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2011年1月20日木曜日

心は即ち理なり

本来ならば、昨日書こうと思ったこと。主観・客観の話の続きです。


「陽明学」というのは大方の人が知らない言葉でしょうね。学校の教科書にはおそらく出てこない・・・。
これは、中国明代の王陽明という人の唱えた学問体系です。それまでの正統、官学であった「朱子学」へのアンチテーゼとして生れた学問体系です。

朱子学といい、陽明学といい、その根本は「人は如何にしたら聖人となり得るか」ということに尽きると思います。ここでいう「聖人」というのは人格的に立派な人くらいに考えてもいいと思います。それぞれの身分によって、例えば国王がそれを修める必要があるのは立派な君子になるためであり、仁政を布くためというように、学問というのは身分差に拘らず、「聖人」になるための方法論ということです。

さて、陽明学の有名な言葉に「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」というのがありますが、陽明学とは自らの心の主体性に重きをおき、認識と行動の一致を求めます。人は生まれながらにして善なるものを持っており(天理)、それが行動に移せないのは、私欲がそれを邪魔するからだという見方をとるのです。したがって、「天理を存して人欲を去る」という心構えを通じて、認識と行動の一致を求めます。これが「知行合一(ちこうごういつ)」といわれるものです。即ち「知ったからには行わなければならぬ」という、行動を促すためのものと言っていいでしょう。なぜなら、それが人の心に備わってる善の心=天理の発露に他ならないからです。

日本では、17世紀の中江藤樹、熊沢番山が陽明学者として名高く、教科書で習うはずの「大塩平八郎の乱」の大塩平八郎は陽明学徒でありましたし、佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛、河井継之助もその学徒でした。松陰がアメリカ密航に失敗して捕えられた時に詠んだとされる「かくすればかくなるものとしりながらやむにやまれぬ大和魂」という句などは、陽明学の「知ったからには行わなければならぬ」という哲学を、まさに表しているといえるでしょうね。

前置きが長くなりました。今日は陽明学の紹介ではなく、王陽明とその弟子の問答を紹介したかったのです。

山深く人跡未踏の地において、弟子が岩間に咲く花を指さしながら、師である陽明にこう尋ねるのです。

「先生は天下には心の外に物はないと言われますが、この花木などは、深山の中で自然に咲き自然に散ってゆきます。われわれの心とどうしてそれが関係ありましょうか。」

陽明答えて曰く

「君がまだこの花を見ない間は、君にとってはこの花は存在しなかったし、この花も君の心と一緒に静寂に帰していた。しかし君がここに来て、この花を見たとき、この花の色はたちまち明るくはっきりとしだであろう。つまりこれでこの花が君の心の外に在るものではないということが分るではないか。」

これは、一昨日のボーアとアインシュタインの論争を彷彿とさせるではないですか。しかも、その前の主観と客観ということにもつながって来る。陽明は、「心を離れて事物は存在しない」と言い切っています。

驚くことには、陽明のその言葉が「科学」という実証世界の中にあっても確からしい事実としてあるということ。一体、この「世界」の存在とは何なのでしょうか・・・。

今日はこれまで。

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