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2011年3月3日木曜日

資料批判

学術論文を書くにあたっては、「先行研究はどうか」ということが重要視されるらしいです、聞いたところによれば。したがって、先行研究批判をすればその体裁の一部は整うことになる。

さて、昨年本を書いた時に非常に多くの「先行研究」を参考にしたのだが、僕は批判をあまりしなかった。それが本意ではなかったし、人はどうであれ、自分の考えを書くべきだと思ったからである。

ただ、今日はその批判をしてみたい。材料は以下である。最初に言っておくが、筆致は激しくなる。

「二・二六事件 青年将校の意識と心理」須崎愼一著 吉川弘文館 2003年10月10日初版
「岩波ブックレット シリーズ昭和史No2 ニ・二六事件」須崎愼一著 岩波書店1988年7月20日初版


前者の本は、神戸大学国際文化学部教授である著者が、研究者として閲覧を許された裁判記録等の資料を駆使して、事件をまとめたもので、僕にとっては未見の事実も多くあり、かなり参考にしている。しかしながら、どうしても「?」をつけざるを得ない所も多くあった。

岩波ブックレットは、買うつもりのないものが、アマゾンで注文した本屋が間違って送ってきたもので、そのままもらったものだ。「岩波」の昭和史など、悪意に偏見に満ちたものだということはわかっていたが、やはり酷かった・・・。偶然にも著者が同じだった。


まず、吉川弘文館の本から。

187頁に以下のような著述がある。

青年将校の動員で決起した部隊は、三分の一近い四ニニ名が機関銃隊であり、機関銃ニ五・軽機関銃四三を所持していたとみられる。「みどり筒」と称される毒ガスも相当数所持していた(後略)


「毒ガス」とは何の事だ?とは直に思い浮かぶ事。ここでいう「みどり筒」とは、催涙ガスの事。どこの世界に催涙ガスを「毒ガス」等と言い換える人がいるのか?まったくもって理解できない、悪意に満ちた表現である。

226事件の発端の一つに、青年将校らが所属する第一師団の満州派遣という決定がある。青年将校らが焦ったのは当然である。何としても糺すべきと考えていた国内の状況をこのままにして満州へ行くわけにはいかないと思うからである。何としても日本に残り、運動を続けたいと思ったからに他ならない。これが僕の理解だ。極めて自然な理解だと思っている。

著者は、青年将校の一人栗原安秀の言葉を引く。110頁である。

国内ヲ此ダラシナイ状態ニ放任シタ侭満州ニ行ツテ賊ノ弾丸ニ中ツテ死ヌ位ナラ内地テ国家革新運動ヲヤツタ方ガ遥カニ有意義ダ

そうして、栗原の多いをそのまま肯定するのかと思いきや、荒木貞夫陸軍大将が会議で述べた

将校が後ろから「進級せしむ」と射殺される(111頁)、という満州での状況を述べた言葉、即ち将校が部下に撃たれることがあるということを引き合いに出し、それをもってこう結論付けるのだ。

後方から部下に狙われかねない満州へ行きたくないと思ったとしても無理はない(112頁)

どこをどうこねくり回せば、このような解釈が出てくるのか著者の頭を覗いてみたいものだ。青年将校らは、こういった事例、撃たれた将校らを軽蔑し憤っていたのでもある。著者は青年将校中橋の次の言葉をも正しく引用しているにもかかわらずである。

弾丸ヲ恐レル将校カ多ク下士官兵ノ物笑トナルモノカアルコト。ソノ為下士官兵カ将校ヲ威嚇スルコト、或中隊長ハ利己主義テアツタ為部下ノ下士官カラ射殺サレタ例モアリテ之か将校ハ公務死亡トナツテ居リマス(112頁)

