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2010年6月29日火曜日

懺悔

蒸し暑い日が続きますが、みなさん御機嫌いかがでしょうか?

今日はサッカーの話題です。
日本人の一人として、本日の日本代表の健闘と勝利を望みます!
何としても勝ってくれ!!!

かつて一度仕事を一緒にした造園コンサルタントの方に筋金入りのサッカーファンがいました。1978年のアルゼンチンでのワールドカップから、かかさず観戦に行っているとのこと。
彼は日本中のサッカー場を芝生にしたいとの夢をもち、造園コンサルタントの道に進んだそうです。
オフィスも国立競技場の近くにあるほどです。
午前中の打合せにもかかわらず、U17の国際大会をを朝方まで観ていたと、眠そうな目をこすっていたのを思い出します。

僕は、1990年代初めのオフト監督時代から日本代表を意識するようになりました。オフトが監督になるまでは、ワールドカップに日本が出場できるなど、大方の人は想像すらできなかったと思います。僕もそうでした。有名な話ですが、オフトが日本代表監督に就任する前、確か、マツダのサッカー部のコーチとして招かれた時、サッカー部メンバーの顔写真をみただけで、8割くらいのポジションを言い当てたそうです。日本代表(日本のサッカー)の躍進は彼によって始まったと思います。

1998年のフランスワールドカップ。臨時に監督となった岡田監督は、「1勝1敗1分けでグループリーグを突破する」と公言してました。戦う相手はクロアチア、アルゼンチン、ジャマイカでした。すぐに推測出来るとおり、ジャマイカに1勝、アルゼンチンに1敗、クロアチアに1分けと、星を読んだのでしょう。僕は、監督が言ってはいけない言葉だと思いましたね。選手のどこかに「一つは負けてもいいんだ」という気持ちが芽生えるのは当然ですから・・・。結果は3敗でした。

2002のトルシェジャパンの時もそうです。決勝Tに進出してすでに満足していましたね、トルシェは。
「ここからはボーナスだ」と言った彼の言葉にそれがよく現れています。
岡田監督は、それを戒めとしているようです。だから最初からベスト4と公言したのかも知れません。

大会直前の日本代表の戦いぶり、試合結果をみて「岡田監督では駄目だ」と多くの人が思ったのではないでしょうか?それが今では、それに口をぬぐっています。僕もその一人でしたから、「懺悔」です。今になって岡田監督を褒めるなら、それまでの自分の物言いを撤回して謝るべきでしょうね。
サッカージャーナリストの人々は・・・。

日露戦争が終り、史上空前の勝利を成し遂げた聯合艦隊を解散するとき、東郷平八郎は次の言葉でその解散の辞を締めくくりました。

「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」

日露戦争中、日本のファンであった時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは、それに非常に感銘を受け、英訳したものを彼のスタッフに配ったと言われています。

パラグアイに勝ち、次の試合、日本対スペインかポルトガルとの試合を何としても観たいですね。








2010年6月22日火曜日

「坂の上の雲」から考える

「坂の上の雲」は、いつだったかの「文藝春秋」で、企業経営者の最も好きな本として確か第1位に挙げられていました。昨年末の第1回放映とも相俟って、再びその人気に火が付いているようですね。司馬遼太郎は、生前その映像化について非常にナーバスになっていたといいます。彼は日清・日露の戦いを明確に「祖国防衛戦争」と言い切っていますが、それを映像化することを躊躇していました。

僕にとって同書は何度も読み返した本の一つですが、放映は観ていません。さらにいうと、「坂本龍馬」は僕の好きな人物の中の一人ですが、やはり今の「龍馬伝」は観ていません。

「坂の上の雲」は秋山好古、真之兄弟を話の中心においた明治期日本の青春群像と、国家の隆盛を重ね合わせたようなものです。感情移入がしやすく、あの頃の日本に対して多くの読者が共感を覚えるのではないかと思います。

さて、企業の寿命30年説というのがありますね。前回紹介した三品和弘によると、30年というのは「企業」ではなくて「事業」と考えるとわかりやすいとしています。なにも無いところを耕し、種をまき、実を結び収穫する。しかし、やがて土地が痩せて来て収穫量が減る。それがひとつの事業の終りだと。偶然なことに30年というスパンは人間の代替わりとほぼ同じなのです。

まさしく皇国の興廃をかけた日露の戦いは明治38年(1904)に起こりました。明治日本の国内体制の完成を最後の内戦である西南戦争(明治10年)後であるとするなら、約30年後にそれを迎えることになりました。日露戦争後、児玉源太郎をはじめとする維新の経験者の多くの寿命が尽きていることを考えると、また、維新の経験者を「創業者」と捉えるならば、あの戦争は明治日本創業者たちの最後の仕事となったことになります。創業者というジェネラリストが、二代目の戦争のスペシャリスト(陸軍大学、海軍大学を卒業したエリート将校)を使いこなして戦った戦争というわけです。
しかも、二代目も江戸末期生まれであり、道徳的支配者としての「武士」のモラルを濃厚に引き継いでいたことが幸いしたように思います。司馬遼太郎は、その例として明治期日本の汚職の少なさを「世界史の中で稀」としていますね。

