。だから皆さんも「灯りをつけて」とは言わずに「電気つけて」と言うでしょう・・・。「電気=灯り」なのです。

失って、不便になってつくづくわかることがありますね。普段電気の恩恵などほとんど考えたこともないのに、停電が実施されるようになって初めてそのありがたさを実感しました。我が家は2年前にオール電化にしたので、電気が止まるとホントに困ります。ちなみに、我が家の給湯システムは当初は灯油でした。次いでガスに変え、そして現在の電気。それぞれ燃料の高騰リスクを避けての買い換えでしたが、オール電化にするときに計画的な「停電」ということは全く想定していませんでした。

確かなことは言えませんが、今後新たな原発を建設することは相当に難しいでしょうね。となると、もう一度考え直さなければなりません、国の電力をどう賄うのかを・・・。言っておきますが、僕は原発反対者ではありませんし、これからも電力需要を賄うのにう必要であろうとは思っていますが、現実問題としては新たな建設は難しいだろうと考えているだけです。

僕はやみくもにエネルギー消費を抑えた社会を礼賛するつもりはありません。そんな社会にはもう戻れないだろうとも思っています。ただ今回のことで今までの生活を見直す必要はあるのだろうなとは思います、あくまでも個人の生活としてですが・・・。

「天災」というのは、「天が与えた災い」と読めば、僕はよくできた言葉だと思います。おそらく、古来地震だ津波だと大きな災害に見まわれたこの国では、そういった出来事をその言葉にすることによって慰めを得ていたのではないかと思います。「仕方がない」と・・・。ただ、しかしこれはあきらめではない、甘受、忍受の精神だと思います。

今日はこれまで。

2011年3月21日月曜日

東北・関東で大地震 その10

 今なお原発で作業を続けている人びとがいます。警視庁、消防庁、自衛隊の最悪の事態を防ごうと奮闘している人びともいます。目に見えぬ放射線の恐怖と戦いながらです。しかも、あまりニュースでは取り上げられませんが、東京電力とその関係会社の社員も奮闘しているわけですからね。本当に頭がさがります。

僕なんかは、かつて自衛隊が「日蔭者」として扱われていたことを知っているので、今は普通にみることのできる自衛官が制服で記者会見している映像をみると「世の中かわったな」と思ってしまいます。昔は、そんなこと考えられもしませんでしたからね。昔といっても阪神大震災のときも、県の災害対策本部に行くときには、制服ではいかなかったのですよ。県から「周りを刺激する」とか何とかいう理由で・・・。それから考えると「隔世の感」があります。


福島では牛乳から、茨城ではホウレン草から基準を大幅に上回る放射線数値が検出されたとか。健康に被害を与える数値ではまったくないらしいですが、それぞれが出荷を取りやめたとか・・・。

マイクロシーベルトとか、ミリシーベルトか放射線の単位を見ない、聞かない日はありませんね。新聞では各地のその測定値を発表するようになりました。おそらく、ただ「放射線が検出」ということだけで、食べ物の安全性とか、健康被害を心配だと口にする人びとが出てくるのだろうと思います。今度はベクレルとかいう単位まで出てきましたね。

そういう人には、その数百倍もの放射能汚染の中で、今も作業を続けている人のことを考えろと言ってやりましょう。ちゃんちゃらおかしいことです。

昨日、奇跡的に救出された2名の明るいニュースもありましたが、依然として多いのは混乱続く被災地の状況です。様々な問題が出てきているようですね。たとえば、所有者のわからない車の処分とか、何としても政府が明確な指針を出す必要があると思います。そうしないと、いつまでたっても現状への対処だけで、将来への道筋がつけられないことになる。


今日はこれまで。




2011年3月20日日曜日

東北・関東で大地震 その9

 地震の影響ですが、いろいろ初めて目にするものが多いこのごろです。先週からガソリンスタンドの大行列を目にすることが多くなりましたが、2,3日前には開店前のガソリンスタンドの大行列を初めて目にしました。1kmはある車列でした。開店を待つ人は、正確な開店時間と、ガソリンの入荷時刻の情報を知っていて並んでいるのかどうか・・・。

近所のガソリンスタンドでは

「会員のみ給油できます」

という看板を多く目にします。会員以外は給油できないということ。皆が困っている時に、会員のみ対象のサービスを提供し、それ以外の人を締め出すというのは僕にはどうも納得できない。

「会員以外でも、会員になってくれれば同様のサービスを受けられます」

ならばわかるのですが、実際はどうなっているのか?

僕ならば、そんなことをしているスタンドには今後も行きたくありません。消費者が困っているときに助けるのが商売の王道であろうと思うからです。


つくづく思うのは、消費者の身勝手なこと。なぜ買い占め、買いだめに走るのかが僕にはわからない。なぜそんな行動にでるのでしょう?関東を襲うかもしれない地震への備え?僕にはそうは思えない。要するに、停電だ、ガソリンの欠乏だという不便なことから、自分だけは逃れたいという心理でしょうね。そんな人間が被災者への「祈り」だとか「哀悼の意」だとか、はたまた「頑張ってください」などと言うのは、単なる「偽善」でしょう。要するに「エゴ」ですな・・・。

不自由この上ない避難所での暮らしを余儀なくされている多くの人びとが、自らの境遇を甘受し、秩序と規律ある生活を築く努力をしている姿とは、まるで対極にある行動です。

僕は、買い占めやら買いだめやらに走る人びとの心理を無碍に否定するつもりはありません。小さな赤ん坊やら、介護を必要とする高齢者を抱える家庭が、その生活に必須なものの欠乏を心配するのは、極めて当然であろうと思うからです。

ただ、問題はその2つの姿の徹底的な違い。一方は「義(ただ)しく」もう一方は「義しくない」ということ、僕はそれを考えざるにはいられない。

便、不便でなく、ましてや損得勘定でもない、「義」か「不義」かという事が僕にはとても大事なことだと思えます。

今日はこれまで。




2011年3月19日土曜日

東北・関東で大地震 その8

祈り

Wikipediaによれば、それは

神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること、あるいは神に何かを願うこと


だそうだhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E3%82%8A)。


「祈り」という言葉の意味を僕が心から納得した本がある。

倉田百三著「出家とその弟子」である。初読後すでに四半世紀が経つが、今でも鮮烈に覚えている一節がある。

親鸞の弟子唯円が、好きでたまらずいずれ夫婦になりたいと思っている遊女との行く末と、その苦しい胸の内を師匠の親鸞に尋ねるところである。

唯円
「私は何としても彼女と夫婦になりたいと思います。絶対にその思いを遂げて見せます」
親鸞
「人間に絶対というものはないのだ」
唯円
「そんな残酷なことをおっしゃいますな。もし彼女と夫婦になれないのなら、私のこの思いは一体どうなってしまうのでしょう。そんなことは考えるだに恐ろしいことです」
親鸞
「そこに祈りがあるのだ」
唯円
「・・・・」

まあ、こんな感じの問答なのです。僕はこれを読んで初めて「祈り」というものがわかった気がした。


一瞬にして多くの命をのみ込んでしまった大津波の発生から1週間が過ぎました。今なお多くの人びとがある意味、悲惨な生活を強いられています。

3月11日午後2時46分。

あのとき、こうすれば、ああすればという後悔は、多くの人の胸中にずっしりと沈みこんでいると思います。そのほんの1日前、いえその日の朝まで、その数時間後に襲うあの悲劇など想像すらできなかったに違いないのです。

人生には思いもかけないことがおこり、思い通りにならないことの方が多いような気がしていますが、あのような天災で肉親の命と、住みなれた家と、愛する故郷を奪われた人は、その思いを一体どうしたらよいのでしょう。想像するだけで、胸が苦しくなります・・・。

それを和らげる手段は「祈り」ということだと思います。

それは、けっして「すがる」のではないのです。人間と人智を超えた何ものか―それが天でも神でも仏でもいいのですがーをつなぐ行為なのです。そうして人間の儚さを知り、心の平安を取り戻す・・・。それこそが「祈り」だと僕は考えています。

予断を許さぬ原発に対し、事故発生以来そこに踏みとどまって必死の作業をしている50人もの人びと、命を危険にさらして放水作業にあたる自衛隊員と機動隊員。僕らは、安全なところにいてその事故の終結と、それを成す為に必死の作業を続けている彼らに何ができるのか。「祈り」しかないのです。

海外でも「Pray For Japan」というのが始まっています。

「日本にために祈る」、まさに「祈り」です。


今日はこれまで。




2011年3月18日金曜日

東北・関東で大地震 その7 

挽歌(ばんか)

中国で葬送の時、柩(ひつぎ)を挽(ひ)く者が歌った歌をいうところから〕

(1)人の死を悼む詩歌。挽詩。哀悼(あいとう)歌。

(2)万葉集で、相聞(そうもん)・雑歌(ぞうか)とともに三大部立ての一。人の死を悲しみ悼む歌。古今集以後の「哀傷」にあたる。

三省堂提供「大辞林 第二版」より

出所:はてなキーワード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%D4%B2%CE




万葉集には、聖徳太子が竜田山(奈良県生駒郡)で死者を見て悲傷して詠んだという一首があります。

家にあらば妹が手枕(ま)かむ草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ

古代のこの国では、旅人というのは吉凶のどちらかを運んでくるものでした。村人からは異人として確たる援助も受けられぬまま、旅の途中に死んでしまった旅人は、「死」そのものが穢れであったために、村人にもそしてそれを目にする旅人にも「恐れ」の対象でもありました。ですから、その旅人の魂が異郷の地で荒ぶることのないよう、「鎮め」が必要だったのです。そういう「鎮め」の歌は、行路死人歌」と呼ばれます。これは旅人だけにとどまらず、不慮の災難で非業の死を遂げた人びとにも手向けられました。聖徳太子という「聖(ひじり)」が詠んだこの歌が、その歌の基本の形となっていきます。




