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2010年6月1日火曜日

大衆の反逆

『言葉は乱用されてきたために権威を失墜した』

最近、僕はつくづくこのように思います。
しかしながら、世はあげて「Twitter」なるものに浮かれているように思います。
個人の「つぶやき」なんぞになぜそんなに群がるのか・・・。
僕には理解不能であります。何でも政治家もこぞって「つぶやい」ているとか・・・。


『ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがって、この事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。』

『この大衆人とは、自分の歴史を持たない人間、つまり過去という内臓を欠いた人間であり、したがって「国際的」と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。それは人間というよりはむしろ、たんに市場の偶像によって作りだされた人間の一つの殻にすぎない。すなわち、彼らには「中身」が、つまり頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が、取消すことのできない自我が欠如しているのである。そのため、彼らはつねに、中であることを装おうと待ち構えた状態に置かれている。大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、彼らは自らに義務を課す高貴さを欠いた人間―sine nobilitate―であり、俗物snobなのである。』

これは、オルテガ・イ・ガセットというスペインの社会学者が1930年に著した「大衆の反逆」の中の一節です。

僕は、世論調査によって表明されるこの国の民意などというものは、一切信用しません。あんなものは、感情ですらなく、その時々でうつろうムードのようなものだからです。考えてもみて下さい。小泉内閣時代、「郵政民営化」を争点にして衆議院選挙が行われ、時の民意は「民営化」に賛成しましたね。それも圧倒的な大差で。今、それがないがしろにされつつある法案が可決されたにもかかわらず、なぜ「反対」の民の声があがらないのか。郵政民営化にYesといった民の声は一体どこへいってしまったのでしょう。

当該事案について、僕は知見を持たないのでその是非は判りません。ただ、問題にしたいのは「民の声」がいかにいい加減なものかを考えてもらいたいと思うだけです。

政治家たるもの、いかに民の声に叛こうと国家百年の大計のためには、鬼神の断をもって事を進めることが必要な場合があります。そして、政治家にはそれを条理を尽して民に説得する言葉を持つ必要があります。それは「つぶやき」などとは全く無縁のものであることは言うまでもありません。

民俗学者柳田国男が著した「京童(きょうわらべ)」という人間類型があります。
彼によるとその特徴は、

①全体に気が軽く、考えが浅くて笑いを好み、しばしば様式の面白さにほだされて問題の本質を疎略に取り扱う
②群れと新しいものの刺激に遭うとよく興奮し、しかもその機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたこと
③何に使ってよいか定まらぬ時間の多い事。そうして何か動かずにはいられぬような敏活さ、是がまた容易に他人の問題に心を取られ、人の考え方を自分のものとする傾向を生ずる
④隣以外の人に一時的の仲間を見付ける為に、絶えず技能を働かせ、また之を改善と努めること

これ、まさしく日本の現代人のことを言っているように思えますがどうでしょう。
しかし、彼はこれを中世の終り頃から京都に顕在化してきた都市民のことを指して説明したのです。「わらべ」と言っても子供のことを指すのではなく、「単に責任を負わざる無名氏」というほどの意味です。
冒頭で述べた「大衆」ですね、要するに。

ここで問題は、今やその「大衆人」に世の中を牛耳られている状況にあるということだと僕は思います。

『今日の状況を改善するために必要な第一条件は、それがいかに困難なことであるかをじゅうぶん認識することである。そうすることによってのみわれわれは、その真の発生地である深層に横たわっている悪を攻撃することができるからだ。ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明を救済することは事実上、非常に困難である。デマゴーグは文明の偉大なる扼殺者であった。ギリシャ文明もローマの文明も、この唾棄すべき連中の手によって瓦解したのであり・・・・(後略)』

このオルテガの論は「貴族的」と批判されます。確かにそういう点も否めません。
「democracy」の語源は「demos=民衆」の「kuratein=支配」です。単なる政治の一形態であるにもかかわらず、「民主主義」というようなある種の価値感をそこに与えてしまったために、その呪縛から逃れられないような今日の状況下、こういった論も振れすぎた針(民衆=民の声万歳みたいな)を戻すために必要なのではないかなと思いますがどうでしょう。

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