余談ですが、そのひとつのエピソードとして、明石元次郎大佐の話をあげましょう。明石大佐は命令により、ロシアに潜入して帝政反対勢力を結集しロシア国内に革命を起こそうと奔走しました。かれは当時の日本の国家予算の0.6%(不正確)だかをその活動資金として支給されてましたが、帰国後残金を1銭たがわず、明細書と併せて返納したといいます。

日露戦争後、創業者であるジェネラリストは死に絶え、二代目以降のスペシャリストが軍を率いるようになります。その二代目、三代目は何をしたか?司馬遼太郎ふうにいえば、彼らは国を滅ぼしました。象徴的なのが日露戦争後約30年の昭和14年(1939)「ノモンハン事件」です。これは満州と蒙古の国境紛争なのですが、ソ連の機械化師団に日本軍は完膚なきまでに惨敗するのです。日本軍の戦法は前に説明した「白兵突撃」です。鉄のかたまりに肉のかたまりで正面からぶつかったわけです。この事件については、いずれまたご紹介します。昭和期の日本は、創業者の遺産にしがみついていたといえるでしょうね。痩せた土地で同じ作物を植え続けていたわけです。

日本の高度経済成長は昭和30年(1955)から始まったといわれています。日本経済を牽引したのは、創業者が率いる企業が多かったのではないでしょうか?あくまでもイメージです。検証してません。ただ、代替わり、または事業の寿命をを30年とすると、妙に符合します。1990年代(平成初頭から中期)から日本は失われた10年とよばれる長い不況時代に突入します。多くの企業で創業者から代替わりした時代だからと言えなくもありません。


江戸幕府が15代続いた原因をもっと考えるべきなのかも知れませんね。

2010年6月18日金曜日

やはり名著だ・・・

早いもので、3と1の会も来月の開催が第29回の開催となる。その第1回は、私が講師を務めて左記の「経営戦略を問い直す」を皆さんにご紹介した。僕自身は、この本で著者三品和弘を知り、その後彼の全著作をそろえた。そのすべてが非常に面白かった。「戦略」という言葉を使いさえすれば、なにかしら高尚な感がする、頭を使った感がする。ただそういう空気に流されてその言葉を多用しているだけなのが現実の姿だと、著者は言いきっている。単なる「戦術」にしかすぎないものまで、「戦略」という言葉を使っているため、真に「戦略」といった言葉でしか定義できない「なにものか」を伝える術を失ってしまっていると。

著者は、経営戦略とは「長期利益の極大化」を目的としたものに他ならないと断言する。10年単位での長期利益の極大化こそが目的だとしている。


著者は「戦略」という言葉の誤用の例として、2001年の日経ビジネスの記事から、当時のアサヒビールでの例を挙げている。アサヒビールでは、本社のスタッフ部門に人事戦略部、経営戦略部、IT戦略部と、その語を用いた。それは「スタッフは戦略を考えてほしい」という経営トップの思いが反映されているからだそうだ。

著者いわく、「ここにあるのは『頭を使って仕事をしてほしい』という願望であって、その願望を表すために戦略という言葉を流用するのは拡張解釈の域すら超えている」と・・・。

もうひとつ。ソニーのサイバーショットP3の成功についての日経ビジネスの以下の、
「鈍化しているデジタルカメラの伸び率を復活させるべく選んだ戦略の結果だった。同社のデジタルカメラ事業を再離陸させるためには、女性のデジタルカメラ初心者をいかに獲得するかが課題だった。同社は20~30代の女性新規ユーザーを獲得する案を練った」
という記事を、「これはクラウゼヴィッツが定義した『戦術』そのものである。」とばっさり斬っている。商品個々の競り合いは、軍事用語でいう交戦に相当する。いかに勝つかという関心は、時間の流れの下流でしなかく、戦略は同じ時間のもっと上流に位置する。すなわち「戦うか否か、または今か後か」である。それこそが戦略の領域であるとしている。

著者は誰でもいつでもつくれるようなものは戦略の領域には属さないとし、長期利益の極大化を成し遂げた日本企業の中からいくつかの重要な事項を指摘している。それは、「長期利益の極大化を成し遂げている企業の社長の任期は全て10年以上である」ということである。社長の長期任期が成功を約束はしないが、成功企業の全てで経営のかじをとるトップは10年以上の任期を務めているというデータを紹介している。同じ業界に属し、創業も同じころの「キヤノン」と「ニコン」、「花王」と「ライオン」の企業収益の差、どちらも前者の成功は長期にわたって舵取りをおこなってきた経営者の心眼にこそあったとし、「戦略は為すのではなく、むしろ読むことにある」と断言している。


以上の論を敷衍、さらに掘り下げたのが左記の本で、こちらは冒頭に、日本の三大ハムメーカー、日本ハム、伊藤ハム、丸大ハムの企業業績の比較から始まっている。いずれも創業は同時期で、であったこの3社の業績の推移を載せ、今では比較にならないほどの差を残り2社につけて業界首位にたった日本ハムの成功の原因は、20年以上社長に君臨した創業者であったということを推測させている。他2社ともに、創業社長が亡くなり二代目社長になった時から凋落が始まっている事実があるのだ。

