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2010年6月9日水曜日

組織の不条理 その3

 ガダルカナル島は、オーストラリア大陸の北東に連なるソロモン諸島にある。日本海軍はそこに昭和17年(1942)7月に飛行場建設のために約3000人を上陸させました。そのうちの2500人は労働者であり、戦闘部隊ではありませんでした。帝国海軍は米豪分断のために、そこに飛行場を建設したのです。それを陸軍は知りませんでした(!)。米国は、日本が飛行場を完成させたのを見計らって、海兵隊、兵力約11千人を上陸させました。一方僅か500名の兵力しか持たない日本軍はなす術もありません。あっという間に飛行場は奪われてしまいます。
 日本陸軍は、島の奪回のために兵力2600人の先遣隊を組織します。当初、日本陸軍は米国によるその島の占領を威力偵察と推測していました。本格的な米国の反攻作戦とは認識していなかったのです。したがって、その程度の兵力で十分に飛行場は奪回できると踏んでいたのです。

(作戦1回目)
 8月18日、日本陸軍は当初の2600人を更に分け、約900人を先遣隊として島に上陸させます。これは指揮官一木清直大佐の名前をとり、一木支隊と呼ばれています。一木大佐は作戦実行前、「ガ島を奪ったら、ツラギも奪っていいか」と完全に島の奪回の成功を信じていたと言われています(ツラギはガ島北にある島、ここにも米国が上陸していた)。彼は戦うことになる米国の兵力を約2000と聞かされていました。我に倍する敵でも完全に勝てると思っていたのです。
 戦争における「戦略→戦術→作戦」では、武器がそれを決定づけます。当時の日本陸軍の歩兵銃は明治38年に正式採用された「三八式歩兵銃」、及びその改良型の「九九式歩兵銃」で、これは弾倉5発の単発式でした。つまり連発できないのです。世界各国の歩兵銃はほとんどが自動小銃になっていましたが、日本は貧しい国力から歩兵銃の自動小銃化はできなかったのです。また、日露戦争の戦勝によって日本陸軍は「銃剣による白兵突撃」が金科玉条になっていました。当然一木大佐もそれにより島の奪回ができると踏んでいました。「夜間の白兵突撃」により米国を駆逐できると思ったわけです。
 米国は、日本兵の夜間攻撃を警戒してジャングルの至るところに集音マイクをしかけて備えました。貧弱な装備で圧倒的な弾の嵐の中に飛び込んだ一木支隊は全滅します。銃の先につけた剣で、機関銃の弾の嵐の中に飛び込んだわけです。8月20日のことです。

(作戦2回目)
 一木支隊の全滅を受け、日本陸軍は今度は兵力6000人を上陸させます。9月初旬です。この新たな部隊が島に上陸直後に見た者は、幽霊のように彷徨う一木支隊の残兵でした。一木支隊は一週間分の食糧時参で島に上陸したのち、補給のないまま、飲み水にも不自由しながら、虫や、草を食べ生をつないできたのです。この頃は、制海権と制空権が米国に奪われていたため、輸送は夜間に輸送船ではなく駆逐艦(搭載能力はかなり低い)で行うしかありませんでした。これで十分な武器、食糧、弾薬が送れるわけがありません。兵力だけは増えましたが、装備した武器は前回同様でした。今度の指揮官は川口清健少将。川口部隊の作戦は、前回同様に夜間の白兵突撃でした。当然のことながらこの作戦も失敗します。9月中旬です。この戦いを経験した米国の軍人は「撃っても撃っても銃口に向けて突っ込んでくる日本兵が恐ろしくてたまらなかった。そして、このような無謀な作戦を性懲りもなく続ける指揮官は馬鹿だと思った」と文章に残しています。

(作戦3回目)
 二度の作戦失敗から、日本陸軍は「アメリカは本気だ」と気付きます。そして、島の奪回を図るために十分な兵力と、火力の必要性を認め、兵力約15000を上陸させます。東京の大本営からも作戦を指導するために参謀を送りこみもしました。しかし、人間だけは初期の人数を上陸させたものの、食糧、兵器、弾薬はまたしても輸送船が沈められたため、兵器、弾薬は計画の半分から1/5しか陸揚げすることが出来ませんでした。陸軍はこれまで作戦に失敗したのは、兵力の小出しによるもので、正式な師団(自立できる戦闘単位)を送りこめば米国に負けるわけがないという強烈な自信を未だに持っていました。採用した作戦はまたもや「夜間の白兵突撃」でした。結果は書くまでもありません・・・。

(その後)
 島の奪還を諦めた日本陸軍は、残存兵力約1万人を夜間密かに撤退させます。撤退作戦の完了は昭和17年の12月のことです。撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なく・・・。前述したとおり、15千人が餓死したと言われています。

(以下余談)
 建国以来の歴史を持ちながら、実際は常に廃止の影におびえながら存続していた米国海兵隊は、太平洋諸島における日本との戦いで、その存在意義を再確認していきます。組織が自己改革しながら存在の目的を考えだし、そのとおりの結果を出していったのです。米国海兵隊の歴史は、組織の自己変革の最高の教科書です。

 さて、この無謀な作戦ですが、なぜ日本陸軍は失敗から学ぶことなく三度も同じ失敗を繰り返したのでしょう?これが日本陸軍の不合理な組織の好例として挙げられているものです。次回は、合理的な選択をしたゆえにこのような非効率で不条理な結果を招いたという同書の見方を紹介します。

続く


 





 

2 件のコメント:

  1. ガダルカナル戦における辻政信の「活躍」について調べてみると、かなり物語が変わるはず。

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  2. 匿名氏さん
    コメントありがとうございます。
    「辻正信の活躍」はどの程度あの作戦に寄与したのでしょうか?「作戦目的」からは、それが誰のによるものであれ、何ら物語が変わることはないと思います。個々の「戦闘」においてはそうもいえる局面があったのかもしれませんが、できうればそのあたりをご教示いただければ幸いです。

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