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2010年6月22日火曜日

「坂の上の雲」から考える

「坂の上の雲」は、いつだったかの「文藝春秋」で、企業経営者の最も好きな本として確か第1位に挙げられていました。昨年末の第1回放映とも相俟って、再びその人気に火が付いているようですね。司馬遼太郎は、生前その映像化について非常にナーバスになっていたといいます。彼は日清・日露の戦いを明確に「祖国防衛戦争」と言い切っていますが、それを映像化することを躊躇していました。

僕にとって同書は何度も読み返した本の一つですが、放映は観ていません。さらにいうと、「坂本龍馬」は僕の好きな人物の中の一人ですが、やはり今の「龍馬伝」は観ていません。

「坂の上の雲」は秋山好古、真之兄弟を話の中心においた明治期日本の青春群像と、国家の隆盛を重ね合わせたようなものです。感情移入がしやすく、あの頃の日本に対して多くの読者が共感を覚えるのではないかと思います。

さて、企業の寿命30年説というのがありますね。前回紹介した三品和弘によると、30年というのは「企業」ではなくて「事業」と考えるとわかりやすいとしています。なにも無いところを耕し、種をまき、実を結び収穫する。しかし、やがて土地が痩せて来て収穫量が減る。それがひとつの事業の終りだと。偶然なことに30年というスパンは人間の代替わりとほぼ同じなのです。

まさしく皇国の興廃をかけた日露の戦いは明治38年(1904)に起こりました。明治日本の国内体制の完成を最後の内戦である西南戦争(明治10年)後であるとするなら、約30年後にそれを迎えることになりました。日露戦争後、児玉源太郎をはじめとする維新の経験者の多くの寿命が尽きていることを考えると、また、維新の経験者を「創業者」と捉えるならば、あの戦争は明治日本創業者たちの最後の仕事となったことになります。創業者というジェネラリストが、二代目の戦争のスペシャリスト(陸軍大学、海軍大学を卒業したエリート将校)を使いこなして戦った戦争というわけです。
しかも、二代目も江戸末期生まれであり、道徳的支配者としての「武士」のモラルを濃厚に引き継いでいたことが幸いしたように思います。司馬遼太郎は、その例として明治期日本の汚職の少なさを「世界史の中で稀」としていますね。

余談ですが、そのひとつのエピソードとして、明石元次郎大佐の話をあげましょう。明石大佐は命令により、ロシアに潜入して帝政反対勢力を結集しロシア国内に革命を起こそうと奔走しました。かれは当時の日本の国家予算の0.6%(不正確)だかをその活動資金として支給されてましたが、帰国後残金を1銭たがわず、明細書と併せて返納したといいます。

日露戦争後、創業者であるジェネラリストは死に絶え、二代目以降のスペシャリストが軍を率いるようになります。その二代目、三代目は何をしたか?司馬遼太郎ふうにいえば、彼らは国を滅ぼしました。象徴的なのが日露戦争後約30年の昭和14年(1939)「ノモンハン事件」です。これは満州と蒙古の国境紛争なのですが、ソ連の機械化師団に日本軍は完膚なきまでに惨敗するのです。日本軍の戦法は前に説明した「白兵突撃」です。鉄のかたまりに肉のかたまりで正面からぶつかったわけです。この事件については、いずれまたご紹介します。昭和期の日本は、創業者の遺産にしがみついていたといえるでしょうね。痩せた土地で同じ作物を植え続けていたわけです。

日本の高度経済成長は昭和30年(1955)から始まったといわれています。日本経済を牽引したのは、創業者が率いる企業が多かったのではないでしょうか?あくまでもイメージです。検証してません。ただ、代替わり、または事業の寿命をを30年とすると、妙に符合します。1990年代(平成初頭から中期)から日本は失われた10年とよばれる長い不況時代に突入します。多くの企業で創業者から代替わりした時代だからと言えなくもありません。


江戸幕府が15代続いた原因をもっと考えるべきなのかも知れませんね。

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