この本は日本の上場企業1千社超の、約50年にわたる長期の業績から、利益の極大化を成し遂げ続けている企業が僅か数10社しかないことを明らかにしている。

1970年代だった思うが、エズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになり、日本的経営の良さが、アメリカから発信された書籍によって再確認された時期があった。当時の日本企業は世界市場をまさしく席捲し、米国企業の凋落が騒がれた時期であった。これも、著者の示したデータから考えると、当時の日本企業の経営者は創業者が多く、一方の米国企業は2代目、3代目経営者が多かったからと言えなくもないし、事実その通りでもあった。

翻って、現在はどうか?元気な日本企業は、やはり創業者が経営のかじ取りをおこなっている企業ばかりである。「日本電産」しかり、「ユニクロ」しかり、「ソフトバンク」しかり・・・。ソニーの凋落は盛田氏が亡くなってから始まり、今では韓国サムスンに売上を抜かれてしまっている。サムスンは創業者が率いている。

創業者と2代目、3代目社長の差は何なのでしょうか。僕にはよくわかりませんが、ひとつは「勇気」があるか否やではないかなと思います。

「西郷南洲遺訓」にこうあります。

「事に当たり思慮の乏しきを憂うることなかれ。およそ思慮は平生黙坐静思の際に於いてすべし。
有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当たり率爾に思慮することは、例えば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し」

「戦略」は誰もが「バカな」と思うことをやり遂げるからこそ成功し、その真意をきけば「なるほど」と納得するもの。思慮がすぎれば「バカ」なことをやりとおすことができなくなってしまうからではないでしょうか。勇気の問題かなと思う所以です。

「創業」の成功が次世代の成功を約束しないのは歴史をみれば明らかですね。鎌倉幕府の源氏政権は3代で終り、豊臣政権は僅か1代で亡びました。秀吉は仕組みを残して自らの政権を存続させようとしましたが、失敗しました。この話はいずれまた。


著者三品和弘先生(神戸大学の教授)は、最近新刊を出しました。左記の本です。多分、奥田さんが買ってくれることになっています。


それではまた。

2010年6月15日火曜日

いろいろ思う事

20年ほど前になりますが、イギリスにいた時のイギリス人の友人が日本に職を得て初めて来日した夏に、日本の蒸し暑い夏にやっつけられ、1カ月で体重が7キロも落ちたそうです。アジアの蒸し暑い夏は、欧州のカラッとした暑さとは別物ですからね。毎年、夏になるといつもそれを思い出します。もう一つ彼の事で印象的なのは、僕らが夏の風物詩として感じる蝉の鳴き声を非常に不快な顔をして、「あれは何の音だ?」と僕に尋ねたこと・・・。かなり広く知られていますが、日本人は虫の鳴き声まで言語を司る左脳で処理するのに対し、日本人以外は虫の声はあくまでも雑音でしかなく「右脳」で処理するということ。日本人が第二外国語を学ぶのに苦労するのは、そのためでもあるらしいですね。

本を書き上げて以来、1ヶ月半ほど「活字」に食傷してまして、一切の読書はしていなかったのですが、その反動でしょうか、ここんところ、毎日1~2冊のペースで蔵書をひっくり返して本を読みまくってます。何回目の読みなおしかはわかりませんが、「八甲田山死の彷徨(新田次郎)」で、再びリーダーシップについて考える事がありました。今でも明確に覚えていますが、僕の中2の夏ごろ、13歳のことですが映画で「八甲田山」を観て、非常に感動しました。芥川也寸志(芥川龍之介の子供)作曲の同映画のサントラ盤まで買ったことを憶えています。映画を観たあとに、買ったのが同書です。今から思えば何と早熟な子供だったのかと思います・・・。今でもリーダーシップ研修の題材に使われるらしいですよ、その映画は。

この話、御存じでしょうか?

主人公北大路欣也演ずる青森歩兵第五連隊の神田大尉は、高倉健演ずる弘前歩兵第31連隊の徳島大尉とともに、日露が開戦し、津軽海峡がロシアに占拠された場合の日本列島の東西の連絡が可能か否かそれも冬季の。それを課題として与えられるのです。命令ではありません。徳島大尉は約30名の小数精鋭を以て冬の八甲田山を踏破する計画を立て、神田大尉も同様に小数精鋭をもってそれにあたろうとします。ところが、神田大尉の方は、直属の上官である山田少佐がそれに異を唱えます。「31連隊と同じような編成では5連隊らしさがでない」と。そのため、5連隊は結局約200名にも及ぶ大部隊での計画となり、しかもそこに山田少佐も参加するということになります。これを知った5連隊の連隊長は、指揮権の不明確になることの危惧を表明しますが、山田少佐の「指揮官はあくまでも神田大尉であり、私は単なる附き添い」の弁明に、最終的に許可を与えます。

