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2011年3月19日土曜日

東北・関東で大地震 その8

祈り

Wikipediaによれば、それは

神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること、あるいは神に何かを願うこと


だそうだhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E3%82%8A)。


「祈り」という言葉の意味を僕が心から納得した本がある。

倉田百三著「出家とその弟子」である。初読後すでに四半世紀が経つが、今でも鮮烈に覚えている一節がある。

親鸞の弟子唯円が、好きでたまらずいずれ夫婦になりたいと思っている遊女との行く末と、その苦しい胸の内を師匠の親鸞に尋ねるところである。

唯円
「私は何としても彼女と夫婦になりたいと思います。絶対にその思いを遂げて見せます」
親鸞
「人間に絶対というものはないのだ」
唯円
「そんな残酷なことをおっしゃいますな。もし彼女と夫婦になれないのなら、私のこの思いは一体どうなってしまうのでしょう。そんなことは考えるだに恐ろしいことです」
親鸞
「そこに祈りがあるのだ」
唯円
「・・・・」

まあ、こんな感じの問答なのです。僕はこれを読んで初めて「祈り」というものがわかった気がした。


一瞬にして多くの命をのみ込んでしまった大津波の発生から1週間が過ぎました。今なお多くの人びとがある意味、悲惨な生活を強いられています。

3月11日午後2時46分。

あのとき、こうすれば、ああすればという後悔は、多くの人の胸中にずっしりと沈みこんでいると思います。そのほんの1日前、いえその日の朝まで、その数時間後に襲うあの悲劇など想像すらできなかったに違いないのです。

人生には思いもかけないことがおこり、思い通りにならないことの方が多いような気がしていますが、あのような天災で肉親の命と、住みなれた家と、愛する故郷を奪われた人は、その思いを一体どうしたらよいのでしょう。想像するだけで、胸が苦しくなります・・・。

それを和らげる手段は「祈り」ということだと思います。

それは、けっして「すがる」のではないのです。人間と人智を超えた何ものか―それが天でも神でも仏でもいいのですがーをつなぐ行為なのです。そうして人間の儚さを知り、心の平安を取り戻す・・・。それこそが「祈り」だと僕は考えています。

予断を許さぬ原発に対し、事故発生以来そこに踏みとどまって必死の作業をしている50人もの人びと、命を危険にさらして放水作業にあたる自衛隊員と機動隊員。僕らは、安全なところにいてその事故の終結と、それを成す為に必死の作業を続けている彼らに何ができるのか。「祈り」しかないのです。

海外でも「Pray For Japan」というのが始まっています。

「日本にために祈る」、まさに「祈り」です。


今日はこれまで。




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