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2010年10月12日火曜日

明治の気骨・大正の教養・昭和の狂騒


 冒頭の言葉は、僕が思う、それぞれの社会というか時代の精神を表したものです。「明治」だけ他と異なり、表現のニュアンスが違っていますが、まぁ言わんとしていることはわかって下さると思います。また、僕にとって第一義的な「昭和」はこの国が大日本帝国と呼ばれていた頃までです。


 
 昭和62年に母方の祖母が亡くなりました。葬儀の席上、お坊さんが言ったセリフを今でも覚えています。


「これでまた明治を知る人がいなくなりました」


 「明治」が終焉したのは1912年ですので、もうほぼ100年前です。まだ僕が20代前後だった頃は、「明治生まれ」というと特別な何かを体現しているような、ある種の尊敬すら集めていたように思います。中曽根内閣時代の行革推進のトップとして招聘された土光敏夫氏なんかは、まさしく「明治の気骨」をそのまま現わしたような人でした。IHIを再建し、経団連会長を勤めるなどした人ですが、「めざしの土光」と人口に膾炙してます。Wikiを参照してください。説明された彼の「人物」に目をみはると思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%85%89%E6%95%8F%E5%A4%AB

土光氏に体現される「明治」というものを、ある種の憧憬の目をもって眺めたのは明治を知らない人々です。「それが何かはわからないが、明治にあって昭和にないもの」。それを見つめたのだと思います。


 一方、明治の頃は大人といえばみな江戸時代生れです。しかし、「天保生れ」というのは馬鹿にされたらしいです。昭和の世代が明治を憧れるというような、そんな感情は一切なく「天保生れは頭が固い」だけの老人として見られていました。そうして、明治の若い世代はかつての習俗、習慣を嘲りの対象としたのです。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがそれを嘆いた文章は以前ここで紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_09.html


 昭和の戦前と戦後の断絶よりさらに激しい断絶が明治と江戸にはあったと考えざるを得ません。そして、抹殺したつもりのかつての習俗や伝統の揺り戻しが「昭和」になってやってきます。それも、より原理主義的な形となって戻って来たのです。「狂騒」とその20年間をと名付けました。


 
 明治には「型」がありました。僕にはそうイメージできます。よく指摘されることですが、夏目漱石や森鴎外は「素読世代」だと。香田露伴、二葉亭四迷、内村鑑三もそうです。論語やら大学やらのいわゆる「四書五経」を漢文のまま読み下す教育を受けてきた世代だということです。数百年に渡り、日本の伝統的な教養体系の根幹にはそれがありました。明治生れはその残滓を受け継いだ最後の世代だったのかも知れません


 「大正」には「型」がありません。それまでの日本の伝統的な教養体系は軽んじられ、かわって持ち出されたのが「個性」です。武者小路実篤や志賀直哉の「白樺派」がそれを現わしているように思います。


 性懲りもなく再び江戸時代のことを持ち出してみれば、明治というのは幕府創業期と似ています。続く大正は元禄時代です。大正には大衆消費社会の様相が現れ、それまでの社会のありようが大きく変わった時期であったのが、貨幣経済へ移項した元禄と似ているからです。


 「昭和」の「狂騒」は先祖返りがそれを起こしました。近代兵器を操る日本の軍人の精神は、間違いなく戦国武者のそれでした。


 「昭和」を戦前と戦後に分けて考えるのは異論はないと思います。戦前を「狂騒」と名付けましたが、通期をそう名付けていいのかも知れません。戦後の日本は「経済」を武器にまっしぐらに、とても冷静とは言えぬ程のスピードで駆け抜けたからです。


 「平成」はどうなるでしょうか。


 「消沈」「停滞」、若しくは「混迷」?


 
 この国は明治以降、常に何かに追いかけられているようなほどの速さで走ってきたように思います。昭和20年8月15日に一度はその歩みを止めましたが、直に再び走り続けている。しかして今は、走るべき方向すら見つからないのに走ろうとしている、そんな気がしています。ここらで一度走るのを止めて周囲をながめ、ゆっくりと歩いたらどうかと思うのですが。




 今日はこれまで。







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