徳島大尉の計画は、「無謀すぎる」と再考を求められたほどでした。それは10泊11日にも及ぶ大遠征だったからです。八甲田山に入る前に、充分に冬の寒さに慣れさせようとした徳島大尉の綿密で周到な計画でした。行程にはすべて地元猟師等の道案内を付け、民家に宿泊するという計画でした。
神田大尉も、道案内なしで冬山へ入ることの危険性を十分過ぎるほど知っており、道案内を確保していましたが、指揮権のないはずの山田少佐に「そんなものは無用である」と言われ、地図とコンパスだよりに八甲田山に向かわざるを得なくなります。5連隊の計画は2泊3日の行程でした。地理的に徳島大尉とは違い、冬の雪山に馴れることなく入っていきます。

5連隊の行程初日から、今までに例をみないほどの低気圧が八甲田山を蔽い、案内人を持たない200名は雪の嵐に翻弄されます。随行軍医から「雪中行軍の中止」を進言された神田大尉は、行軍の中止を決断しますがそれが声になるより前に山田少佐の「出発!」の声に空しく消されてしまいます。指揮権はいつの間にか山田少佐に完全に移ってしまっていました。

猛吹雪と胸までつかる積雪にあえぎながらも先頭に立つ続けた神田大尉ですが、途中ある下士官の進言を不用意に受け入れた山田少佐の命令に、完全に道を見失ってしまいます。地図とコンパスから導き出したルートは違うルートへ導かれてしまうのです。そこから、200名の遭難が始まります。

この映画のキャッチコピーが「天は我々を見放した」でした。これは、帰路を見失ってどうにも動きがとれなくなってしまったときに神田大尉が絞り出すような声で叫び、立ちつくすシーンから採られた言葉です。人事不省に陥ってしまった山田少佐にかわり、最後まで指揮統率に努めてきた指揮官のこの絶望に、回りにいた兵士たちは次々と斃れていきます。

全隊員が無事に踏破した31連隊に対し、5連隊は生存者僅かに10名でした。生存者はほとんどが凍傷にかかり、手足の切断を余儀なくされ、五体満足で生還したのは2~3名程度だったと思います。世界の山岳史上最大の遭難事件でした。

この事件から何を読み取るか、みなさんにまかせましょう。

もう10年以上前になりますが、女房と700キロ向うの八甲田山へ出かけたことがあります。テントを積んで3泊4日の旅行でした。八甲田山を目前に控えた僕は感慨無量でした。あの時の感動は何ともたとえようがありません。

御存じかと思いますが、作者新田次郎は「国家の品格」の作者藤原正彦の父上です。

それではまた。

2010年6月14日月曜日

タイムリーではありませんが・・・

第94代の日本の総理大臣に管直人が就任しましたね。
何でも、支持率は59%にも上っているそうです(6月14日読売新聞)。

これまで、眼のうつろな御仁についてはこのブログでもかなり批判して来ました。
信念もなく、リーダーシップはとれず、しかも「友愛」などどいう言葉を恥ずかしげもなく使う、
さらには「命が大事」だ等と言う・・・。彼の御仁は私にとって不倶戴天の敵も同然でした。

私自身は、新総理に対して好悪の感情はほとんどありません。
世襲議員ではなく、草の根の市民運動家あがりの総理ということですが、
政治信条はさておき、政治家としての力量、資質については私は判断できる要素をあまり持っていません。
しばらくはお手並み拝見でしょうね。
彼の目指そうとしている、おそらく「大きな政府」も明確なひとつの政治理念であるでしょうから、
「小さな政府」の対立軸となりますし、その両者の密度の濃い議論が衆目にさらされることになれば、
少しはこの国の「民意」とやらもムードに流されないだけのなにものかを得る事ができるようになるかも知れません。

来月の参院選はどうなるんでしょうね。
民主党が過半数を獲得してしまったら、もう民主党のやり放題となります。
それを是とするか非とするか・・・。
逆に、民主党が過半数を獲得できなかった場合は、完全な「ねじれ」となって政策はかなり停滞するでしょう。
どっちに転んでもあまり好ましい状況ではないですね。

最後にどうしても言いたい事は、「マニュフェスト」なるものの空しさです。
衆院選でそれを掲げて戦った民主党は、一体いくつのそれを実現できたのでしょうか?
それをきちんと総括せずして、またもや「マニュフェスト」なる「空語」をまき散らすのは本当にやめてほしい。
そもそも、国防予算に匹敵するほどの財源が必要となる「こども手当」は、彼らは「予算の組み替え」と「無駄を削る」ことによって十分に捻出できると言っていたのですよ。「事業仕分け」なるものの目的は、そこにあったはずです。しかしながら、いざふたをあけてみたら、1兆円にも満たない予算削減しか成果を挙げられなかった・・・。成果は目的に対して測られるものですから、その意味で事業仕分けは成果0ですよ!国の事業の無駄が明らかになったとかいうのは成果でもなんでもないはずです。

野党時代の情報と政権与党の情報は当然差があるはずでしょうから、政権与党になってよく検討してみたらとてもじゃありませんが、マニュフェストのいくつかは絵空事でした、ごめんなさい、とはっきり総括して言うべきでしょう。そして過ちを認めたら、それを正せばいいのです。それが最低限必要な礼儀だと思うのですが。

