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2011年7月31日日曜日

世の迷妄・・・その2

さて、その事件当時はおそらく東京帝国大学の教授であった吉野作造は、それをどうみていたのだろうか・・・それを紹介したかったのが、昨日と本日の目的である。

彼は事件をこんな風に述べている。

先年朝日平吾なる一青年が安田翁を殺したという報道を新聞で読んだとき、私には何となく之が普通の殺人でないように思われた。寄附を求めて応ぜず怒りに任せて殺したという風に報じたものもあったが、それにしては朝日の態度が立派過ぎる、事柄の善悪は別として、之には何か深い社会的乃至道徳的の意義がなくてはならぬ。殊に安田翁が如何にしてかの暴富を作ったかを思うとき、社会の一角に義憤を起すものあるも怪むに足らぬと平素考えていた私には、どうしても朝日をば時代の産んだ一畸形児としか考えられなかった。斯くて私は朝日という人物に就てひそかに勝手な解釈をもっていたのであった。


また、安田の各地小銀行の乗っ取りの手管や株式市場操作の悪辣さに言及した後、次のように筆を走らす。

今更死屍に鞭うつつもりはないが、冷静に考えれば、大学に講堂を寄附したり、市場調査会に巨額の金を提供したりした位で償える罪ではないように思う。私が彼の後嗣ぎなら、少くとも財産の半分位を公共事業へでも投げ出さなくては、とても寝覚めがわるくて生きておれぬ。

最後の「寝覚めが悪くて生きておれぬ」がなんとも正直というか、吉野も安田の富の蓄積の手段と、その安田自身に対して、よい感情を持っていなかったことがわかる。

かくいえばとて私は、安田翁を殺したのを当然だなどというのではない。朝日の行動には徹頭徹尾反対だ。ことに一安田翁を除くことによって直に社会を救うを得べしと考えた短見は憫笑の至りに堪えぬ。けれどもあの時代に朝日平吾が生れたというその社会的背景に至っては、深く我々を考えさせずには置かぬものがある。日本の青年には今日なお幾分古武士的精神が残っている。不義を懲らすためには時に一命をすてて惜まない。加之(しかのみらず)一方には富の配分に関する新しき理想も動いている。この時に当り社会の上流の金の為には何事をなすも辞せぬという貪欲な実業家があるとしたなら、この古武士的精神と時代の理想との混血児たる今日の青年が、物に激して何事を仕出すか分ったものではない。かかる形勢は我々よくこれを理解しておくの必要がある。

吉野の事件評は、ここで書いたものに要約できる。今風の軽薄な「知識人」が金科玉条のように述べるがごとくの「テロ反対」とは明らかに異なり、犯人朝日への同情、いや一種の愛情のようなものまでを僕は感じる。何に対してか?それは朝日の体現した「古武士的精神」への挽歌かも知れない・・・。と同時に、資本主義の発展に伴う社会的格差の増大と、それに伴う社会不安をも見越していたように思う。

この吉野の事件評について、橋川文三(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%B7%9D%E6%96%87%E4%B8%89)は次のように述べている。

その要点は、朝日を「古武士的精神と新時代の理想との混血児」としてとらえているところであろう。この表現を私なりに言い換えるならば、明治期における幾つもの政治的暗殺者をつき動かした志士仁的人的捨身の意欲と、第一次大戦を画期とする資本主義の発達と貧富の階級分化がひきおこした経済的平準化への平民的欲求との結合形態が朝日の一身に認められるということである。

吉野は、この橋川のいうがごとく、朝日を産み落とした社会の実相を正確にとらえていた。そして、朝日の行動そのものを憎みながらも、その背景の持つ深い闇を明確に感じ取っていたに違いない。


ことさらに、持ち上げられる吉野作造であるがこの彼の事件評を知ってのことなのだろうか?僕はこの事件評はきわめて真っ当なものだと思うが、おそらく朝日新聞を初めとする一群は、そうはとらないだろうな・・・。きわめて勝手な、ご都合主義で彼を持ち上げているに過ぎない。


最後に、渋沢や大倉までにも避難された安田善次郎であるが、彼は当時東京市長であった後藤新平の「東京市改良計画」に全面的に賛同し、当時の政府予算の3割に匹敵する額を寄附もしている。その寄附の一部が今なお残る日比谷公会堂である。

浅学な僕は安田の姿をほとんど知らないが、彼もまた大人物だったと思うことに吝かではない。

ということで、今日はこれまで。





2011年7月30日土曜日

世の迷妄・・・その1

先日、「へえ~っ」と、意外に思ったことがあった。意外というより、僕自身がその人に関して通り一遍の知識しかなかったことが原因。

朝日新聞を初めとする戦後民主主義の信奉者たちが、よく取り上げる大日本帝国時代の日本人、例えば石橋湛山など・・・。取り上げられる人間の特徴は、彼らが時の政府やらいわゆる「軍国主義」に反対したということになっているらしい。

さて、吉野作造という政治学者がいる。大正年間に活躍した人で「民本主義」(democracyの訳語)を唱えた事で、明治憲法下にあって、それを唱えたことがきわめて朝日系の人々に評判がよい。とはいえ、中央公論社が創設した吉野作造賞の受賞者は、保守系の人々も多くいるから、左右問わない人気がある。詳しくは下記、Wikiを参照してほしい。



今日は、その吉野作造についてである。


朝日平吾。

この名前を知っている人は日本の近代史にかなり詳しい人だ。彼は安田善次郎を暗殺した人間である。大正10年(1921)のこと。今から振返れば、この後の日本の中に一大政治・思想潮流となって出てくる「昭和維新」「超国家主義」の萌芽となった事件である。

