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2010年10月1日金曜日

組織能力とは その8

今回は田沼失脚後の幕府の行った改革についてご紹介します。


 その前に、これまで述べてきた17世紀末から18世紀末の100年間についての日本社会の特筆すべき事を挙げておきます。




 この時代、近世の日本文化の特色はその担い手が庶民にあったことは述べました。元禄しかり、田沼時代しかり、そしてもう少し後の化政文化と呼ばれるものもそうです。天皇を取り巻く宮廷貴族は、権勢衰えたりとはいえ古代以来の伝統文化を保持し、武家社会にあっても上流に属する人の中には、文化上の業績のある大名も若干はいたようですが、例えば同時代のフランスのルイ王朝やハプスブルク家、または清朝皇帝など、外国の国王の文化史上の存在の大きさとは比べるべくもありません。近世の日本では、規模は小さいが町人の文化や、諸国の地主・豪農層、あるいは町民層が文化史上で演じた役割の方がずっと大きいのです。これは世界史的に見て非常に稀有なことです。当時の日本社会は、諸外国と比べて富の分配が平準化しており、庶民にも経済的な恩恵が行きわたっていたことの証左となります。


 もちろん、吉宗の頃から豪農と、小作人・水呑百姓という貧富の差、社会的身分の差は大きく開いては行きます。しかしながら、田沼時代には「小作人が息子を寺子屋へ通わせていて払うカネがないといって、小作料を払ってくれない」という庄屋の嘆きを伝える文章が残っています。経済格差は開きつつも、「こどもに学問を」という事が一般化していたのではないでしょうか。そして、そう考える親たちが庶民文化を支える担い手となっていたのでしょう。


 
 さて、田沼意次は1786年に老中を罷免されています。彼の庇護者将軍家治の死亡と同時期です。次いで将軍となったのが11代の家斉(いえなり)です。家斉は家治の養子で、将軍就任は15歳の時です。その将軍を支えたのが、松平定信でした。松平は門閥譜代である徳川御三家から推薦を受け、老中主座という職位に就きます。もともとは陸奥白河藩主で、藩政改革に名を挙げた人で名君とよばれた人物でした。田沼の政敵だったことは前述しました。田沼が失脚する2年前に彼の息子が江戸城内にて殺されたことは書きました。元号でいうと天明4年です。ちょうど「天明の大飢饉」とよばれる飢饉が東北地方をおおっており、餓死者200万人といわれています。田沼は、飢饉が酷いのは東北に限られるので、米の流通を自由にすれば、西国から米が入って来るだろうとを目論み、米の買いだめ、売り惜しみを禁じる法令を出します。それに違反して、自藩内に大量の米を買いだめさせたのが松平定信で、そのため白河藩内では一人の餓死者を出さなかったといわれています。当然、法令違反です。松平はそれを恐れる為、田沼の息子を殺害して田沼を失脚させようとしたとも言われています。


 松平は政治の実権を握ると、世の中から田沼色を一掃させようと躍起になります。松平の行った、世に「寛政の改革」と呼ばれるものは、「明日のための改革」ではなく全て田沼色の一掃を目論んだものと言えます。今の民主党政権のようなものかも知れません。彼は、検約・緊縮・綱紀粛正を旗頭に改革しようとします。


 彼は庶民までもが豊かになった社会状況を苦々しく思っていたのでしょう、「旧里帰農令」という法令を出し、都市に出てきている農村出身者を、その出身地に返そうとしました。農村に帰って農業生産に当たらせることで、身分秩序を守り彼からみて弛緩した社会を元に戻そうとしたのです。


 「棄捐令」という、御家人や旗本の借金を軽減、帳消しとする法令も彼が出しています。幕法によって「借金踏み倒し」を行ったわけです。旗本御家人を商業資本の圧迫から解放することが目的でした。


 「寛政異学の禁」という法令が教科書でも出てきますね。幕府創設以来の官学「朱子学」以外の学問を、世の秩序を乱すものとして禁止したのです。さらには、当時花開いていた浮世絵や、好色本などを風紀を乱すものとして禁じています。写楽や歌麿などの浮世絵画家は田沼時代に出てきた人物ですが、これ以降浮世絵といえば葛飾北斎や安藤広重といった風景画となってしま


 この猛烈な復古反動を揶揄して「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)と言うて夜も眠れず」という狂歌が流行しました。作者は大田南畝。大田はこれがもとで幕府からにらまれ、不遇な生涯を送ったといわれます。


 松平の行った改革は、吉宗から田沼の時代を経て一段と発展してきた経済を、再び昔へと後戻りさせてしまいます。重農主義への再転換です。元禄後に出てきた新井白石らが、重農に回帰したのと同様の図式です。


 松平のこの「原理主義」的な政策は他の老中からも「やり過ぎ」と思われるようになります。そうして、彼の江戸不在中、他の老中たちにより突然罷免され、松平の政策はなし崩しに旧態に戻されてしまうのです。彼はその時36歳でしたが、その後二度と復権することはありませんでした。


 松平定信が老中として政治の実権を握ったのは、御三家をはじめとする門閥譜代層の強力な後押しがあったからでしたが、結局彼の経済感覚、政治感覚は、何一つ当時の社会に受け入れられることはなかったように思います。教科書では、田沼時代の賄賂政治を正した改革と習いますが、事実はそれとは違います。


 松平定信が罷免されて20年後、同じ11代将軍のもとで老中を勤めた水野忠成が、復古反動に振れ過ぎた針をもう一度戻します。元号は文化・文政、教科書では「文化・文政文化」と習ったはずです。「南総里見八犬伝」や「東海道中膝栗毛」等はこの頃です。世の中が、開放的になったということでしょう。この時代には「水の(水野)出て もとの田沼(意次)になりにけり」と狂歌で詠われています。


 11代将軍家斉は50年の長きに渡り将軍職にあり、1837年にその子家慶に将軍職を譲ります。その家慶に仕えるのが老中水野忠邦であり、「天保の改革」を実施して行く人物です。


 長くなりましたので、今日はこれまで。


 次回は水野忠邦の改革と、その後の幕府の運命についてご紹介するつもりです。








 
 

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