2010年6月11日金曜日

組織の不条理 最終回

 3回に渡って無謀な白兵突撃を繰り返した日本軍の行動の裏には、一般的に日本軍に内在した非合理性が指摘されています。「失敗の本質」(中公文庫)がそうです。グランドストラテジーの欠如、情陸海軍で情報を共有しない、情報を軽視した作戦立案等々・・・です。
 なぜ、日本軍は白兵突撃戦術を変更できなかったのでしょうか?問題はそこにつきます。日本陸軍には日露戦争の戦勝後に策定された「歩兵操典」というのがありました。そこには兵器、兵力の劣勢を補う精神力が強調され、その強靭な精神力に支えられた攻撃精神に基づく歩兵の銃剣突撃こそが戦いを決するとされていました。そしてそのように歩兵の装備と、それを中心とする戦闘集団の装備、日々の訓練が決められていたのです。
 米国の圧倒的な火力を前にするまで、その戦術で日本陸軍は成功を収めてきました。満州事変、支那事変での中華民国との戦い、大東亜戦争勃発後のマレー、シンガポール、フィリピン攻略戦、すべてこの白兵突撃で作戦を成功させてきました。多くの成功体験と自信があったのです。この戦術がデファクトスタンダードとして成立していたのです。したがって、これを放棄してより効率的な戦術へと作戦を変更すれば、日本陸軍は巨額のコストを負担しなければならなかったわけです。仮にそれを変更することは、これまで数十年に渡って積み上げてきた白兵突撃を勇猛に指揮する事のできる指揮官や兵の育成、ひいてはその戦術をもとにした戦闘組織など、すべてが埋没コストとなってしまいます。しかも新たな戦術を採用するにはその調整コストも膨大になります。
 
 同書では次のようにまとめています。
「もし日本陸軍が戦闘を中止し、撤退し、そして白兵突撃戦術を放棄すれば、日本陸軍は膨大な埋没コストと取引コストを生みだす様な状況に置かれていたのであす。とくに、ガダルカナル戦では、白兵突撃戦術を放棄し、より効率的な戦術に変更することによって得られるベネフィットよりも、それを変更するために必要な埋没コストと取引コストがあまりにも大きい状況にあったといえる。(中略)換言すれば、日本陸軍によって白兵突撃戦術を放棄し、膨大なコストを発生させ、そのコストを確実に負担するよりも、未来に向かって白兵突撃戦術のもとにわずかな勝利の可能性を追求したほうが、合理的だったのである。」

 合理的な選択をしたがゆえに、ガダルカナル島の悲劇を生んだというわけですね。


 同書は「合理的な選択をしたゆえに非効率と悲劇を生みだした」という新しい見方を示しています。他にも「インパール作戦」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6)について、なぜ反対者の多かった無謀な作戦が実行されたのかという問題を、そして不条理を回避した事例として「硫黄島の戦い」「沖縄の戦い」などを紹介しています。しかし、なぜ不条理を回避したかについては、すべて後知恵で理屈を付けているように僕は思います。不条理を回避した原因は、組織ではなく「人」そのものにあったと僕は思うのです。映画にもなった「硫黄島の戦い」では、結果的に島を奪われましたが、守る日本軍よりも攻める米国海兵隊の戦死傷者の方が上回った最初で最後の戦いになりました。これはこれまでの水際撃滅作戦を回避して地下陣地に潜って執拗にゲリラ戦に徹した戦術をとった司令官栗林忠道の力によるものでしょう。同書は「沖縄の戦い」も不条理を回避した事例として挙げていますが、僕はこれには疑問です。沖縄も当初は白兵突撃を固く戒め、兵力を温存して本土決戦準備の時間を稼ぐという目的に徹していました。これは八原博通という作戦参謀の立案した戦術です。しかし、陸海軍中央の執拗な作戦変更指示に結局は従ってしまうのです。情に負けたのです。戦艦大和は特攻出撃した。毎日陸海軍の特攻機は沖縄海上の米国艦船攻撃をおこなっている。なのになぜ沖縄地上軍は外に出て華々しく戦わないのか!という感情論に屈したのです。結果的に、その華々しい戦いは、守る沖縄地上軍の壊滅の時期を早めただけです。この八原参謀は、珍しいケースですが自ら投稿して米国の捕虜になっています。そして沖縄戦の実相が今に知られたわけです。

 同書の帯には「破綻に突き進む組織にしないために」とあります。それは制度の問題ではなく、組織を構成する「人」そのものに焦点をあてる必要があると思います。

 3年8カ月に及んだ大東亜戦争の実相を学ぶことは、戦略、組織、制度、人材、そのすべてにおいて最高の教科書となると僕は思います。


 