今回の災害で、一体何人の人びとの命が喪われてしまったのか、未だ正確な数がわかりません。うずたかく積みあがった瓦礫の下で人知れず眠るひと、未だ波に洗われているひと、大海にただようひと、そのすべてに、「鎮め」の挽歌が必要です。それは、死者だけでなく生者の悲しみをも鎮めるものであるべきです。


柿本人麻呂、家具山の屍を見て、悲しみて作る歌
 くさまくら旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か国忘れたる家待たまくに


備後の国神島の浜いて、調使首の、屍を見て作れる歌

・・・・恐(かしこ)きや 神の渡の 重波(しきなみ)の 寄する浜辺に 高山を 隔(へだて)に置きて
沖つ藻を 枕にまきて 心(うら)もなく 臥(こや)せる君は 母父(おもちち)
の愛子(まなご)にもあるらむ 若草の妻もあるらむ 家問へど 家道もいはず 名を問へど 名だにも告(の)らず 誰が言(こと)をいたはしみかも とゐ波の 恐(かしこ)き海を 直(ただ)渡りけむ


反歌

母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ
家人の待つらむものをつれもなく荒磯(ありそ)を枕(ま)きて伏せる君かも
沖つ藻に臥せる君を今日今日と来むと待つらむ妻し悲しも
浦波の来寄する浜につれもなく臥せる君が家路しらずも


今日は祈りましょう。

死者の魂を鎮め、生きる人びとがたとえ一筋でもいい光明を感じ取ってくれるように・・・。

今日はこれまで。





2011年3月17日木曜日

東北・関東で大地震 その6

地震から7日目。奇跡的に命を取り留めた人たちには、今度は飢えと寒さという二重苦が襲っています。避難所から家族を捜して連日瓦礫の山を歩く人の様子がテレビに映し出されています。

「私とこの孫だけをのこしてくれました」

インタビューに答えた年配の女性は、このように答えていました。「のこしてくれた」と・・・。

市井の一庶民であろう「普通」の年配の婦人の口から出た、この何ともいいようのない言葉。残念にも、悔しくも、他の肉親の命は奪われたが、幸いにも、「天」あるいは「神」「仏」は自分とその孫を地上に「のこして」くれたと、感謝しているようです。決して不運を嘆くでもなく、誰を怨むでもない、その運命を甘受するかのような、そんな言葉づかいに頭がさがります。

これぞ、日本人の心性なのでしょう。ホントに素晴らしいと思います。





被災日本人のマナー、米紙が称賛

読売新聞 3月15日(火)15時47分配信
【ロサンゼルス=西島太郎】米ロサンゼルス・タイムズ紙は13日、東日本巨大地震を取材中の特派員電を掲載、「非の打ち所のないマナーは、まったく損なわれていない」という見出しで、巨大な災害に見舞われたにもかかわらず、思いやりを忘れない日本人たちを称賛した。

記事は、足をけがして救急搬送をされた年配の女性が、痛みがあるにもかかわらず、迷惑をわびた上で、ほかの被災者を案じる様子などを紹介した。

 読売オンラインの記事です。


 今日は、彼らが驚嘆し、賞賛する日本人の秩序、それを維持するための礼儀正しさと、他者への思いやりについての分析を、再び外国人から語ってもらいます。


 エドウィン・アーノルドは、1889年(明治22年)に来日し、麻布に家を借りて娘と住み、91年1月に離日しました。彼の語るところはこうです。

都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろこびを感じたか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、ほんとうの善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした

彼は、日本人の礼儀正しさ、マナーの良さという際立った特徴の本質を見抜いていたと渡辺(「逝きし世の面影」)は言います。アーノルドによれば、それは

この世を住みやすいものにするための社会的合意


だというのです。彼の言葉をもう少し続けます。

日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、「やかましい」人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、もっとも下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである。


この国以外世界のどこに、気持ちよく過ごすためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動をかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心―この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか。


生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している


この外国人が、賞賛の限りを尽くしたといっても過言ではない対象は、間違いなく僕らの父祖であり、その父祖の祖先が築き上げてきた社会なのである。冒頭に紹介した「普通」の年配のご婦人、読売オンラインの記事の最後に出てくるこれまた「普通」の年配の女性が示したものは、まさしくアーノルドが述べたこの言葉に出てきます。


渡辺京二は、次のようにいいます。

私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持ちのよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表れていたのは、故なきことではなかったのである。




最後の部分は少々説明がいりますね。幕末から明治にかけて来日した外国人は、皆日本人の印象として、「陽気」「明るい」という形容詞を使っているのです。そして、それは社会の下層で顕著に認められると・・・。その理由を最後に述べたわけです。

ちなみに、このような社会をつくりあげたのは、言うまでもなく僕らが「身分制社会で庶民は貧しく虐げられていた」と教科書で習う江戸時代です。そのいかに間違っているかは、このことだけでも明らかです。虐げられた庶民が、外国人にそのような印象を与えるわけがありません。


明けぬ夜はなく、時の癒さない悲しみはない。

月並みな言葉ですが、ホントに頑張ってください。あなた達の普段と変わらぬ極めて「普通」な振舞いにさえ全世界が注視し、そしてこう思っているはずです。

「日本人とは驚嘆すべき国民である」と・・・。

今日はこれまで。

出所:「逝きし世の面影」渡辺京二著 平凡社ライブラリー


2011年3月16日水曜日

東北・関東で大地震 その5

海外のメディアが伝える日本人のこの未曾有の大災害への処し方への賞賛は、同じ日本人として僕なんかは非常に胸が熱くなります。阪神大震災の時にも同様の賛辞を送られていましたし、古くは、というよりその嚆矢は、幕末から明治の初めにかけて来日した多くの外国人による賞賛だったと思います。正確に言うと、戦国時代にこの国に布教に来たイエズス会の神父たちが、僕らの父祖の社会に対して、驚くべき眼をもって眺めていた記述をみることができますが・・・。フランシスコ・ザビエルは、「この国は我が魂のよろこびだ」と書いています(記憶曖昧)。

14日月曜日にここで紹介しましたね、その海外メディアの報道は、まるで渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでいるかのようだと。





今日は、その本からいくつかの外国人の言葉を紹介します。僕らの父祖が持っていた美徳が今もそのまま多くの日本人に受け継がれていることを皆さんは知ると思います。

大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・モースは、

自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている

と述べた後、それは

恵まれた階級の人々ばかりではなく、もっとも貧しい人々も持っている特質

だと言っています。モースは、隅田川の川開きに集まる群衆の秩序正しさにも驚嘆の言葉を残しています。

日本人の際立った秩序については、他の証言もあります。明治7年に来日したディアス・コバルビアスは次のように言います。

日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるといことである。天皇と女御の間に最初の女の子が誕生した時に取り行われた祝祭行事や、大久保大使が台湾問題で、日本が中国に要求した賠償金を手にして帰還したさいに開催された祝祭、その他にも多くの機会を通して、横浜、神奈川といった人口六万から七万の都市で、国民が、喧嘩も酔っ払いも何の混乱もなく、照明と花火と、動物に変装した人々の奇怪な無言劇などを楽しむのを目撃する機会にめぐまれた。どの祭り場でも、通りで酔っ払いに会ったことがなかった。


モースによれば、日本人の「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり」は日本人の生まれながらの善徳であると思われています。

ちょっと褒めすぎのような気がします・・・。

ベルツは、自分の家が灰燼に帰すほどの災難を受けてもそれを平然と受け流し、悲しみに暮れるでも、やけになるでもなく、その後にすぐに家を建て始める日本人を称して「驚嘆すべき国民」と述べたのですが、これについて渡辺京二は次のようにいいます。

この時代の日本人は、死や災害を今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受けとめ、それを茶化すことさえできる人びとだった。ベルソールがハンセン氏病者に対する人びとの冷淡と見たものは、実は己れ自身の不運を沈着寡黙に受けとめるこうした諦念の、別な形でのあらわれだったのである。いわば人間はまだ、自分自身を見つめてはいなかった。彼の目は自分がその一員にすぎぬ森羅万象を見つめていたのだった。そして彼らの情けは、けっして家族や知人の範囲に閉じられてはいなかった。フレイザーが言っている。家事のさいに「一般には、罹災者にたいして皆がたいへん親切にしますし、その地域全体が、家を奪われた人々を保護するために自分たちの家を開放します」。一八八七(明治二十)年に来日し、東京大学史学科で十五年教壇にたって、日本近代史学の基礎を築いたリースは、火事の際の「同じ地区の住民たちの思いやりのある援助」について触れ、「これが実はドイツの小都市とそっくりなのである」と述べている。「してみると、東京は(その人口百五十万に達するものの)本当に『大都市』と呼べるものなのか、疑問に思える」。つまり、リースによれば、東京の住民は隣人の運命に冷淡な大都会の住民ではなく、地域社会の連帯感によって結ばれた共同体のメンバーだったのである。


