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2010年12月3日金曜日

小林秀雄の言葉

度々ここでも取り上げていますが、僕の最も尊敬する著述家「小林秀雄」とはこの人です。彼は「近代日本最高の知性」と評されています。彼の生涯の足跡は、Wikiを参照してください。彼は明治35年に生まれ、昭和58年に亡くなっています。彼は、「批評」という分野を日本で初めて確立した人とも言われ、小林自身は「批評とは無私に至る道」と述べています。

僕が彼を尊敬するに至った理由は、前にここで書いたと思いますが、戦後「一億総懺悔」等と言われた時代に、「私は馬鹿だから反省などしない」と言い放ったことによります。

小林は、「批評」とは何なのかをこんな風にいいます。

「その人の身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。」


「高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」

彼の文章は、まさしくその通りだと感じられます。無駄なものを一切排除した、硬質なものがあるように感じます。小林は三島由紀夫の衝撃的な死について、「孤独に死を選んだ人間」だから、「孤独にそれを思うのがよい」と言っています。彼のところに「三島先生への哀悼の意を表する大会をやりたいから、発起人になってくれ」という依頼があったのだらしいですが、それを「君らは哀悼の意を表するのに発起人が必要なのかね」と断ったといいます。小林は、「ジャーナリスティックにはどうしても扱ふ事のできない、大変孤独なものが、この事件の本質に在るのです」と言った後、次のように続けます。

「素直な状態でゐれば、誰もそれを感じていると思ふのですよ。だけど余計な考へや言葉が、それを隠して了ふのではないかと考へる。テレヴィでニュースを見てましたらね、佐藤総理の顔が写って、とても正気とは思へないと言ふ。当然でせう。政治家が政治的事件を見てゐるのですからね。すると、今度は林房雄さんの顔が出て来てね。沈んだ面持ちで狂気ではない、何から何まで正気ですといふ事を言ふのだ。私は涙が出て来た。それが、私としては、今度の問題の一切です。何も文学的見方と言ったものなどありはしない。文学者は、なるたけ人間に近付いて見るといふ練習を知らないうちにやってゐるわけなんだ。たださういふ事です。」


 余計な講釈は不要ですね。

今日はこれまで。

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