資料批判云々以前の話だ。資料を正しく引用しているにも拘らず、どうにかして青年将校らを貶めようとしているとしか思えない。


次いでこの本。岩波ブックレットの対象読者層は中学生か高校生だろうと思うが、あまりにも間違った解釈を植え付けることになりはしないかと心配する。


この須崎なる著者は、前記の本でも「青年将校らの農村救済の思い」は無碍に否定しているわけではない。しかし、やはり批判するのだ。

42頁に「青年将校の農村救済論」と題して、次のように書きだしている。

ニ・二六事件に参加した青年諸侯たちが、国民の窮状、とりわけ農村をなんとかしなければならないと考えていたことはまちがいない。

そう、その通りである。しかしながら、著者はそれがどうも許せないらしい。そのすぐ後に

問題は、それがどういう発想からでてきたのかという点である。


と、いちゃもんをつけるのである。著者の語るところをみてみよう。同じく42頁からである。

たとえば、香田清貞大尉は、つぎのようにのべている。
「日本には貧富の差が大で、之は甚だ不合理な事であり、指導する立場に在るものは兵をして戦場に於て後顧の憂なからしめねばならぬと思い、其欠陥は指導的立場にあるものの責任と思料し、結局政治問題に読んだ(『二・二六事件=研究資料』Ⅱ)
 かれらの農民への「思いやり」は、どうも実践指揮官としての不安に端をはっしているのではないだろうか。安田優少尉も語る。
「北海道の兵の如きは、食物は軍隊の方が良いから地方に帰って農をやることを厭うて居る。それで良兵は愚民を作ることになって居る、之れ皆農村の疲弊からである。之れを救うにはどうしても財閥、重臣等を排除せねば実現が出来ぬ」(同前)
 ここには、農民の立場にたって、窮状をいきどおるのではなく、「指導者」としての不安がかたられている。


 このいちゃもんのおかしなところはおわかりだろう。「○○の立場にたって・・・」というのはサヨクの常套文句であるが、よく考えてもらいたい。それぞれが自分の立位置から、社会の不公正やら、社会悪に憤るのではなくて、実際にどんな憤り方があるのだろうか?会社で自らの部下を心配するのはなぜか?上司としての立位置から部下を心配しているのではないのか?それがどうして非難の対象になるのだ?「そのものの立場にたって」など、一体どうしたらできるものだ?この著者のいわれのないいちゃもんが正しいとするなら、例えばメンバー数人を持つプロジェクトリーダーが、プロジェクトの進捗を妨げかねないメンバーの家庭の事情を心配をするのが「メンバーの立場にたって」ないと、非難されることになるではないか。アホか!

ちなみに、このねじ曲がった著者は同項の最後をこう締めくくっている(43頁)。

わたしたちはまた、青年将校の一人が「世界地図を拡げ、印度以南の島々をゆびさし、こことここはいずれ赤くするのだといった」(日本の領土にする意)という、一兵士の回想を忘れるべきではない。侵略性という点では、青年将校と、かれらが反発した軍閥とのあいだには、なんらの差異も存在しなかったのである。

ここまでくると、「はいはい」と投げやりにならざるを得ない。「侵略性」をもった人間が「農村救済」を考えてはいけないのか?あるいは、農村の窮状を憤る義憤と「侵略性」の関係はどこにある?

要するに、この著者は侵略の手先たる軍人が「農村救済」「弱者救済」ということを考える事すらが許せないのだ。どうもそうとしか考えられない。



最後に、もう一度吉川弘文館の本に戻る。

同書の最終章「青年将校運動の性格をめぐって―まとめにかえて―」(323頁から)において、著者は「弱者救済に立ちあがった青年将校運動」は「神話」だとし、その神話の生れる背景として栗原安秀と安藤輝三の両名を挙げているのだが、その理由がまた酷い。ちょっと説明を要するが、栗原という将校は、「ヤルヤル中尉」とある意味蔑称のあだながつけられていた。その日頃の過激な言動は同志の間でも半ば呆れられたところもあった男であり、松本清張は栗原を称して「驕児」と表現している。しかし、事件に参加した下士官兵や民間人の中には、栗原に全幅の信頼をおいていた者もおり、彼らとは深い同志的結合があったことは間違いないのだ(ニ・ニ録事件研究資料にでている)。一体、そのギャップは何か?というところから著者は推測し、事件に参加して刑に服す事になる下士官の言葉を引用する。ちなみに、僕自身は栗原という人間に対しては、「驕児」という印象は否定しえないけれども、それだけではないものを栗原には感じている。