 ここで紹介した数々の外国人の心象に映じた逝きし世の日本人たちの何ほどかを、まちがいなく僕らは民族の奥底に持っているといえるでしょう。今回の災害でも見られた日本人の美徳は、間違いなく遠い過去から運ばれきしもので、そしてそれは時代を超えて日本人以外の人間の心を強くl揺さぶるものだということです。

被災した方々の健やかなることを願い、そして今なお困難なh救助活動に当たる方々の献身に敬意を表します。

今日はこれまで。
注)本日の出所「逝きし世の面影」渡辺京二著 平凡社ライブラリー





2011年3月15日火曜日

東北・関東で大地震 その4


 復興への道のりの端緒にもつけず、未だ行方不明者の捜索と、避難所への物資輸送に追われています。今回の地震は、未曾有の大災害で日本有史始まって以来のものといえるでしょう(おそらく)。阪神大震災の時は、少なくとも近県のダメージはこれほどなかったわけですからね。複数県にまたがるこれほどの災害に、どう的確に対処すればいいのかはおそらく誰もわからないはず。

昨日書いたように、やはり救助活動を一体運用、統一指揮をしている機関はないようですね。死者数の発表は各県警本部長ですしね、やはり各県がそれぞれに対策本部を置いてその上級機関はないようです。

政府の対応に関して、あ~だこ~だは冒頭に述べた理由であまり言いたくありませんが、一つだけ明確に失敗したと思うのは原発対応です。徐々に避難区域を拡大するのではなく、最初から20kmなら20kmと設定すればよかったのです。

「最悪のシナリオを想定する」

というのは、危機管理の鉄則でしょう。それが当初は、「安全だが不測の事態、万が一の事態に備えるため」として3kmとした範囲が、今度は同様の理由で20kmなどというのはどう考えてもおかしい。もちろん、様々な想定外のトラブルによって余儀なくされたことでしょうが、そもそも「想定外」に備えるのが危機管理なわけですから、今回の対応は全くそれをなしていないということになります。

今度は予備自衛官まで動員するらしいですが、人数だけ集めればいいってものではないと思います。もっと自衛隊艦艇や在日米軍の艦艇、中には強襲揚陸艦もきているらしいので、それを被災した海岸部に上陸させ、海から人を運んで救助活動にあたるとか、そういうことができないのでしょうか。

さて、「計画停電」とは名ばかりの「無計画停電」で首都圏は翻弄されました。おそらく政府はすべて東電という民間企業にそれを任せ、その事後通告を受けただけだと思います。これも明確な失点ですね。だいたい、被災地の避難所まで停電させるとは一体どういうこっちゃ?これなども政府からの指示がなかったことの証拠だし、昨日の鉄道の運行の混乱なども東電の通告を政府が承認し、それを鉄道各社に前もって伝えてなかったのでしょう。あ、これで政府の明確な失敗は2つ目だ・・・。



「日本人とは驚嘆すべき国民だ」

今日もまたベルツの言葉で締めくくりましょう。頑張れ!

今日はここまで。

2011年3月14日月曜日

東北・関東で大地震 その3

 「日本人とは驚嘆すべき国民である」

と自らの日記に記したベルツ博士。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/blog-post_10.html

この感慨が、全世界のメディアによって再び呼び起されました。今回の大惨事への日本人の冷静沈着な対処を、海外メディアは「驚嘆」の目をもって配信しています。

各国の記事をみるにつけ、まるで渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでいるかのような錯覚を覚えます。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_19.html


ただただ、胸が熱くなります。


さて、海外からの救助隊も続々と来日し、今日には実際の救助活動にはいるのだろうと思います。地震発生後、自衛隊、警察、消防、海保など大多数が動員されたと思うのですが、一体その統一運用指揮を執るのは誰なのか?という疑問があります。よく知られたことですが、アメリカにはFEMAという組織が緊急事態には立ちあがり、そこがすべての指揮をとるようになりますが、日本では一体どうなってるのか。未だ県単位で、県知事を長とする災害対策本部がそれぞれの県内のみの活動指揮を執ることになっているのでしょうか。それではどうも効率的な部隊運用はできない気がする。今回は、複数県が同時に被災しているので、県単位の指揮ではそれぞれがエゴを出すような気がして、たとえば在日米軍の艦船をよこせとか、ヘリをもっと出せとか、そんなことにはなりはしないのだろうか。

テレビのニュースでは、「警察庁発表」とか「防衛省発表」とか、その提供元がバラバラです。本来ならば、一本化すべきものでしょう。だとするなら、情報の一元的な集約をなす機関が存在しないのではないでしょうか。

余計な心配だとは思いますがが、在日米軍の艦艇は海上自衛隊との共同歩調で、混乱は生じないとは思いますが、それ以外の海外援助隊は日本のどの機関の誰の指揮命令を受けるのでしょうか。きちんと考えられているのでしょうか・・・。


日本の民草の行動を驚嘆した海外メディアが、今度は日本の官権の行動にがっかりするのではないかと心配しています。

地震発生後、不眠不休で頑張っている人たちには敬意を表します。そして、もうしばらく頑張ってくれと願わずにはいられません。

今日はこれまで。

2011年3月13日日曜日

東北・関東で大地震 その2

昨日もテレビの前から離れられませんでした。

一昨日の地震発生以来、普段ほとんど見ることのないテレビの視聴時間がウナギ登りに増えています。24時間が経過しても、未だ被害の全貌が見えてこないということに、この地震の大きさがうかがえます。

現在最も優先されるべき人命救助も、その行く手を遮られてままならないようです。救助の一線に立つ人々ももどかしい思いをしていることでしょう。

死者・行方不明者数はまだまだ増えていくのでしょう。宮城県南三陸町では町民約1万人の安否がわからないとか・・・。ホントに心が痛みます。

米国を始め、世界各国から支援の要請が来ていることは大変うれしいことです。米国は空母ロナルド・レーガンを派遣するんだとか・・・。世界最強の兵器としてでなく、世界最強の災害救助支援船としてもとても役立つものと思います。ヘリの基地としての給油やら、物資補給基地やら、病院船としてもその果たす役割は非常に大きい。

僕の友人は、渋谷から横浜まで歩いて帰宅したそうですが、その道中、小売店舗ではない普通の会社から、飲み物の提供や、トイレ、暖をとることの便宜など、声をかけられたそうです。すばらしい助け合いの精神。実に感動的な話です。

今日はこれまで。


2011年3月12日土曜日

東北・関東で大地震

いやあ、驚きました。皆さんは無事でしたか?

菅原さんの実家が仙台です。未だ連絡つかないらしく心配です。

1446。ゆらゆらゆっくり揺れていたと思ったら、だんだんと揺れが激しくなり、本棚を守ることに集中しいてたら、スピーカーは倒れてくるわ、壁時計はふっとぶわ、部屋の外からはガラスの割れる音が響き渡り・・・。

揺れがおさまった後に各部屋を見て回って、思わず笑ってしまいました。棚が倒れるということは有りませんでしたが、戸棚が開いて中の食器が飛び出してかなり割れました。娘の部屋は本が散乱、花瓶の水がこぼれてました。本棚は守りましたが、それ以外は「惨状」でした。

階下にいくと、さすがの父親も外に出ていました。母親は着替えの最中だったみたいで、

「こんな恰好で外に出られない」

と父親にぼやいていました。階下の被害は全くなく、ただ棚の上からモノが落ちてきたくらいでした。上と下では揺れに大きな差があることを実感しました。テレビでは緊急速報がでたらしく、父親はそれなりに準備していらしけど、それなら僕にも教えてくれればよさそうなものですね・・・。

一斉下校となった娘を迎えに学校へ行くため、自転車を走らせると、途中ブロック塀が倒れていたり、屋根の瓦が落ちている家がありました。

女房とは、地震の1時間後にメールがありましたが、それ以降数時間不通で、第二信では会社が埼玉方面の人を送る車を出してくれるのでそれに乗って帰るとのこと・・・。帰宅困難者とはならずに済んだようです。

地元の市立小学校で教師をしている甥っ子は、22時頃帰宅途中に顔を見せ、

「帰宅できない中・高校生が100人くらい学校に泊まる。しかも、一人の小学生の父兄と連絡がとれていない」

とのこと。都内から通わせている父兄もいるようで、何ともかわいそうですね、小学生が遠いところへ通うのは。

しかし、津波が町を飲み込む映像は衝撃的でした。アメリカ、イギリスのヤフーのトップ画面にもなってましたよ。

しかし、阪神大震災の時は甚大な被害を容易に予想されるほどの揺れだったのに自衛隊は出動できなかったのですよね。今から思えばちょっと考えられません。あの被害の何割かは、人災だと僕が思うのは、そういうバカげたイデオロギーで、救助に対して大きな戦力となりえた自衛隊の派遣要請をしなかった当時の首長の責任が非常に大きいと思うからです。万死に値すると思います。

