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2011年1月8日土曜日

イドラ 

近代科学の祖とされるフランシス・ベーコンは、「4つのイドラ(偶像)」というものを挙げ、それが「真理」への道を阻害していると言った。

「市場のイドラ(偶像)」とは、市場における人々の交際の際に作られる言語に執着する傾向を指します。言語は便宜的価値しか持たぬ単なる記号に過ぎず、大衆が市場で不用意に作った概念に基づいたものである。そのような言語を事物そのものと考えるところに、偏見が生じる。そこでベーコンは「事物そのものを観察せよ」と警告したのである。

「洞窟のイドラ」とは、個人的な何かにとらわれているために事実をありのままに把握することのできない偏見をいう。洞窟につながれた人間は広い世界をありのままに見ないが、それと同じく、個人的性癖によって事物間の類似にばかり注意し過ぎたり、反対に事物の差異にばかり注意し過ぎたりする傾向がしばしば見られるという。

「劇場のイドラ」とは、僕等自身の思索に頼るよりも権威や伝統に頼ろうとする精神的傾向をさす。ベーコンは「舞台の上の手品に惑わされてはならない。他人を信ぜずに自己自身を観察せよ」と言った。


「種族のイドラ」とは、人間という種族、すなわち人類の本性にもとづく偏見をさす。例えば、感覚の錯覚のごときもの、自然現象を観察する際に人間の行為を基点にした類推によって目的関連を見いだそうとする擬人観のごときものがそれだと言う。


果たして、人間の認識はこの4つから自由になれるのだろうかとつらつら考えると、どうもそうはなれまいと思う。そもそも言葉というものが、歴史と伝統を担っているものであり、言葉を抜きにして人間は思索できないのだから、日本人が日本語で物事を認識する際には、既にイドラにとらわれていることにならないか。これはイギリス人でもフランス人でも同じこと。ある意味、人間というのは実に不自由なものとも考えられるなくもない。生まれながらにして「○○人」という歴史を背負うからだ。そしてそこからは逃れることはできない。

「人間の権利(=人権)などない。あるのは○○人としての権利だ。」

と喝破したのはエドマンド・バークという英国の政治家・哲学家。フランス革命を批判したことで有名ですが、世に言う「人権」なるものにいかがわしさを感じる僕にとってこれは至言です。そもそも、単なる生物学的な人間にそんな権利が与えらるなど、不可解極まりないでしょう。そういう傲慢も「近代」のもたらした一つの害悪だと考えることが当然だと思います。なぜなら、神の創造物の頂点にあるからこそ、それ以下の生き物を、自然をいじくり回し、破壊して来たのが「近代」であるからです。

最近、「犬飼いたい病」にかかっている娘は、純血種にしか眼がいきません。ペットショップで売られているのが皆そうだからです。人為的な犬の交配により多くの犬種を生みだした歴史はいつからのことなのかわかりませんが、人間の都合のよいように、犬をつくり変えるわけですから、この心性には「おぞましさ」さえ感じてしまいます。


「人間がそんなに偉いもんだとは知らなかった」

とは、江戸の文明に生きた人々が、キリスト教的価値観(つまり、人間がトップで君臨する世界観)を聞いた時の驚きでした。江戸人にとっては、生きとし生けるものそのすべてが共に暮らす仲間だったわけです。これは前にも書きましたね。

「牛の乳は子牛が飲むもんだ。人間が盗るべきものじゃない」と言った心性や、馬の去勢、調教さえしなかった江戸人は、まさに「人権」がもたらす害悪とは無縁の社会を生きていたことになります。

そして、そういう心性の人々が暮らす社会だからこそ、「近代」をまとった外国人に「この世の楽園」と言わしめたのだと思います。

今日はこれまで。

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