2010年6月9日水曜日

組織の不条理 その3

 ガダルカナル島は、オーストラリア大陸の北東に連なるソロモン諸島にある。日本海軍はそこに昭和17年(1942)7月に飛行場建設のために約3000人を上陸させました。そのうちの2500人は労働者であり、戦闘部隊ではありませんでした。帝国海軍は米豪分断のために、そこに飛行場を建設したのです。それを陸軍は知りませんでした(!)。米国は、日本が飛行場を完成させたのを見計らって、海兵隊、兵力約11千人を上陸させました。一方僅か500名の兵力しか持たない日本軍はなす術もありません。あっという間に飛行場は奪われてしまいます。
 日本陸軍は、島の奪回のために兵力2600人の先遣隊を組織します。当初、日本陸軍は米国によるその島の占領を威力偵察と推測していました。本格的な米国の反攻作戦とは認識していなかったのです。したがって、その程度の兵力で十分に飛行場は奪回できると踏んでいたのです。

(作戦1回目)
 8月18日、日本陸軍は当初の2600人を更に分け、約900人を先遣隊として島に上陸させます。これは指揮官一木清直大佐の名前をとり、一木支隊と呼ばれています。一木大佐は作戦実行前、「ガ島を奪ったら、ツラギも奪っていいか」と完全に島の奪回の成功を信じていたと言われています(ツラギはガ島北にある島、ここにも米国が上陸していた)。彼は戦うことになる米国の兵力を約2000と聞かされていました。我に倍する敵でも完全に勝てると思っていたのです。
 戦争における「戦略→戦術→作戦」では、武器がそれを決定づけます。当時の日本陸軍の歩兵銃は明治38年に正式採用された「三八式歩兵銃」、及びその改良型の「九九式歩兵銃」で、これは弾倉5発の単発式でした。つまり連発できないのです。世界各国の歩兵銃はほとんどが自動小銃になっていましたが、日本は貧しい国力から歩兵銃の自動小銃化はできなかったのです。また、日露戦争の戦勝によって日本陸軍は「銃剣による白兵突撃」が金科玉条になっていました。当然一木大佐もそれにより島の奪回ができると踏んでいました。「夜間の白兵突撃」により米国を駆逐できると思ったわけです。
 米国は、日本兵の夜間攻撃を警戒してジャングルの至るところに集音マイクをしかけて備えました。貧弱な装備で圧倒的な弾の嵐の中に飛び込んだ一木支隊は全滅します。銃の先につけた剣で、機関銃の弾の嵐の中に飛び込んだわけです。8月20日のことです。

(作戦2回目)
 一木支隊の全滅を受け、日本陸軍は今度は兵力6000人を上陸させます。9月初旬です。この新たな部隊が島に上陸直後に見た者は、幽霊のように彷徨う一木支隊の残兵でした。一木支隊は一週間分の食糧時参で島に上陸したのち、補給のないまま、飲み水にも不自由しながら、虫や、草を食べ生をつないできたのです。この頃は、制海権と制空権が米国に奪われていたため、輸送は夜間に輸送船ではなく駆逐艦(搭載能力はかなり低い)で行うしかありませんでした。これで十分な武器、食糧、弾薬が送れるわけがありません。兵力だけは増えましたが、装備した武器は前回同様でした。今度の指揮官は川口清健少将。川口部隊の作戦は、前回同様に夜間の白兵突撃でした。当然のことながらこの作戦も失敗します。9月中旬です。この戦いを経験した米国の軍人は「撃っても撃っても銃口に向けて突っ込んでくる日本兵が恐ろしくてたまらなかった。そして、このような無謀な作戦を性懲りもなく続ける指揮官は馬鹿だと思った」と文章に残しています。

(作戦3回目)
 二度の作戦失敗から、日本陸軍は「アメリカは本気だ」と気付きます。そして、島の奪回を図るために十分な兵力と、火力の必要性を認め、兵力約15000を上陸させます。東京の大本営からも作戦を指導するために参謀を送りこみもしました。しかし、人間だけは初期の人数を上陸させたものの、食糧、兵器、弾薬はまたしても輸送船が沈められたため、兵器、弾薬は計画の半分から1/5しか陸揚げすることが出来ませんでした。陸軍はこれまで作戦に失敗したのは、兵力の小出しによるもので、正式な師団(自立できる戦闘単位)を送りこめば米国に負けるわけがないという強烈な自信を未だに持っていました。採用した作戦はまたもや「夜間の白兵突撃」でした。結果は書くまでもありません・・・。

(その後)
 島の奪還を諦めた日本陸軍は、残存兵力約1万人を夜間密かに撤退させます。撤退作戦の完了は昭和17年の12月のことです。撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なく・・・。前述したとおり、15千人が餓死したと言われています。

(以下余談)
 建国以来の歴史を持ちながら、実際は常に廃止の影におびえながら存続していた米国海兵隊は、太平洋諸島における日本との戦いで、その存在意義を再確認していきます。組織が自己改革しながら存在の目的を考えだし、そのとおりの結果を出していったのです。米国海兵隊の歴史は、組織の自己変革の最高の教科書です。

 さて、この無謀な作戦ですが、なぜ日本陸軍は失敗から学ぶことなく三度も同じ失敗を繰り返したのでしょう?これが日本陸軍の不合理な組織の好例として挙げられているものです。次回は、合理的な選択をしたゆえにこのような非効率で不条理な結果を招いたという同書の見方を紹介します。