今回は、自衛隊の観測ヘリによる被害状況撮影映像が即座にテレビでも流れました。あれだけの死者があって、初めて為し得たことですね。

オバマ大統領も日本に援助のメッセージを即座に出してきました。在日米軍司令官も全面協力を申し出ました。確か、阪神大震災の時は米軍の援助を断ったのじゃなかったかな。

自衛隊艦艇とともに、即座に三陸沖に第七艦隊を送るべきでしょう。救助できる人がいるかもしれない。あと海保もだな・・・。

関東大震災の時もアメリカは日本に対して驚くほどの援助をしたのですよ。たとえばフィリピンから病院船を派遣したりね。その船のベッド数は当時の東京の病院のベッド数に匹敵したか、上回ったか、そのどちらか忘れましたが、とにかくそのような援助をしたのです。

まあ、アメリカの本音は、アメリカの排日移民法の成立により日米関係が最悪の状況だったので、少しでも日本のそういった感情を和らげようとした魂胆からでしたけどね。


なんでも菅総理にも外国人からの献金があったらしく、新聞の夕刊はそれが一面でしたけど、彼にとってラッキーなことに、今はそれどころではなくそんなニュースは吹っ飛びました。たぶんホッとしているんだろうな。


娘は、けろっとしてましたね。クラスの男の子には泣き出す子もいたらしいですが・・・。

突然、ホントに突然に命をなくされた人々のご冥福を祈念とするともに、そのご家族に深い哀悼の意を表します。そして、行方不明の人が元気に見つかり、未だ家族の安否確認ができない人がその無事を聞いて心から安心できることを願っています。

今日はこれまで。

2011年3月11日金曜日

再び父の記憶と今日は母のも

2回にわたってご紹介した父の体験。

今日はその続きをまた紹介したいと思います。昭和20年8月15日から始まります。

その日、父は同じ学校の友人と工場を抜け出して自宅に帰ろうとしていました。群馬県太田から埼玉県熊谷までの道のりです。熊谷市内に入ると、前日の空襲でまだ町はくすぶっていたと言います。そこで、正午から天皇陛下の重大な放送があるということを聞き及び、農家の庭先でラジオから聞こえる「玉音放送」を聞いたそうです。

「晴天の霹靂」

まさしく夏の澄みわたった空に霹靂が轟きわたったことでしょう。それを聞き、すぐに太田へ引き返し、荷物をまとめて再び、熊谷まで出て汽車に乗り三条市(新潟県)の自宅に戻ったとのこと。


 それから2週間余り、父のもとへ長岡高等工業専門学校(現新潟大学工学部)から授業再開の手紙が届けられました。授業開始の日時と持物の連絡であり、その手紙は現存しています。印象的なのは、「柳行季(やなぎごおり)」(左記写真)という言葉と、「米」持参ということ。当時の食糧不足がうかがえます。

しかしながら、終戦後僅か2週間足らずで日常の学校事務が再開したというのが驚きです。地方だったからでしょうか。とはいえ、文部省の管轄でしょうから、中央省庁からの連絡がなければそうはなりません。

父は再び以前の日常に復帰します。この柳行季をもって長岡で下宿生活を始めるのです。今の大学生の新生活とは大違いですね。これだけで済むわけですから・・・。


さて、私の母は昭和5年の生まれですので、終戦時15歳の女学生でした(おお、これ死語ですな)。新潟県三条市にもアメリカ軍が進駐してくるので、その宿舎として母の通っていた学校校舎の明け渡しを命じられたそうです。

明け渡しの前日、教師、生徒総出で隅々までぴかぴかに磨きあげたそうです。これも極めて日本的ですね。「立つ鳥跡を濁さず」でしょう。その清掃が終わったのは夜になってからで、その後全校生徒が講堂に集まり、泣きながら校歌を合唱したといいます。

当時の母の国文の先生が、その時の情景とやるせない思いを漢詩に託しています。

玉音終戦悼心胸(玉音終戦心胸を悼ましむ)
残暑茫々悲涙濃(残暑に茫々として悲涙濃(こまやか)なり)
校舎何図収米軍(校舎何ぞ図らん米軍に収められ)
宵々空望瑩光鍾(宵々空しく望む瑩(えい)光の鍾(あつ)まるを)


最後の「宵々空望瑩光鍾」は、

進駐軍の居城となった我が校舎は、夜になると明るい光に包まれて見える。しかし、それを奪われた我々はいかんともすることができず、夜ごと長嘆息して眺めるのみである

とういうような意味でしょう。今「漢詩」を作れる国語の先生はいるのかしら?と思ってしまいます。日常、灯りのともることのない学校が、敵国兵士によってそれが赤々と灯される風景。そこだけ煌びやかに見える印象とは正反対の暗い感情を抱いてしまうという哀しい現実・・・。


ちなみに、三条市はジャイアント馬場の出身地でもあり、母の妹は彼を自宅の前でよく見かけていました。サイズの合う靴がなく、冬でも雪道を下駄(それも足の半分以上がはみ出ていた)で歩いていたといいます。彼の実家が八百屋(?)だったのか、野菜を積んだリヤカーを押していたらしい。そのうち、アメリカ人の牧師から靴を貰ったようで、それからはその靴を毎日履いていたと・・・。

閑話休題

この漢詩で詠われた思い。身に降りかかった粉を払うでもなく、静かに受け止めて心にとめる、というより沈めるといった方がいいのかも知れません。不平不満を言うでもなく、ましてや現代のように衆を頼んで大きな声を上げるなどということとはまるで正反対の精神性を、僕は非常に美しいと思える。

今日はこれまで。


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2011年3月10日木曜日

これが博愛・・・

アンジェリーナ・ジョリー。

ブラピの奥さんなんですよね。なぜこの人の写真を出しているかというと、先日テレビで彼女がアフガニスタンの難民キャンプを訪れ、そこの子供たちと過ごしたということをニュースで流していたからです。彼女は熱心に難民支援を行っているらしい・・・。

非常に立派なお人です。心底そう思います。日本人で外国の難民に対してこういう活動ができる人は、僕は寡聞にして知りません。黒柳徹子がそうかな。

海外の例でいえば、オードリ・ヘップバーンが有名でした。

よくわかりませんが、これがキリスト教的な博愛というものなのでしょうか?僕らと「ら」をいれて括ってしまいますが、日本人にはなかなか日本人以外に対して救いの手を具体に差し伸べるということができないのではないでしょうか。少なくとも僕は外国よりもまずは自国の困っている人々に救いの手を差し伸べるだろうと思います。

1549年(いごよく伝わるキリスト教)と習いましたが、イエズス会の宣教師が日本に来日したのはこの国の戦国時代でした。宣教師が命の危険を冒してまで世界各国へ布教に赴いたのは、「神の道を広める」という使命感でした。今でもモルモン教の若い伝道師をあちこちで見かけます。その心性は一緒でしょうね。ただ現在は命の危険がないだけで、達成しようとする彼らの目的は同じことです。

日本人は「世間」を非常に大切にします。その世間は、通常は非常に小さい範囲で、家族・親戚・友人・会社・商売相手等ですが、時として広がって「日本人」という世間にもなります。外国で飛行機事故やつい最近のNZでの地震の被害者でも「日本人被害者」「日本人行方不明者」と必ずニュースで扱われます。その時だけ僕らの世間は「日本人」という大きなものとなるのです。

しかし、それは決して「世界」やら「人類」やらには広がりませんし、ましてや「外国人」でさえ世間の一員とはなりません。少なくとも僕はそうです。

そう考えると、冒頭のセレブな彼女の行動は本当に理解不能なことなのです。「愛」が広がらぬ冷たい人間だからなのでしょうか?

今日はこれまで。

2011年3月9日水曜日

中島飛行機という企業と父の体験再び

昨日、NHK番組「中島飛行機」のデタラメぶりをご紹介しました。今日は「中島飛行機」という当時のアメリカの航空機メーカーをも凌ぐ日本の超巨大企業についてご紹介します。

中島飛行機の創立者は、海軍機関大佐であった中島知久平という人です。彼は大正時代に海軍をやめ、独力で飛行機メーカーを立ち上げます。未だ飛行機の黎明期時代にその将来性を見越した先見の明と、それをもって起業した志は素晴らしいの一言。かつて、彼の伝記を読んだことがありますが、あまり詳しいことは覚えていません。

大東亜戦争中の海軍航空戦を一手に引き受けて戦った零戦のエンジンは、中島飛行機製でしたし、陸軍の「隼」を始め、戦争後半に登場して敵の心胆を寒からしめるほどの高性能を見せた「疾風」など、同社製の飛行機は、零戦の三菱とともに、帝国の航空戦力を支える双璧をなすものでした。

確か昭和17年だったと思いますが、創立者中島知久平は、「富嶽(ふがく)」という後のB29を上回る大型の6発(エンジンが6個)爆撃機を計画します。太平洋を越えてアメリカ本土爆撃を狙ったもので、爆撃後はそのまま大西洋を越えてドイツに着陸するという壮大なものです。試作機が完成したのかどうかは定かではありません(失念)。たぶん、完成はせず机上の計画だけで終わったとは思います。


中島知久平の孫は、中島飛行機の地元群馬選出の自民党の国政代議士でした。数年前に何が原因かは忘れましたが自殺しました。その時「おじいさんの顔に泥をぬった」と思ったことは明確に覚えています。