暗殺された安田善次郎は、今なお残る東大安田講堂の寄付者と知られる、安田財閥の総裁。その当時83歳。いくつもの銀行を持つ大金持ちであった。

しかし、世上彼の評判は頗る悪い・・・。「ケチ」だったらしいのだ。渋沢栄一ですら

彼ほどの財力を少しは国家のために使ってくれたら・・・

と語り、大倉財閥の創始者大倉喜八郎も

慈善事業への出資はなく、金を握ったら話さない男だ・・・

と安田を語っていた。庶民の安田評も「大金持ちのくせにケチ」というものだった。

そんな安田が殺害されたのだから、犯人朝日平吾は一夜にして「国士」となった。非支配層、それも下層の人々の恨みツラミ、社会的格差の増大による社会不安などなど・・・。多くの人々のそれが大金持ちのくせに少しの施しもしない安田に向けられ、その彼が殺されたことに溜飲を下げたのだと思う。

続きはまた明日。

今日はこれまで。



2011年7月29日金曜日

産みの苦しみ

タイトルはデザインの悩みです。

僕は洋服や、持ち物の選び方や、着こなし、スタイル全般に関しては絶対の自信を持っているのだが、さてそれをWebページデザインにどう落とし込んだらいいのだろうか・・・ということで頭を悩ましている。

おそらく、無から有を作り出し、そのフォルムを形作るといったセンスは僕にはかけているのではないかと思うな・・・。文章ならば、駄文とはいえすらすら出てくることが多いのだが・・・

いや、そういえば「226」を書いていたときも相当に苦しんだことを思い出した・・・。

頭の中でもやもやしているイメージはあるんだけど、それを実現するのに今のデザイン構築環境と、僕の力量が不十分かも知れず、そんなことを考えているとなかなか前に進まない。

停滞だ・・・。

今日はこれまで。


2011年7月28日木曜日

この閉塞感はどうしたことか・・・

原発事故による放射能事故は思いもかけぬところから次々と出てきています。

汚染された稲わらを食べた肉牛から高濃度のセシウム、そして今度は園芸用品店で売られている腐葉土からも・・・。まったくあの事故の影響は一体どこまで広がっていくのか検討もつきません。

それにしても、もう震災から5ヶ月が経とうとしているのに、復興に向けた動きが非常に遅く感じられるのは一体どうしたことでしょう?これは僕だけの感想なのでしょうか?

この停滞は、ひとえに今の政権の体たらくがもたらしたものだと思っています。何にもましてその元凶はおそらく菅直人その人。内閣不信任案が可決されそうだとなると、慌てて辞意を表明したにもかかわらず、今ではそれに目をつむって多くの人間をだました。新聞によれば、9月の国連総会も、10月の訪中も準備するよう指示を出しているんだとか・・・。

この破廉恥で節操のない人間、いや怪物を退治してくれ・・・。

今日はこれまで。

2011年7月27日水曜日

帝国陸軍震撼ス

明治27、8年の日清戦争における戦死者977人に対し、実に4064人の死者を出したもの、それは「脚気」である。今の若い人達はこの言葉すら知らない かもしれないが、ビタミンBの欠乏による多発性神経炎で、両脚、両手等の運動障害、麻痺に始まり、心筋に至る筋肉活動が冒される病気である。日本の食生活 において、白米ばかり取り続け、栄養の偏りがあると簡単に起こりえる病気である。明治の日本陸軍は、この「脚気」に対して国の存立が危うくなるといった危 機感を持っていた。しかし、その原因が僅かながらも明らかになるのは大正10年のこと。また、当時の西洋医学でも脚気に対してはなす術を知らなかった。パ ン食が主である西洋ではビタミンBの欠乏など起るはずもなく、その病気すら知らなかったからである。日本に来た多くの西洋医学者たちは、日本(アジア)の 風土病だと思っていた。明治の陸軍は銃砲創や伝染病で倒れる兵士の何倍もの死者を出し続けながら戦ったことになる。

10年後の日露戦争時、その脚気はさらに猖獗を極めた。動員された陸軍軍人110万人以上の中で、戦死者47千人、傷病者は353千人、うち脚気 患者が212千人、脚気で死んだ者は28千人という驚くべき結果であった。外国からの観戦武官は「日本軍は酔っぱらって戦争をしている」と思ったという。 皆一様に脚気によってふらつく足取りをしていたからである。

さて一方の「海軍」はどうであったか?日清戦争中の出動人員3096人中、脚気患者は34名、死亡者は僅か1名。日露戦争中は脚気患者の重傷者は皆無であった。日本海海戦における奮戦は、脚気患者の撲滅によってなされたとも言える。

海軍も明治12年の状況は陸軍同様であった。兵員総数5081人に対し、脚気患者1978人、うち死亡者は57人。戦闘集団として看過できない大 問題であった。しかし、明治17年に「脚気の予防には白米をやめてパン食にすればいい」という事を実験して気づき、そのための策を着々と進めていたのであ る。もちろん、脚気の原因は不明であったが、あくまでも実証によってその有効性を認めたのである。これは、医学研究者として英国留学経験のある高木兼寛軍 医局長の功績によるところが大きい(南極大陸に「高木の岬」と名づけられた岬がある。英国が命名した岬であり、英国が彼の功績を認めたからである)。

