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2011年1月12日水曜日

再び乃木希典

乃木希典は世捨て人だったのかも知れません。俗世間なんぞは彼の眼中になかったと思います。

彼は、明治10年の西南戦争時に敵に軍旗を奪われた事を拭い去ることのできぬ恥辱とし、「その苦しみとともに後半生を生き」、死処を探すためにその後の人生を送った、彼は生きながらの死者も同然、だから、生きている人間ではなく、戦死者やその遺族に対してのみ、考えられないような愛情を注いだ・・・とすると、いかにも「軍服を纏った聖僧」らしいのですが、これはあくまでも後世のイメージですね。

彼の若い頃は放蕩児でした。毎晩芸子をあげて飲み歩いていたのです。西南戦争が終わってからもその癖は直ることはありませんでした。とはいえ、西南戦争前の「萩の乱」においても、前原一誠配下の実弟が戦死し、乱後には恩師である叔父玉木文之進が自害するなど、体制側にいる自らと実弟、叔父までもが敵となって死を遂げるなどを経験し、さらには西南戦争でのその失敗。彼を慰めるのは「酒」くらいしかなかったのだろうとも思います。

彼が豹変するのは、ドイツ留学の後の帰国後です。それ以来は毎晩飲み歩くことのやめ、どこへ行くにも決して軍服を脱ごうとはしませんでした。40歳の時です。

彼は、当時のドイツ帝国の軍人が体現する歴史と伝統に触発されたと言っていいでしょう。武士道的な「克己」に自己回帰するのです。なぜなら、彼の中では軍人こそが社会の規範とならなければならなかったからです。彼が帰国後提出したレポートは、軍隊を組織として把握する事なく、あくまでも人間の問題、人間の倫理として把握するものでした。そんな人間が近代軍隊の中で有能であるわけがありません。

乃木は戦後、非常に多くの寄付を傷病兵やその遺族たちになします。これは他の将軍たちには見られないことです。確か、親を戦争で亡くした靴磨きの少年にも大金を与えた事実があったと記憶してます。

こんなエピソードがあります。

 ある日のこと、淋しい田舎駅に下りた、田舎爺があつた。その風体といふのが、汚い盲縞の着物を着て、よれゝになった帯をしめ、尻はし折りに草鞋穿き、といふ、きたない爺であつた。
 その爺が、駅前の駄菓子屋へ入って、「このあたりに、村田といふ者の家はないか」と、いったら、店の婆さんが出て来て、ぞんざいに「あるよ、お前さんそこに行くのかい」といつた。
 すると、爺は「その内は今どうして暮してゐるかな」といつた、婆さんは、「あの内の息子は戦争に行つて、戦死をしてから、内は食ふににも食へなくなつた」といふと、爺は暗い顔になつて、「さうかい、気の毒だなあ」といつた。
 すると、婆さんは、「さうだよ、乃木さんに殺されたんだといつて内のものは、乃木といふ奴に一度逢つて、怨みの一つもいつてやりたいと、いつも言つとるよ」といつた。
 爺は聞いて、驚きの目を瞠つていたが、熱い涙がパラゝと頬に伝つた。
 その内、爺は、教へられた身をすごゝと歩いて行つた。
 後で、その爺は乃木さんだつた、といふことを聞いて、婆は腰を抜かさんばかりに驚いた。
(出所:桜井忠温「将軍乃木」)

これは恐らく作られた話で事実ではないでしょう。世間に受け入れられる乃木のイメージがこんな作り話になったのだと思います。ただ、大事なのはこれは乃木でなければ成立しない話であるということ、東郷平八郎や、児玉源太郎ではだめなのです。ただ、乃木希典その人のみで成立する話なのです。

乃木が体現していたのは「仁愛」でもありました。そう世間に受け止められていました。もちろん、政府が彼をそうイメージさせるように仕向けたことは事実です。戦後の批判の矛先をかわすためです。しかし、乃木自身がそれにふさわしい人間でなければ、そんな政府のまやかしなど世間に受け入れられようはずがない。

乃木という人間は間違いなく、この国がかつて持ち、今は亡くしてしまった人間の類型のひとつだったと思います。


 今日はこれまで。

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