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2011年1月17日月曜日

歴史とは何か

8月の三と一の会「東京裁判」で、その内容は忘れましたが、関根さんに質問されました。その時の僕の回答が

「歴史とは現在と過去との対話ですから。視点が変われば歴史も変わり得ます。」

でした。例えていったのは「石田三成」の評価です。江戸時代、彼の評価は最低でした。「徳川」に弓を引いたわけですからね。それが明治になると、その再評価が行われ、あくまでも秀吉に忠義を貫いた忠臣として世に定着します。



非常にいい回答だと自分でも関心したのですが、これ大昔に読んだ本の記憶からの言葉でした。先日書棚からとった本に、そう書いてありました。

「歴史とは何か」という岩波新書。著者はE・H・カーという歴史学者です。この本は、1961年にケンブリッジ大学で行われた連続講演の内容が全訳されたものです。訳者は清水幾太郎。余談ですが、高校生の頃同人の「日本よ国家たれ」という日本の核武装を説いた本を読んで大感激したのを今でも覚えています。世は、進歩的文化人なる人種の妄説、空語が蔓延している時代でした。

さて、この本はアマゾンでもかなりレビューが記録されてます。好評価です。僕もこの本は、非常にいい本だと思います。著者は次のように言います。

「事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。」


歴史というのは単なる事実の羅列ではなく、歴史家の解釈を内包しているものということになります。つまり、「歴史的事実」として、何人の批判をも許さないというのは大いなる間違いということになります。その批判は、「事実」に対してではなくその「解釈」に向けられているからです。しかも、その「事実」そのものも、それを「事実」として受け入れるか受け入れないかは、歴史家自身の判断に他ならないからです。

そして、次のように言います。

「歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈―この解釈に基づいて、この歴史家にしろ、他の歴史家にしろ、選択を行っているわけですが―で出発するものでもあります。仕事が進むにしたがって、解釈の方も、事実の選択や整理の方も、両者の相互作用を通じて微妙な半ば無意識的な変化を蒙るようになります。そして、歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属しているのですから、この相互作用はまた現在と過去との相互関係を含んでおります。歴史家と歴史上の事実とはお互いに必要なものであります。事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。そこで『歴史とは何か』に対する私の最初のお答を申しあげることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」


 今日はこれまで。



今日はこれまで。


 

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