一方の陸軍では、その海軍の脚気予防策を知りながら、科学的に証明されないとして、その有効性を頑として認めなかった。その急先鋒の一人が、後の 陸軍軍医総監、ドイツ帰りの森林太郎、鴎外その人である。彼は頑に白米至上主義を取り続け、脚気細菌説をとっており海軍の成功例を完全に無視した。その結 果、明治の両戦役において「古今東西ノ戦役記録中殆ト其例ヲ見サル」と陸軍自らが後に認めるに至った惨禍(多分に鴎外の責も大きい)をもたらしたのであ る。

何ともやりきれない事に、平時の陸軍師団の中には独自に「麦飯」が脚気予防に有効な事に気づいたり、海軍の成功例を聞いたりして白米をやめ、麦飯 に変えた師団もあり脚気の予防に成功していた。しかし、戦時ともなると兵站は中央の仕事。その中央にあり「白米」を戦地に送り続けていたのが鴎外なのであ る。

誤解なきよう言うと、この鴎外の「大罪」と彼の文学者としての功績、地位は別であろう。ただ、彼の有名な遺言「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラ ス」について、高校の現国の教師が言った「俗世の名誉や自身の功績に拘泥することなく、ただ一人の人間としてありたい」とした鴎外の素晴らしさをそのまま 受け取っていた私だが、別の一説「爵位を貰えなかった恨み」(その責を取らされたと思っていた)を知って以来、後者かも知れないなと思うようになった。鴎 外は、脚気の原因を国の臨時脚気病予防調査会が「ビタミンBの欠乏による」という結論を下した2年前に死んだが、もし彼の生前にそれがくだされていたら一 体どうしただろうか?という興味が湧きおこってくる。

 出所「鴎外最大の悲劇/坂内正/新潮選書」「白い航跡/吉村昭/講談社文庫」
今日はこれまで。
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2011年7月26日火曜日

???

何だか、僕のメルアドがへんてこなものになってしまった・・・。その理由はよくわからない。そのあたりのGoogleからの情報を読んだんだけどね。

まーくんちょっと解説してくれ。

さて、日経の1面は「海洋権益 荒波の東アジア(下)」。

後手の日本、欠かせぬ戦略

とありました。不気味な膨張を続ける中国に対して、この国はどうするかということですが、日本が震災後国内事情にかまけている間にも、中国は着々とその覇権を行使しつつあり、周辺諸国は戦々恐々としています。

ただ、大事なのは日経のいうような「戦略」ではなく、何と言っても「覚悟」でしょうね。それがなければ所詮腰砕けにならざるを得ない。

考えてみると、戦後のこの国は国家としての覚悟を一度も決めたことがないような気がする。

今日はこれまで。

2011年7月25日月曜日

驚き

中国で大きな列車事故がありました。

日本からの技術供与を頬っかむりして独自技術だと主張して特許を申請しているものでしょ。それが何だかこんな大事故を起こしてしまって、死者まで出ているのですからびっくりします。

それにしても驚くのは、事故車両を埋めたということ!

おいおい、どう考えても事故原因の隠蔽しかその目的が考え付かないんだけど、一体どういうこっちゃ?

それとともに、こんなことをする国がいまや世界第2位の経済大国なんだから、もうこの世も末かも・・・。

彼らと付き合わなければならない世界の国の悲劇ですよ、いやもはや喜劇に近いかもね。

今日はこれまで。

2011年7月24日日曜日

鷹か鷲か・・・

もしかしたらとんびかも知れませんが、滞在中のマンションにそれがとまっていて、しばらく見惚れました。飛び立つ姿も飛んでいる姿もあれほど優美かつ雄々しいものはないですな。

神の使いと言っても僕は信じるな。

今日はこれまで。

2011年7月23日土曜日

久々の旅

今は熱海に向かう途中。

湯河原のマックからです。

明け方は寒いくらいの気温で震えましたよ。暦の上では大暑じゃなかったか?どうもピントがずれてますね。

今日はこれまで。


2011年7月22日金曜日

遅きに失した

民主党の岡田幹事長が、政権公約に掲げた諸施策いわゆるマニフェストに関して、その実現の甘さを国民に謝罪するとの弁を述べたらしい・・・。

極めて真っ当なことだとは思いますが、どうも時期的に遅きに失したと思います。もうこの期に及んで何を今さら・・・・とまたもや憫笑です。

もう彼らは何を掲げてもおそらく誰も信用しない。次の総選挙で一体何を掲げて戦うのでしょうか。ちょっとかわいそうでみていられない。

あまりこういう言い方は好きではありませんが、「政治不信」というものをまたもやこの国に蔓延させてしまったことは間違いありません。「所詮、どこが政権をとっても同じ」だというね・・・。

今日はこれまで。

2011年7月21日木曜日

思い出したこと・・・。

また、フと思い出したことを書きます。

第二次大戦時の各国の動員率。

分子は兵隊の数ですが、分母はおそらく成年男子なのでしょうか、はっきりとはわかりません。それによると、日本の最大のそれは11.5%でした。ドイツは14.6%、ソ連は11.3%、アメリカは7.6%というものでした。

軍国主義という言葉がありますが、僕にはそれが何を意味する言葉なのかわかりません。すべてが軍事一色に塗り固められたことを言うのでしょうか?それにしては、日本における大学生の徴兵猶予が停止されたのは、昭和18年10月のことですので、それまでの1年10ヶ月の間は日本の大学生は兵役につかなくてもよかったということになりますが、学生に対してそこまで甘い国を軍国主義というのでしょうか。もちろん、志願して兵役についた学生も少なからずいたことと思います。

