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2011年3月11日金曜日

再び父の記憶と今日は母のも

2回にわたってご紹介した父の体験。

今日はその続きをまた紹介したいと思います。昭和20年8月15日から始まります。

その日、父は同じ学校の友人と工場を抜け出して自宅に帰ろうとしていました。群馬県太田から埼玉県熊谷までの道のりです。熊谷市内に入ると、前日の空襲でまだ町はくすぶっていたと言います。そこで、正午から天皇陛下の重大な放送があるということを聞き及び、農家の庭先でラジオから聞こえる「玉音放送」を聞いたそうです。

「晴天の霹靂」

まさしく夏の澄みわたった空に霹靂が轟きわたったことでしょう。それを聞き、すぐに太田へ引き返し、荷物をまとめて再び、熊谷まで出て汽車に乗り三条市(新潟県)の自宅に戻ったとのこと。


 それから2週間余り、父のもとへ長岡高等工業専門学校(現新潟大学工学部)から授業再開の手紙が届けられました。授業開始の日時と持物の連絡であり、その手紙は現存しています。印象的なのは、「柳行季(やなぎごおり)」(左記写真)という言葉と、「米」持参ということ。当時の食糧不足がうかがえます。

しかしながら、終戦後僅か2週間足らずで日常の学校事務が再開したというのが驚きです。地方だったからでしょうか。とはいえ、文部省の管轄でしょうから、中央省庁からの連絡がなければそうはなりません。

父は再び以前の日常に復帰します。この柳行季をもって長岡で下宿生活を始めるのです。今の大学生の新生活とは大違いですね。これだけで済むわけですから・・・。


さて、私の母は昭和5年の生まれですので、終戦時15歳の女学生でした(おお、これ死語ですな)。新潟県三条市にもアメリカ軍が進駐してくるので、その宿舎として母の通っていた学校校舎の明け渡しを命じられたそうです。

明け渡しの前日、教師、生徒総出で隅々までぴかぴかに磨きあげたそうです。これも極めて日本的ですね。「立つ鳥跡を濁さず」でしょう。その清掃が終わったのは夜になってからで、その後全校生徒が講堂に集まり、泣きながら校歌を合唱したといいます。

当時の母の国文の先生が、その時の情景とやるせない思いを漢詩に託しています。

玉音終戦悼心胸(玉音終戦心胸を悼ましむ)
残暑茫々悲涙濃(残暑に茫々として悲涙濃(こまやか)なり)
校舎何図収米軍(校舎何ぞ図らん米軍に収められ)
宵々空望瑩光鍾(宵々空しく望む瑩(えい)光の鍾(あつ)まるを)


最後の「宵々空望瑩光鍾」は、

進駐軍の居城となった我が校舎は、夜になると明るい光に包まれて見える。しかし、それを奪われた我々はいかんともすることができず、夜ごと長嘆息して眺めるのみである

とういうような意味でしょう。今「漢詩」を作れる国語の先生はいるのかしら?と思ってしまいます。日常、灯りのともることのない学校が、敵国兵士によってそれが赤々と灯される風景。そこだけ煌びやかに見える印象とは正反対の暗い感情を抱いてしまうという哀しい現実・・・。


ちなみに、三条市はジャイアント馬場の出身地でもあり、母の妹は彼を自宅の前でよく見かけていました。サイズの合う靴がなく、冬でも雪道を下駄(それも足の半分以上がはみ出ていた)で歩いていたといいます。彼の実家が八百屋(?)だったのか、野菜を積んだリヤカーを押していたらしい。そのうち、アメリカ人の牧師から靴を貰ったようで、それからはその靴を毎日履いていたと・・・。

閑話休題

この漢詩で詠われた思い。身に降りかかった粉を払うでもなく、静かに受け止めて心にとめる、というより沈めるといった方がいいのかも知れません。不平不満を言うでもなく、ましてや現代のように衆を頼んで大きな声を上げるなどということとはまるで正反対の精神性を、僕は非常に美しいと思える。

今日はこれまで。


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