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2010年12月28日火曜日

型の喪失 その1

このブログの最初の頁には、1週間でアクセスの多かったベスト3が挙げられています。日々更新する内容よりも、以前にアップした内容が上位にランクされることが多いようです。

12月25日には、「明治の気骨・大正の教養・昭和の狂騒」という10月にアップした内容が、ランクインされました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_12.html

偶然なことに、ちょっと前からそこで取上げた「型の喪失」について書いてみようと思っていた矢先でした。

「型の喪失」

こう言ったのは唐木順三。明治37年生れ。昭和15年、臼井吉見とともに筑摩書房を創設した人物です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%A8%E9%A0%86%E4%B8%89

唐木は「現代史の幕開け」という昭和24年に著した本の中で、それを言うのです。彼は森鴎外に傾倒した人物で、鴎外の思想とその生活から「型」というものを閃くのです。


「彼の家庭生活における長上への態度には武家階級伝来の几帳面さが国宝的ともいうべきほどに残存し、彼の内面生活には理性が物を言っていた。少なくと御そういうふうに見られるだけのものをもっていた。『理性に従う生活はことごとく勘定を抑圧するに非ず、感情の常軌を逸することなきようにするなり』とは鴎外の言葉である。そうして彼の自己支配は『おれは眠ろうと思う時いつでも眠り、起きようとする時間にはいつでも起きられる』という程度に至っている。(中略)つまり鴎外には修養があった。武士の家に生まれたのだから、事あるときは切腹ができなければいかぬと訓えられた年少の生活の仕方、ひろく生活体系の確固たる家庭に育った人に特有な型があった。軍服のボタンは固くかけられていたし、家にいて着る紋附も似合った。鴎外はシンの中にそういうものをもっていた。そしてそれは明治の指導者階級においては決して稀でない型であった。そういう型が尊敬せられている時代に人と為った。したがって新たなる形式が形成されなくとも、彼自身の形式、生活体系がある以上個人的には不安はない。ところで今日の無形式はシンからの無形式である。」




唐木のみる鴎外と、それと比較される現代の「シン」からの無形式。ならば、鴎外が体現していた古い形式とは果たして何だったのか。

「古い形式が亡びたという際の古い形式は主として下級武士にもせよ武士の形式、藩閥者流の形式、具体的には儒教道徳、儒教の礼、Sitteであったと言えるのではないか。」



それを唐木はこのようにいうのです。そしてそれを破壊したものは、「自由民権論」であり、北村透谷らの「文学界」、そしてそれが一代勢力になったのは日露戦争後の自然主義運動であったと。彼らは「人間の解放、本能の解放、旧物破壊」を情熱をもって主張し始めるのです。しかし、それは「たちまちにして『現実曝露の悲哀』という合言葉を生んで」しまったと言います。

「すなわち、自然主義は独自の生活体系、形式、型を形成しえずに、個人の心境へ逃げ込んだ。そしうして、この自然主義に換って、儒教的形式に対立したのは広い意味のヒューマニズムであった。日本のヒューマニズムは日本の複雑な歴史性に従って、封建的なるものに対立すると同時に、日露戦争後のブルジョワジィにも対立せざるを得なかった。」

「私小説」という分野が大正年間に日本において独自の発展を見せるのはこの影響によります。儒教的な「公」というものに対する対立軸として「私」が出てくるわけです。唐木曰く「個人の心境へ逃げ込んだ」のが、私小説という分野ですね。

その後、自然主義運動に変わって彼らのいう「明治の精神=型」に対立したのが「白樺派」と呼ばれる一群で、武者小路実篤、志賀直哉らです。

明日に続きます。

今日はこれまで。











 

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