一方のアメリカでは、真珠湾奇襲攻撃の翌日から大学構内で男子学生の姿が消えたといわれています。みな志願したからです。

日本の軍隊というのは、徹底的な平等社会でした。意外なことと思うかも知れませんが、ここでいう平等というのは、外の世界の身分や社会的格差が持ち込まれなかったことを意味します。したがって、東大の助教授だろうが、徴兵されれば皆二等兵から始めねばならなかったのです。

例えば、イギリスの軍隊ではそういうことは皆無です。大学の助教授が兵士となっても、いきなり士官クラスの階級となります。

日本の軍隊の悪しき慣習として私的制裁というのがありますが、これなどは階級・格差が霧消した閉鎖社会での避けられないことだったのかも知れません。無階級社会の暴力性はフランス革命後をみれば明らかですね。それと同じことが日常的に軍隊内で起こっていたと考えるべきかも知れません。

「アーロン収容所」で会田雄次が欧米人の残酷さを自身の体験として書き残しています。僕はこれは名著だと思います。日本人というもの、そして欧米人というものを知る上で欠かせないものだと思いうからです。

確かその本に出ていたことですが、英軍支配下の捕虜収容所で日本人向けの新聞発行の許可を願い出たところ、担当の英軍将校が「何人の人間が字を読めるのか?」と質問されたといいます。要するに大多数の盲文の人間には無駄だろうということの裏返しです。

これは欧米の軍隊をよくあらわしています。外の社会でも社会的身分の高い将校に率いられる読めぬ下層の兵士たち・・・。

しかし、日本はそういう軍隊に負けたのです。なんとも悔しい・・・。

今日はこれまで。





2011年7月20日水曜日

執念

ともかくあの国は滅ぼさねばならぬ・・・

ローマの大カトーは、議会演説の後に必ずこの言葉で締めくくったと言われる。

「あの国」とはカルタゴのこと。

大カトーにとって、目の鼻の先にあるカルタゴの経済的繁栄は自国の繁栄を危うくする元凶でした。何としてもその目の上のこぶを取り除きたかったのだと思います。あらゆる演説の後でも必ず、冒頭の言葉で締めくくったといわれるから、その執念たるや・・・なんとも凄まじい。


突然、こんなことを思い出してここに書いたのは、未だ居座る人のこと・・・。その人の執念は害悪そのもの、考えるだけでむかむかしてくる。

大カトーにならっていえば、

何としても彼は辞めさせねばならぬ。



今日はこれまで。

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2011年7月19日火曜日

200日

今日は2011年明けて200日ですね。
残すところあと165日。

今朝は台風の影響で大雨です。7月の台風というのはあまり記憶にありませんが、かなり大型でしかも進む速度も遅いということで、しばらくは大雨が続くらしい・・・。

昨日、2年前に書いた記事についてコメントがありましたよ。東北出張時に書いた「白河以北一山百文」ということについて、あれは薩長が使い出した侮蔑の言葉ではなく、岩手出身の原敬やら河北新報が使い出した言葉だと・・・。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2009/06/blog-post_17.html

言葉の出自までは私は知らなかったので、勉強になりました。それが事実ならね。ただそれが事実かどうかを検証する気はなく、はっきりいってどうでもいいのです。問題はその言葉を東北への侮蔑と感じた事実そのものなのでね。

コメントをくれた匿名氏は最後に「会津観光史学にだまされないように」と書いてありました。果たしてそれが何なのかはわかりませんが、自らを高見において人を見下すようなその言い方には非常に違和感があった。

今日はこれまで。

2011年7月18日月曜日

祝なでしこジャパン!

すごい試合でした!何度あきらめかけたことか・・・。

延長後半で追いつき、PK戦での決着になるとはまさにドラマでした。

おそらくボール支配率はアメリカの優位、シュート数もアメリカが多い。なのに試合には負けた。アメリカは納得できないでしょうね。

This is a life・・・

これも人生です。


今日はこれまで。

2011年7月17日日曜日

体重減少再び

ここのところ、毎日の睡眠時間がほぼ3時間。

猛暑の影響で大好きなおやつの間食も減ったためか、さらには往復で12kmのサイクリングのためか・・・体重がぐんぐん落ちていってます。今朝はついに59kg台にまでなってました。寝る前に測った時には60.4kgあったのですが、寝ている間に600gもどこかへ消えていた・・・。

体脂肪も同じように減ってきていて、腹筋の周りについた余計な肉は確かに薄くなり、もとの腹筋のこぶが見えるようになったのはいいのですが、やはり同じように筋肉量も減少しているのは困ります。
まあ、年のせいでもあるのでしょうが、やはり何とかしないとなりません。

前にもかきましたが、果たして筋トレを続ける気力があるや?自問しても答えが出ません。

今日はこれまで。

2011年7月16日土曜日

再び巡る日

昭和20年8月15日に、大日本帝国陸海軍はそれでもなお300万人超の動員兵力(あくまでの人数のみ)の余力を残しながら、戦いの矛を収めました。すでに敗勢明らかになっていたとはいえ、天皇陛下が「最後の一兵となるまで戦うべし」と言ったなら、文字どおりそうなるまで戦い続けたと思います。

戦後、大日本帝国と直接干戈を交えた連合軍の司令官級の軍人の少なくない人が、回想録やら手記などを著しました。その中の一人である英国人スリム中将、彼はインド東部今のミャンマー(当時ビルマ)において日本軍と対峙した部隊にいましたが、彼はこう言っています。