私ハ戦車第二聯隊ニ在隊中同聯隊ハ創設日浅ク隊長以下訓示等立派ナルモ農村窮乏其ノ他ニ依ル兵ノ苦境等ニ付キ申告スルモ之レヲ取上ケテ呉レス尚除隊后ノ就職斡旋等ニハ何等省テ呉レルモノカアリマセンテシタ(324頁)

つまり、これが世間一般の将校の姿であり、栗原はこうではなかったと言いたいのだ。確かに栗原は、除隊した部下の就職斡旋に尽力したりしているし、それは安藤も同様であった。これは正しい。しかし、その後の結論がまたわけのわからんものになる。

そうした栗原のスタンスが、前章でみた安藤輝三同様、入営してきた兵士や下士官に、新鮮な印象を与えたのではないか。言い換えれば、軍人でありながら、ある程度、庶民の目線にたてたことが、その強い影響力の源泉になったとみなすべきであろうか※。逆にいえば、他の青年将校にこうした事例が、ほとんどみられないのは、彼らの大半が、職業人として凝り固まり、庶民との関わりを栗原らほど持ち得なかったといえよう。その結果、民衆との関係で例外的存在であった栗原・安藤が青年将校を代表してしまい、青年将校運動全体がその後美化される傾向をうんだのではないか。(324~325頁)


 この著者は、間違いなく自己の偏見に満ちた解釈を妨げる資料を故意に無視している。若干22歳の高橋太郎少尉の遺書「兄の味方は貧しき人なり」を知っていて無視したのか、それとも知らないのか。また、高橋の部下でもあった下士官が「教官のやることが間違っていることとは思いません」と裁判で述べた強い結びつきを知らないのか。他の多くの将校が遺した言葉に、「弱者救済「農村救済」があることを無視しているとしか思えない。

不本意ながらも事件に参加し(させられ)、裁判で刑に服すことになった下士官でさえ、また事件に参加させられた入隊間もない兵であってさえ、上官を怨んでいる声を探すのは難しいのが現実である(つまり、そんな言葉を記した資料は多くない)。それを著者は故意に無視している。


さらに、上記引用にて※をつけた箇所、「影響力」云々であるが、著者は、断定はしていないものの、それを発揮できた理由の推測として栗原が運動資金として財界民間人からもらっていたお金のことを匂わせている・・・。貶めるのもほどがある。仮にそのお金が栗原の生活に困るかつての部下に渡っていたとしても、それを恩義に感じて事件に参加するのと、その対価として事件に参加するのでは、その動機において大きな差が生じるが、どうも著者は後者としたいようである。しかし、裁判記録をよめば、栗原の影響を強く受けた下士官兵、民間人は、事件参加を後悔する言葉など一切遺していない。とすれば、極めて自然な理解として、著者のいう「民衆」とてあの事件への参加は「やむにやまれぬ」事であったのだ。なぜなら、当時の下士官・兵は「シャバ」では、著者のいう「民衆」であり、しかも「下層階級」に属し、日々の暮らしにも困るものが多かったからである。

栗原は、裕福な家庭に育ち、父は退役大佐。彼に資金カンパをしてくれていたのは、石原広一郎という財閥、石原産業のトップであった。当然栗原は、部下の就職斡旋についても他の将校と比べてコネが多くあったはずである。それだけのことだ。


「弱者救済「農村救済」。

この二つは、決して作られた「神話」なんかではなく青年将校らを事件に突き動かした主旋律である。


今日はこれまで。


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