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2010年10月6日水曜日

組織能力とは まとめ

  今回からまとめにはいります。とはいえ、きちんとまとめらしいことが書けるかどうか心配ですが。

江戸幕府が統治能力を失っていく過程、つまり「幕府はなぜ滅亡したか」ということはよく語れらますが、なぜ265年間も続いたかの観点で語られる事は少ないような気がします。あくまでも僕の感覚的なものですが、成功からは教訓がまるで学べないかのようです。

 6月に「坂の上の雲から考える」


と題して、ここで次のような文章を書きました。

日露戦争後、創業者であるジェネラリストは死に絶え、二代目以降のスペシャリストが軍を率いるようになります。その二代目、三代目は何をしたか?司馬遼太郎ふうにいえば、彼らは国を滅ぼしました。象徴的なのが日露戦争後約30年の昭和14年(1939)「ノモンハン事件」です。これは満州と蒙古の国境紛争なのですが、ソ連の機械化師団に日本軍は完膚なきまでに惨敗するのです。日本軍の戦法は前に説明した「白兵突撃」です。鉄のかたまりに肉のかたまりで正面からぶつかったわけです。この事件については、いずれまたご紹介します。昭和期の日本は、創業者の遺産にしがみついていたといえるでしょうね。痩せた土地で同じ作物を植え続けていたわけです。
 日本の高度経済成長は昭和30年(1955)から始まったといわれています。日本経済を牽引したのは、創業者が率いる企業が多かったのではないでしょうか?あくまでもイメージです。検証してません。ただ、代替わり、または事業の寿命をを30年とすると、妙に符合します。1990年代(平成初頭から中期)から日本は失われた10年とよばれる長い不況時代に突入します。多くの企業で創業者から代替わりした時代だからと言えなくもありません。
 江戸幕府が15代続いた原因をもっと考えるべきなのかも知れませんね。」


 今回は、なぜ江戸幕府が15代265年間もその治世が続いたのかを考えてみましょう。

これまでここで述べてきた事を考えれば、「その施策の方向が間違っていなかったから」となります。「当たり前だ」と言われるかも知れませんが、世をおおう江戸時代のイメージからはそれは出てきません。しかし、それが事実だと思います。庶民が貧しく虐げられていたら、庶民は文化を担うどころではありませんし、「お伊勢参り」ができるはずもありません。5代将軍綱吉、8代吉宗、10代家治のそれぞれにおいて、貨幣経済へと変貌したこの国のかじ取りの方向性を間違えなかったことが大きいと思います。そのそれぞれのすぐ後に反動としてあった改革も、すぐにもとに戻されています。 

 江戸幕府が長期間存続した理由は、

「その時代に必要であった改革が必要な時になされたからであり、それができなくなったときにその使命を終えた」

とみることができるのではないでしょうか。


 さて、「組織」の問題です。それは所詮器にしか過ぎません。ピーター・センゲのいう「学習する組織」というのがありますが、正確にいうと、「学習するように制度化した(された)組織」ということでしょうね。組織なるものが学習できるわけがありませんので。

江戸幕府は、創設のころから組織はほぼ一定です。幕末になって外国奉行とか新設された部署もありますが、将軍がいて、その下に複数の老中がいて、その下に3奉行が連なり、日常の政務を司る。たまに老中の上に大老が設けられることがありましたが、これは江戸時代を通じて僅か10人くらいだったと思いますし、イレギュラーなことでした。有名なのは桜田門外の変で殺された井伊直弼ですね。彼は大老でした。幕府は創設から終焉までが一つの組織形態でした。組織をいじくり回して対応したわけではありませんでした。日本企業が、やれ事業部制だ何だと言って組織をいじくり回すのとは正反対です。そういえば、政府も「省庁再編」とかやりましたね。形だけ変えても改革の実が上がるわけはありません。幕府は家格、身分に応じて役職は決まっており、それが制度化されていました。それをおおっぴらになくしてしまうのは幕末、老中阿部正弘の時代からです。これで、勝海舟も福沢諭吉も歴史に躍り出てくることになるのです。それでは、それ以前は一切ががんじがらめであったかと言えば、そうでないことはこれまで述べてきた通り。トップである将軍の判断で、制度運用の幅を持たせたのです。綱吉、吉宗、家治時代に活躍した「側用人」がそうです。この3人の将軍に共通していることは、能力により人材を抜擢し、既存の制度・ルールを逸脱したこと。そして、その人材を最後まで守りとおりしたことです。そうして、結果的にみれば、これが全て功を奏し社会の発展につながっていったわけです。

 これは保守勢力の反感を当然買いました。田沼意次が失脚後、それ以降は保守勢力の巻き返しによって幕政のかじ取りを行うのは全て老中という門閥譜代出身者に限られ、これといった功績も遺せなくなり、最後は滅亡ですからね。幕末の勝にしても、小栗にしても、抜擢はされても彼らを守りとおすトップが不在だったため、不本意な結果となっています。幕府滅亡の原因は、硬直した組織・人事制度だったからではなく、やはりトップの質だと言わざるを得ません。

 組織の能力とは、とどのつまり組織を率いるトップの能力でしかありません。優れたトップがいるから優れた組織になるのであり、その逆はあり得ないのです。人材登用の仕組みとして優れた制度というのはあるのでしょう。それからみれば江戸幕府は優れたとは言えないでしょうね。しかし、重要なことは優れた人材を使い続け、守りとおす勇気がトップにあるか否かです。

 大野耐一氏といえば、「トヨタ生産方式」を編み出した人物として、「神様」みたいになっている人物です。既に故人となられていますが、その著作は初版以来100冊を超えています。忘れてならないのは、その大野氏をまわりの批判を抑えて使い続けた当時のトヨタの社長の功績です。いくら大野氏の「生産方式」が優れていても、彼を守りとおした社長がいなければそれが日の目を見ることはなかったのです。

 政治にしても、経営にしてもトップの「人」の問題がいかに大きいかおわかりでしょう。しかしながら、これほど厄介なものもないのです。どう見付ければいいのか、どう育てればいいのか、明確な答えがあるわけではないからです。

 長くなりましたので、今日はこれまで。


 次回は、この続きです。












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