今日もまた父親の実体験をご紹介しておきましょう。

昭和19年12月30日に中島飛行機小泉製作所(工場)に配属された父は、海軍の陸上攻撃機「銀河」というものを作っていました。銀河というのは、爆撃も雷撃もできる攻撃機です。戦後アメリカが、そのスマートな設計思想に感嘆したといわれています。ちなみに「陸上」と対をなす言葉に「艦上」というものがあります。両者の違いは、空母から発艦できるか否かです。

さてその「銀河」ですが、父が配属された当初の昭和20年1月の月産生産予定機数は90機でした。それが4月以降、10~20機となり、7月になると5機となったそうです。部品供給の途絶です。これは部品を作る原材料そのものの欠如と、作っても運べないという2つの理由からです。

しかしながら、父はそれでも日本が負けるとは思ってもみなかったといいます。仮にも高等教育を受けている人間でありながら、やはり幼かったからなのか・・・。ただ、内心「これで戦争に勝てるのかなぁ?」くらいの疑問は感じていたといいます。

当時の工場の作業員は、父と同じような学徒か女子挺身隊で占められており、作業が終わった帰り道では、いつも女の子の話をしていたといいます。決して悲壮な気持ちも、国のために1機でも余計に飛行機を作ろうなどいう気持ちはなかったらしい・・・。

さらに言えば、8月1日に長岡(新潟県)が空襲され、ソ連の参戦、原子爆弾投下という事態となっても、「敗戦」ということは思ってもみず、「本土決戦近し」といわれても、別に何とも感じなかったといいます。

それぞれが年老い、昔の思い出話に花を咲かせる同窓会で当時の事が語られると、「おまえみたいなのがいたから日本は戦争に負けたんだ」と笑い飛ばされるそうです。

昨日も書きましたが、父は工場で働いているときに実際に爆撃を受け、戦闘機の機銃掃射から逃げた経験も持っています。毎日おなかも空かせていました。でも、その当時をことさらに貶めたり、恨んだりは一切していません。「それはそれで、それなりに楽しかった」と。若者特有の明るさというか、責任を負わない者としての気楽さというか、そんなところでしょう。ところが、同じ体験をした同窓生の中には、まるで正反対の感想を持つ人もいるようです。

巷間、流布される当時(大日本帝国時代)の言説は、そのすべてが父と正反対の感想で塗り固められています。現在の視点から過去を裁く視点一辺倒で、その視点からはみ出るもの(父の思い出のような)は、一切語られることはありません。そうして、暗く、過酷な生活のみが当時の戦争下の実相として語られている、そんなものは、あくまでも一面の事実でしかない。

鬱屈した感情やら、怒りやら、はたまた怨念めいたものまでも、歴史はそうした負の要素をすべて含んでいます。もちろん、近親者が戦死したり、空襲で家屋が焼かれ、家族が死んだり、そうした理不尽さの怨みつらみを、軍部や政府に怨念のように持っている人を僕は否定しません。むべなるかなとも思います。

しかし、そうした怨念の感情が何かしら「時代の正義」となって、過去を糾弾、断罪することには我慢がならないのです。

今日はこの辺でやめときます。

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2011年3月8日火曜日

NHK番組 「中島飛行機」から

3月6日にNHKで

証言記録 市民たちの戦争「軍用機工場の戦い~群馬・中島飛行機~」


 というものが放映されました。中島飛行機というのは、現在の富士重工の前進です。戦後間もないころ、爆撃機「銀河」の尾輪を使ってスクーターを製造して食いつないだのです。以下、番組の紹介です。



群馬県太田市に、かつて日本最大の軍用機メーカー「中島飛行機」の工場があった。太平洋戦争下、工場は大幅な軍用機増産を迫られる。しかし、熟練工は次々と徴兵され、現場を支えたのは学徒や幼い少年工たちだった。戦争末期にはアメリカ軍の爆撃目標とされ、工場は壊滅状態となる。過酷な労働、空襲の惨劇、さらに深みへとはまりこむ現場の実態を、当時の工員や学徒らの証言で記録。軍用機工場の人々が体験した戦争を伝える。 


出所:NHKネットクラブ(http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110306-21-23401&pf=f
 


 僕の父親は、学徒勤労令により昭和19年12月から昭和20年8月まで同じく群馬県にあった中島飛行機の小泉工場で働いていました。父親のもとへは、同級生からその番組の情報がもたらされたそうで、彼はその番組をみていました。


 ちなみに、その工場へは学習院大学からの勤労学徒もきており、兵士不合格となった学生が来ていたわけですが、その中に若き三島由紀夫もいました。父親は学習院が来ていたことは知らなかったそうですが、父親の同級生の中にはそれを知っていた人もいたそうです。


 さて、番組をみる前から大方の検討は付いていましたが、父親曰く「こんなレアな証言だけを集めたか、もしくは誘導尋問だろう」と・・・。とにかく、かつてのことを悔いるだけ、もしくは自らを傷つけて労働をさぼったという卑怯なふるまいを悪びれずに誇らしく語る。実体験者である父親は「所詮NHKだ」と半ばあきれ顔でしたね・・・。


 父親は、その工場での勤労経験を「毎日腹が減っていた」とは語りますが、悲惨で過酷だったなどと口にしたことは一切ありません。


 その番組の酷さの一端を紹介しますと、工場には「特別防護隊」(だったかな?名称不確か)というものが編成され、工場が空襲にあったときにも逃げることが許されずに多くの死者を出したらしいのですが、要するにこれは工場を守るための自衛の消防団みたいなもので、それが使命ですから一般の労働者とともに避難することはできないでしょう。当然のことです。それが「避難することは許されずに多くが死んだ」と語られてしまえば、彼らに課された「消防」という使命を抜きにして非人道的な行為だったとなってしまいます。考え方においては火災現場においては一般人ではなく、消防士にけが人がでるとの同じことでしょう。


 もっとも許せなかったのは、番組では「キ115」と紹介された「剣(つるぎ)」という特攻専用の機体を設計した人物、90歳を超えた人物に為したNHKの質問です。


 ちょっと説明します。「剣」というのは、ベニヤとトタン板でつくられた飛行機とは呼べない飛行機で、離陸するとすぐに前輪を落下させるのです。つまり飛び立ったら二度と戻ってこれない「特攻専用機」なのです。僕はこれが実戦に使用されたかどうかはわかりませんが、おそらく実戦での使用はなかったのではないかと思いますが、番組ではそうはいわず、総生産機数のみを言っていました。


 この設計者への質問というのが、


「この飛行機を作って今から思うことは何ですか?」


というものでした。記者が期待する回答は「設計者として申し訳ない」という言葉だったと思います。二度と戻ってこられぬ飛行機を作った設計者が、それを悔いて「申し訳なかったと絶句して涙を流す」こんな絵が撮れたらNHKとしてはしてやったりだったと思います。


 しかし、このご老人はそうは答えませんでした。概略、次のようなものだったと思います。


「飛行機をつくる人も、飛行機に乗って戦う人も、飛行機を設計する私も、与えられた使命に一生懸命だった。それが最善の道だと思っていた。今でもそれはかわらない。私が仮に、『あんなものを作って申し訳ない』等というのは、戦っている人、それを作った人たちに不遜だと思っている。私はそんなことは言いたくない」


何と素晴らしい回答でしょう。彼は自身に与えられた仕事を全力で成し遂げたわけです。なぜならそれが自身の使命であり、ひいてはそれが日本が勝つために必要だと思ったからです。それが当時の日本人として極めてまっとうな事であったのです。


その記者の為した質問がいかに「不遜」かおわかりでしょう。自らはそこにいないという前提で、いわば自らを高みにおいた立場での質問なのです。それは、当時の日本で必死に自らの使命と向き合っていた人々を愚弄するもの以外何ものでもないと僕は思います。当時を知らず、今の世の中を生きるだけの人が、当時真剣に時代と向き合って生きた人を批判する権利なぞあるのだろうか。


そのご老人のその言葉が、その番組での唯一の救いでした。


 こんな偏向番組制作会社に、視聴料を支払っている自分がどうにも許せない・・・。


 今日はこれまで。

2011年3月7日月曜日

まったくもって不可解 前原外務大臣辞任

前原外務大臣が辞任しました。

在日外国人から政治献金を受けていたんだとか・・・。1年に5万円で5年間らしいです。

読売新聞の3月6日付社説によると、「献金額が少ないからとか、故意ではないからといって、簡単に免責されるような問題ではない」らしいですがね僕自身の感想をいえば、「献金額」が少ないからとるに足らないことだと思っています。

それよりも、このマスコミの姿勢には背後に共産中国を感じますね。前原は、きわめてまっとうな安全保障政策を持論としており、アメリカにも受けがいいと聞きます。ただし、それが共産中国には気に食わないことなのでしょう。対中強硬派として、外務大臣就任時にも中国はいい顔をしなかった。最近、中国への「ODA」の減額を示唆したばかりだし、おそらく彼の失脚を狙った共産中国の陰謀かも知れませんよ。そしてそれに乗った日本のマスコミの正義感、愛国者づらをした売国奴ぶり・・・。僕にはそう感じられます。


前原は共産中国に刺された。

僕はどうもこう勘ぐってしまいます。ご承知のように、田中角栄の失脚はアメリカの国家意思によるものです。資源外交を独自に進め、アメリカとの距離を置こうとしていた田中角栄は、アメリカにとって好ましからぬ日本の政治家であったため、CIAによってつぶされたのです。前原も同様に共産中国によって失脚させられたかも知れません。

