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2011年1月7日金曜日

文明の病

高坂正堯がなくなって早15年。僕はこの本を1985年5月に購入している。初版は1981年、1984年第24刷と巻末に出ている。

これはタイトル通り「文明が衰亡するとき」を扱った本であり、対象となる文明は、ローマ、ヴェネチア、現代(当時の)アメリカの3つである。

日本的経営を世に知らしめた嚆矢とされる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は1979年に発刊されているが、それが意味する所は、日本企業と日本社会の隆盛と対象的なアメリカの衰退であったことは言うまでもない。

それでは、一体何がアメリカ企業の衰退を生じせしめたのか?

そのいくつかについて、同書の最終章では次のように語られている。言うまでもなく、著者高坂正堯は国際政治学の第一人者であり、経済については門外漢である。

著者は「経験」軽視と「分析」尊重がアメリカの経済活力の減衰の重要な原因であるとしている。言うならば「企業家」ではなく、「管理者」が企業のトップになった時、その「組織」は衰退を始めるのだと。

アメリカの経営者は株主の方ばかり向いており、四半期毎に利益を出さないとすぐにクビになるとは今でも言われていること。要するに投資の利潤を重要視し、元金を早く回収するということ。これでは銀行家と変わらない。そして、市場に目を向ける時には、あまりにも市場調査に眼を向けすぎる。市場調査、即ち分析に重きを置き過ぎることの弊害は簡単に理解できる。なぜなら、消費者は既存の製品、価格、市場という枠組みでその需要を捉えているのであって、そのため彼らの需要を調べる事は既存のものに囚われた将来予測を生みだしてしまうからだ。

1945年に行われた市場調査では、将来のコンピューターの需要は世界中で50代くらいという結果があった。まさに噴飯物。分析とはそういった陥穽の危険がある。

古くはヘンリー・フォード、新しくはスティーブ・ジョブスにしてもビル・ゲイツにしても、彼らをして名経営者足らしめたものは、「商品にかける熱き情熱」と「深い洞察力」であったわけで、分析の専門家ではない。

ところが、

近代の文明は「現場の経験から得られる洞察力」を持つ人間よりも「客観的な分析能力」を持つ人間を育て、そうした人間により多くの活躍の場を与えるところがある。まず、後者は理論化し、体系化できるのに対して、前者はそれができない。マーケット・リサーチや世論調査に上述の欠点があっても、それを使用して得られた結論は数量化された傾向という基礎に基づいている。それに対して、「この製品は売れるという勘がするよ」という言葉は現代人にとって、いかに説得力がないことであろうか。現代の社会で支持を得るのは、ある種の方法論によって整理されたデータを駆使する方である。

と、著者は言う。そして、著名な政治哲学者マイケル・オークショットの「実践的、伝習的知識」と「技術的知識」という言葉をひき、オークショットの言う「すべての活動はこの二つの異なった知識を必要とするが、ルネッサンス以来のヨーロッパを支配して来たものは合理主義であり、それは後者を強調して前者を著しく軽視して来た」と述べたあと、

だとすれば、アメリカの経営の陥った衰弱は、そうした現代文明の傾向が文明の進歩と共に強まったことの帰結と言えるだろう。それは文明の病と言ってよい。


と結ぶのである。

昨年10月に「組織能力とは」と題していろいろ書きました。そこで、所詮組織の能力は、組織を率いる人の「質」によるのだ。しかし、それを定量化することは不可能なため、定量化、普遍化が可能にみえる「組織」というものに逃げ込んだのだと僕は書いたつもりです。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/2.html

僕の言いたかったことも、高坂正堯によれば文明の病ということになる。

しかし、26年前に読んだ本がまた新たな発見を与えてくれるなど素晴らしいことではないですか。この本は捨てなくてホントによかった・・・。

それにしても、ここで何度も元気な企業は皆創業者が率いていると書きましたが、そういうところをもっと真剣に考えなければならない。おバカな民主党政権や、歴史に無知な日経が言うごとく「戦略」があれば、薔薇色の未来が開けるなどというおめでたい考え、というより心理傾向だと僕は思っていますが、それは一刻も早く捨て去るべきだと思います。

今日はこれまで。

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