続く


 





 

2010年6月2日水曜日

組織の不条理その2

同書が使う新制度派経済学のアプローチとは、具体的に以下を指します。
①取引コスト理論
②エージェンシー理論
③所有権理論

 そもそも経済学で扱われる人間は、完全合理的な経済人と定義されていました。
しかしながら、新制度派経済学はすべての人間は限定合理的であり、限定された情報の中で意図的に合理的にしか行動できないという『限定合理性』と、すべてに人間は効用極大化するという『効用極大化』の二つの仮定から、市場と組織を制度と見なして分析するものです。

 ここでは、「取引コスト理論」について説明し、それをもとにした日本軍の不合理の見本として取り上げられる「ガダルカナル島」の作戦についての同書の見方を紹介しましょう。

 取引コスト理論は、「すべての人間は限定合理的であり、そのために人々は相手の不備に付け込んで自己利害を追及する機会主義的な傾向があるとする。このような限定合理的な人間からなる世界では、合理性と効率性を倫理性(正当性)は必ずしも一致しない。合理的ではあるが、非効率で非倫理的(不正)であるという不条理が発生する。つまり合理的非効率や合理的不正と呼びうる現象が起こる」というものです。

 例えば、ある企業がより多くの利益を得るために経営計画をたて、多額の投資を行って、必要な人材の手当てをして行動し始めたとします。しかし、そのうち外部環境が変化して、今までの計画では非効率になることがわかり、新たな計画が必要となったとします。この場合、企業は現在の計画を棄てて、より効率的な計画に移行する事ができるでしょうか。
 取引コストが発生する世界では、容易にその計画を変更する事はできません。なぜなら、既存の計画を放棄するには、多大な取引コストが発生するからです。多額の投資も埋没コストとなり、手当てした人材、外部との取引関係などを断ち切る必要があるからです。したがって、それが好ましくないとわかっていても、容易に計画を変更できず、既存の計画にしがみつく事がかえって合理的と思えるようになるのです。

「QWERTY」のキーボードの配列を考えてみましょう。この19世紀から使われている配列は、使用する単語の頻度、指の動きなどに関する人間工学的観点からは非効率であることがいわれています。実際、この配列はあまりに早く打ちすぎると、タイプライターのアームが絡まるため、逆に手の動きを遅くするために考案されたもので、今となってはその技術上の必要性はありません。しかし、なぜそれにしがみついているのか。人間工学に基づいた、より効率的な配列が生れなかったのはなぜか。これは歴史的経路依存性と呼ばれているもので、配列を変えるコストがあまりにも大きいために、非効率な配列をそのまま受け継いでいるわけです。

 取引コスト理論というもの、おわかりいただけたでしょうか。最近は「スイッチングコスト」という言葉でも説明されるものと同じですね。

 次回は、ガダルカナル島の日米の戦いをご紹介します。昭和17年(1942)8月に起こった戦いで、日米の地上軍(日本陸軍対米国海兵隊)が初めて相まみえた戦いです。この戦いで日本軍は延べ3万人を島に上陸させ、約4カ月続いた戦いで2万人が戦病死、そのうちの15千人が餓死であったといわれています。

続く



 

2010年6月1日火曜日

組織の不条理 その1


不合理な組織の代名詞として、かつての帝国陸海軍が槍玉に挙げられます。

一面では確かにそういった面も数多くありました。硬直した組織の弊害が至る所に見られたのは事実です。
例えば人事制度。帝国陸海軍は、戦時においても平時の序列を乱す事はしませんでした。序列とは士官学校(海軍なら兵学校)卒業時の成績、または陸軍大学(海軍大学)の成績順位です。これだけは頑なに守っていました。対する米国は、平時こそ学校卒業時の成績は重要視されましたが、戦時になると大抜擢も珍しくなく、まさしく適材適所の人事をおこなっていました。

今日の企業経営においても、反面教師として帝国陸海軍がなぜ破れたかを分析することは大変に役立つことだと思います。あの野中郁次郎も執筆者に名を連ねたベストセラー「失敗の本質」が有名ですね。
つらつら思いますと、我々はあの戦争から一体何を学んだのでしょうか?

ドナルド・キーンという日本で高名な米国人の日本文学者がいます。彼は、戦争中米国の日本語学校で日本語を学んだ語学将校でした。1940年、米国は戦争の1年前にあたるこの年、予想される異文化の国日本との戦争に備えて、大量の日本語を話す軍人の養成にとりかかります。そのために米国陸軍は日本語学校を作ったのです。確かこの前後ですね、あの有名な「菊と刀」がやはり敵国日本を分析するために書かれたのも。
米国は、この日本語を使える人間を使って、捕えられた日本兵の訊問だけでなく、日本兵の遺した日記や手紙などからも多くの情報を得ていました。

翻って、日本の状況はお寒い限り。占領した現地(南方地域)の行政を司るのに、現地の言葉はもちろん、英語はどう考えても必須です。敵国は米英ですから・・・。しかしながら、語学将校の養成を図ったということは全くなく、そういった正論を吐く人間に、「占領国に日本語を教えるくらいの気持が必要である」という精神論で押し切られてしまいます。こういった論調、今でも日本の組織で通用しそうだと思うのは僕だけでしょうか?