最後の一兵まで戦えとよく言うが、私の知る限り文字通りそうなるまで戦うのは日本人のみである。
これは、彼の著書「高貴なる敗北」に出てた言葉です。

また、真偽は明らかではありませんがこんな逸話もあるらしい。

天皇陛下が皇太子時代に、どこかの国が主催の晩餐会にご出席なされたとき、隣に座られたのが、第二次大戦時東南アジア方面の英国陸軍の総司令官であったマウントバッテン卿。卿は皇太子にこうささやいたといいます。。

過ぐる大戦において、私が戦った殿下の国の軍隊は、古今東西の歴史の中でもまたこれからも二度と現われることもないでしょう。
死力を尽くして祖国のために戦った兵士たちを褒め称えた言葉であることは言うまでもありません。

娘の国語の教科書にまた戦争を題材にしたお涙頂戴の物語が出てます。3年生の頃にもありましたから、なぜこうもしつこく扱うのかその意味がわかりません。こういう刷り込みをするから「戦争」というものを冷静に議論することができなくなり、ただその言葉の後ろに「反対」という言葉をくっつけて使えばいいような、そんな思考停止の人間が多くでてくるのかも知れませんね。

しかも、その話の時代考証が僕にはおかしく感じられてしかたない。

空襲が激しくなって、毎日敵の飛行機が爆弾を落としていた頃の家族の話なのですが、となると、間違いなく昭和20年の3月以降のことになります。そして、家族のお父さんが徴兵されて駅のホームで家族と別れるのが、コスモスの咲く季節らしいので5月~6月くらいのことですね。そのころは沖縄も米軍の占領下になっていました。日本の四海は完全に米軍の支配化にありました。
おそらく、あくまでもおそらくですが、その頃に徴兵された人というのは輸送船に乗って外地に出るより、来るべき本土決戦に備えて泥縄的に配置されつつあった太平洋沿岸へと配属されたはずです。したがって、死の確実性は低かったはず。
でも、その家族のお父さんは帰ってこないのです。そういう話の終わりになります。

「ちちうえも、戦争になったら君やママを守るために戦いにいくぞ。でも年とってるから兵隊にはなれないけど・・・」
僕の抵抗です。娘にはこう言いました。
「年とってると兵隊になれないの?あ~よかった」
というのが娘の答えでした。

昭和天皇の終戦の決断は「聖断」と言われています。本当に天皇陛下が「戦をやめよ」といわなかったら、この国は一体どうなっていたのか・・・。そんなことを考えてみたくもなります。本土決戦が行われていたら、おそらく軍民合わせて300万人超の戦没者ではすまなかったでしょう。全国土が壊滅したドイツでは800万人くらいの戦没者数ですからね。

また再びあの日がめぐってきます・・・。

今日はこれまで。

2011年7月15日金曜日

毎日暑い

いやあホントに暑い・・・。まいってしまいます。

たまにジャケットを着た人を見かけると、見ているこちらまで暑くなってしまいます。ホントにこの暑さはどうしたことでしょう。被災地の避難所ではエアコンがないとのこと・・・。そのつらさを思えばすこしは我慢しなければならないのでしょうね。節電の影響もあって、我が家では極力エアコンの使用を抑えているし、あまりつけなくもなりました。

娘の誕生日プレゼントに任天堂3DSを購入しました。あれはすごいですね。インターネットの接続もできるし・・・。ゲーム機の進化には目を見張ります。

最近よく中目黒へ通っています。これから一緒に仕事をする仲間の店舗兼事務所へです。中目はいい町ですね。安い飲み屋もたくさんあります。

今日はこれまで。

2011年7月14日木曜日

害悪

菅直人首相が会見したとか・・・。原子力発電からの撤退を表明したようですね。

その内容を詳しく知らないので、その中身についての意見は差し控えますが、辞めると表明した人間がいまさら国策の方向性を語ったところで、一体何の意味があるのか?という素朴な疑問があります。それに、どの程度の数の官僚がそれに携わるのかわかりませんが、それによって目前の仕事が滞るので、それを考えればその表明は害悪でもあります。

市民運動家みたいな人間を総理大臣にした、そのしっぺ返しを今この国はくらっているのかも知れません。

次の選挙ではこの人間を落選させてください。頭を下げてお願いします。あと目の虚ろな御仁もね。

今日はこれまで。

2011年7月13日水曜日

ヒトに慣れる?それとも・・・

条件反射でしょうか?

飼い始めた当時はそんなことはなかったのですが、最近はふたを開けてピンセットでミルワームをつまんで入れると、上を見上げるようになりました。

カナヘビの話です。

買い始めてちょっと経った時、トラブルがあって2匹とも逃げ出したのですが、すぐにおそらく飼っていた2匹のうちの一匹を捕まえたのです。だから今のはその出戻りというか、運が悪かったというか、その一匹のみを飼っています。

よく卵を産みます。そのままほったらかしですのでそこからかえることはないでしょうけどね・・・。いろいろ見ていると飽きないものです。

今日はこれまで。

2011年7月12日火曜日

気候

和辻哲郎に「風土」という名著がありますが、その副題は「その人間学的考察」とあります。昔読んだ記憶がありますが、内容はよく覚えていません。おそらくスーツケースの中の蔵書にあると思います。要するに、気候を含めた風土というものが、人間およびその社会に与える影響の考察ですね。モンスーン型、砂漠型、それと牧場型の3つに分けた類型だったように思います。

さて、先日最近の日本の猛暑についてチラッと書いたのですが、日本列島に人が住み着いた頃から今のような気候なら、ずいぶんと日本人というものも変わっていたのかも知れません。

