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2010年10月20日水曜日

赤穂浪士と吉良家、そして上杉家

 歴史の話です。


赤穂浪士の事件は有名ですね。毎年12月14日の彼らの命日になると品川泉岳寺にはたくさんの花が今でも手向けられるといます。世に言う「忠臣蔵」。そこで描かれる意地悪で、悪役の吉良上野介は、愛知県吉良町に領地を持つ旗本でした。彼は領民に「良い殿さま」と慕われています。一方の悲劇の発端となった浅野内匠頭の切腹の知らせを聞いた赤穂の領民たちは、「これで悪政がやむ」と大いに喜んだと言われています。


これもまたよく知られている事ですが、吉良の長男は米沢の上杉家を継いでいました。上杉謙信から数えて5代、米沢藩主として第4代の藩主です。関ヶ原後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に移封・減封されましたが、その5000人にも及ぶ家臣団の一人も首をきりませんでした。当然大幅にその知行は減らされましたが、直江兼継の産業振興策もあり実質の石高は50万石とも数えられるほどになります。


しかし、その後大きな危機がおとずれます。


第3代の米沢藩主は後継を残さぬまま、若くして急死してしまうのです。当時は生前に後継が決まっていなければ「お家取りつぶし」と決っていました。上杉家断絶の危機です。それを幕府に何とか頼みこみ、後継者に吉良の長男を持って来るのです。そのため、お家断絶の危機は切り抜けることができましたが、その代わり後継ぎの連絡が遅れたということで、それまでの30万石を半分の15万石に減らされてしまうのです。つまり、吉良の長男が継いだ時には米沢藩の石高は15万石となっていたのです。


それでも上杉家は家臣団のリストラを行いませんでした。当然藩士の給料すら賄えないほどに窮乏します。13万石が藩士の給料で消えました。しかも、藩主の実父である吉良の要求を断る事ができません。吉良家の借金の肩代わりやら、江戸の吉良家屋敷の建て直しやら、猛烈な勢いで米沢藩の財政は悪化していくのです。


そんな中で、吉良は赤穂浪士に討たれてしまいます。それを真っ先に喜んだのは、上杉家の藩士たちだったといいます。もちろん、藩主の実父なので表立ってはいえませんでしたが、これで湯水のようにおカネが出ていくことがなくなるという安堵感が家中をおおったといいます。


 上杉家には積極的に藩財政の改革を行う人物がなかなか出てこず、それには第9代米沢藩主上杉鷹山の登場を待たなければなりませんでした。上杉鷹山が藩主となった時、米沢藩は破産状態でした。その前代はどうしようもなくなって幕府に「領地の返上」を申し出ようと考えていたくらいでした。そんな最悪の中で鷹山は藩主となって、多くの困難を乗り越えながら改革を成し遂げていくのです。


鷹山の改革についてはここでは触れませんが、彼は弱者への愛情があふれている、まさに仁者でした。彼の正室は前藩主の娘でしたが、その娘は10歳程度の知能しかなかったといいます。精神障害者だったのです。当初から仕組まれていたこととはいえ、鷹山は最後まで正室の面倒を見ました。彼女は20歳ぐらいで亡くなっています。


 二宮尊徳にしても、上杉鷹山にしてもその共通点は「徳」のある人、いわば「仁者」であったということです。改革を為そうとする人は心すべき教訓だと思います。


今日はこれまで。

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