ちなみに、帝国陸軍の将校養成学校(陸軍士官学校)では英語は学べません。外国語して科目にあったのはロシア語、ドイツ語、中国語です。さらに言うなら、その士官学校で「対ジャングル戦」が教えられるようになったのは、昭和18年(1943年)、開戦後2年経過してからです。泥縄もここに極まれりですね・・・。

さて、前置きが長くなりました。

「組織の不条理」という本。副題に「なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか」とあります。
この本は、前述の「失敗の本質」とは異なり、不合理の代名詞ともいえる帝国陸軍の二つの作戦を分析するのに、新制度派経済学のアプローチを使って新しい見方を提供しています。曰く「合理的な選択をした結果、不条理に陥った」と・・・。

この本の内容と、僕なりの私見を書いていこうと思います。
今日はこれまで。

大衆の反逆

『言葉は乱用されてきたために権威を失墜した』

最近、僕はつくづくこのように思います。
しかしながら、世はあげて「Twitter」なるものに浮かれているように思います。
個人の「つぶやき」なんぞになぜそんなに群がるのか・・・。
僕には理解不能であります。何でも政治家もこぞって「つぶやい」ているとか・・・。


『ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがって、この事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。』

『この大衆人とは、自分の歴史を持たない人間、つまり過去という内臓を欠いた人間であり、したがって「国際的」と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。それは人間というよりはむしろ、たんに市場の偶像によって作りだされた人間の一つの殻にすぎない。すなわち、彼らには「中身」が、つまり頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が、取消すことのできない自我が欠如しているのである。そのため、彼らはつねに、中であることを装おうと待ち構えた状態に置かれている。大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、彼らは自らに義務を課す高貴さを欠いた人間―sine nobilitate―であり、俗物snobなのである。』

これは、オルテガ・イ・ガセットというスペインの社会学者が1930年に著した「大衆の反逆」の中の一節です。

僕は、世論調査によって表明されるこの国の民意などというものは、一切信用しません。あんなものは、感情ですらなく、その時々でうつろうムードのようなものだからです。考えてもみて下さい。小泉内閣時代、「郵政民営化」を争点にして衆議院選挙が行われ、時の民意は「民営化」に賛成しましたね。それも圧倒的な大差で。今、それがないがしろにされつつある法案が可決されたにもかかわらず、なぜ「反対」の民の声があがらないのか。郵政民営化にYesといった民の声は一体どこへいってしまったのでしょう。

当該事案について、僕は知見を持たないのでその是非は判りません。ただ、問題にしたいのは「民の声」がいかにいい加減なものかを考えてもらいたいと思うだけです。

政治家たるもの、いかに民の声に叛こうと国家百年の大計のためには、鬼神の断をもって事を進めることが必要な場合があります。そして、政治家にはそれを条理を尽して民に説得する言葉を持つ必要があります。それは「つぶやき」などとは全く無縁のものであることは言うまでもありません。

民俗学者柳田国男が著した「京童(きょうわらべ)」という人間類型があります。
彼によるとその特徴は、

①全体に気が軽く、考えが浅くて笑いを好み、しばしば様式の面白さにほだされて問題の本質を疎略に取り扱う
②群れと新しいものの刺激に遭うとよく興奮し、しかもその機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたこと
③何に使ってよいか定まらぬ時間の多い事。そうして何か動かずにはいられぬような敏活さ、是がまた容易に他人の問題に心を取られ、人の考え方を自分のものとする傾向を生ずる
④隣以外の人に一時的の仲間を見付ける為に、絶えず技能を働かせ、また之を改善と努めること

これ、まさしく日本の現代人のことを言っているように思えますがどうでしょう。
しかし、彼はこれを中世の終り頃から京都に顕在化してきた都市民のことを指して説明したのです。「わらべ」と言っても子供のことを指すのではなく、「単に責任を負わざる無名氏」というほどの意味です。
冒頭で述べた「大衆」ですね、要するに。

ここで問題は、今やその「大衆人」に世の中を牛耳られている状況にあるということだと僕は思います。

『今日の状況を改善するために必要な第一条件は、それがいかに困難なことであるかをじゅうぶん認識することである。そうすることによってのみわれわれは、その真の発生地である深層に横たわっている悪を攻撃することができるからだ。ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明を救済することは事実上、非常に困難である。デマゴーグは文明の偉大なる扼殺者であった。ギリシャ文明もローマの文明も、この唾棄すべき連中の手によって瓦解したのであり・・・・(後略)』

このオルテガの論は「貴族的」と批判されます。確かにそういう点も否めません。
「democracy」の語源は「demos=民衆」の「kuratein=支配」です。単なる政治の一形態であるにもかかわらず、「民主主義」というようなある種の価値感をそこに与えてしまったために、その呪縛から逃れられないような今日の状況下、こういった論も振れすぎた針(民衆=民の声万歳みたいな)を戻すために必要なのではないかなと思いますがどうでしょう。