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2011年1月13日木曜日

日本史と世界史を比べると その1

 先日1月8日に、書棚からたまたま手にした本は、偶然にも「1984.1.8」と書いてありました。27年前の同日に買ったものでした。

「日本を見なおす」という現代新書です。その偶然に驚き、そのままパラパラと読み進めましたが、なかなか面白いことが書いてあって、「なるほど」と思う事が多かったです。著者は西洋中世史を専門とする文学博士ですが、その本は日本と西洋の歴史を比較したもので、「消極的・情緒的な女性=日本」と「積極的・論理的な男性=ヨーロッパ」と、その歴史的個性を表現していました。

同書を読んでその認識を新たにしたことがあります。それは著者がいう日本とヨーロッパの文化的な類似性です。ここでいうヨーロッパとは、西ヨーロッパと考えて下さい。ドイツ・フランス・イギリス・オランダ等です。世界史一般の通例では、ヨーロッパと言うとき、そこに地中海地方が含まれます。ギリシャ・ローマの文化的影響こそが、後のそれを形作ったからです。しかし、著者はそれを区別します。そうすると次の図式が成立します。

西ヨーロッパ=文化的辺境=中心はギリシャ・ローマ
日本     =文化的辺境=中心は中国・朝鮮

両者の地理的関係がそのまま文化的な中心・周縁の関係を生みだす事になります。要するに、両者とも、先進文明であったギリシャ・ローマ、及び中国・朝鮮をそのお手本として歩みはじめることになるのです。

1.古代

ここでいう古代とは、日本では平安朝時代、西ヨーロッパではフランク王国時代(5世紀から9世紀)までを指します。この時代は、両者ともに文化的な中心であり、お手本となる地域のまねをします。平城京、平安京がそうですし、律令制度というのもそうです。フランク王国は、ローマやビザンチン帝国のまねをして中央集権的官僚国家をつくります。ここでの政治的中心は、天皇と皇帝、国王。両者ともに「神」の権威をまとい、政治的権力とその権威は一致していました。ちなみに、「皇帝」というのは、「国王」よりも上の存在で、地上における「神」の代理人ともいうべき絶対の立場です。フランク王国の国王は、ローマ法王よりその位を授けられ、地上における「神」となって支配するわけです。

この時代の西ヨーロッパでは、キリスト教は民衆には浸透していません。支配階級だけのもので、圧倒的多数は、昔ながらの土俗信仰、即ち祖先崇拝、自然物崇拝、死者供養などの世界で生きていました。日本でも同様です。しかし、なぜその信仰形態が今に今に至るまで残っているのかは、それはそれで非常に興味深いことでもありますが、今日はそれには触れません。

2.中世

祭政一致の神権による中央集権支配が崩れ、田舎者の封建領主が権力を握ったのがこの時代です。フランク王国は分裂し、ドイツなどの王国を生みだし、日本では鎌倉幕府が成立します。ここでは、古代のように政治的権力とそれを支える権威は一致いていないのが特徴です。日本では天皇による「征夷大将軍」の任命によって幕府は正当な権威をもちえることになりますし、西ヨーロッパでも、ドイツ王(皇帝)はローマ法王、フランス王はランス大司教、イギリス王はカンタベリー大司教に任命されて、その権威をまといます。ここでは、国家は二つの頭をもっていたことになります。

この時代になると、支配階級のものだけであった宗教というものが、広く一般民衆の中に根をおろして行くことになります。それまでの宗教の教義の変更です。日本では本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説が起こり、それまでの土俗的な神々は、すべて本地である仏に結び付けられるようになるのです。土俗信仰の中心とも言うべき祖先崇拝が仏教儀式に採り入れられたのもその現れです。
西ヨーロッパでも、カトリックの教義が出来上がるのがこの時代、それまでは異端であった聖者崇拝や、聖母マリア崇拝が祭式の中心になります。

さらに特徴的なことは、「学問と宗教との調和」です。日本では室町時代の五山文化です。この中心となったのは五山の禅僧ですが、彼らは「儒・仏」一致の原則を打ち出します(儒は儒学)。西ヨーロッパでこれにあたるのは「スコラ哲学」です。そこではギリシャ哲学とキリスト教の調和が追及されます。要するに、本来全く異なるはずの「俗」と「聖」を融合させたということです。同じような文化的な動きが両者にあったのは驚きですが、封建秩序が弱く、政治的なt統一・結合が弱い時代だったからこそ、文化的な統一・結合が求められた時代であったわけです。

3.近世

中世の弱かった政治的な統一・結合が強化されたのが近世と言えます。この時代の政治的な権威の任命者の力は弱くなり、権力の強さが目立つようになります。天皇の威光は幕府によって支えられ、西ヨーロッパでも「王権神授説」が唱えられ、法王や大司教の任命権は形式的なものになります。

この時代の文化的な特徴は、前時代の「統合」から「分裂」へと様相を変えます。「ルネサンス」として知られる「復興」もその一つです。この特徴はギリシャ・ローマの古典研究が重視されたことにあり、中世のスコラ哲学への反逆でもありました。むりやりくっつけたのを、切り離そうとしたわけです。「神からの解放」とも呼ばれますが、日本においても江戸時代初期の林羅山が、室町時代に行われた儒・仏一致の原則を批判し、儒学を仏教から解放しようとしました。これも「ルネサンス」といえるでしょう。以後は、西ヨーロッパではギリシャ・ローマの古典、日本では儒学が支配者層の欠くことのできない教養となっていくわけです。

この切り離しは、「合理と非合理」の区別といっていいでしょう。そしてそれは、後に「自然科学」の成立と発展につながっていくのです。17世紀には、ガリレオ、ベーコン、デカルトがその名を残し、日本でも和算の関孝和、「農業全書」を著した宮崎安貞が現れます。ここでも、西ヨーロッパと日本の状況は同じようなものになります。


交わる事のなかった両者ですが、その歴史的な歩みは驚くほど似通っています。しかし、その両者が初めて濃密に交わることになった19世紀末になると、西ヨーロッパは明らかに日本よりも「合理的」なもので進んでいました。とはいえ、大きな差とはいえません。イギリスを別にすれば、明治維新(1867年)を基準に考えれば、アメリカ南北戦争の終ったのはその3年前、イタリア統一が7年前、ドイツ統一、及びフランス第三共和政成立が3年後です。

日本は動力機械を使用しない文明の中でで、おそらく最高度に発達していると、幕末に訪れた多くの外国人が記録したように、日本は独自の発展を遂げていたのです。「合理的」なものだけが日本は遅れていたわけです。

この続きは明日にします。

今日はこれまで。

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