アメリカにしても、共産中国にしても、自国の国益に沿わない人間は、それがたとえ他国であっても監視の目を光らせていますし、時にはそれを失脚させようと虎視眈々と狙っている。こんなことは普通の国家なら当然の国家の政治行動だと僕は思います。


何とも理解できないのはですねぇ、在日外国人から献金を受けていた彼を、民主党内にも批判する人がいることです。だって、彼らは在日外国人に参政権を与えることを目指しているんですよ。それに賛成し、熱心にその付与を目指している人が、なぜ在日外国人からの献金を批判できるのか意味がわからない。

さらには、一斉に彼を辞めさそうとしているマスコミの報道はおかしいぞ。一個人の数万円の献金とは比較にならないほどの在日外国人の政治参加を、民主党は実現しようとしている政党なのに、そのことに対する批判や糾弾の声はこれほどは大きくはない。

同じく読売の社説では、こうあります。

政治資金規正法は、外国人や外国法人から政治活動に関する寄付を受けることを禁止している。日本の政治が外国から干渉・影響されるのを防ぐためである。


一政治家への数万円という献金と、一票という形で付与される多数の在日外国人の政治行動と、どちらがこの法律を成さしめた背景に照らして危険かどうかわかりそうなものでしょう。それに対して大した批判の声もあげずになぜ前原個人を貶めようとしているのか・・・。




 自民党もね、政権奪回に執着するあまり、こんなことで政府に失点を与え、得点を稼ごうとしてはいけませんよ。それでは国を売る片棒を担ぐことになる。




 今日はこれまで。







2011年3月6日日曜日

日が長くなった

日が長くなったことがはっきりと感じられるようになりました。娘はそのことにより、帰宅時間が従来の1645の冬時間から1745の春時間へと1時間も延び、嬉々としています。

大人にとっては帰宅時間など関係はないですが、やはり明るい時間が延びるとなぜか心が弾む。勤めていた頃も、飲み始める時に外が明るいと妙にうれしかったのを思い出します。

 星座には詳しくありませんが、冬になると必ず見上げる星座があります。南の夜空に浮かび上がるもオリオン座というものです。

「青く煌めく冬の星座オリオン」

見上げるたびに葛城ユキのその歌詞を思い出します。

星座といえば、野尻抱影(ほうえい)という人がいます。彼の書く星の物語はとても素晴らしいです。残念ながら今手元にないので、紹介ができません。眠れぬ夜には、彼の文章に表される様々な星の物語を読むといいでしょう。


今日はこれまで。

2011年3月5日土曜日

日経社説(3月4日付け)から

昨日の日経の社説「世界で競える個性豊かな『人』づくりを」には笑ってしまいました。そして、それは徐々に「仮にも日本のクオリティペーパーともいえるものが、こんなレベルの社説か・・・」と悲しくなってきました。

今、日本の教育は転機を迎えている。刻々と変化するグローバル経済の奔流のなかで、世界のさまざまな才能と堂々と競い合える人材はそだっているのであろうか。


記事にはこうあります。言っておきますが教育の目的は古代ギリシャの時代から、現在までを貫くたったひとつのものだと僕は思います。それは、「善き若者」であってほしいという大人の願いから生まれたものです。人間という種がその社会を成立させるための最低限のものを「教育」という中で為そうとしているのです。したがって、教育の目的は刻々と変化するグローバル経済の奔流のなかで、世界のさまざまな才能と堂々と競い合える」ことでは断じてありません。そんなものはあくまでも「善さ」を追い求めた結果に過ぎない。

知識の習得を重んじ、均質な人材育成で集団の力を高めるモデルは、もう通用しない


なのだそうですが、それならばなぜ「日本製」というものが未だに価値があるのか?均質でレベルの高い人材が作りこむ製品だから、それが強みとなり品質が高まり、そこに価値がうまれているのではないのか?

変革を阻む惰性にこそ問題の本質がある。横並び人材の大量生産を脱し、「個の力」をうまく引き出す方向に路線を変えなければならない。


おっしゃることはその通り。ならばまずは日本経済新聞社から「変革を阻む惰性」を脱し、各社横並びの新入社員募集をやめ、かつ条件から、学歴も年齢制限も撤廃したらどうでしょう。

記事で言う「個の力」は噴飯ものです。

ひとつは、「情報を集めて問題の所在を見つける発見力」、次いで「発見した問題を独創的に解決し、新しい価値をつくり出す想像力」、最後に「自分の意思を他者に伝えるコミュニケーション能力」なのだそうです。そうして、それを社会的価値にするための道具としてITの技能や、使える英語力が必要だと言っています。

おそらく、この筆者は「名経営者」と呼ばれる人から、その優れた資質を拾い集めたのですよ。したがって、あくまでもその人の資質であって、これを「個の能力」などと一般化はできないでしょう。今の教育システムはそれをすべて阻害しているといいたいのでしょうけどね。

記事の言うことを間に受ければ、MBAを取得すれば、または日経が大好きな「優れた戦略」があれば、その経営者の為すことに間違いはないというようにも受け取れてしまいます。だって、その3つの力があれば、世界と伍して戦えると言っているのですからね。

そんなわけないだろ・・・。


そういう薄っぺらい解釈しかできず、人間存在の価値とか、人生の意味とか、そういう形而上の事を考えることすらできない人間が、この国には今うようよいるのですよ。そんな人間に何ほどかの技能を与えたって「個の力」なんぞ身につくわけがないだろう。


一昨年TOCICOを東京でやった時、ICOの事務局長が連れてきた彼女の教え子の大学生(皆アメリカ人)をみて、小笠原さんが「彼らはなぜ一人一人キャラがたっているんでしょうね?日本の大学生にはそんな奴まずいないですけど」と僕に話しかけてみました。彼は「キャラが立つ」という言い方をしましたが、おそらく「個の力」の差というのは、そんなところに明確に透けて見えるものだと思います。日本は完全に負けてますね。

ただ、これは日本の大学生の責任ではなく、社会全体の持つ空気、社会の意思みたいなものが大きく関係していると思います。ですから、現状を脱しようと考えるのなら、「個性をのばす」とかいうことではないのですよ。

それを「発見」できないこの執筆者は、自身の書いた「個の力」のうち、最初の一つを欠いていることになりますな。

今日はこれまで。

2011年3月4日金曜日

燎原の火

りょうげん‐の‐ひ 〔レウゲン‐〕 【×燎原の火】 
燃えひろがって野原を焼く火。勢い盛んで防ぎ止められないもののたとえにいう。

中東のチュニジアに端を発した反政府デモは、まさに「燎原の火」のごとくに中東各国に広がっていますね。おそらく、中国政府は戦々恐々として、一層ネット上に検閲の目を光らせていることでしょう。

昔から不思議でした。リビアのカダフィ大佐はなぜいつまでも「大佐」なのかと。今はリビアで多くの市民が武力制圧されており、もう内戦状態ですね。空爆など、ちょっと考えられないですね。反政府側では志願兵も数千人集まっているとか。どのように決着するのでしょうか。

「トリポリ」という地名で、第二次大戦に詳しい人なら真っ先にでてくるのが砂漠のキツネといわれた将軍「ロンメル」でしょうね。北アフリカでのロンメル率いるドイツ戦車軍団の活躍は有名です。トリポリが今のリビアにあるとは僕は知りませんでした。

「キツネ」というのは、僕は褒め言葉ではないと思うのですが皆さんはどうでしょう?ずるがしこいイメージがあって、どうも褒める言葉にはふさわしくないと思うのです。

今上映している映画「太平洋の奇跡」も副題に「フォックスと呼ばれた男」というのがついてますね。そう呼ばれた男は大場栄大尉という陸軍軍人ですが、日本軍が全滅した昭和19年7月から翌20年の12月まで、戦火を逃れた民間人を守りながらゲリラ戦を戦い続けた指揮官です。いつしか大場大尉の神出鬼没の戦いが米軍から「フォックス」と呼ばれるようになったと、こういうお話です。

この大場大尉の戦闘は、自身海兵隊員として大場大尉と戦い、後にジャーナリストとなったアメリカ人が書籍に著してます。



さて、チュニジアがある場所には、かつてはカルタゴという国があって地中海貿易をローマと争いました。世界史で習ったと思いますが、第一次から三次のポエニ戦争というのがそうです。チェニジアにはハンニバルという将軍がいて、ローマにはスピキオという将軍がいた。有名なのがハンニバルが象を連れてアルプス山脈を越えてローマに攻め込んだこと・・・。

カルタゴは、三度に渡りローマと戦い、三度とも敗れます。そして三度目には完全に滅ぼされてしまうのです。都市のすべてが灰になり、その高さは1m以上にもなったといわれています。二度とこの地に人が住まないようにと塩まで撒かれるほどの徹底さでした。


紀元前146年のころです。

カルタゴの繁栄を支えたフェニキア人は、今ではどこにも存在しない。フェニキア人といえば、アルファベットの発明者として習ったはずだ。

今チュニジアにいるのは、7世紀に入ってきたアラブ人です。

今日はこれまで。

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2011年3月3日木曜日

資料批判

学術論文を書くにあたっては、「先行研究はどうか」ということが重要視されるらしいです、聞いたところによれば。したがって、先行研究批判をすればその体裁の一部は整うことになる。

