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2011年1月9日日曜日

武道の「型」について

新聞によれば、アメリカは南部タリバンの徹底的な掃蕩のため、アフガニスタンへ1400人を増派するらしい。日本ではもうほとんど忘れられているこの「テロ」との戦い。今この瞬間にも多くの兵士が斃れているかも知れないと思うと複雑な気持ちになる。

2007年の夏にデンマークの友人(武道家)が、彼の門下生を引きつれて日本にやって来た。その彼らに2時間ばかり技を教えた。その中に、半年のアフガン勤務を終えて、除隊したばかりだという元デンマーク陸軍兵士がいた。名前は忘れたが、とにかくいい男だった。ほれぼれするような「イケメン」だった。

実際に戦場に出た人間と、戦場など想像すらできない人間では、「武道」というある意味格闘術を学ぶ際に差は出るのだろうなとその時に思った。実際はどうかわからない。宮本武蔵が書き残した「五輪の書」に出てくる、戦い方の定法は今ではほとんど意味をなさない。体重のかけ方、足の運び方からして今の剣道とは全く異なっているのだ。なぜなら、宮本武蔵は、1対多数の戦いを念頭においていたからであり、今の剣道ではそれはあり得ないからだ。

武道には「型」というものがある。最も基本になるものだ。それを繰り返し学ぶことによって、体で「型」を覚え込まねければならない。道元が座禅の仕方だけでなく、日常の作法までも事細かに書き残したように、まずは心ではなく体でそれを覚え込むことと同じだと思う。言うまでもなく「禅」は知的思弁を一切排除する。体で体得するものだという。

「量質転化」

南郷継正という空手家が言った言葉。読んで字の如し。量は何れ質に転化するという。何のこっちゃ?とわからなければ、自転車に乗れるようになったことを思い出すといい。幼い頃練習して自転車に乗れるようになった人は、生涯にわたって自転車に乗れなくなることはない。体で覚え込んだからだ。

「手足身が堅く覚えたその術は、心はさらにいらぬものなり」

という言葉がある。これも武道を学ぶ上での真髄だろう。こうならなければならない。今は格闘家になった吉田秀彦は、柔道を学ぶ若い世代の「乱どり」重視、「型」軽視を非難していた。柔道は「打ち込み」という「型」を何十万回もやらねばならない。変幻自在の相手に対応するには、自分の中に完全な「型」を持っていなければそれに対応できないという。至言である。

僕のやっていた少林寺拳法にも「型」らしきものはある。ただし、開祖は「型」を否定的に捉え、「法形」という言い方に変えていたが、同じ目的を持つものである。少林寺拳法の基本の突きは、かなり独特だ。空手とは完全に異なる。自分の中で「これだ」とわかり、そのとおりの突きができるようになるまで、僕は1年近くかかった。今でも、基本の突き方をみれば、その人がどの程度のレベルなのかはすぐにわかる。

少林寺拳法は2チャンネルでは叩かれっぱなしである。曰く「最弱」「使いものにならない」と・・・。「単なる武道ではない」というその存在意義にあぐらをかき、技術的な改良をしてこなかったことは確かにあると僕は思っている。しかし技術以前に問題なのは、へその上に帯を締めている黒帯が多いことだろう。まるで子供の着物姿である。腰・腹の据え方が全くわかっていない証拠であり、そんな人間に黒帯を与えるなど考えられない。他の武道では、そんな人間が黒帯を締めていることはまず考えられないのではないか。悲しい現状だ。そしてそれを糺さない指導者がたくさんいることがもっと大問題だと思う。


今日はこれまで。

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