津田左右吉によると、

さて我々の祖先の民族生活が甚だ古いにも拘らず、支那人に接触するまでは其の文化が全体としてあまり発達していはゐなかったらしい。文化の発達する原因は茲で研究するにはあまりに大問題であるが、少なくとも一面の事実として自然なり人事なり自己よりも強い勢力に対して自己の生活を拡大し発展しようとするところに其の一条件があることは疑ひがあるまい。ところが、我々の祖先は個人としても民族としても、其の生活に於いて甚だしき欠乏と苦痛とを感じないほど都合のよい土地に住んでゐたから、其の欠乏を補ひ其の苦痛を除いて生活の内容を豊富にしようといふ努力が薄く、従って自分から自分の文化を開発してゆく力が弱かった。

と述べています(「文学に現はれたる我が国民思想の研究(Ⅰ)」)。

この気候と島国という条件が日本人を形作ったというわけですが、最近の亜熱帯のような気候であったら、おそらく日本人および日本も今とはちがった歴史をもっていたことでしょうね。それほど最近の暑さはすさまじい・・・。

今日はこれまで。

2011年7月11日月曜日

異様な光景

土曜日に家族で回転寿司へ行きました。

混む時間帯より前に入店したのですぐに席には通されたのですが、ほどなくすると後ろの待合席には家族連れが多く並ぶようになりました。

僕の後ろにいた4人の家族は、席に座るなり両親は携帯、2人の子供たちはDS画面にしがみつく始末。

僕らの横に通された若者男子2人は、同じく席に座るなりそれぞれが携帯画面を見出す・・・。流れてくるお皿を取る時も携帯画面は開きっぱなし・・・。

一体、彼らは何を見ているのか?

電車の中でのそういった光景は見慣れましたが、食べ物屋にはいってまでも同じ光景にはずいぶんと異様なものを感じてしまいました。

そういえば、今の若者の間で防水携帯がはやるのはお風呂の中でも携帯をみるためだとか・・・。
何をしているのかわかりませんが、例えばメールをしているのなら、そんなにまでして人とつながっていたいのか?

ワンセグ?それともサイト?どっちでもいいが、そんなのはテレビと同じだから「白痴化」に拍車をかけるだけ・・・。かつて大宅壮一が「一億総白痴化」とテレビ時代を皮肉りましたが、彼なら今の世の中をどう表現するのでしょうか?

「携帯を持ったサル」とかいう新書がちょっと前にでましたね。僕は読んでいませんが、「サル」と呼ぶにも憚られるヒトが多いのではないかと、僕などは考えてしまいます。だって、「サル」なら頑として「本能」がある。でもそういったヒトには本能も理性も知性もないような気がするから。

「携帯を持ったイキモノ」

こう言ったら言いすぎかな?

今日はこれまで。

2011年7月10日日曜日

梅雨明け

例年よりも早い梅雨明けだそうで・・・。なんだ今年の梅雨は雨というイメージがあまりなかったような気がする。

で、途端に猛暑というのは、ある程度予想もし覚悟もしていましたが・・・。溶けますね。

数万年の時の流れの中でかたちづくられた日本列島の四季というものが、おそらく都市化の影響でしょう、だいぶ様変わりしました。アスファルトで固められ、冷房の排気熱と車の熱気・・・。そんなもので気温が上がってしまったと考えるのが自然でしょうね。

前に、気候が変わったのだから、服装コードも変わるべきだと書きましたが、いよいよ夏本番になるにつれ、ますますその意を強くしています。

電力不足が頭痛の種。原子力はもうたくさんというのはわかります。自然エネルギーに転換すべきというのも僕は100%そう思います。ただし、当面はどうするんですか?

たった一度戦争に負けたくらいで、ここまで腑抜けなってしまったこの国のことですから、たった一度の原発の事故でまた腑抜けになってしまうのも仕方ないことなのでしょうか?

今日はこれまで。

2011年7月9日土曜日

知の深淵に逃げ込もう

以前「歴史とは何か」というE・H・カーの本をご紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/01/blog-post_17.html

今日はその続きかも知れません。

ただそれについて語らせるのは小林秀雄です。前に書いた田中美知太郎との対談からで、その筆記ですので、小林の怒りがそのまま伝わってくるようです。
ぼくはよく考えるんだ。現代の唯物史観的な歴史家の傾向というものは、進歩したつもりで、じつは退歩している。徳川時代の古学者とか国学者の考え方のほうがずっと正しい処があると言えます。彼らにとって歴史的対象とは、ある時代の事実ではなくて、事実がその時代に経験された、その経験の意味だったのです。これは正当なことです。客観的事実自体には歴史的意味はない。その事実がどういうふうに感じられ、どういうふうに考えられていたかということが、歴史的事実である。そして、それは事実をあらわした文章にあらわれているというわけです。文章のあやにあらわれているんで、文章が記している事実には、さしたる意味はない。そう考えた。そういう事実がどういうふうに生きられたかということは、歌か物語になっているわけでしょう。だから歌を味わわなければ歴史は絶対にわからんという考えに達した。今の歴史家は歌なんて趣味の問題だと言っている。客観的事実があればいいでしょう。だから貝殻も万葉も同じことなんだ。それが科学的なんだ。物質の科学と精神の科学との間にじつに不思議な、ばかげた混同があるんじゃないですかな、考えられないような混同が。ぼくはあるように思うんですよ。

この小林を受けて、田中は客観的事実のみに拘泥することの愚を、「物的証拠というのは完全犯罪の場合と同じように、うっかりするとだまされることがある」と表現して、その時代を知るにはその時代に生きた宗教家とか、芸術家とか、そういう人の書いた書物を理解しなければならないと返し、次のように続けます。

