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2010年12月4日土曜日

人間というもの その他いろいろ

今日は取り立てて主題もなく、ただとりとめのないことを書きます。

ある青年との出会いをここで書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/blog-post_15.html

まーくんと先日会った時、その話をして「僕の知識など足元にも及ばない」と話したところ、彼も驚いていましたが、簡単に言うと僕の知識はあくまでも「新書」レベルなのに対し、彼の知識は「全集」レベルなのです。そんな比喩がぴったりかと思います。

その彼と、昨今の「左」ではない「デモ」についてもいろいろと話をしました。

「これだけ政治的に熱狂できる」人間がいるというのは興味深いと・・・。ただ、つい最近も書きましたが、「熱狂」というのは人を誤らす元です。また、そういう人間が多く存在する世の中というのは極めて不健全な世の中であると思っています。

その青年曰く、「衆をたのんで衆を制する」等というのは愚の骨頂だと。福沢諭吉から採られた言葉です。

「政治的人間」が世の中非常に多い。右か左かを峻拒し、どちらでもなければ「日和見」と蔑むような、そんな感じですかね・・・。

「自分はデモに参加しているから」「日本のことを考えているから」とかいうのは、何の免罪符にもならない。大事なことは、それぞれが職分を全うすること、学生なら学生の本分である学問を先ずすべきでしょう。そんな学生を煽動するのは「大人」の為すことではない・・・。

「修身斉家治国平天下」

その根本たる修身をおろそかにして、一体何ほどの国家を目指そうとしているつもりなのか。僕には理解不能なことです。


理解不能といえば、子どもを虐待する親が増えている事。育児放棄というのなら、自然界でもあるらしいですが、虐待というのは人間固有の現象でしょう。これはまったく理解できない。理解できないことを無理やり理解しようとするから、その原因に育児ノイローゼだとか、いろいろな理屈を持って来る。言葉をみつけると、人間はその言葉に縛られてしまうことを知らない。そして原因があることに安心してしまう・・・。その原因なんぞ単なる推測にしか過ぎないものだし、だからといって虐待を免罪することにはならないのですがね・・・。

「人間」というより、近代の文明人はわかりません。未開部族とかにはそういう事例があるのでしょうか?どうも、近代の文明人特有のことのように思います。

極めて、簡単なことを言いましょう。「本能」の赴くままに無制限に行動できる自由が人間という動物に与えられたらどのようなことを想像しますか?もうめちゃくちゃな世の中になると容易に想像できますね。それでは、本能しか持たない人間以外の動物の世界が、人間と同じようにめちゃくちゃにならないのはなぜですか?

人間以外の動物には本能を抑制する装置があるらしいです。自動抑制装置ともいうべきものが。しかし、人間にはそのような装置はなく、その役割を与えられているのが大脳前頭葉です。これは自主的に働かせなければならないもので、要するに「人」を「人」たらしめているものといえます。

子どもを虐待する親は、この働きがないため、その実態は「人」ではなく、かつ「親」という動物以下のものといえます。

その「抑制」を自ら持つ、自律の精神によって為すことが理想なのでしょうが、そんなことは万人に望むべくもなく、それを社会の習俗、モラル、法律で可能としてきたのが、人間社会ということですね。

「法律に違反してなければ何をしてもいい」

という言葉は、最低の言葉遣いであることがわかりますね。なぜなら、抑制の最後の砦であるからです。一番最高の言葉遣いは「自らの良心にしたがって」でしょう。それが人を人たらしめる根本だからです。


社会福祉局でしたか、児童相談所はもっと強制力を持って警察とともに行動するようにしなければ虐待の防止はできませんよ。


精神的な虐待として、「いじめ」があげられます。先日も小学6年生の女の子が自殺しましたね。何でも給食を一人で食べるほどの孤立感だったとか。それを先生は承知しながらも適切な指導ができなかった。こんなのは、教師の資格なしですな。即刻おやめになるのがよろしい。

この種の事件が起きると、決まって繰り返されるのは最初の記者会見での「いじめの事実は承知してない」というセリフ・・・。教育現場というのは誰も責任をとらない無責任の体系がまかり通っているようですね。「教師とはいいえ、サラリーマンだから」などという、したり顔の言葉もありますが、サラリーマンだって、責任くらいはとりますよ。そういういい加減な物言いはやめにしてほしい。

今日はこれまで

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