さて、昨年本を書いた時に非常に多くの「先行研究」を参考にしたのだが、僕は批判をあまりしなかった。それが本意ではなかったし、人はどうであれ、自分の考えを書くべきだと思ったからである。

ただ、今日はその批判をしてみたい。材料は以下である。最初に言っておくが、筆致は激しくなる。

「二・二六事件 青年将校の意識と心理」須崎愼一著 吉川弘文館 2003年10月10日初版
「岩波ブックレット シリーズ昭和史No2 ニ・二六事件」須崎愼一著 岩波書店1988年7月20日初版


前者の本は、神戸大学国際文化学部教授である著者が、研究者として閲覧を許された裁判記録等の資料を駆使して、事件をまとめたもので、僕にとっては未見の事実も多くあり、かなり参考にしている。しかしながら、どうしても「?」をつけざるを得ない所も多くあった。

岩波ブックレットは、買うつもりのないものが、アマゾンで注文した本屋が間違って送ってきたもので、そのままもらったものだ。「岩波」の昭和史など、悪意に偏見に満ちたものだということはわかっていたが、やはり酷かった・・・。偶然にも著者が同じだった。


まず、吉川弘文館の本から。

187頁に以下のような著述がある。

青年将校の動員で決起した部隊は、三分の一近い四ニニ名が機関銃隊であり、機関銃ニ五・軽機関銃四三を所持していたとみられる。「みどり筒」と称される毒ガスも相当数所持していた(後略)


「毒ガス」とは何の事だ?とは直に思い浮かぶ事。ここでいう「みどり筒」とは、催涙ガスの事。どこの世界に催涙ガスを「毒ガス」等と言い換える人がいるのか?まったくもって理解できない、悪意に満ちた表現である。

226事件の発端の一つに、青年将校らが所属する第一師団の満州派遣という決定がある。青年将校らが焦ったのは当然である。何としても糺すべきと考えていた国内の状況をこのままにして満州へ行くわけにはいかないと思うからである。何としても日本に残り、運動を続けたいと思ったからに他ならない。これが僕の理解だ。極めて自然な理解だと思っている。

著者は、青年将校の一人栗原安秀の言葉を引く。110頁である。

国内ヲ此ダラシナイ状態ニ放任シタ侭満州ニ行ツテ賊ノ弾丸ニ中ツテ死ヌ位ナラ内地テ国家革新運動ヲヤツタ方ガ遥カニ有意義ダ

そうして、栗原の多いをそのまま肯定するのかと思いきや、荒木貞夫陸軍大将が会議で述べた

将校が後ろから「進級せしむ」と射殺される(111頁)、という満州での状況を述べた言葉、即ち将校が部下に撃たれることがあるということを引き合いに出し、それをもってこう結論付けるのだ。

後方から部下に狙われかねない満州へ行きたくないと思ったとしても無理はない(112頁)

どこをどうこねくり回せば、このような解釈が出てくるのか著者の頭を覗いてみたいものだ。青年将校らは、こういった事例、撃たれた将校らを軽蔑し憤っていたのでもある。著者は青年将校中橋の次の言葉をも正しく引用しているにもかかわらずである。

弾丸ヲ恐レル将校カ多ク下士官兵ノ物笑トナルモノカアルコト。ソノ為下士官兵カ将校ヲ威嚇スルコト、或中隊長ハ利己主義テアツタ為部下ノ下士官カラ射殺サレタ例モアリテ之か将校ハ公務死亡トナツテ居リマス(112頁)

資料批判云々以前の話だ。資料を正しく引用しているにも拘らず、どうにかして青年将校らを貶めようとしているとしか思えない。


次いでこの本。岩波ブックレットの対象読者層は中学生か高校生だろうと思うが、あまりにも間違った解釈を植え付けることになりはしないかと心配する。


この須崎なる著者は、前記の本でも「青年将校らの農村救済の思い」は無碍に否定しているわけではない。しかし、やはり批判するのだ。

42頁に「青年将校の農村救済論」と題して、次のように書きだしている。

ニ・二六事件に参加した青年諸侯たちが、国民の窮状、とりわけ農村をなんとかしなければならないと考えていたことはまちがいない。

そう、その通りである。しかしながら、著者はそれがどうも許せないらしい。そのすぐ後に

問題は、それがどういう発想からでてきたのかという点である。


と、いちゃもんをつけるのである。著者の語るところをみてみよう。同じく42頁からである。

たとえば、香田清貞大尉は、つぎのようにのべている。
「日本には貧富の差が大で、之は甚だ不合理な事であり、指導する立場に在るものは兵をして戦場に於て後顧の憂なからしめねばならぬと思い、其欠陥は指導的立場にあるものの責任と思料し、結局政治問題に読んだ(『二・二六事件=研究資料』Ⅱ)
 かれらの農民への「思いやり」は、どうも実践指揮官としての不安に端をはっしているのではないだろうか。安田優少尉も語る。
「北海道の兵の如きは、食物は軍隊の方が良いから地方に帰って農をやることを厭うて居る。それで良兵は愚民を作ることになって居る、之れ皆農村の疲弊からである。之れを救うにはどうしても財閥、重臣等を排除せねば実現が出来ぬ」(同前)
 ここには、農民の立場にたって、窮状をいきどおるのではなく、「指導者」としての不安がかたられている。


 このいちゃもんのおかしなところはおわかりだろう。「○○の立場にたって・・・」というのはサヨクの常套文句であるが、よく考えてもらいたい。それぞれが自分の立位置から、社会の不公正やら、社会悪に憤るのではなくて、実際にどんな憤り方があるのだろうか?会社で自らの部下を心配するのはなぜか?上司としての立位置から部下を心配しているのではないのか?それがどうして非難の対象になるのだ?「そのものの立場にたって」など、一体どうしたらできるものだ?この著者のいわれのないいちゃもんが正しいとするなら、例えばメンバー数人を持つプロジェクトリーダーが、プロジェクトの進捗を妨げかねないメンバーの家庭の事情を心配をするのが「メンバーの立場にたって」ないと、非難されることになるではないか。アホか!

ちなみに、このねじ曲がった著者は同項の最後をこう締めくくっている(43頁)。

わたしたちはまた、青年将校の一人が「世界地図を拡げ、印度以南の島々をゆびさし、こことここはいずれ赤くするのだといった」(日本の領土にする意)という、一兵士の回想を忘れるべきではない。侵略性という点では、青年将校と、かれらが反発した軍閥とのあいだには、なんらの差異も存在しなかったのである。

ここまでくると、「はいはい」と投げやりにならざるを得ない。「侵略性」をもった人間が「農村救済」を考えてはいけないのか?あるいは、農村の窮状を憤る義憤と「侵略性」の関係はどこにある?

要するに、この著者は侵略の手先たる軍人が「農村救済」「弱者救済」ということを考える事すらが許せないのだ。どうもそうとしか考えられない。



最後に、もう一度吉川弘文館の本に戻る。

同書の最終章「青年将校運動の性格をめぐって―まとめにかえて―」(323頁から)において、著者は「弱者救済に立ちあがった青年将校運動」は「神話」だとし、その神話の生れる背景として栗原安秀と安藤輝三の両名を挙げているのだが、その理由がまた酷い。ちょっと説明を要するが、栗原という将校は、「ヤルヤル中尉」とある意味蔑称のあだながつけられていた。その日頃の過激な言動は同志の間でも半ば呆れられたところもあった男であり、松本清張は栗原を称して「驕児」と表現している。しかし、事件に参加した下士官兵や民間人の中には、栗原に全幅の信頼をおいていた者もおり、彼らとは深い同志的結合があったことは間違いないのだ(ニ・ニ録事件研究資料にでている)。一体、そのギャップは何か?というところから著者は推測し、事件に参加して刑に服す事になる下士官の言葉を引用する。ちなみに、僕自身は栗原という人間に対しては、「驕児」という印象は否定しえないけれども、それだけではないものを栗原には感じている。

私ハ戦車第二聯隊ニ在隊中同聯隊ハ創設日浅ク隊長以下訓示等立派ナルモ農村窮乏其ノ他ニ依ル兵ノ苦境等ニ付キ申告スルモ之レヲ取上ケテ呉レス尚除隊后ノ就職斡旋等ニハ何等省テ呉レルモノカアリマセンテシタ(324頁)

つまり、これが世間一般の将校の姿であり、栗原はこうではなかったと言いたいのだ。確かに栗原は、除隊した部下の就職斡旋に尽力したりしているし、それは安藤も同様であった。これは正しい。しかし、その後の結論がまたわけのわからんものになる。

そうした栗原のスタンスが、前章でみた安藤輝三同様、入営してきた兵士や下士官に、新鮮な印象を与えたのではないか。言い換えれば、軍人でありながら、ある程度、庶民の目線にたてたことが、その強い影響力の源泉になったとみなすべきであろうか※。逆にいえば、他の青年将校にこうした事例が、ほとんどみられないのは、彼らの大半が、職業人として凝り固まり、庶民との関わりを栗原らほど持ち得なかったといえよう。その結果、民衆との関係で例外的存在であった栗原・安藤が青年将校を代表してしまい、青年将校運動全体がその後美化される傾向をうんだのではないか。(324~325頁)