そこらの犯罪事件の白黒を決めるだけなら、自白をあまり重んじないで、物的証拠を重んじるというやり方でもいいかもしれないが、歴史の把握はそれとはちがうと思う。文学作品や哲学の著作は誠実な一種の自己告白というものに当たるわけで、それがその時代をいちばん写しているかもしれないし、いちばん嘘のない証拠なんでしょうな。あまりそういうものの使い方を知らないですね。

ついで、小林はこんなふうに言います。
昔の歴史家は博覧強記ということをたいへん重んじたが、それにはやはり深い仔細があったのですね。それは、やはり実証的精神のあらわれなので、歴史は資料を読めば読むほど、矛盾した、容易に解釈できない相を呈して来る、そのことに堪えねばならぬという精神だな、それを単に学問的方法を欠いたことと誤解したのだ。

さて、最後にひいた「博覧強記」といえば司馬遼太郎でしょうね。かれの歴史知識の泉は底がしれない。かれはあくまでも小説家であって、歴史学者ではありませんが、歴史学者は司馬の前では平身低頭しなければならない人が多くいるのではないでしょうか。

「古事記」「日本書紀」の解釈をめぐっては、新井白石は「あれは事実ではなく、比喩である」とし、本居宣長は、「あれは事実そのものである」「神の世界のことだから人智では測れない」という態度でした。

その時に書かれた歌や文学こそが、その時代を凝縮したものであるということについては、津田左右吉が「文学にあらわれたる我が国民思想の研究」という本があります。文庫で全8巻。先日ようやくその第1巻をぱらぱらとめくり始めました。

俗世の喧騒や愚劣な政治家のことなど考えるより、こういったことをあれやこれやと考えている方がよほど健康的ですな・・・。違うかな?

今日はこれまで。またこの続きを書きます。

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2011年7月8日金曜日

本の始末

日曜日に本を少し処分しました。

コンサル時代に買った本がメインでした。女房からは「読みたくなったらまた買えばいい」と言われて、もっと捨てるようには言われますが、中にはもう手に入りにくい本もあるのでそうは簡単に処分はできません。以前「千」の単位で本を捨てた末、今の蔵書になったわけで・・・その時の基準をクリアして残っているのが今の蔵書というわけですので、捨てるにはまた新たな基準を設ける必要があります

経営本は、その意味で仕事以外では読む必要性も興味もないので、惜しみなくすてることはできましたが、問題は大きなスーツケースの中にぎっしり詰まっている文庫本。もう僕の力でそれを持ち上げることは不可能ですので、何百冊という単位だと思いますが、その扱いをどうすべきか悩んでいます。もう数年もあけないままですので、そのま
ま捨ててしまえばいいとは思いますが、そういうわけにもいかないので、一度は開けてみなければなりません。

となると、あれもこれもと結局は捨てられないものが多く出てきて、スーツケースは処分するとし
て中から出した文庫本の置き場に困ってしまうという・・・。

中に何が入っているかは正確にはわからないのです。司馬遼太郎の小説が全部入っていることはわかるのですが、それ以外のものはわかりません。

僕の中古本でよければ誰かもらってくれないかな・・・。それなら捨てるよりはいい。

今日はこれまで。



2011年7月7日木曜日

世にはびこるもの・・・

松本龍なる人物類型は、世の中に多いですね。

昨日も年下の友人と話したところ、彼の大学院の教授もとんでもない人間だそうで、研究室の学生の前で、ある学生を名指しし、こう言い放ったそうです。

「こいつは○○学部出身だから、みんなより偏差値が10低い!」

僕の友人も憤慨してましたけどね。これが最高学府の教授職なのですからなんとも言葉が出ないほど寂しい気持ちになるのは僕だけではないでしょう・・・。

僕の中では「学問」をする目的は、中国古典にいわく「聖人」に近づくためという、いわゆる修養だとか、人格の陶冶だとかというものがあるのですが、教授という職につく人はそういった素養がないのでしょうね・・・。

アカデミズムの世界は、ホントにひどい連中が多いらしい。社会の不適合者の集まりだと・・・そういうのは、僕の年下の日本思想史の碩学です。

今日はこれまで。

2011年7月6日水曜日

憫笑

「びんしょう」と読みます。

憐れみをもって笑うことですね。昨日、散々僕が毒づいた傲岸不遜な大臣が辞任しました。最後まで「言葉が足りない」「言葉がきつい」と詫びてましたが、まだこの人はおわかりではない・・・。問題は言葉ではなく、態度そのものです。椅子にふんぞり返り、人を見下すような態度そのものに多くの人が憤慨したことをわかっていない・・・。

で、タイトルの言葉は今の政権そのもの、その中心にいる菅直人氏その人に向けたもの。

この政権はどこまで落ちればとまるのでしょうか?僕はその果てがみえない・・・。

今日はこれまで。


2011年7月5日火曜日

傲慢無礼

別に大して気にも留めていなかったのですが、松本龍なる復興大臣・・・。またマスコミが言葉尻を捕らえてあ~だこ~だ言っているだけだと思っていたのですよ。

ところが、テレビで彼と宮城県知事との会談冒頭の模様をニュースでみてびっくり仰天!そしてすぐに怒りに変わりました。彼は一体何様?

県知事と国の大臣との間には主従関係はないにもかかわらず、あの傲慢な口の利き方は一体なんだ!ニュースで見た限りでは、大臣の入室に僅か1分程度遅れて入室した宮城県知事に向かって

「客を待つときは入って迎えろ。自衛隊なら長幼の区別はできるだろ」

というようなことを、まさにこの口調で言ってのけるんですから、びっくりしました。宮城県知事は防大出身ですから、ことさら自衛隊という言葉を持ち出したのでしょうが、まったく人を、それも宮城県知事をここまで見下した態度はないでしょう・・・。

何でも、言葉が過ぎたことを謝罪したらしいですが、これは言葉尻の問題ではなく人間の品格の問題ですな・・・。自らが上の立場にいると勘違いする輩は、自分が下になった時には上の人間に対してペコペコするもの。「親分肌」だかなんだか知りませんが、そんなものは上っ面だけのことでしょう。

こんな奴が大臣とはねぇ・・・。皆さんも目にしたことありませんか?お店の店員や駅員やらに、ぞんざいで横柄な言葉遣いをする輩。それと同じ低俗な人間ですよ、この大臣。

あほか!

怒り収まらず、今日はこれまで。

2011年7月4日月曜日

不確かなので・・・

最近ふとしたことから次の一節を思い出した。

何かが絶たれている。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があったからだ。

これは、三島由紀夫の有名な「文化防衛論」の中の一節。これは以下の書き出しをもって始まる。

昭和元禄などというけれども、文化的成果については甚だ心もとない元禄時代である。
近松も西鶴も芭蕉もいない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈している。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を払い、詩の深化は顧みられない。

確たることとはいえないが、僕はこういった現象(文化の退廃、衰弱)はこの国のみに見られることではなく、西欧諸国にまで見られるものだと思っている。「近代」のある種の「病い」とでも言おうか・・・。

これもまた不確かであるが、ジョン・ラスキンという19世紀英国の評論家が、「智識が支配する社会になるとその社会は薄っぺらくなる」というような言葉を残していたような気がする。どこで読んだか思い出せない。

僕が言わんとして、三島の言葉で語らせたことの裏打ちをラスキンがしてくれたようなもの・・・。残念なことに、後者の種本がわからんので中途半端・・・。しかも書きあげようとする気力もあまりなし。申し訳なし。

諸君、このこと少し考えてみてください。

今日はこれまで。

2011年7月3日日曜日

どうでもよくなる・・・

最近、よく見るYouTubeの動画があります。



Let's talk about Sizeというもので、宇宙の星の大きさを比較したものです。実に面白い。

今知られている星の中で一番大きい星は、レッドハイパージャイアントと名づけられたもので、この星は時速900kmの飛行機で1周するのに1,100年かかるんだとか・・・。なんちゅう大きさ!


そんで、この星やら国やら人やら、そのすべてがどうでもよくなる・・・。

今日はこれまで。

2011年7月2日土曜日

不気味な中国

中国共産党は結党90周年だとか・・・。日本をぬいて 界第2位の経済大国となり、今なお高い経済成長率を誇ると同時に、軍事費も増加し続けている唯一の国です。
でしょう。

かつては、膨大な人口をバックに総兵力でアメリカやロシアを圧倒しつつも、その兵器の前近代性が弱点であり、米ソとは比較にならないとされてきた人民解放軍ですが、今はそれも過去のことになりつつあるのではないでしょうか。


日本一国では到底太刀打ちできる相手ではない。そもそも、中国は核保有国だしね。いわば無軌道で何をしでかすかわからない国といったイメージがあることが怖い。

日本はいつも中国にぺこぺこしっ放し・・・。昔の負い目(侵略したという)があるからでしょうが、いつまでそんなことにこだわっているのだか。

ちなみに、対中国戦争(対支那)は侵略戦争ではないと張する人がいますが、僕はそうは思っていません。ただ、僕は「侵略戦争でなにが悪い」いう立場にたちますので、そのことをもって中国に対して負い目を感じる必要はまったくないと思っています。

ところが、世の中の多くの人は「侵略戦争」をやったのだから、中国には謝らなければならないと思っているようですね。大体、ムードでそんなことを言う人間は、当時の中国政府と今の共産党政府に連続性がないことすら知らないのでは?とかんぐってしまいます。

とにかく、この21世紀の現代において、19世紀的な覇権主義を公然と唱えるかのような行動をする中国には気をつけなければなりません。

今日はこれまで。

2011年7月1日金曜日

ドナルド・キーン

以前、「現代の小泉八雲」として彼のことを書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/04/blog-post_28.html

先日、NHKで彼が取り上げられていて、一体日本の何が彼をして「日本という女性と結婚した」と言わしめたのかの一端がわかりました。

彼は戦後、高見順の日記のあるくだりを読み非常に感銘を受けたそうです。その内容は、高見が大空襲の直後に、東京から逃げ出そうとする人でごった返す駅でみた光景を描いた日記でした。おおむね、高見が描いた大意は以下のようになります。

家を焼かれ、肉親を殺されたにもかかわらず、駅のホームで列車を待つ人礼儀正しく順番を待ち、整然と落ち着いていた。私(高見)は、その姿をみて思わず涙が出てきた。私は、この日本人たちとともに生き、そして共に死のうと思った。

おそらく、キーンが最終的に日本への帰化を決定した大きな理由は、今に蘇った高見に描かれた光景であったと想像します。大震災後に、世界から驚嘆の目をもって迎えられた日本人の姿であったのでしょう。

そして、彼は高見と同じように「この日本人と共に生き、共に死のう」と思ったに違いありません。テレビを見ながら僕はそう感じました。

今日はこれまで。