 この著者は、間違いなく自己の偏見に満ちた解釈を妨げる資料を故意に無視している。若干22歳の高橋太郎少尉の遺書「兄の味方は貧しき人なり」を知っていて無視したのか、それとも知らないのか。また、高橋の部下でもあった下士官が「教官のやることが間違っていることとは思いません」と裁判で述べた強い結びつきを知らないのか。他の多くの将校が遺した言葉に、「弱者救済「農村救済」があることを無視しているとしか思えない。

不本意ながらも事件に参加し(させられ)、裁判で刑に服すことになった下士官でさえ、また事件に参加させられた入隊間もない兵であってさえ、上官を怨んでいる声を探すのは難しいのが現実である(つまり、そんな言葉を記した資料は多くない)。それを著者は故意に無視している。


さらに、上記引用にて※をつけた箇所、「影響力」云々であるが、著者は、断定はしていないものの、それを発揮できた理由の推測として栗原が運動資金として財界民間人からもらっていたお金のことを匂わせている・・・。貶めるのもほどがある。仮にそのお金が栗原の生活に困るかつての部下に渡っていたとしても、それを恩義に感じて事件に参加するのと、その対価として事件に参加するのでは、その動機において大きな差が生じるが、どうも著者は後者としたいようである。しかし、裁判記録をよめば、栗原の影響を強く受けた下士官兵、民間人は、事件参加を後悔する言葉など一切遺していない。とすれば、極めて自然な理解として、著者のいう「民衆」とてあの事件への参加は「やむにやまれぬ」事であったのだ。なぜなら、当時の下士官・兵は「シャバ」では、著者のいう「民衆」であり、しかも「下層階級」に属し、日々の暮らしにも困るものが多かったからである。

栗原は、裕福な家庭に育ち、父は退役大佐。彼に資金カンパをしてくれていたのは、石原広一郎という財閥、石原産業のトップであった。当然栗原は、部下の就職斡旋についても他の将校と比べてコネが多くあったはずである。それだけのことだ。


「弱者救済「農村救済」。

この二つは、決して作られた「神話」なんかではなく青年将校らを事件に突き動かした主旋律である。


今日はこれまで。


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2011年3月2日水曜日

かばん持ちかと思ったらたいこ持ちだった話

幇間(ほうかん、たいこ)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者舞妓を助けて場を盛り上げる男性の職業をいう。 




およそ30年に渡りくされ縁が続いている僕の先輩は、地元の青果市場の理事長。

先週末、あるイベントに出店したので野菜売りの手伝いをしました。 市場価格の半分程度のものも多く並んだため、物凄い混雑でした。

「安いモノに飛びつく」
「安くても文句を言う」

「消費者」というのは、なんて身勝手なんでしょう。


そこで、「自民党」というネームの入ったウインドブレーカーを着た若い人が、そのイベントで踊りを披露する地元のおばちゃんたちの買い物かごを持って、つまり買い物の手伝いをしていました。

「政治家のカバン持ちというのは、大変だなぁ」

と、つくづく思いました。

ところが話を聞いてみると、その若い人は政治家のカバン持ちなんかではなく、自身が4月の地方選に出馬する予定の人だというのです。僕は開いた口が塞がらなかった。

「カバン持ちかと思ったらたいこ持ちだった」というタイトルはこのことです。

お店の主人が、身勝手な客に媚びてモノを売るのとはわけが違う。そこまで有権者に媚びてどうすんだ?大方、「あなた達のために身を粉にして働きます」くらいのことしか言わないんだろう。ただそれだけでは、単なる意見の代弁者、いやご機嫌とりだ。

あほか・・・


選挙が近付くと、その理事長のもとへもいろいろとさまざまな方面から働きかけがあるらしいですが、その理事長曰く

「節操がない」

なのだそうです。「民主党」と名乗るだけでもう落選は決まったようなものというムードを感じ取った立候補予定者は、「民主党」でも「自民党」でもなく、「みんなの党」に鞍替えしてるらしい。何の主義主張も、自身の理想もなく、ただ単に「名誉」を求めているだけなんでしょうね。そんな議員には何の価値もないし、そういう議員を選ぶ有権者というものも何だかなぁという気持ちを持たざるを得ない・・・。

今日はこれまで。




2011年3月1日火曜日

226へ その6 崩壊

2月29日。

早朝から、彼らを取り囲む包囲軍の動きが慌ただしくなる。いよいよ攻撃、皇軍相撃つ事態の予感させる。

包囲側は奉勅命令を盾に、最後の説得を試みる。

磯部は闘志満々。

「相撃は革命の鉄則だ!」

しかし、若い少尉たちの一角から磯部の夢が崩れていった。

「兵に逆賊の汚名をかぶせるわけにはいかない」

一つの部隊が原隊へ復帰すると、堰を切ったように続々と彼らの部隊は帰順する。

一人安藤輝三のみは、断固として兵を退くことを肯んぜず、彼の率いる第六中隊も烈々たる闘志を包囲軍に対して燃やしていた。



香田さん、帰りたいなら勝手に帰ってくれ!止めはせん。ただし、俺の六中隊は最後まで踏みとどまって闘うぞ。陛下の大御心に我々は尊王軍であることが解るまで頑張るのだ。今俺たちがそんな弱気になったら、部下たちはどうなるんだ!逆賊の汚名を着せたまま死なせるのか!俺はそんなことはできない!昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史をつくるために断乎闘うんだ。





磯部もここにきて、ようやく兵を帰すことにする。


『オイ安藤、下士兵を帰さう、貴様はコレ程の立派な部下をもっているのだ。騎虎の勢一戦せずば止まる事が出来まいけれども、兵を帰してやらふ』とあふり落ちる涙を払ひもせで云へば、彼はコウ然として『諸君、僕は今回の蹶起には最後迄不サンセイだった。然るに遂ひに蹶起したのはどこ迄もやり通ほすと云ふ決心が出来たからだ。僕は今何人(ママ)も信ずることが出来ぬ。僕は僕自身の決心を貫徹する』と云ふ。同志は交々意見を述べる。安藤は『少し疲れているから休ましてくれ』と云ひて休む。
安藤再び起き上り、『戒厳司令部に云って包囲をといてもらおう。包囲をといて呉れねば兵は帰せぬ』と云ふ。そこで余等は、石原大佐に会見を求めようと考へ、柴大尉?に連絡を依頼する。間もなく戒厳司令部の一参謀(少佐)が来り、石原大佐の言なりとして『今となっては自決するかダッ出するか二つに一つしかない』と伝へる。同志一同此の言を聞きて切歯憤激云ふところを知らず。
歩三大隊長伊集院?少佐来り。『安藤、兵が可(ママ)相だから兵だけ(ママ)帰してやれ』と云へば、安藤は憤然として『私は兵が可(ママ)相だからヤッタのです。大隊長がそんなことを云ふをシャクに触ります』と、不明の上官に鋭い反撃を加へ、突然怒号して『オイッ、俺は自決する。さして呉れ』とピストルをさぐる。余はあわてて制止したが、彼の意はひるがへらない。『死なして呉れ、オイ磯部、俺は弱い男なんだ、今でないと死ねなくなるから死なして呉れ。俺は負けることは大嫌ひだ。裁かれることはいやだ、幕僚共に裁かれる前に自ら裁くのだ。死なしてくれ』と制止の余を振り放たんとする。悲劇、大悲劇、兵も泣く、下士も泣く、同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波。
大隊長も亦『俺も自決する。安藤の様な立派な奴を死なせねばならんのが残念だ』と云ひつつ号泣する。『中隊長が自決なさるなら、中隊全員御供を致しませ』と、曹長が安藤に抱きついて泣く。『オイ前島上等兵?御前が嘗て中隊長を叱ってくれた事がある。中隊長殿いつ蹶起するのです。このままでおいたら農村は何時迄たってもすくへませんと云ってねぇ。農村は救へないなあ。俺が死んだらお前達は堂込(?)曹長と○○曹長と(ママ)たすけて、どうしても維新をやりとげよ。二人の曹長は立派な人間だ。いいかいいか』『曹長、君達は僕に最後迄ついて来てくれた、有難う。あとをたのむ』と云へば、群がる兵士達が『中隊長殿、死なないで下さい』と泣き叫ぶ。余はこの将兵一体、鉄石の如き団結を目のあたりにみて同志将兵の偉大さに打たれる。
『オイ安藤ッ、死ぬるのはやめろ、人間はなあ、自分が死にたいと思っても神が許さぬ時には死ねないのだ。自分でも死にたくなくても時機が来たら死なねばならなくなる。こんなにたくさんの人が皆なして止めているに死ねるものか。又、これだけ尊び慕ふ部下の前で貴様が死んだら一体、あとはどうなるのだ』と余は羽ガヒジメにしている両腕を少しくゆるめてさとす。幾度も幾度も自決を思ひとどまらせようとしたら、漸く自決しないと云ふので、余はヤクしている両腕をといてやる。
兵は一同に集まって中隊長に殉じようと準備しているらしい様子。死出の歌であらふ、中隊を称へる吾等の六中隊の軍歌が起る」
(磯部浅一『行動記』前掲書)


この日午後2時までに、彼らのこの挙はすべてが終わる。そして夕方には彼らの手に冷たい手錠がかけられる。


75年前の出来事。

 今日はこれまで。

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